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大仏切通の名は当然鎌倉が誇る国宝、鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)から来ています!

切通区間は大仏トンネル付近からバス停『火の見下』の辺りまでと、距離は短いですが比較的当時の姿を伺う事が出来るので、切通を歩いているなぁ・・・と、感じさせてくれる道であります・・・
大仏坂 旧大仏坂体育館
かつては梶原、山崎を経て藤沢へと向かう重要な道だった事でしょう・・・
まぁ、説明は置いといて取り敢えず切通へ向かいましょう!・・・鎌倉大仏から坂を上ってトンネルの手前!

旧大仏坂体育館・・・雰囲気ありますよねぇ・・・スクラッチタイルの外観が堪りません!
窓枠がアルミサッシに修繕されたのは誠に残念ですが、それでも異彩を放つ建物には違いありませんね!
昭和10年頃の建築の様で、元々は水道局のポンプ場だったんだそうです・・・
その役目を終えた後は、鎌倉市が体育館として借用していました・・・

そして2002年3月に老朽化などの問題もあり、再び県に返還されて現在は放置されている様です・・・
入口には額が取り付けてありますが、達筆過ぎて全部は読めませんでした(笑)
なんとか再利用して欲しい物件であります・・・渋くてカッコイイですから!
道標 道標2
案内板の通りにトンネル手前の階段を上って行きましょう!・・・初っ端から結構キツイです!
葛原岡・大仏ハイキングコースはお手軽でアクセスもいいので大人気のコースです・・・
休日などは結構混んでて、下手すると長蛇の列を為す老人ハイカー集団と遭遇する事態も考えられます!
大仏ハイキングコース入口 分岐1
階段を上るとすぐに分岐があります・・・左の道は長谷配水池までコンクリートの階段が続いていて、そのまま更に進めば稲村ヶ崎小学校の前に出ます・・・貯水池の外周沿いに進むと一升枡遺蹟へも行けます!
でも今回はスルーしてサッサと切通を目指しましょうね(笑)
葛原岡・大仏ハイキングコース案内板
案内板です・・・
ハイキングコースへ繋がる道は記されている物以外にもあるので、気になる道は確認しましょう!

コース所要時間
大仏坂口→源氏山公園、銭洗弁財天経由鎌倉駅/約1時間15分
大仏坂口→葛原岡神社、浄智寺経由北鎌倉駅/約1時間10分

北鎌倉駅に行く方が多少早いんですね・・・確かに直線で行けるからなぁ・・・
分岐2 道標3
ちょっと進むとまた分岐があります・・・ハイキングコースへ行く人はココを右折しましょう!
大仏切通へ行く人はそのまま階段を上って下さい・・・
階段 大仏切通
数年前に崖崩れで切通が完全通行止めになった期間がありましたが、復旧してから前よりも歩き易くなった気がするんですけど・・・気のせいかな?(笑)

この階段を上り切れば、あとは下るだけです・・・一気に上って下るパターンです・・・
大仏切通2 大仏切通3
まだ景色は普通のハイキングコースと変わりませんね・・・
もうちょい進むとそれらしい道になって来ますよ!
大仏切通4 大仏切通5
ちょうど大仏トンネルを越えた辺りです・・・平成21年の拡幅工事で様変わりした大仏トンネル・・・
以前の煉瓦造りの方が味があって良かったんですけどねぇ・・・
大仏切通6 大仏切通7
国指定史跡である事を知らせる柱が建っています・・・尾根のちょっと下を通る様な感じの道です・・・
尾根も歩こうと思えば歩く事は可能ですが危ないので気を付けましょうね・・・
分岐3 住宅地へ
分岐があります・・・ちなみに右へ曲がるとすぐに住友常盤住宅地に出れます・・・
道標4 大仏切通8
住宅地へ出ても何もないので素直に真っ直ぐ進みましょう!
『ザ・切通!』って感じの場所までもうすぐです!
大仏切通9 大仏切通10
う~ん・・・イイ感じですねぇ~・・・期待がドンドン膨らんで行きます!
大仏切通11 大仏切通12
やっぱりこの両側から迫りくる圧迫感が無いと切通とはいえないですよねぇ・・・
大仏切通13 大仏切通14
道の真ん中にデカい岩・・・敵の侵入を阻む防衛の為にわざと置かれたのかも知れません!
もしくは単に崩落してそのまま(笑)
大仏切通15 大仏切通16
大仏切通17 ココを下って行くと切通も終わりです・・・
ホントに短い道程ですが、結構楽しい道です!
生活道路としてのメリットはありませんけど(笑)

下った先の階段を上るとやぐら・・・
というより石切場跡?
とにかく、そんな感じのスペースがありますが、ロープが張られていて立入禁止!
壁面には近付けません!
そこまで興味を惹かれる物ではありませんけどね(笑)

階段手前に案内板があります!
大仏切通案内板
大仏切通はいつ開鑿されたのかハッキリとは分かっていません・・・
案内板は他の切通と同時期に整備されたと考えられるっていってますけど、これも憶測の域を出ません!

道があったのは確かでしょうけど、切通として主要道路となった時期を記した史書はありません・・・

【新編鎌倉志】(1685年刊行)の記述を見てみましょう!

【大佛ノ切通】

大佛の西の方なり。此切通を越ゆれば、常磐里へ出るなり。【東鑑】に治承五年九月十六日ニ、足利太郎藤原の俊綱が郎等、桐生六郎、主の俊綱が首を持参して梶原平三が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。
直に武蔵大路より深澤を經て腰越に向ふとあり。深澤をへて行く道、此道筋ならんか。
鶴が岡一の鳥居より此所まで、二十町ばかりあり。

【新編鎌倉志】より半世紀程前に刊行された【玉舟和尚鎌倉記】にも『大仏坂』の記述が見えます・・・
まぁ、同じ道の事ですけど、これがこの道の文献上の初見になるそーです!

【吾妻鏡】の治承5年9月16日条に触れていますね・・・
足利俊綱は下野国足利郡の領主・・・
平家方として戦いましたが、家来の桐生六郎に裏切られて殺された人物です!
桐生六郎が俊綱の首を持って来たが、鎌倉市中には入れてもらえずに武蔵大路から深沢を経て腰越に向かった・・・フムフム・・・
その時に通ったのがこの道ではないか?・・・と言っていますね・・・

またまた謎の道、『武蔵大路』が出て来てしまいましたね・・・
まぁこの道には学者達も頭を悩ませている様ですし、いつも通り華麗にスルーして置きましょう!(笑)

現在の感覚だとココが深沢っていわれるとちょっと違和感を感じますが、当時は大仏様の辺りも深沢でした!
【吾妻鏡】にも『相模国深沢里の大仏』と記されています・・・

ちなみに桐生六郎は主(俊綱)の首を土産に頼朝の御家人にして欲しいと申し出ましたが、代々仕えている主を殺した不当の輩とされ、頼朝の命で梶原景時により処刑されます・・・9月18日の事でした・・・
この治承5年の記述は【吾妻鏡】の切り貼りの誤りで、実際は寿永2年(1183)の出来事の様です・・・

しかし、この道・・・当時から重要な道だったとはちょっと言い難い気もします!?
当時は京からの玄関口は腰越・・・そして稲村路極楽寺坂を通って鎌倉入りするのがパターンです!
現在の様子を思い浮かべてはいけません!

当時はこの辺りはどんな感じだったんでしょうか?
人は住んでたのかな?・・・海岸線と仮粧坂は主要な道であった事は疑い様もありません!
そー考えると、自分的にはこの道の必要性や存在意義といった物はあまり感じられないんですけどねぇ?

普通の山道だったんじゃないでしょうか?・・・【鎌倉市史考古編】には、

この切通しも当時のものではなく、江戸時代以降に手を加えて次第に低いものにしたものである

という記述があります・・・赤星先生の言葉です!・・・妙に納得の御言葉です!
大仏切通18 大仏切通の武士
取り敢えず階段を上って、やぐらっぽい物を見物しましょうか!
ふと左の平場の方に目をやると・・・
ん!?・・・なんか武士っぽい感じの奴がいるぞ!?・・・タイムスリップでもしたかな?

気にはなりますが先にやぐらっぽい物を見ましょう!
大仏切通19 大仏切通20
大仏切通21 大仏切通22
大仏切通23 大仏切通24
まぁ、こんな感じです・・・さして面白い物でもありません・・・
切岸の下のスペース・・・武者溜まりみたいだな?
ココから下の通行人をチェックしていたんでしょうか?(笑)

しかし、中々に雰囲気のある道ですねぇ・・・
皆さんハイキングコースの方へ曲がってしまうんで、大仏切通は意外と空いています!
まぁ、何度も見に来る場所でもありませんしね・・・
大仏切通25 江戸時代頃に掘り下げられた物だろうとの事でしたが、現在の切通は更に明治以降に整備された物です!
そーいえば高徳院の入口に面白い石碑がありました!
重修大仏坂記
重修大仏坂記

鎌倉之為地南瀬海環東西北皆山也有七路鑿山通之其西北之路曰大仏坂最険且隘負擔過之者不数歩而口喘背汗矣郷父老三橋小左衛門、矢沢小左衛門、徳増七三郎等、二十余名相謀募金修之官嘉其志賜以金百円明治巳卯夏五月興役至庚辰春三月竣功凡五町之間削両崖三丈畳石以防崩壊而得平坦者八十余歩広可容二軌用工二千三百五十余人資金一千余円昔之口喘而背汗者今則謳歌而過焉衆皆徳之夫施恵於人者金帛為小修道路為大以其治□干久遠也小左衛門等二十余人能択其大者率先成功可謂偉矣余乃記其事以勒石郷人之志也
    明治十四年五月 阿波 伊藤士龍撰並書
漢文です・・・漢字だらけです・・・目がシパシパしますね・・・ちょいと読み下しましょう!

鎌倉の地は南は海が迫り、東西北は皆山也・・・七路あり、山を鑿ってこれを通す・・・
その西北の路を大仏坂と言う・・・
最も険阻で負ひ担ぎてこれを過ぐる者は数歩せずして口喘ぎ背に汗をす・・・
郷の父老三橋小左衛門、矢澤小左衛門、徳増七三郎等20余名、金を募りてこれを修めんと相ひ謀る・・・
官、その志を嘉し賜うに金百円を以てす・・・
明治己卯(1879)夏5月、役を興し庚辰(1880)春3月に至り竣功す!
凡そ5町の間、両崖を3丈削り石を畳み以て崩壊を防ぐ・・・
而して平坦を得るは80余歩、広さ2軌を容る可し。

用いし工、2.350余人、資金1.000余円。昔の口喘ぎて背に汗する者、今は即ち歌を謳ひて過ぐ。
衆みなこれを徳とす・・・それ、人に恵みを施すは金帛を小とし道路を修むるを大とす・・・
その久遠に迄ぶを以てなり。
小左衛門等20余人、能くその大なるものを択び、率先して功を成す・・・偉と謂ふ可し・・・
余、万に其事を記し、以て郷人の志を石に勒するなり。  
                      
                      明治十四年五月   阿波  伊藤士龍  撰並びに書す

読み下しても分かり難いですね・・・要は大仏坂の工事の概要が書いてあります!

大仏坂は鎌倉七口の中で最も険阻な路で、荷を背負って通る者は数歩も進まぬ内に汗だくで喘いでいたそーですね!
それも明治12年(1879)5月~翌年(1880)3月にかけて行われた工事で、今では鼻歌まじりに通れる程の道になった!・・・との事です・・・

『凡そ5町の間』・・・1町=109.09mらしいので545.45mですね!
『両崖を3丈削り』・・・1丈=3.03mらしいので9.09mです!

545.45mの区間で両岸を9.09m掘り下げて、石畳を敷き、車がすれ違い出来る様にしたって事ですね!
車って人力車とか荷車の事だと思いますけど、ちょっと今の様子からは想像出来ませんね?
でも、この明治の道の痕跡らしき物は現在も一応確認する事が出来ます!
先は崖になってますけど・・・

大仏トンネルが出来たのは明治45年(1912)の事らしいので、その時に旧道は分断されたのではないでしょうか?

何にせよこのトンネルが出来て藤沢方面へのアクセスはかなり良くなった事は確かだと思われます・・・
そして切通はあまり使われなくなり徐々に廃れて行ったんでしょう・・・
ちょっと前までは現在の様に整備された物では無く、結構荒れていたという話を聞きます・・・
大仏切通の武士2 大仏切通26
さて、先程の気になる武士ですが・・・空を見つめてカッコ良くポーズを決めています!
そして仲間の武士がスマホで撮影(笑)・・・シュールだなぁ・・・
でもスマホを使いこなすとはあの武士中々やるな!
2人とも外人さん(女性)でした・・・あの人達好きだよねぇ~こーゆーの!

さぁ、もう出口です・・・あっという間の散歩道って感じでしたね・・・
大仏切通27 大仏切通28
民家の横をススッと進んで行くと、
大仏切通29 大仏切通30
バス停火の見下 すぐにバス通りへと出ます・・・
右側にはバス停『火の見下』があります!
ちょっと歩けば有名なちんや食堂もありますよ!
あの店舗外観は怪し過ぎますよね?(笑)
初見では、ちょっと勇気を出さないと入れません!

でも、出て来る料理はそんなに怪しくはないので安心して下さい・・・一度は経験しときたい店です!
ネタとして・・・
別に不味いわけじゃないですよ!・・・定食とか普通に美味いです・・・普通に・・・

何かホントにお腹空いて来たなぁ・・・大仏様のトコロまで戻ってなんか食べよっかな?
あの一帯は飲食店が飽和状態ですよね・・・
でも、休日以外はどの店も意外とマッタリ出来るのでお勧めです!・・・休日の鎌倉はホントダメです!
火の見下から大仏方面 梓想庵
大仏方面に少し戻ると・・・ありますよぉ~・・・先程のスマホ武士のアジトが(笑)

鎌倉武士体験 梓想庵

ココが観光客などに武士のコスプレを提供している店です!
2年前くらいに北鎌倉で開業して話題になっていましたが、こんなトコロに移転していたんですね!?
気になる方はお店HPを見て下さい!

武士の姿で大仏切通を歩くのも面白いかも知れません・・・旅の思い出作りには持って来いです!
子供などは喜びそーですね・・・もう少しコスのバリエーションがあるといいんですけどねぇ・・・
やっぱ忍者はマストでしょう?・・・忍者が嫌いな外人さんはいませよ!(笑)
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