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北鎌倉の駅裏の細い道を大船方面にしばらく進むと右側に八雲神社へと続く階段が見えて来ます・・・
昔は牛頭天王社と呼ばれていたそうです・・・階段を登りきると社とご対面・・・小高い丘の上にあり、陽当たりも良く眺めもそこそこ・・・
幼稚園児とママさん達が騒いでいましたが、地域の憩いの場になっているんでしょうかね?
しばらくして彼等もいなくなり境内に静寂が訪れました・・・山奥の鬱蒼とした老木に囲まれた神社は、いかにも神域感が出ていて身の引き締まる思いがしますが、こういったホノボノ感のある神社も案外いいモンです・・・ |
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境内の西側は一段高い丘になっていて奥には稲荷社が建てられています・・・その鳥居の右側に、
『安部清明 神君』と書かれた立札があり、足元には石が埋まっています・・・
何でこんな所に安倍晴明関連のものが・・・
以前は、『まぁ、晴明のお母さんは狐だと言われてるし、一条天皇が晴明を稲荷神の生まれ変わりと称し晴明神社を建てたりしてるし、稲荷社に晴明は別段不思議でもないか・・・』と、特に気に留めもしませんでした・・・ |
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そしてこの石・・・鎌倉で多く使われている鎌倉石といわれるそれとは明らかに材質が異なります・・・
硬そう・・・よくある腰掛石みたいな・・・
でもこれじゃぁ埋め過ぎでしょ!
良くわからんが座ってみたくなったので取り敢えず座ってみました・・・お尻がヒンヤリして気持ちよかった・・・
後日、十王堂橋の事を調べていたらこの石についての情報が・・・なんでも晴明石と言うらしい です! |
そうと知らずに踏むと足が丈夫になり、知った上で踏むと足が悪くなる・・・通称びっこ石!
マジか!・・・そうとは知らずに座ったけど、尻はどうなるのかな?
お尻が気になったので少し調べてみる事にしました・・・安倍晴明に関しては【吾妻鏡】の最初の方にちょっと記載があったのを思い出して開いてみると、
1180年10月9日戌子 大庭平太景義が担当して(頼朝の)御邸宅の工事が始められた。ただし期日に間に合わせるのは難しいので、とりあえず知家事兼道の山内の家を点じて、その建物を移築される事にした。この建物は正暦年間に建てて以来、火災にあった事がない。(安倍)晴明朝臣が鎮宅の符を押したからである。
この文面からだと晴明がここ山ノ内まで来た様な口ぶりですね・・・西暦年間は990年~995年・・・
一条天皇の時代です・・・まぁ、いろんな伝説のある晴明ですから話半分で聞いといた方がよさそうっすね・・・
鎌倉に来た決定的な証拠でもあれば別ですけど・・・
手持ちの資料の八雲神社の項に晴明石についての記述があります
境内に祀られている晴明の石は、平安時代の陰陽師安倍晴明が残したといういわれがある。除災の石として信仰を集め、石を汚したりすると大難の祟りがあるといって祀られた。もとは付近の道路に埋まっていたが、工事で掘り起こされて八雲神社に移された。
この神社に祀られる前は付近の道路にあって工事でここに移された・・・ちょっと説明がアバウト過ぎでしょ!いったいどこの道路なんだい!・・・工事っていつの工事やねん?最近?それとも何百年も前?
まぁ取り敢えず置いといて【新編相模国風土記稿】を見てみます・・・
往還中に二所あり。各大に三尺許。石の傍らに各井戸あり、安倍晴明が加持水にして火難を防ぐ奇特ありと云伝ふ。大船村多聞院持。
多聞院が管理してたんだぁ・・・それより、なんと2つあったと!もう1個はいずこへ?
つらつら調べていると、どうやら石がもともとあったのはやはり十王堂橋付近らしい!
これは絵地図の出番ですね・・・図書館へGO!
郷土資料を漁っていると、本棚の一番下の段に縦置き出来ず平置きしてある長方形の長い箱が・・・
【浦賀道見取絵図】とある・・・お高そうな代物である・・・取り敢えず開いてみる・・・おおっ!これは凄い!蛇腹式で全部広げると結構な長さになり・・・なんか恥ずかしいなこれ・・・とか考えながら見ていたら・・・晴明石発見! |
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どちらの画像も右が大船方面です・・・十王堂橋より少し大船寄りにあった様ですね・・・
この絵図から察するに、道のど真ん中にあったようです・・・ どーでもいいが超ピンボケ(笑)
でも2つはないぞ?・・・それになんか橋みたいな物の上に置いてある感じだなぁ・・・
字晴明石橋とも書いてあるし、やはり石橋がありこの辺りは晴明石橋と呼ばれていたんだろうか?
川もないのに変な感じです・・・現在のこの辺の川も直角に曲がっていたり不自然感を煽る!
呪術的な何かを施した痕跡なんでしょうか?・・・五芒星とか北斗七星とか・・・ミステリー!
傍らに井戸がある、とありましたが、あの界隈で井戸は何個か発見できました・・・う~ん・・・もっと色々と調べてみたいけど・・・あんまハマると眠れない夜が続きそうなので、これ以上深く考えない様にします・・・
自分の知る限り北鎌倉で安倍晴明に関係している物はあと2つあります!
踏切近くの石碑と第六天社の階段脇の石碑です・・・まずは踏切の方に行ってみましょう・・・
北鎌倉から鎌倉方面へ・・・東慶寺を過ぎ、浄智寺を過ぎ、踏切を渡った右側・・・ けんちん汁で有名な蕎麦屋鎌倉五山がありますね・・・ |
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自分は蕎麦は天ぷらと共に食したい派なのでこの店はパスであります・・・
けんちん汁もあんま好きではないのですみません・・・
けんちん汁は建長寺初代住持蘭渓道隆が食材を無駄にしない様に野菜のヘタや崩れた豆腐などをゴッタ煮にした建長汁が始まりといわれてますが、やっぱあんま好きでないのですみません・・・
無料なら食べますけどね(笑) |
この店と隣にあるコインパーキングの間に建つ電柱の足元に目的のモノはあります・・・
『安部清明大神』と彫られています・・・うっかりするとタダの庚申塔かな・・・くらいに思って通り過ぎてしまいますね・・・ |
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よくみると碑の後ろになんか石がある・・・
この材質、八雲神社のそれと同じじゃないですか?
でも以前見た時こんな石あったかなぁ?
更によく見ると、なんかモルタルで四角い物をくっつけていた様な痕跡があるではないですか!
なるほど・・・
以前は石碑が石の上に乗っていたんですね・・・ |
で、土台の一部かと思って特に気にもとめなかったと・・・謎は全て解けた(笑)
思いがけず2つ目の晴明石を見つけてしまった・・・何だろうこの虚無感・・・まぁ発見できたんだし良しとしますか・・・
傍らには神社や境界などに良く置かれている丸石も見えます・・・かつては社もあったんでしょうか・・・
石碑の裏には『明治?年・・・』写真撮らなかったので何年かは忘れましたが、石碑自体は古いものではない様です・・・ |
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2つの晴明石を発見し目的を遂げましたが、近くなので第六天社へ行ってみましょう!
2つ目の晴明石から建長寺方面へ進むと、すぐ右に入る細い道がありますが、この奥にあるのが烏森稲荷神社であります・・・
小さな社ですが以外と知らない人が多いです、是非見学しておきましょう・・・
30秒も見れば十分です(笑) |
そして、亀ヶ谷切通の入り口を横目に少し進むと右側にあるのが第六天社です・・・ |
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境内へと続く細く急な階段は固く門で閉ざされており一種独特の威圧感みたいな物を感じます・・・
これも魔王の風格ってヤツなんでしょうかね?(笑)
その門の背後鳥居左側に『安部清明大神』と彫られた石碑が建っています・・・境内はどうなっているんでしょうか?
非常に気になります・・・
とまぁ今回北鎌倉にある晴明グッズを追ってきましたが、他にもあるんでしょうか?
でも鎌倉で晴明桔梗紋とか見た事ないんですけど・・・やはり晴明鎌倉訪問説は伝説なんでしょうか?
十王堂橋付近にあった晴明石は戦後の道路拡張工事の際に邪魔だったのでどかされて、最終的に八雲神社に移されたようです・・・山ノ内地区に大きな火災がないのは晴明が呪術を施したこの石のおかげだと住民は例祭などを催して篤く信仰していたようです・・・
ここで一つ気になる事が・・・この晴明石はいつからあったのだろうか?
自分が確認できたのは【浦賀道見取絵図】だけです・・・他の絵図では確認できませんでした・・・
【浦賀道見取図】は1800年頃に製作されたようですが、それ以前はどうだったんでしょうか?
これが描かれてないんですよねぇ・・・
この辺の地区は【新編鎌倉志】の3巻に詳しく載ってるんですが、見た限り晴明石についての記述がありません・・・
往還の真ん中にあって安倍晴明についての謂れもある・・・十分記載の価値ありだと思うんですが・・・
十王堂橋に付随して記載されててもおかしくないですよね?
くだらない事まで事細かく書き記した黄門様が晴明石を見落としたとは考え難い・・・それに鎌倉入りにあたって黄門様は前もって『地域ごとにちゃんと説明できる様にしておけ』・・・と、お触れを出していたらしいし・・・
自分の推測ですが晴明石は大昔からあった物ではないんじゃないかと・・・晴明石はホントに平安時代からこの地に受け継がれてきた物なんだろうか?
少なくとも【浦賀道見取絵図】が作られた時にはあった様だが黄門様が来た時にはまだなかった・・・う~ん・・・
管理していたのは多聞院・・・何故多聞院なんだろ?近いっちゃぁ近いけど・・・何かしっくりこないなぁ・・・
多聞院の前身は瓜ヶ谷にあった観蓮寺です・・・【鎌倉廃寺事典】には下記の通りです!
風土記稿大船村多聞院のところに『山之内村瓜ヶ谷に、観蓮寺屋舖と唱る白田あり、当寺の持とす、観蓮は蓋当寺の旧号にや』とある。
甘粕氏が永享の乱後衰退した観蓮寺を瓜ヶ谷から現在地に移し多聞院と名を改めたと聞きます・・・
瓜ヶ谷・・・晴明石にぐっと近づいたなぁ・・・しっくりくるなぁ・・・もし観蓮寺が晴明石を管理していて、多聞院がそれを受け継いだのだとしたら、時間は一気に室町時代まで遡り自分の推測は見事に外れですね(笑)
まぁ推測は推測です・・・今度多聞院行った時に住職に話を聞いてみよう・・・何かご存知かもしれないし・・・
何でも当事者に聞くのが一番です・・・モチはなんたらって言いますしね!
あ、そうだ、自分の尻はどうなるのかも聞いておかなければ(笑) |
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八雲神社には鎌倉最大最古といわれる石造りの庚申塔があります・・・
晴明石のある丘の背面は崖になっており、そこには庚申塔がズラッと並んでいます・・・
写真左側の庚申塔がそれで寛文5年(1665)の銘があり市の文化財に指定されております・・・
ホントにこれ最大なんですかねぇ? |
隣の青面金剛の方が大きいし・・・もっと大きいのありそうな気もするけど・・・船形限定でって事ですかね?
銘のない物も入れたらもっと古いのもあると思いますが・・・まぁ鎌倉市がそう言ってる以上そうなんでしょう・・・
何年か前に安倍晴明ブームありましたよね?・・・映画とか漫画とか・・・
深夜アニメでお伽草子というのがありまして、これにも安倍晴明は出てました・・・主人公は源頼光の妹のヒカルという女で、病に臥せる兄の代わりに安倍晴明に命じられ勾玉探しに行くという話でした・・・
頼光四天王の渡辺綱、碓氷貞光、坂田金時、卜部季武と共に旅をします・・・金太郎は食いしん坊で怪力の少し頭が弱い少年で、卜部さんは女性というアレンジでした・・・
どうにか勾玉を集めて晴明の所に行くと、どうも晴明は何か企んでいたようで京の都を消滅させようとします・・・
そんなこんなで何故か舞台は現在へ・・・東京は山手線と中央線が太極図を作る巨大風水都市である設定・・・
主人公ヒカルは女子高生(笑)・・・アパート源荘の管理人やってます・・・四天王も住んでます・・・
なんか失踪した兄を捜して様々な事件に遭遇します・・・最後はサラリーマン風な兄(源頼光)と再会して終わり・・・
確かこんな感じでした・・・くだらないと思いつつ2クール全話見てしまいました・・・頼光全然出て来ねぇじゃんかよぉ・・・ |
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左の画像は自分の中学校卒業記念作品らしいです・・・
何かねぶた作ってたなぁって記憶はあるんですが参加した覚えが全くありません・・・誰が作ったんでしょう?(笑)
平家物語剣巻の一場面ですね・・・
頼光四天王の渡辺綱と酒呑童子の部下茨木童子!
腕を斬られた所でしょうか?・・・握ってるから取り戻しに来た所でしょうかね? |
なんにせよ製作に参加した記憶が全くありません(笑)
それより渡辺ツナっておにぎりの具みたいな名前だな・・・ツナマヨの方がいいっすね、渡辺綱麻呂とか・・・
超うまそ~・・・
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おしまい |