ブログ 名越切通1
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日蓮乞水の東側の踏切を渡り線路沿いを進んで行きましょう・・・
線路の上下線の間は畑になっていて、お婆さんが農作業に勤しんでおられました・・・恐くないのかなぁ?

ココは法性寺の裏参道にもなっていて、右側の石柱がそれを物語ります・・・
日蓮上人が松葉ヶ谷の法難にみまわれた時に、白猿が山道を案内して安全な場所に導いたという話にちなんで山号は猿畠山、地元の人は『お猿畠』とも呼んでいます・・・

鎌倉側には長勝寺、安国論寺、妙法寺があり、どれも松葉ヶ谷法難跡地と言われていますが、実際どの寺だったんでしょうか?

取り敢えず進みましょう・・・標柱の向かい側にある案内板には切通まで700mとあります・・・
名越切通4 コンクリートで舗装された急な坂道を登りきった後は、こんな感じの道を進みます・・・
右側は崖で畑や会社の資材置場になっており、更に下はJR横須賀線が通っています・・・

この道を通るのは約20年振りです・・・
昔、ぬかるみで転んでドロドロになってから何となく避けていました・・・
最近はココも世界遺産登録候補地リストに載り、逗子市のホームページ等で見る限りまんだら堂やぐら群を始め大分キレイに整備されている様ですね・・・

山道に差し掛かる所の左側に石仏がありました・・・以前来た時は全く気付きませんでした・・・
転んでそれドコロじゃなかったのかも(笑)
名越切通5 名越切通6
お馴染みの青面金剛と・・・ク、首がないっす!?・・・怖いなぁ・・・
百八やぐらの首無石像群も異様だったけどこれはこれで怖い・・・
下には全国的にも有名なお化けトンネルもあるし・・・
横の五輪塔の残骸でも代わりに乗せておけば少しは和むんじゃないか?
絶対バチ当たるな・・・往時は錫杖と宝珠を持った立派な地蔵菩薩だったと思われます・・・

転ばない様にお願いして先へ進む事にします・・・

グッと山道らしくなった道をしばらく行くと、まさに鳥居杉と言わんばかりの風景に遭遇します・・・
奥之院にある山王大権現への入り口でしょうか?(笑)
山王社といえば日枝神社、日吉神社を思い浮かべますが、神使は猿です・・・法難の話と繋がりますね!
名越切通7 長勝寺から言わせると帝釈天の使いも猿である!
巌ならウチにもあるぞ~ってのが安国論寺妙法寺ですね・・・

でも全面的に猿をアピールしている避難先の法性寺が自分的には一番頑張っている様に感じます・・・

山王大権現と大切岸の間は畑になっています・・・
実際の所、道案内した白猿ってのは辻説法で日蓮に帰依した凄く顔色の悪い百姓の事だったんじゃないでしょうか?(笑) 
名越切通8 名越切通9
鳥居杉の坂を登り切ると、道の真ん中に巨大な岩が2つ!
鎌倉と外を結ぶ切通は、外敵に備え故意に道を狭めたり通りにくくした様ですが・・・
さすが『難越(なごし)』と呼ばれただけあり、越え難し・・・
でもこの石、はたして大昔からあったものなんだろうか?・・・どーでもいいけど・・・

ココはちょうど十字路になっていて、右は確かゴミ処理場の上の墓地に繋がっていたと思います・・・
左へ行くと法性寺とハイランド方面・・・今回は切通メインなので真っ直ぐ行きたいと思います・・・
ハイキングコースとしてはハイランド方面がお勧めですね!

切通についての案内板があります・・・

国指定史跡 名越切通

名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に『名越坂』として初めて登場し、明治時代になって真下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する『まんだら堂やぐら群』や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通しの防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。
                                                                                平成24年3月 逗子市教育委員会

この切通の初見は【吾妻鏡】の天福元年8月18日条だと記してます!、早速見てみましょう!

早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる者なり。仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を経らる。先ず御家人等をして武蔵大路・西浜名越坂・大倉横大路已下方々を固めしむ。途路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さるるの間、諸人奔走す。而るに名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠しみを成し岩手左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁れる所無し。これ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。

『武州』とは3代執権北条泰時の事です・・・
当時は由比ヶ浜海岸、坂ノ下海岸あたりの事を『前浜』と呼んでいました・・・材木座は『西浜』・・・

ど~やら名越坂の文献上の初登場は殺人がらみだった様ですね・・・

前浜は埋葬地であり、処刑場でもありました・・・
中世のやぐら等に葬られたのは、僧侶か寺に多額の寄付をした武士階級くらいです・・・
その他は海に流されたり、砂浜に埋められたり・・・

由比ヶ浜といえば全国的にも有名な海水浴場ですが、その地下駐車場建設の際に行われた発掘調査(1995-1997)で3.000体以上の人骨が出土した事などもう忘れている人も多いと思います・・・
裁判所や材木座の方でも夥しい数の人骨が見つかっています・・・

前から気になってたんですけど、掘り起こされた骨はその後どうしたんでしょうか?
半端じゃない数ですけど全部供養したのかな?・・・ドコに持ってったんでしょうかねぇ?
死者からすれば墓荒らしにあった様なモンです・・・

中世の大規模集団墓地となれば当時を知る上でも貴重な遺構だと思うんですが、全くアピールがないのはやはり観光客に配慮しての事なんでしょうか・・・
入り口に『この地下駐車場建設の際に夥しい数の人骨が発見されました。』なんて案内板があったらあまり気持ちのイイ物ではないですからね・・・
建設中は完全に目隠しされていましたが、発掘調査報告書の写真等を見ると物凄く生々しいです・・・

道の途中左側にはまんだら堂やぐら群への入り口があります・・・
現在閉鎖中ですが、臨時公開の際に紹介したいと思います・・・

右側下には火葬場が見えます・・・自分の両親もココで荼毘に付されました・・・
更に進んで行くと左側の崖上部には、あちこちにやぐらやその遺構をみる事が出来ます・・・
そして、
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大空洞(おおほうとう)との遭遇です!
名越切通の名所ですね・・・狭いです・・・右側の岩が崩れそう!
何年か前に崩落防止の補修工事をやっていましたが、こんな所で潰れて死ぬのは嫌だなぁ・・・
などと考えながらサッと通過・・・

ちなみに手前右側にはバス亭『緑ヶ丘入口』方面に続く小坪階段があります、大空洞の南側を迂回する道も造られており、こちらは小さいながらも展望デッキが設置されています・・・
眺めはかなりイマイチですけど(笑)
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狭っ・・・そして景色ショボッ・・・逗子1000景なる物があったなら980番目位に入れてもいいかな・・・
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大空洞を逗子側からパチリ!
ココを過ぎるとすぐに亀ヶ岡団地となり今回の行程も無事終了となります・・・
以前はこの先にも切通が続いていた事でしょう・・・

ちなみに切通を出てすぐ左側には立派な洋風の門があります・・・
門の先の道は名越配水池を回り込む様にしてすぐに見えなくなってしまいますが、山腹に造られたこの道は『サリーちゃんの館』と呼ばれる洋館に続いております・・・
色んな噂で有名な家です!
全部でっち上げだと思いますが、場所柄そういう話と結び付けたがる輩も多いでしょう・・・
謎めいた洋館という点は確かですけど・・・
門脇にポストがありましたが、雨の日とか新聞取りに来るのも一苦労な距離ですね・・・

先程の十字路を法性寺方面へ行くと、この館の真裏の塀沿いを進む事になるんですが、塀の上も横の隙間も鉄条網がびっしりと張り巡らされていて裏口にはSECOMのステッカーが・・・凄い!鉄壁の防御です!

まんだら堂と寺の墓地に挟まれ、下はお化けトンネル・・・
空気の重い空間ではありますが、こんな家に一度住んでみたいです!
友人が門から玄関に辿り着く間に、トイレに行く余裕があるなんて素晴らしい!

約20年振りに名越切通を通ってみて思った事は・・・野良ネコが多いです!
以前はこんなにネコなんていなかったと思いますけどねぇ・・・
途中、ゴルフクラブを持ったお爺さんに会いましたが、ぶら下げているビニール袋にはネコ缶が!
いや、彼がネコに餌をやっていると言ってる訳じゃないですよ!、現場を目撃した訳でもないですし、もしかしたらゴミを拾って歩いている意識の高い人なのかも知れないです・・・

ただ、現状を見るに、誰かが史跡内でネコに餌を与えている事は確かだと思います・・・
そんなに野良ネコが可愛いなら持って帰って飼えばいいのに?
それが出来ないなら放置!、これ鉄則ですよね!?

ペットを捨てる輩も問題ですが、それを餌付けする輩もどうかと・・・
どちらも自分の都合に動物を巻き込んでるとしか思えないんですが・・・
少し熱くなってしまいました失礼(笑)・・・

出口側にも案内板があります・・・こちらの説明は先程の物よりも内容が濃いです!

切通には両側が崖に挟まれている場所が3箇所あり、一番大きい物を『第一切通』と呼んでいるとあります!
発掘調査の結果、現在の道幅は1~1.5mだがその下に複数の道路面が重なって見つかったとあります・・・
最下層(現在の地表より約60cm下)の道路面では幅2m程で、そこから18世紀後半頃の陶磁器の破片が出土した様です・・・
この事から現在の道筋に埋もれているもっとも古い道は江戸時代に使われていたという事が分かったとの事!

また、一時期は道を拡幅した痕跡も見られ、幅3mで両端には排水用の溝も造られていた様です・・・

鎌倉時代の道は発見出来なかったが、崖の高い位置にやぐらがある事から当時と今の道筋が同じだとすれば、その道はもっと高い位置にあり、今より急な坂だったのではないか?・・・てな事が記されています!
切通の断面図で発掘状況を説明していて分わかり易いです!

【新編鎌倉志】を見てみましょう!

【名越切通】

名越切通は三浦へ行く道也。此の峠、鎌倉と三浦との境也。甚嶮俊にして道狭。左右より覆ひたる岸、二所あり。
卑俗、大空洞、小空洞と云ふ。峠より東を久野谷村と云ふ。三浦の内也。西は名越、鎌倉の内なり。

大空洞は第一切通でいいとして、小空洞はドコを指しているんでしょうか?
そもそも大小2つとも亀ヶ岡団地の方にあったんじゃないかって話も聞きますが・・・
何かほうとう食べたくなってきました(笑)・・・大ほうとうがいいなぁ・・・

【鎌倉の地名由来辞典】の犬懸ヶ谷の項に、『源平盛衰記には治承四年(1180)畠山氏と三浦氏が小坪(現逗子市)で合戦した時、和田小次郎が犬懸坂を馳せ越して名越に出た』とあります・・・

参考にしていると思われるので当たり前ですが【新編鎌倉志】にも同様の記述があります・・・
小坪合戦の事ですね・・・

三浦一族が頼朝の応援に駆け付け様としたが、酒匂川が増水していて渡れず、モタモタしている間に石橋山で頼朝が敗走・・・
仕方なく三浦氏も本拠地に戻る途中、由比ヶ浜で畠山重忠の軍と鉢合わせ!、一触即発の場面ですが重忠の母は三浦大介義明の娘・・・血縁者同士の争いは出来れば避けたいという事で和睦が成立しかけた時に、遅れて馳せ参じ事情を知らない和田小次郎義茂・・・
兄である和田義盛の軍が襲われていると勘違いし重忠の軍に斬り込みます!

こういう人現代にもいますよねぇ?
結果両軍入り乱れて数十人の死者が出てます・・・何て迷惑なヤツでしょう(笑)

義茂の息子に高井重茂というのがいますが、重茂は和田合戦の際に一族には組せず御所を守り、朝比奈三郎義秀と取っ組み合いの末に双方落馬・・・そのまま義秀に討たれました・・・
でも、あの義秀を落馬させるとは凄いですね!

重茂(しげもち)・・・何だか信玄餅食べたくなって来た(笑)

【新編鎌倉志】では釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷の間に道があり、これが名越へ向かう本道であり、義茂もココを通ったんだろうと言っています・・・
あの辺は発掘調査で掘割の跡とか見つかっていますが、現状からだとあそこから名越に抜けるって何かピンと来ないですね?

そんな事考えてたらあの切通に架かる朱塗りの太鼓橋が見たくなって来ました!
一般公開されるのはいつの事でしょう・・・まんだら堂の公開の方が早そうですね・・・

名越切通はいつ頃に造られた物なのか不明です・・・
旧東海道がココを通っていたならだいぶ古い道だと言えますが、切通について開鑿、整備したという記述は【吾妻鏡】には見られません・・・
いつ頃から現在の様な道になったのでしょうか?

鎌倉時代には三浦氏が謀反を起こした時に備え、敢えて険しい道のままにしたとも言われてますけど・・・
三浦一族を宝治合戦(1247)で叩いた後にも整備はしなかった・・・
となるとやはり江戸期にガンガン掘り下げて行ったんでしょうか?

ちなみに宝治合戦ですが、そもそも三浦家当主の泰村は鶴岡八幡宮横の西御門に住んでました・・・
北条方の安達軍も筋違橋から泰村邸を攻めたとありましたね・・・
結局劣勢の三浦一族500余人は法華堂頼朝の墓前で集団自決・・・全て鎌倉内で決着がついています・・・

この時、北条氏に縁がある事で三浦一族でありながら北条方に付いた盛連系佐原氏は、乱の後、盛時が三浦介を名乗り三浦氏再興を許されました・・・
三浦荒次郎義意 しかし、永正13年(1516)三浦義同(道寸)の時代に、3年に及ぶ新井城での籠城も空しく伊勢盛時(北条早雲)により再び滅亡となります・・・

新井城址はハイキングコースになっていて、油壺湾と小網代湾に挟まれた岬をグルッと廻ってマリンパークの駐車場に出て来る短いコースですが散歩には調度いいと思います・・・

油壺の名の由来は、三浦一族の血で湾が真っ赤に染まり、まるで油が浮いている様だったからと言われています・・・

三浦義同には三浦荒次郎義意という身の丈7尺5寸、85人力という規格外の息子がいました!

戦国最強じゃないでしょうか!?(笑)

ちなみに左の画像は【英雄百首】の義意であります!
そんな彼も父義同の自害を見届けた後、北条軍の中に突入、武器の八角棒を振り回し大暴れした後、自ら首を斬り落として死んだらしいです・・・
凄いのはその首が小田原まで飛んで松の枝に刺さったという話・・・何km飛んだんだよ!?、凄すぎる!
血しぶきを推進力に変えて飛んだんだろうか?

平将門といい武士の首はどうも良く飛ぶらしいですな・・・
で、その首がすっ飛んでった場所ですが、小田原城近くにある居神神社であります!
国道1号線沿いに鳥居と看板が出てますのですぐ分かると思います・・・神社庁のHPに由緒がありました!

御祭神 三浦荒次郎義意公、木花咲耶姫命、火之加具土神
御由緒 創立年月等旧記焼失して詳ならず。古老の口碑に永正年間の勧請と伝えられる。

陸奥守従四位下、三浦道寸義同公の息子荒次郎義意公(弾正少弼)は、当年21才の若武者、筋骨たくましく85人力といわれ、白樫の八角棒を打ち振り群がる北条軍500余人を次々と薙倒し、獅子奮迅の働きもむなしく永正15年(1518)7月11日、早やこれまでと自刃したが、その首級が飛んで当山の古松の枝にかかった。そして三年の間眼を開いたまま落ちなかったと言う。路往く人々これを見て気絶をなし、死に至れる者さえも出たといわれ、この事を聞いた小田原久野総世寺の忠室和尚が、『うつつとも夢とも知らぬ一眠り浮世の隙を曙の空』と詠んで手向けたところ、首は松の枝から落ち、その時中空に声あり『今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし』と聞こえたという。
その松の下に祠を建て荒次郎公の霊を祀ったのが当神社であると伝えられている。当町十字二丁目、三丁目、四丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治6年7月30日、旧足柄県に於て村社に定められ、明治43年9月10日、大窪村板橋浅間神社・同村同字秋葉神社を合併する。

永正15年とは間違いでしょうか?
【北条五代記】には永正13年7月11日の事となっていますけど?・・・他もしかり・・・
何の文献を参考にしたんでしょうか?・・・まぁ、細かい事はいいか・・・

北条軍500余人を次々と薙倒したって(笑)
凄いなぁ・・・一人で全校生徒シメた様なもんですね!?
それより歌で怨念を鎮めるなんて、風流な和尚ですなぁ・・・いやぁ~風流風流!

父三浦義同には辞世の句があります・・・

『討つ者も 討たるる者も 土器(かはらけ)よ 砕けて後はもとの塊(つちくれ)』

何だか武士の儚さを感じさせる歌ですね・・・これが相模三浦氏最期の詞か・・・
まぁ、細かい事を言えば、義同は扇谷上杉家から世継ぎのいない三浦時高の養子になりましたから、生粋の三浦氏ではないですけど・・・逆に、世継ぎが生まれて義同を疎み始めた時高を討った義同自身が相模三浦氏を滅ぼした張本人なのでは!?

油壷マリンパークですが、昨年甥っ子達と行って来ました!
最後に訪れたのは小学校の時の遠足ですから30年近く前の事です・・・
潰れたとの噂も耳にしていましたが、まだ営業してたんですね・・・

雰囲気は全然変わってない様な気がします・・・寂びれた感といいましょうか・・・
自分は人が少ない方がいいのでその点では寛げました・・・なんかレストランが異常に混んでたんですけど、ドコにこんだけの人がいたんだ?(笑)

だいぶ話が脱線しましたが名越切通でした・・・以上! 
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