山ノ内と扇ガ谷を繋ぐ切通です!
亀もひっくり返ったとか、登るのを諦めて戻って来たという由来があります・・・
しかし、この切通し・・・文献史料が少ないです・・・
【吾妻鏡】にも亀谷は出てきますが『亀谷坂』の記述は見当たりません・・・
いつ頃からあったんでしょうか?・・・『1240年』、『北条泰時』がキーワードかと思いますが・・・
史料がない以上、学者の説も憶測の域を出ません・・・もっともあまり触れられてもいませんが・・・
中世以前のこの道に関してはタイムマシンの開発を待たなければならないのが現状でしょうか? |
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取り敢えず山ノ内側から登って行きましょう!
画像右側が長寿寺(山号は宝亀山)、左側が茶屋かどって店の庭の出入り用の木戸です・・・
夏はよく流しソーメンとかやってますよ・・・
自分ソーメン苦手なんですよね・・・
何をもって味の良し悪しを判断すればいいのか全く分かりません・・・
自分で購入してまで食べる物なんでしょうか? |
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お中元とかでよく戴きますんで食べる事は食べるんですがイマイチよく分からない食材の一つです・・・
別に嫌いなわけではないんですよ・・・
ただどう評価していいのかがよく分かりません・・・って事です・・・
切通は緑のカーテンならぬ緑の壁と化しています!
凄いですねぇ・・・ワッサワサしてます・・・ |
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この切通は全面舗装されています!
軽自動車が停まっていますが、途中に車止めがあるので扇ガ谷方面へは行く事が出来ません・・・
バイクなら通行可です!
昔は自分もよく利用した道ですが休日は観光客が結構通りますんでバイクはウザがられます・・・
こっちはこっちで休日に鎌倉に来るなんてホント物好きだなぁ・・・と思ってしまいます・・・ |
しばらく進むと右側に六地蔵があります・・・歴史を感じさせるというかショボイというか・・・
六地蔵って、六道の世界をそれぞれ救済しているってのは聞き及んでいますが、良く見るとそれぞれ持物が違います(全員合掌パターンもありますが)・・・
道端の地蔵でよく見かけるのは錫杖、宝珠、合掌が多いですが六地蔵となるとよくわからん変なアイテム持ってる奴がたまにいます・・・
ツアーガイドのちっちゃい旗みたいなの持った奴とか、一体ドコで拾ってきたんでしょうか?(笑)
並び方とかもバラバラだし・・・なんか法則性みたいな物はあるんですかね?
六地蔵ではないですが、天園ハイキングコースにある貝吹地蔵はなんか巻グソみたいなの持ってるなぁ!?
風化しててハッキリとは分かりませんが、あれは何なんでしょうか?・・・謎です?
新田軍が攻めて来たのを貝を吹いて知らせたとか、北条高時の首を新田勢に渡すまいと逃げる北条方を貝を吹いて導いた・・・という謂れのあるお地蔵様ですが・・・
まさかホラ貝?・・・いや、あれは巻グソだべ・・・ |
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坂の頂上です・・・ここから急な下り坂になります!
この切通は現在はこの位置まで掘り下げられていますが、昔は尾根を通る道だったようで坂はもっと急だったと言われています・・・
現在も十分急な坂ですが、亀がひっくり返る程ではないですね・・・
でも自転車で下る時は気を付けて下さいね! |
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以前は坂の斜度に合わせて脚が切られた椅子が並んでいましたが、ど~やら撤去されたようですね・・・
汚らしかったからなぁ・・・よかったよかった!
この先右側に階段があり、登った所にお地蔵様がいらっしゃいます・・・
坂からは見えないので見落としがちです!
『延壽堂地蔵尊道』と彫られた石標が建っています! |
ちなみに写真の地蔵菩薩は階段の入口に安置されている物です!
延壽堂地蔵尊は階段先の墓地にありますが一般進入不可です!
急坂も終わりに近づき右に緩くカーブして行きますが、左側にアーチ型の洞門があります・・・
現在はマンションになってしまいましたが、自分が学生の頃には『香風園』という風情ある温泉旅館でした、頼朝の隠し湯とかなんとか?(笑)
もともとは『田中智学』という宗教学者の別荘だったとかなんとか・・・
現在も傍らには『田中智学師子王文庫趾』と刻まれた石柱が建っています・・・ |
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川端康成はココで【千羽鶴】を執筆したそうです・・・映画化にあたりココも撮影場所になった様です!
ココを過ぎるとゴールまで一直線です!
途中左側にはやぐらが並んでいますが、個人所有なので近くで見れないのが残念です・・・
崖向こうまで貫通している物もあります・・・
薬王寺向かい側奥には小さな祠もありました・・・
その横にもやぐらがありましたが民家奥で物置になっていました・・・
岩船地蔵堂に到着でゴールとなります、お疲れ様でした!
岩船地蔵堂は頼朝の娘大姫に縁があります・・・
これについては【扇ノ井】のページで書きましたんで詳しくはそちらを・・・ |
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先程は素通りしましたが、六地蔵の向かい側に階段があるので登ってみましょう・・・
以前は手すりもあったと思いましたが撤去された様ですね・・・
階段を登り切ると敷石のある小路が続いていますが荒れ果ててます・・・
この先は一段下がった平場になっていますが、やはり草ボーボーで荒れ果てていました・・・
以前、ある業者がここにペット霊園を造成・・・問題なのは無許可で工事を進めていた事・・・
鶴岡八幡宮裏山の緑地を巡る御谷騒動(おやつそうどう)を発端に制定された古都保存法!
何だか3時のオヤツを巡る兄弟の争いの様な名称ですが、大仏次郎などが牽引した日本初のナショナルトラスト運動といわれています・・・
この古都保存法により、歴史的風土保存地区(地域)に指定されている場所は、木を1本切るのにも鎌倉市に届けを出さなければなりません・・・
鎌倉のいたる所に保存地区を示す柱は建っていますので、歩く方は良く目にしていると思います・・・
結局、鎌倉市の指導で造成は中止になった様ですが・・・
ココは国の史跡ですよ!、何を考えてるんでしょうか?
業者もそうですけど、もっと問題なのはここまでの造成を見過ごした行政!
ココは世界遺産登録候補地リストにも載っています・・・
個人所有とはいえ鎌倉市の認識の甘さにはビックリです・・・
『鎌倉俳句&ハイク』とかアホな事やってる場合じゃないですよホントに!
大蔵幕府跡に清泉小学校を建て、玉縄城址には清泉女学院を建て・・・
当時の開発者達を責める気はありません、保存より開発が優先された頃もありますから・・・
でも今回の騒動は全くの別問題と認識せざるをえません・・・
世界遺産となれば保存に関しては行政も今後やり易くなるでしょう・・・
しかし、観光客目当てだけの世界遺産登録なんてのはやめて欲しいです!
この件で多くの市民がガッカリしたのではないでしょうか?
気を取り直して亀ヶ谷坂の案内板を見てみましょう・・・
国指定史跡 亀ヶ谷坂 昭和44年6月5日指定
扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道で、鎌倉から武蔵方面に通じる重要な出入り口であり、中世鎌倉の切通としての旧状をよくとどめている。鎌倉時代初期より使用されていたと推定され、巨福呂坂と共に鎌倉街道中ノ道の基点とされている。
※切通・・・山の尾根部分を掘り下げて通行可能とすると同時に、敵の侵入に対する防御施設としたのが切通。亀ヶ谷坂、朝夷奈切通、巨福呂坂、仮粧坂、大仏切通、名越切通、極楽寺坂の7つを称して鎌倉七口(切通)といい国の『歴史の道百選』にも選ばれている。 平成11年3月 鎌倉市教育委員会
この辺りに『武蔵大路』と呼ばれる道があったという一つの説があります・・・
【吾妻鏡】に記されてますから武蔵大路という道だか地名だかがあったのは確かと思われます・・・
ドコにあったのか学者達が色々述べてます・・・鎌倉内なのか外なのか・・・ゴチャゴチャと・・・
結局最後は自己満足で終わりそうな案件っぽかったんで読み流しました・・・
自分はタイムマシンの完成を待って、当時の町娘にでも聞いてみる事にします(笑)
興味のある方は鎌倉市史を熟読されて見るのもいいかもしれません
【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【龜谷坂】
龜谷坂は扇谷と山内との間だ也。南は扇谷、北は山内也。壽福寺を龜谷山と號して龜が谷の中央なり。
此の所は龜が谷へ行く坂の名なり。龜が谷坂を登て扇谷坂を下れば、左に勝縁寺が谷と云あり。昔し寺有と云ふ。今は此の谷に天神の小祠あり。山内の方へ行、左は長壽寺なり。
勝縁寺ヶ谷は亀ヶ谷坂の東側です・・・
『昔寺有ト云フ』・・・先程の香風園があった所ら辺に『勝因寺』という寺があったみたいです・・・
『天神の小祠アリ』・・・自分が若い頃、覚賢塔を探して泉ヶ谷の突き当りから廃れた山道を探索中に、祠を発見しました!
コレが【新編鎌倉志】に記されていた天神の小祠か!?、こんな所にあったとは!
と、山中で一人感慨に耽っていました!
その後、彷徨っていると他にも祠を発見!?、ど~なってんだ?
しかし、その時は覚賢塔が目的だったのであまり気にしてはいませんでした・・・
【鎌倉廃寺事典】に勝因寺の事が載っています、
扇ヶ谷勝縁寺ヶ谷にあった。山号は亀富。開山は至一。開基については、『本朝高僧伝』の至一の伝に『鎌倉府主平副元帥創勝因寺』とあるだけで、執権であることがわかるが、それが誰を指すのか詳かにしない。
『本朝高僧伝』によると、応永二十一年(1414)に七十二歳で寂した上野泉龍寺の日崖宝生という僧は、若年のころ鎌倉に到り、清隠寺の至一法師について具足戒を受けたという。
これは同伝の記事から察するに、この僧のニ十歳前後の時のことであるから、貞治(1362-68)のはじめのことである。したがってそれ以前に至一は、清隠寺すなわち勝因寺に住持していた事になる。・・・以下省略
他の文献とも照合して、勝因寺は鎌倉時代の創建で正しいだろうと述べていました・・・ |
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『至一』とは『志一』の事です・・・その志一上人に縁のある稲荷社が鶯ヶ谷に現在も残っています!
鶴岡八幡宮の西側にポツンと建っている志一稲荷です!
参道横にある駐車場を利用する人は多いと思いますが、ココに駐車する輩は既に鶴岡八幡宮の事しか頭にないでしょうから、その存在にも気付いてないのではないでしょうか?
マイナーですがちゃんと由緒もあります・・・
【新編鎌倉志】では以下の様に紹介!
【志一上人石塔】
志一上人の石塔は、鶴が岡の西 町屋の後鶯谷と云所の山の上にあり。里人云、志一は筑紫の人也。訟へありて鎌倉に来れり。已に訟へも達しけるに、文状を本國に忘置て如何せんと思はれし時、平生志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる暁、彼の文状をくわへて歸り、志一に奉り其まま息絶へて死しけり。志一訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稲荷の神と祭り祠を立つ。坂上の小祠是也。志一は管領源の基氏の他に上杉家崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。『太平記』に、志一上人鎌倉より上て、佐々木佐渡の判官入道道譽の許へおはしたり。細川相模守清氏にたのまれ将軍を呪詛しけるとあり。
以前訪れましたが、志一上人の石塔は見つけられませんでした・・・
あった!、と思ったら庚申塔でガックリ・・・
彼は筑紫出身だったんですね・・・訴状を忘れたって・・・
かなりのウッカリ者ですねぇ・・・途中で気が付かなかったんでしょうか?
狐も筑紫まで取りに戻って忘れて帰って来たらウッカリコンビで面白かったんですが・・・
訴状のかわりに明太子持って来ちゃったとか(笑)
【太平記】で志一上人が呪いをかけたのは室町幕府2代将軍足利義詮です・・・
義詮の母は鎌倉幕府最後の執権、赤橋守時の妹です・・・
この関係(守時と尊氏が義理の兄弟)もあり、守時が洲崎で玉砕、憤死する前に吐いたセリフは武士らしくてカッコイイですね・・・影薄いけど守時は結構好きです!
勝因寺は色んな字が充てられていた様ですね・・・
同じ勝縁寺ヶ谷にあったとされる正円寺(板中観音堂)も同一の寺だろうとの事・・・
そして、色々と調べている内に自分の過ちを知る事になりました!
【相模国風土記稿】の扇ヶ谷村の項に
【天神社】
霊梅堂の号あり。古は板中正円寺と云ふ。別当ありしが今廃せり。
とあります・・・『板中天神』、『霊梅社』、他の史料を見るにつけ・・・
う~ん、【新編鎌倉志】にある『天神の小祠』とはどーもこれの事らしいですかねぇ?
山中で祠を見つけ、一人で感慨に耽っていた自分を思い出すと超恥ずかしい(笑)
でもそ~なるとあの祠は何やねん?・・・もう一度調査が必要ですね・・・当分行きませんけど・・・
霊梅堂・・・天神様に梅はつきものですが、近くにある薬王寺も前身は梅嶺山夜行寺という真言宗のお寺でした・・・
仮粧坂の下の方には梅ヶ谷の名も残ります・・・
建長3年(1251)12月3日、亀谷辻と仮粧坂山上は商業地として指定されています(下記参照)・・・
そんな事実と照らし合わせて、かつてココは梅通り商店街だったのかも知れない?
なんて妄想してみました(笑)
鎌倉中の在々処々、小町屋及び売買設の事、禁制を加うべきの由、日来その沙汰有り。今日彼の所々に置かれ、この外は一向停止せらるべきの旨、厳密の触れ仰せらるるの処なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々
大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上。牛を小路に繋ぐべからざる事 小路は掃除を致すべき事(吾妻鏡)
霊梅社(天神の小祠?)は現在廃社(?)となってますが物は残っています・・・
岩船地蔵堂から亀ヶ谷坂方面へ進み、田中智学師子王文庫趾の石柱の手前に勝縁寺ヶ谷へ入る道があるので回れ右します・・・すると、道の突き当りに鳥居と社が見えると思います・・・それが霊梅社です! |
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道は左へと曲がり勝縁寺ヶ谷へと続きます・・・
やぐらも何個かありました・・・
以前から存在は知っていましたが、個人宅の稲荷社だとばかり思っていました・・・
今回まじまじと見てみると『霊梅社社殿造営寄付芳名』と記された札が社の横に取り付けてあり、寄付金額と寄付した人の名前が書かれていました・・・
いつ頃建てられたのかは知りませんが霊梅社の跡地に地元の有志達が再建した物と思われます・・・
廃れっぷりが素晴らしいです!
以前は鳥居がもっとボロボロだった気が?
なんかキレイだな?・・・
廃社になったわけではないのかな?
でも鳥居の下を常用駐車場にしてる様だし・・・
廃社でないならそんなバチ当たりな事する訳ないか? |
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それにしても電柱の傾きっぷりがいいですね・・・地震で倒れて社が破壊されない事を願うばかりです!
頼朝の隠し湯・・・入ってみたかったなぁ・・・ |