ブログ 朝夷奈切通1
鎌倉七口 
朝夷奈切通 亀ヶ谷坂 極楽寺切通 巨福呂坂
仮粧坂 大仏切通 名越切通

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朝夷奈切通2 朝夷奈切通3
鎌倉と金沢を結ぶ切通です!
『朝比奈切通』『六浦口』ともいわれ、他の七口に比べて当時の景観を良く覗い知る事の出来る道だと思います・・・

バス停十二所神社の交差点を東に入り太刀洗川沿いに進んで行くと、舗装がなくなり野趣溢れる道へと様変わりします!

梶原太刀洗水
を過ぎ、三郎の滝の三叉路を左へ・・・ここが鎌倉側の入り口となります・・・

ちなみに三叉路を真っ直ぐ登って行くと十二所果樹園へと繋がっています・・・
鎌倉風致保存会が管理しており厳重なバリケードがありますが、収穫期以外は通行可です・・・
頂上部にはテーブルとイスがあり、それなりの眺望が臨めます(スズメバチ注意)

三郎の滝の所に朝夷奈切通の石碑が建っています!

鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル

仁治元年は1240年です・・・
11月30日、幕府は前年の10月に巨福呂坂を整備し、今度は朝夷奈切通の開削を決定しました・・・
しかし、この年は地の神に障りがあるとの事で延期され、翌4月5日に工事が再開され北条泰時自らが現場を監督し完成となりました・・・

六浦津は安房、上総、下総からの物資を鎌倉へと運ぶために重要な港であったので、幕府は完成を急いだ様でありますなぁ・・・

朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたという言い伝えもあるが、実際それは違うと思われる・・・
と記されていますね・・・一晩じゃ無理でしょ?(笑)かめはめ波でも撃ったのかな?

義秀は和田義盛の三男で豪勇の者として知られています・・・
そんな彼のイメージがこの様な伝説を生んだのかも知れませんね・・・
朝比奈峠の名の由来は彼にあるとの話です!

上総介広常の鎌倉邸は三郎の滝の奥あたりにあったのではないかと言われています・・・
頼朝が鎌倉入りを果たせたのは東国最大勢力の広常を従えたからと言っても過言ではありません!

寿永2年(1183)12月、そんな広常も謀反を疑われ頼朝の命で梶原景時により斬り殺されてしまいます!
傲慢な振る舞いの上に、遅参した挙句いつでも鎌倉から逃げ出せるこんな場所に館を構えてたとしたら疑われもするでしょう・・・景時の讒言も光った事と思います・・・

しかし、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われていますが、自分が思うに、当時朝廷との在り方を巡り二極化していた政策の中で、広常は殺されるべくして殺されたのではないでしょうか?

結果、朝廷との協調を旨として幕府の政治は進められる事になります・・・
晩年、頼朝は娘達を入内させ皇族と外戚関係を持つ事を強く望みました・・・
生まれ育ちのせいか貴族根性を捨てきれない頼朝の考え方と、東国主権を推す広常達関東武士・・・
互いに理解する事は難しかったのかも知れませんね・・・
朝夷奈切通4 朝夷奈切通5
入り口から川沿いに少し歩くと綺麗に積まれた石垣に遭遇します・・・
奥は平場になっている様で、往時は何かしらの建造物があったのではないかと想像させられます・・・
ココに甘味処とかあったらイイ感じですね!(笑)

北鎌倉の明月院通り、川沿いに『山里』とゆー自分がよく行く甘味処がありました・・・
座敷で甘味を頂き、掃出しで繋がる庭の解放感と川のせせらぎで心身共に癒される空間でした・・・
夏はクーラーなくて暑いですが・・・

数年前に惜しくも閉店となりましたが、二の鳥居付近の段葛店は現在も営業中です!
以前甥っ子達と大仏を見に行った帰りに段葛店に入ったのですが、空腹に負けてガッツリと茶そばセットを食べてしまいました(笑)

鎌倉市のホームページにお店のコメントがあります!

35年前に北鎌倉店が創業して以来、吟味された材料で丁寧に作った甘味類、しっかりとっただし汁を使うめん類など、はばひろい年代の方々に親しんでいただいております。近年からの新作甘味やランチも御好評いただいておりますので、お試しください。

との事です・・・
朝夷奈切通6 朝夷奈切通7
グングン登って行くと、上の写真の様な濡れた石畳状の道を通る事になります・・・
滑らない様に気を付けましょう!
この切通は道の脇に水路が作られているので、獅子舞ほどじゃありませんが所々ぬかるんだ箇所があります!

昔はこの道を商人が荷車を引いて通ってたってんだから凄いですね!?・・・あっぱれ商人魂!

一往復で10万円くらい儲かるなら自分もやってみてもいいかな・・・
でも毎日はキツイなぁ・・・週3で・・・
それとも外人さん5千円で雇って手伝わせようか・・・2人でならかなり楽そうだな・・・
もう1人雇って自分は後ろから見ていよう・・・
でも歩くの疲れるし、もう2人雇って自分はその荷車に乗ろう・・・うんそうしよう・・・

道の左側にお地蔵様が・・・なんか難しい顔をしていらっしゃいます・・・ヅラ被ってるみたいですね(笑)
『延宝三年(1675)十月十五日』と刻まれています・・・
4代将軍徳川家綱の時代の物ですね・・・
家綱は鳥居を捜せ!で紹介しましたが、寛文8年に鶴岡八幡宮の鳥居を再興した人物です!
朝夷奈切通8 なんかこのお地蔵様の難しそうな顔には見覚えが!?
さっき見た様な?
十二所のバス停から入って左側の崖上の庚申塔群の中に同じ顔のお地蔵さんがいた様な、いや絶対にいた!
気になってしょーがないのでスゲーメンド臭いですが戻って確認です!
覚園寺の参道にある庚申塔群の中にも同じタイプの石仏があった様な気がします・・・
さすがに二階堂までは戻りませんけどね・・・
朝夷奈切通9 馬頭観音、青面金剛に並んでお地蔵様・・・
じゃなかったみたいです、阿弥陀如来ですね!
『延宝四年(1676)十一月吉日』の銘があります!
こちらの方が少し新しい様です・・・
ど~ですか?この気難しそうな顔?、そしてヅラ?

絶対に同じ人物が彫ったと思うんですが・・・
まぁ、とにかく自分はモヤモヤがスッキリしました!
朝夷案切通10 道端の石仏なんかも良く見るとそれぞれに特徴があって結構面白い物です!
このまま帰りたくなりましたが気を取り直して先程の道まで引き返します・・・

所々にやぐらがあるんですが、凄い崖上なんです!
昔はあの高さに道があったんでしょうか?
やぐらの下に地層の変化が見られますけど、あそこが地面だったのはどれ位前なんでしょうか?
そもそもやぐらじゃなくて何かの採取跡だったりして・・・でもあんな小っちゃい穴から何を?
まぁ、いいか・・・取り敢えず穴がいっぱいあります(笑)
朝夷奈切通し11 朝夷奈切通12
のらりくらりと歩いていると石切り場の跡みたいな所に来ました・・・そこには磨崖仏が彫られています!
薬師如来の様ですね、左手に薬壷(やっこ)を持っています・・・いつ頃彫られた物なんでしょうか?

ココで本日、初めて人とすれ違いました・・・
元気一杯の老夫婦で金沢八景駅から歩いて来たらしく、光触寺まで行くとの事でした・・・

光触寺は町局と万才法師のエピソード【頬焼阿弥陀縁起】(国重文)で有名な寺ですが、本堂前にある塩嘗地蔵という地蔵菩薩にもエピソードがあります!

その昔、六浦から朝比奈峠を越えて鎌倉に塩を売りに来た商人が、商いの初穂にこのお地蔵様に塩をお供えしたんだそうです・・・
そして商いを終えた帰り道に再びお地蔵様に寄ってみると、なんとお供えした塩がなくなっていたんだそうです・・・お地蔵さんが塩を嘗めたという話です・・・
このエピソードが塩嘗地蔵の名の由来になってます!

他にもお地蔵様が光を放ったので慌てて塩を嘗めさせたところ光がおさまったって由来もあります・・・
お地蔵様・・・血圧大丈夫かな?(笑)
朝夷奈切通13 朝夷奈切通14
ここからは下りです・・・途中分れ道があり右が熊野神社の参道になっています・・・行って見ましょう!
写真の様に杉が乱立する中を抜ける様に進みます・・・
道は綺麗に掃除されていて葉っぱ一枚落ちていませんでした・・・
なんだか杉の木が鳥居に見えて来ます・・・暖かい木漏れ日が心を癒します・・・なんてね・・・
朝夷奈切通15 朝夷奈切通16
しばらくすると鳥居と階段、その上に社が見えて来ます・・・
社は最近修復されたのか妙に新しく綺麗でした・・・

森の中静寂に包まれて正に神域といった感じの空間です・・・と言いたい所ですが、耳をすませば横横道路を行きかう車の音が・・・いいんですこれくらい・・・

ちなみに社殿裏の山道は十二所果樹園に通じています・・・

しばらく神域感を満喫した後、先程の分れ道まで戻ります・・・
ココに神社の由緒が書かれた案内板があります・・・

朝比奈町鎮守 熊野神社
御祭神 速玉男之命 伊邪那岐命 伊邪那美命

御由緒 古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾

頼朝はこの切通しが出来る40年以上前に死んでいるんだけどなぁ・・・
亡霊となって復活し勧請したんだろうか?

それとも実際に頼朝も何かしたのだろうか?
道はあっただろうけど、まぁどーでもいいや(笑) ・・・安産に霊験あらたかな神社だったんですね・・・ 
朝夷奈切通17 朝夷奈切通18
更に進みます・・・両側から迫る崖に圧倒されます、鎌倉の切通では当時の面影を一番よく残しているといわれていますが・・・ホント綺麗です!

所々に土嚢が積まれていて残念です・・・
道がぬかるまない様に整備しているんでしょうけど、ちょっと興ざめしてしまう感は否めません・・・

横横道路の真下を潜れば出口はすぐそこです!
庚申塔が8基並んでおりその先に案内板が建っています・・・

国史跡 朝夷奈切通 昭和44年6月5日指定

鎌倉幕府は仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、道改修を議定、翌年4月から工事にとりかかりました。
執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。

当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。
船で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。

また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、道の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。
鎌倉七口の中、最も高く険阻な路です。
朝夷奈切通19 そのまま真っ直ぐ進めば環状4号(県道23号線)にぶち当たり今回の旅は終わりです・・・

右を向けばバス停の所に上総介塔が見えます!
更に進んで行くと鼻欠地蔵もあります!
鼻欠地蔵は、武州と相州の境界にあった為、界地蔵(さかいのじぞう)とも呼ばれてた様です・・・

取り敢えずお疲れ様でした・・・
さぁ、どーやって帰ろうかな(笑)・・・久し振りに16号へ出てみようかな?

上述の上総介塔は広常の墓といわれていますが、これは近年道路拡幅工事の際に元々あった五輪塔がどっかに行って分からなくなってしまった為、地元の有志が新たに建てた物だそうです・・・
行方不明ってヒドイ話ですね・・・
ドコ行っちゃったんでしょうか?、広常や~い!

【新編鎌倉志】に『上総介が石塔、大切通と小切通との間、田の中にあり。』とあります・・・
大切通とはあの磨崖仏があった所一帯の事で、小切通は六浦に下る先程下りてきた道・・・
又は切通2本説もありますが・・・以前は田の中にあったと・・・へぇ~・・・
でも、そもそもホントに広常の墓なんだろうか?

上総介だけじゃよく分からんですよ・・・十二所の屋敷もホントにあんな辺鄙な所にあったんでしょうか?
頼朝側の捏造?、後世のこじつけ?・・・謎です?・・・まいっか・・・

【朝夷名切通】

朝夷名の切通は鎌倉より六浦へ出る道なり。大切通、小切通とて二つあり。東鑑に仁治元年十一月三十日、鎌倉と六浦の津の中間を始て當道の路とせらるべきの由、評定有て今日縄を引く。
同く二年四月五日、大浦の道を造り始めらる。前の武州泰時、其の所に監臨せしめ給ふの間、諸人羣集各々土石を運ぶ。仍て観者犇營せずと云事なしとあり。此道の事なるべし。土俗の云、朝夷名の三郎義秀、一夜の内に切り抜きたり。故に名くと。未考。此の坂道を峠の坂と云ふ、坂の下、六浦の方を峠村と云ふ。

近比も淨譽向入と云道心者、此道を平げ往還の悩みをやむるとなり。延寶三年十月十五日に死すと石地蔵に切付てあり。
鶴岡鳥居の前よりここに至までの路程、關東道六里なり。

前半は鎌倉側入り口にあった石碑に書かれていた事と同じ内容ですね・・・
後半青字の部分・・・なんと!、あのヅラ地蔵にも逸話が隠されていたとは!

近年、『淨譽向入』って人物が道を整備して通りやすくした、そして『延宝三年十月十五日』に亡くなったと石地蔵に刻まれているだとぉ! 
朝夷奈切通20 写真を見てみましょう!
確かに右側、だいぶ欠けちゃってますが『淨譽』の文字が見て取れますます!

これはロマンですねぇ・・・
ヅラ地蔵伝説ここにあり!

崖上のもう一体も関係あるのだろうか?
何気ない石仏にも意外な歴史が隠れている物です!
スッキリしたぁ!・・・今回の行程は実りある物だった様です・・・うんうん・・・

鶴岡八幡宮から朝夷奈切通まで六里とありますね・・・
1里=36町という現在の尺貫法だと往復したら箱根に着いちゃう距離ですね!?
当然中国から伝わった1里=6町での事と思います・・・

住む人が居れば道は必ずあります!・・・この鎌倉と六浦を結ぶ道はいつ頃からあった物なんでしょうか?

そもそも頼朝入府時点での鎌倉の道って、どんな感じだったんでしょうか?・・・少し考えてみます!
小さな道は色々とあったでしょうけど、幹線道路となると一体?

律令制下のいわゆる旧東海道がありますが、これは稲村から海沿いに進み名越を越えて逗子方面へ向かったという説が強い様です・・・日本武尊も草薙剣を杖がわりにしてこの道を通り横須賀走水まで向かったのかも知れません・・・実在してればですけど(笑)

日本武尊の息子に仲哀天皇(こちらも実在してれば)がいますから、鶴岡八幡宮祭神の応神天皇は日本武尊の孫にあたるわけですね・・・どーでもいい話でしたね失礼・・・

海沿いは現在国道134号が通っていますが、当時は材木座上河原あたりまで浜が迫って来ていた様なので完全に海の中です・・・小坪路とも考えられますが、やはり名越の方がしっくりくる感じがします・・・

組み立てると、稲村路→由比→大町→名越→沼浜のルートが有力!

次にこれを検証する為に頼朝以前からあったと思われる社寺や旧跡をルートに照らしてみる・・・
現在、鎌倉にはアホなくらい寺や神社が残っていますが、頼朝の鎌倉入り前となると自分の知る限り、両手チョイで事足りてしまう数です・・・

満福寺(腰越)-御霊神社(坂ノ下)-長谷寺(長谷)-甘縄神明神社(長谷)-元八幡(材木座)-八雲神社(大町)-長善寺(名越)-岩殿寺(久木)-延命寺(逗子)

ふむふむ道として成立しそうですね・・・長善寺ってのは今はもうありません・・・
国鉄の線路敷設の際に本堂が邪魔だったのでブチ壊されて廃寺になり、唯一残ったのが踏切手前にある辻薬師堂です・・・元々は現在の名越のトンネル手前南側にあった寺の様です・・・
創建は神亀年中(724~729)で由比の長者染屋時忠によるものと伝わります。(参照:鎌倉廃寺事典)

さて、旧東海道はこれくらいにして、今回の六浦道を検証してみましょう!
西側(山ノ内)から鎌倉に入るにはドコを通っていたんでしょうか?

巨福呂坂?、亀ヶ谷坂?、仮粧坂

頼朝は山内首藤家で一泊した後、亀ヶ谷坂を通り鎌倉入りし、取り敢えず元八幡へ参った後、父祖伝来の地(現在の寿福寺)に赴いたと聞きます・・・
そこに幕府を立ち上げようとしましたが、土地が狭い上に岡崎四郎義実が頼朝の父である義朝を弔う為にお堂(亀谷堂)を建てていたので断念・・・大蔵の地に決定します!

何を根拠に頼朝が亀ヶ谷坂を通ったとしているんでしょうか?、現在の亀ヶ谷坂なんでしょうかねぇ?
そもそも【吾妻鏡】の山内道路って実際ドコの事なの?
まぁいいか・・・そ~いうのは歴史学者にまかせよう・・・亀ヶ谷坂は情報量少ないんですよねぇ・・・

【安倍晴明を捜せ!】ページで述べましたが、大蔵に邸宅を築く事にした頼朝はその流れで山内にあった知家事兼通の邸宅を縁起がいいとして移築してますよね・・・治承4年(1180)10月9日の事です!
頼朝が鎌倉入りしたのが10月7日(6日説あり)・・・2日後の出来事ですね!

家を解体して運ぶとなれば、それなりの道でないと厳しいと思われますが・・・
ドコ通ったのか書いといてよぉ~!
お~い、【吾妻鏡】さぁ~ん!・・・聞いてますぅ~?(笑)

巨福呂坂は亀ヶ谷坂があまりに険しかったので北条泰時の時代に整備されたと聞きます・・・
当時から尾根道はあったとは思いますが相当険しかったのではないでしょうか・・・よってパス!
亀ヶ谷坂も険しく坂が急だしパス!
残すは仮粧坂のみ・・・それとも海まで出て船で川を遡上し運んだか?

仮粧坂にしときましょう!・・・源氏山公園で休憩したいし(笑)
では、検証を・・・

亀谷堂(扇ガ谷)-巌窟堂(現不動茶屋)-荏柄天神社(二階堂)-杉本寺(二階堂)-峠

六浦道成立ですね!
知家事兼通の解体された家もこのルート上を辿って大蔵まで運ばれたとして置きましょう!

地図で見るとよく分かりますが鶴岡八幡宮が建造される前は、現在の寿福寺あたりから一直線に道が伸びていたと推測出来ますね・・・八幡宮建造の際に道が曲げられ筋違橋の所で結合・・・そのまま進み峠を越えて六浦へと・・・

朝夷奈切通(峠坂と呼ばれていました)が開削される前はどうだったんでしょうか?
昔の道は尾根道が基本です・・・雨や土砂崩れで道が寸断される危険が減りますから・・・
そう考えると南側池子弾薬庫(現在米軍施設ですが返還後は公園になるそうです)寄りの尾根道辺りが妥当かと・・・

まぁ昔の事はわかりません・・・それを確実に裏付ける史料もないですし・・・
少ない文献史料から学者達が推測した物をそれと信じるしかありません・・・間違ってる事も多いです!

最近もず~っと名越の北条時政邸跡であるとされて来た遺構が、やっぱ違いましたって事になり大町釈迦堂口遺跡と名称を変えました・・・
高校生の時分にあの辺の道なき道を掻き分けながら探索していた時、突如として現れた落ち葉がモッサリと積もる廃道・・・藪に隠れ苔生した見事な石垣や五輪塔・・・切通に架かる朽ち果てた朱塗りの太鼓橋・・・
落ちたら死ぬかもしれん高さだし怖くて渡れませんでしたが、

とにかく、衝撃を受けた記憶があります・・・
当時鎌倉にはあまり興味がなかったので、ぶっ倒れている案内板をみるまではそこが時政の遺構であるとは知りもしませんでした・・・

現在は立入禁止ですが、あそこには日月やぐら、唐糸やぐら等の史料的価値の高い物件もありますし、整備され再び公開される事を望むばかりです!
朝夷奈切通21 朝夷奈切通22
2010年に崩落した釈迦堂口切通・・・
崩落当時の写真(大町側)です、当然通行禁止になっていましたが、この上に貴重なやぐら郡があるんです!
今後更なる崩壊でやぐらが消滅しかねません!
こんないつ造られたかも判別出来てない洞門なんかコンクリートで塞いじゃいましょう!
ついでに黄金やぐらも埋めてしまおう!・・・なんてね(笑)
朝夷奈切通23 まぁそれは極論として、貴重な財産を守る為に何かしらの手を打つ必要があるのは確かだと思います!

グランツーリスモ5というゲームで、この洞門の真ん中に車が止まってるデモが流れるんですけど・・・
ココは徒歩以外は進入禁止ですよ!(笑)
しかし、あのゲームはホント凄いリアルですね!
セッティングとか細かすぎて車好きじゃないと分かり難い部分もありますが・・・
自宅であんなゲームが出来るなんて・・・子供がゲーセン行かなくなるのも頷けます・・・

さて、東西を結ぶ2本の幹線道路があったであろう事は大体分かりました・・・
次にこの2本を結ぶ為に南北を走る道を考えたいと思います・・・

目につくのはちょうど2本の中間地点にある今小路西遺跡・・・
今小路の西側南北1km、東西300mを区域とした遺跡で中世の武家屋敷跡ではないかとされています!
調査区最下面からは奈良、平安時代の遺構も見つかっています・・・
近くにある御成小学校からは同時代の郡衙跡も発掘されていますし、律令制下ではこの辺りの拠点であったとも考えられます!

だとしたら道があったのは当たり前・・・と思うのが普通ですよね?

亀谷堂(扇ガ谷)-巽神社(扇ガ谷)-郡衙跡(御成町)

現在の寿福寺から六地蔵(飢渇畠)までを走る道・・・今小路ですね・・・
実はかなり昔からあったんじゃないでしょうか?
当時のお役所通りとして・・・現在、『市役所通り』の名称を持つ道は東西に走ってますけどね(笑)
でもでも、郡衙跡に市役所が建ってるなんて・・・
結局土地も人間も変わらないって事なんでしょうか?・・・歴史は繰り返す(笑)

取り敢えず検証の結果、頼朝が鎌倉入りした時は、この3本の幹線道路が機能していたのではないかと思われます!

それより亀谷堂ってなんか老舗の和菓子屋っぽい名前ですね・・・亀大福とか売ってんだろうなぁ(笑)

養和元年(1181)3月1日、頼朝、土屋次郎義清の亀谷堂で母の年忌として仏事を修す。
導師箱根別当行実。頼朝が鎌倉における最初の仏事であるが、布施は導師に馬一匹、帖絹二疋、請僧五人には口別白布二反である。その質素な事に注意したい。
(参照:吾妻鏡、鎌倉廃寺事典)

土屋次郎義清は岡崎義実の息子です・・・

現在、朝夷奈切通の北を通る県道204号金沢鎌倉線は昭和31年に開通した様です・・・
切通を横切る事無く道は造られてます・・・
これが当時の景観を一番残している切通と言われている要素の一つだと思います・・・横横道路が多少悔やまれますが他の切通の様に、ぶった切られたり、宅地造成で削られたりしてないだけマシですね・・・

でも、盆、彼岸の鎌倉霊園渋滞を考えると、朝夷奈切通も完全舗装して県道204号と上下線分けてそれぞれ一方通行にして欲しい・・・などとも思ってしまう・・・
横浜霊園側にも出口を作れば多少は緩和されるだろうに・・・
いっそのこと駐車場も全部墓地にしてしまえ!(笑)

鎌倉霊園の有名な電話ボックスの話っていまだに語り継がれてるんでしょうか?

今後はヅラ地蔵伝説も語り継ぎましょうね!
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