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鎌倉七口の中でも良く知られた切通だと思います・・・画像は巨福呂坂洞門です・・・
この防護シェルターは切通の雰囲気を崩さない様に吹き抜けにしたとの事です・・・
1993年6月に西松建設が建造したと彫られています・・・
名称の由来は近くに史跡である巨福呂坂があるからと案内板にあります・・・
現在『こぶくろざか』とゆーと、一般的にこの道の事をいう場合が多いですが、そもそもこの県道21号線(横浜鎌倉線)は、新田義貞が鎌倉攻めの時に攻めあぐねた巨福呂坂とは別物であります!
この道は明治19年に開鑿された物で、国指定史跡の巨福呂坂はこの道の南側にあります・・・
本来はこの洞門の上辺りを通って建長寺門前へと至っていたと思われます・・・
この新しく出来た道も開鑿当初は今ほど掘り下げられてはおらず2つの道は生きていたと思われますが、横須賀水道の敷設、道路の拡張などを経て史跡である巨福呂坂は現在完全に寸断されてしまっています・・・
この新道、車が通行出来るようになったのは大正12年(1923)に起きた関東大震災の復旧工事後の事だそうです・・・ |
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鶴岡八幡宮西側、いわゆる馬場小路を歩いていると車祓所が見えると思います・・・
その向かい側にある谷戸が史跡巨福呂坂の入り口になります・・・
入り口にある『里のうどん』って店はボリューム満点のバラ丼がお勧めです!
湘南名物と銘打ってますがそれは置いといて、ご飯の上にキャベツ、さらにその上に肉が敷き詰められていてとにかくお腹一杯になります!
うどんは食べた事ないです・・・というかバラ丼以外食べた事ありません(笑)
谷戸を少し進むと『ことのは』とゆー甘味処がありましたが最近閉店してしまいました・・・
結構好きな店だったので残念です・・・ |
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さらに進むと道が分かれていますが左側は横須賀水道のトンネルとなっており、行き止まりとなります・・・
傍らに『史跡 巨福呂坂』と書かれた柱が建っています・・・
この巨福呂坂は1240年に北条泰時が造ったと言われています・・・
十月十日庚子 前の武州の御亭に於いて、山内の道路を造らるべきの由その沙汰有り。安東籐内左衛門の尉これを奉行す。(吾妻鏡)
これに見える山内の道路が巨福呂坂なのか亀ヶ谷坂なのかハッキリしませんが、ココの事であろうという説が有力であります・・・更に1250年に北条時頼の時代に再び整備されています!
六月三日丁酉 山内並びに六浦等の道路の事、先年輙く鎌倉に融通せしめんが為険阻を直さるると雖も当時また土石その閭巷を埋むと。仍って故の如く沙汰を致すべきの由
今日仰せ下さると。(吾妻鏡)
同年に時頼の屋敷も密かに燃えていました(笑)
九月二十六日己丑 亥の刻相州の御亭失火す。(吾妻鏡)
相州ってのは北条時頼の事です・・・翌年にかけて火災が頻繁に発生しています・・・ |
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分れ道を右に進むと左に階段があり青梅聖天の参道となっております・・・
【新編鎌倉志】によると、
【青梅聖天】
青梅聖天は雪下より小袋坂へ登る左に小坂あり。巌窟の内に聖天の宮有。故に坂を聖天坂と云ふ。是を青梅の聖天と云事は俗に傳ふ鎌倉の将軍一日疾ひ劇だしふして時ならず青梅を望まる。
諸所を尋ぬるに此宮の前に俄かに青梅實のる。是を将軍に奉て終に疾ひ癒へぬ。故に名くと。
この辺りの坂道を『聖天坂』と言ったらしいですね・・・右上の写真は階段を登り切った所からの景色です!
将軍が病に臥せり青梅を所望し、季節外れにも関わらずこの宮の前に実っていたので献上した所、治った!
ど~やらこれが名前の由来らしいですね・・・案内板にも同じ内容が記されていました・・・
巨福呂坂の頂上付近にあるのは、足柄峠の聖天堂同様に峠を往来する人々の安全を願っての事であるとも記されています・・・トコロで、青梅を所望した将軍って誰なんだろうか?・・・まぁ、いいか・・・
社殿には聖天像と将軍地蔵が祀られており、境内には丸山稲荷という社がある(鎌倉の神社小辞典)
当然ですが歓喜天を祀っている様です・・・歓喜天と書かれた丸い額が掲げられていました・・・
以前中学の同級生の家へ引っ越しの手伝いに行った際、その娘の父親が大枚はたいて購入したという歓喜仏を見せてもらった事があります・・・
何ともコメントし辛い仏像でしたが、よくある象頭ではなく人頭の物でした・・・
30cmくらいの小さい物でしたが装飾が綺麗で『禁制品だぞ!』と色々説明してくれたオッサンの自慢げな顔が忘れられません・・・
宝戒寺には秘仏として歓喜天が祀られていますが、いつか御開帳される日が訪れる事を望むばかりです!
青梅聖天の階段の赤い手摺が途切れている所があるんですけど、そこから山道へ出られます!
ほとんど使われておらず結構荒れているのであまりお勧めはしませんが、泉ヶ谷からの道と繋がっており覚賢塔や祠など見る事が出来ます・・・行かれる場合はくれぐれも崖から落ちない様に気を付けて下さいね! |
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青梅聖天の先左側には石塔群があります・・・
リアルに彫られた観音様がイイ感じです!
庚申塔やらに混じって『道造供養塔』という物があります・・・
江戸末期の改修工事では多くの人が命を落としたため、道中には供養塔も見られる。
(鎌倉の神社小辞典)
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多分この時の物でしょうねぇ?
江戸時代には多くの参拝客が道中の安全を願いお参りした事でしょう・・・
道祖神は村の境界に置かれる事が多いです・・・
また、この先にある建長寺が建つ地は、かつて地獄谷と呼ばれた刑場でした・・・
街中に刑場は造らないだろうし、当時はこの辺りから北の外れって事でしょうか?
元仁元年(1224)12月26日戊午 この間疫癘流布す。武州殊に驚かしめ給うの処 四角四境の鬼気祭を行わる。対治すべきの由 陰陽権の助国道これを申し行う。所謂四境は
東六浦、南小壺、西稲村、北山内と。
(吾妻鏡)
武州とは北条泰時の事です・・・この四角四境祭は度々執り行われています・・・
四境とはその名の通り当時の鎌倉の範囲を示しています・・・
ココ巨福呂坂は北の玄関口・・・厳密な境界線はどの辺だったんでしょうかね?
道祖神の猿田彦大神、青面金剛は江戸時代に庚申講に取り入られた様です・・・猿=申・・・
そもそも庚申信仰とは、人間は生まれた時から体内に三匹の虫を飼っているらしく、その虫達が庚申の日に神様に人間の悪行を報告しに行くんだそうです・・・すると人間は罰として寿命を減らされるのだとか・・・
虫は人間が寝てる間に体外に出るので、庚申の夜は村人が集まり宴会などをして、虫が自分達の悪行を報告しに行けない様に夜を明かしました(隠蔽工作ですね)・・・これを『庚申待ち』と言います・・・
この三匹の虫・・・2寸と意外と大きいです!
それぞれ容姿が異なり、道士、獣、牛の頭に脚が生えた物・・・最後のやばいです(笑)(参照Wikipedia三尸)
青面金剛は虫を追い払う力があるそうですね・・・ |
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さて、道に戻りましょう・・・軽トラの後ろに細い道が続きます・・・
舗装は無くなりますが道端に苔生した古そうな石が並んでいます・・・お地蔵様や近所のオッサンが趣味で彫った様なフクロウ?なども並び、ちょっと胡散臭いですがまぁ良しとしましょう・・・
この先は獣道の様になっています・・・そして新道に道を切り取られ崖となって終点です・・・
この辺りの崖上には平場が結構存在していて、古道の名残なのか、建長寺の塔頭跡なのか分かりませんがロマンを感じさせてくれます・・・くれぐれも落ちない様に!
以上が巨福呂坂の現状です・・・【新編鎌倉志】を見てみましょう!
【巨福呂坂】
巨福路(或作小袋路、或作禮又作呂)坂は、雪下より建長寺の前へいづる切通なり。【太平記】幷【神明鏡】に、新田義貞、鎌倉合戦の時、堀口美濃の守貞満を巨福呂坂へ指向らると有は、此所にはあらず。市場村の西に、巨福呂谷と云所あり。是を指すなり。則此道筋なり。此の所ろは巨福呂谷へ行く坂の名なり。【太平記】【神明鏡】をも、巨福呂谷となして見るべし。古老の云、此の邊より市場村の邊までを、巨福呂谷と云。故に建長寺を巨福山と云也と。
【鎌倉九代記】に、新田義興・脇屋義治、鎌倉に攻入りし時、基氏方の兵、小袋坂・假粧坂に集りて堅めたりとあるは、市場村の西を云ふには非ず。則ち此の所ろを指すなり。義興、義治、已に源氏山へ登り、鶴が岡山へ登るとあるを以て知る也。
ふむふむ・・・そーでっかぁ・・・そーだよねぇ・・・ |
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さて巨福呂坂洞門の脇にある巨福呂坂送水管路ずい道つまり横須賀水道ですが愛川町から横須賀まで引かれています・・・鎌倉にも自分が住んでいる逗子にも『水道みち』と呼ばれる場所がありますが、これはまさに横須賀水道が通っているからであります!
愛川町といえば中津川にある宮ヶ瀬ダムですハイ!
恒例(?)のダムカード紹介します(笑)
堤高 156.0m 堤頂長 375.0m
総貯水量 1億9.300万立方メートル
管理者 国土交通省 本体着工/完成年 1984/2001 |
ランダム情報:平成18年度のダム周辺の年間利用者数は181万人。毎週水曜日と毎月第2日曜日の午後11時、午後2時に毎秒30立方メートルの観光放流が行われています。ダムサイトには宮ヶ瀬ダム水とエネルギー館、インクライン(ケーブルカー)があり、ダム湖では遊覧船が運航されています。
こだわり技術:堤高156m、堤体積約200万立方メートルの超大規模ダム建設を設計施工の合理化と新技術適用で実現し、37ヶ月という短期間での堤体打設を可能としました。また、残土で埋め立てた沢(東沢、鷲ケ沢、及沢)のは新たな自然環境の創造を図り、生物の多様な生息空間を確保するビオトープ整備をダムで初めて実施しました。
てな感じです・・・画像下のSL風の乗り物は、ロードトレインあいちゃん号だったかな?
恥ずかしくて一度も乗った事ありません・・・発車時刻待ってる間に歩いて着いちゃうしね・・・
ここからインクラインかエレベーターで天端まで行けます・・・あいちゃん号では行けませんよ!(笑)
ちなみにエレベーターは無料です・・・インクラインってのはダム工事の際に材料とかダンプカーを運ぶ物で、宮ヶ瀬ではそのまま残して観光用に再利用されてます・・・
宮ヶ瀬ダムは完全に観光地化しているダムで年間利用者数181万人とありますが、ダントツの全国一位であります!
この数字はホントに凄いですよ!
全国でも有数の参拝者数を誇る鶴岡八幡宮の初詣客数200万人に届きそうです・・・
あの超有名な黒部ダムでも100万人ちょっとで推移していますから・・・
そういう意味でも地域に開かれ成功したダムと言えましょう!
また、行き易さというのもあります・・・都心から近く、道路は2車線とくれば日帰りドライブにぴったりですもんね・・・子供が遊ぶ施設も豊富で家族連れには嬉しいでしょう・・・ |
1位 186m 黒部ダム
2位 176m 高瀬ダム
3位 161m 徳山ダム
4位 158m 奈良俣ダム
5位 157m 奥只見ダム
6位 156m 宮ヶ瀬ダム
6位 156m 温井ダム
6位 156m 浦山ダム |
アーチ式
ロックフィル
ロックフィル
ロックフィル
重力式コンクリート
重力式コンクリート
アーチ式
重力式コンクリート |
富山県
長野県
岐阜県
群馬県
新潟県
神奈川県
広島県
埼玉県 |
関西電力(株)
東京電力(株)
水資源機構
水資源開発公団一工
電源開発(株)
関東地方建設局
中国地方整備局
関東地建→水公団一工 |
1963年
1979年
2008年
1990年
1960年
2001年
2001年
1999年 |
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ダムの堤高ランキングです!(参照:国土交通省関東地方整備局)
宮ヶ瀬ダムは同率6位ですね!、重力式コンクリートダムの中では1m差で2位です・・・
1mくらいコンクリート盛れよぉ~(笑)
堤体積では全国1位です!・・・ちなみに第2位は岩手県の胆沢ダムです・・・ |
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大規模な胆沢ダムによって2km上流にある石淵ダムは完全に水没する事になってしまいました・・・
石淵ダムは北上川五大ダムの一つで、日本初のロックフィルダムで、戦後間もない物資の少ない時代に築かれた叩き上げのダムです・・・
着工してから住民の移転交渉(ほとんど退去命令)を行うなど現在では大問題になりそうな事をしてまで築いたダムなんです・・・
当時は日本国憲法も無かったですし、人権なんて国益に比べれば糞ほどの物だったんでしょうね? |
2012年ついに胆沢ダムの試験湛水が始まり・・・
石淵ダムは胆沢ダムにその役割をバトンタッチしました・・・役目を終えダム湖に沈んでゆく石淵ダム・・・
その様子は胆沢ダム工事事務所のwebサイトで見る事が出来ます・・・
2013年3月29日(貯水位323m 石淵ダム堤頂標高323.0m)ついに・・・ご苦労様でした・・・
今までありがとう!、自分は神奈川県民なんで関係ないですけど(笑)
しかし、石淵ダムもただ湖底に沈む訳ではありません・・・
今後は貯砂ダムとして胆沢ダムをサポートして行きます!
がんばるなぁ、さすが団塊の世代・・・
尚、石淵ダムのダムカードはもう配布されておりません・・・大事にしなきゃ・・・
水没したダムカードとか配布してくれないかな?、無理か?・・・
それこそ事業仕分け云々でダムカード自体がなくなりそうですね・・・
しかし、こんなの数少ないダムマニア以外の人にとっては大したアピールにもなってないし、無駄以外の何物でもないと思うんだが?・・・よく仕分けの対象にならなかったなぁ・・・
まぁ、こんなのは些細なもんで、山奥であまり人も来ない様なダムに立派な記念館やら資料館をおっ建てて、常駐で案内のお姉さん置いて・・・みたいな所もあります・・・
まぁ、来る人もいないから実態も分からないし、結果、五月蠅く言う人もいないんでしょうね・・・
宮ヶ瀬ダムみたいに観光地化してるダムとか民間経営のダムなら問題ないですけどね・・・
取り敢えず、ダム好きな自分にとっては無駄遣い大歓迎です!
それより独立行政法人水資源機構って何なんだよ?・・・水資源開発公団との違いは?
天下り臭がプンプンするんですけど・・・てゆーか確実にそーだよね(笑)・・・まぁ、いーけどさぁ・・・
今度久しぶりに宮ヶ瀬ダムでも行って見るかな・・・ダムカレー食うべ! |