ブログ 極楽寺切通1
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極楽寺開山の忍性によって切り開かれた道であると伝えられています!

坂ノ下から極楽寺まで続く坂道で、そのまま七里ヶ浜を経て東海道へと通じる鎌倉-京都を結ぶ往還路の基点として機能していました・・・
この道が開通するまでは、人々は浜沿いの稲村路を通っていたと思われます・・・

以前は成就院の山門の少し下あたりを通る急で細い道だった様です・・・
大正12年(1923)の関東大震災の崖崩れで道が塞がれてしまい、改修工事で現在の位置まで掘り下げられました・・・トンネルにしようという話もあった様です・・・

新田義貞は軍勢を3隊に分けて巨福呂坂仮粧坂、極楽寺坂から鎌倉を攻めました・・・
浜手の大将大舘宗氏が討たれると、義貞は黄金の太刀を海に投げ入れ・・・
って話は有名ですよね?・・・もっとも潮の引いた浜辺を通ったって話は微妙ですが・・・

大舘宗氏主従11人の亡骸を埋めたという十一人塚は稲村亭から海方面へ少し行った左側にあります!
【新編鎌倉志】に切通は以下の様に紹介されています・・・

【十一人塚】

極楽寺の前の道、由井の濱の方へ出る切通なり。忍性菩薩切り開かれしと云ふ。『太平記』に、新田義貞の大将大舘次郎宗氏、十萬餘騎にて極楽寺の切通より向ふとあるは此の所也。南の方は稻村崎なり。

十万って大袈裟でしょ!?
極楽寺切通2 極楽寺切通3
星ノ井側の登り口です・・・奥左側に見える階段が成就院への参道になっています・・・
電柱の『鎌倉しらす直売 喜楽丸の看板が食欲をそそります・・・

ちなみに『鎌倉丼』とゆーとシラス丼の事だと思っている人も多いですが、エビですよ~エビ!
鎌倉海老といったら江戸時代には鰹と共に高級ブランドとして重用されていました・・・
漁獲高が減り、伊勢海老の名称がメジャーになってしまいましたが、今でも鎌倉海老って呼ぶ人いますよ!
現在は年間1トンの水揚げしかない様です・・・

そんな感じで鎌倉ブランドといえば昔は海老と鰹でした! ・・・兼好法師【徒然草】で、

『鎌倉の海で揚がるカツオという魚は以前はたいした魚ではなかったが、近頃は上等な魚になった』
と言っています・・・

山口素堂・・・目には青葉山ほととぎす初松魚
松尾芭蕉・・・鎌倉を生きて出でけむ初鰹

などなど、俳句の題材としても取り上げられています・・・
こないだ近くのスーパーのお魚コーナーで山口素堂の句が詠まれていました・・・
カツオを食べましょうだってさ・・・でもその声が・・・サザエさんでした!(笑)
カツオって・・・あんたの弟じゃないのか?

ちなみに鎌倉のシラスは1~3月は禁漁期間となりますので生シラスが食べたい人はそれ以外の時期に行きましょう!

坂の右側に石碑があります!

極楽寺坂

此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一条ノ路ヲ開キシト云フ 即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ 
元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ 大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ 大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ

大舘宗氏は大佛貞直配下の本間山城左衛門により討ちとられました・・・1333年5月19日の事と伝わります!
極楽寺切通4 日限六地蔵尊・・・シャッター付です!
なんでも、期日を極めてお参りすると願い事が成就するという現生利益の権化のようなお地蔵様です!

期日って言われても・・・
最短で何日くらいからOKなんでしょうか?
出来るだけ短い方がイイに決まってますやん!?

下世話な話ですがやはり願い事の大きさによって変わってくるんでしょうか?・・・あ、ダメだ・・・
善男善女が邪心を捨て心を清く持ち願い事を期日を極めておすがりすればって書いてある・・・チェ!

お地蔵様の目の届く範囲で事故が起きても大事に至らないともあります・・・
取り敢えず事故は起こっちゃうんですねぇ・・・
目の届く範囲ってシャッター閉まったらどうなるんだろうか?・・・てーか目つぶってますやん(笑)
極楽寺切通5
なんでシャッターがあるのかというと、心無い酔っ払いが以前お地蔵様を破壊したんだそうです・・・
なんとバチあたりな!

坂の頂上付近から振り返ってみます・・・亀ヶ谷坂ほどじゃぁないですけどそこそこの斜度です・・・
自転車で登り切るにはそれなりのピストンが必要です!
軽トラが停まっている所は成就院の駐車場です・・・狭っ!

坂を登りきると右側に桜橋があります・・・この橋からは江ノ電のトンネル極楽洞が見えます、極楽洞は平成22年11月24日に景観重要建築物等に指定されています・・・
極楽寺切通6
極楽洞は、江ノ島電鉄極楽寺駅―長谷駅間にあるトンネルの極楽寺駅側にある煉瓦造りの坑門です。
電気鉄道のトンネルとして、今なお建設当時の原型をとどめているものは全国的に極めて希少で、桜橋から見下ろす景観は、古都鎌倉に近代化の息吹を伝えた江ノ島電鉄の歴史を偲ばせています

と、かっちょいい銅版プレートに記されています! 
このトンネルは大変な難工事だった様ですが1907年に無事開通・・・1910年には全線開通となりました!
開通当時は今と同じ10kmの路線に
39もの駅があったとの事!
現在は15駅ですけどそれでも駅間短いなぁと感じるのに39って(笑)
ちなみに運賃は一区間2銭だったそーな・・・

坂頂上左側には史跡伝上杉憲方墓があります、詳しくは瓶ノ井で紹介させて頂きました・・・ 
極楽寺切通7 極楽寺切通8
極楽寺駅付近にある手動式の水門・・・現在は使われていない様ですが上流側の坑門のアーチとスクウェアな水門のコラボが古き良き時代を物語る・・・煉瓦ってイイなぁ・・・イイッ!

プチ情報ですが、鎌倉五山第五位の浄妙寺は元々は『極楽寺』という密教系のお寺でした・・・
その後、蘭渓道隆の弟子の月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職を務めた際に臨済宗に改宗し、寺号も浄妙寺としたんです・・・
極楽寺切通9 江ノ島電鉄極楽寺駅に到着であります・・・
第3回関東の駅百選認定とアピールしています!
手前左側には文学案内板なる物が建てられていて【十六夜日記】と【太平記】の説明がありました・・・

【十六夜日記】の作者である阿仏尼は息子(冷泉為助)の訴訟の為に鎌倉へ入り、極楽寺の南の月影ヶ谷に住んだそうです・・・
『東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。』のフレーズで有名ですよね・・・

『月影ヶ谷』って凄く綺麗な名称ですよね!?
水を打った様に静まり返った谷戸に優しく注ぐ月明かり、ただ響くは己の足音のみ・・・
みたいなイメージです・・・

ちなみに阿佛邸舊蹟の史跡碑は江ノ電の踏切の真横に建っています・・・浪の音とゆーより江ノ電の・・・
まぁ、実際はもう少し奥に住んでいたらしいですけど・・・

この文学案内板に自分なりに後深草院二条の【とはずがたり】を加えさせて頂きます!
彼女は後深草院の寵愛を受け、更に西園寺実兼、上皇の弟性助法親王、鷹司兼平と恋愛遍歴を重ね、院を出た後は諸国行脚の旅に出ます・・・西行法師に憧れての事らしいです・・・

【とはずがたり】の前半は京での恋愛遍歴を日記体で記し、後半は旅の遍歴を紀行文風に綴っています・・・
彼女は正応二年(1289)3月にココ(極楽寺坂)から鎌倉入りしています・・・
平頼綱が霜月騒動で安達泰盛を討ち、恐怖政治を敷いてる時代ですね・・・

鎌倉の社寺を参詣し、鶴岡八幡宮の放生会、7代将軍惟康親王の惨めな帰京、8代将軍久明親王の華々しい鎌倉入りを見た後、年末鎌倉を出て善光寺へ向かっています・・・

明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、仮粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方をみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。
極楽寺切通10 仮粧坂と言ってますが、勘違い説が有力です・・・
勘違いではなくて、これから鎌倉に入るぞって事で、襟を正す場所って意味で使ったという説もあるそーですが・・・

成就院門前からの眺めです・・・
ビューポイントとして観光客には有名な場所ですね!
後深草院二条もほぼこれと同じ景色を目にしたと思うんですが・・・
ど~やらゴチャゴチャと立ち並ぶ家並みがお気に召さず興ざめの御様子ですね・・・京と比較してます・・・

【とはずがたり】は当時の鎌倉を知る上で貴重な史料であるのは当然ですが、後深草院二条の主観が入り、読んでて大変面白いです・・・貴族な彼女は基本アンチ鎌倉です!
極楽寺切通11 極楽寺切通12
成就院の境内には伝文覚上人荒行像(右上の写真)があります・・・
日本のロダンと評される荻原守衛(碌山)が文展で入選した作品文覚を製作するにあたり多大な影響を与えたと説明されていました・・・

文覚は源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた頃からの仲・・・鎌倉を語る上では必ず出て来る僧です!
この文覚像・・・材木座の補陀落寺にも全く同じ物があります!
補陀落寺の開山は文覚、開基は源頼朝と伝わります・・・
寺の縁起は消失しているらしいので証拠は無いですけどね(笑)

【とはずがたり】に戻しまして、

御輿寄せて召しぬとおぼゆれども、何かとてまた庭にかき据え参らせて、ほどふれば御洟かみ給ふ。いと忍びたるものから、たびたび聞ゆるにぞ、御袖の涙もおしはかられ侍りし。

正応二年(1289)9月14日、惟康(これやす)親王が将軍職を剥奪され京へ戻される時の事です・・・
哀れ過ぎます!
長いので省略しましたが、まるで罪人の様な待遇を受けてます・・・悔しかったでしょうねぇ・・・
そりゃ鼻水出ますし泣きもしますよ・・・そんなん見せられたら周りも泣きますって・・・

御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめとおしはかられ奉りしに、御歌などいふことの一つも聞えざりしぞ、前将軍の『北野の雪の朝ぼらけ』など遊ばされたりし御あとにと、いと口惜しかりし。

京への帰り道もさぞかし涙がちであったろうが、宗尊親王が

『猶たのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるる身も』

などの歌を残されているのに対して、御子である惟康親王に、辛い道中を詠んた歌が無かったことは誠に残念な事だぁ・・・と記しています・・・


いやいや・・・この状況で歌を詠めって・・・哀れで見てられないとか言いつつ、結構S女ですね(笑)


【新編鎌倉志】付随の極楽寺図では成就院は現在の場所ではなく、道向かいの奥(現在の熊野新宮の辺でしょうか?、地図自体アバウトなんで何とも言えませんが)に建ってます・・・
新田義貞の鎌倉攻めの際に焼失し、そちらに再建された様です・・・
そして再び現在の地に戻って来たとの事です・・・

かつては地獄谷と呼ばれた此の地に、極楽という寺が建っているのも何か面白いですね・・・
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