源氏山公園側に仮粧坂の案内板がありますので見てみましょう!
仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面へ抜ける『鎌倉往還上ノ道』(武蔵路)の出入り口にあたります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。
『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして『気和飛坂山上(仮粧坂の山上)』と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。
平成21年12月 鎌倉市教育委員会
新田義貞は仮粧坂、巨福呂坂、極楽寺切通の3つの出入り口から鎌倉を攻めました!
大舘宗氏が討たれると義貞は稲村ヶ崎で・・・後は御存知の通りです・・・
【吾妻鏡】の建長3年12月3日条とは、
鎌倉中の在々処々 小町屋及び売買設の事 禁制を加うべきの由 日来その沙汰有り。今日彼の所々に置かれ この外は一向停止せらるべきの旨 厳密の触れ仰せらるるの処なり。佐渡大夫判官基政、小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。
鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上。
牛を小路に繋ぐべからざる事 小路は掃除を致すべき事
てな感じです・・・
明治21年の創建である葛原岡神社の祭神は日野俊基です・・・
境内に俊基の墓といわれる宝篋印塔があり、国指定史跡になっています(立派な墓です)
文章博士こと日野俊基朝臣は正中の変(1324)で捕えられましたが釈放されます・・・
しかし、元弘の変(1331)でまたまた捕えられ今度はココで処刑されました・・・
ちなみに後醍醐天皇は隠岐に配流・・・
俊基の辞世の句があります、
『秋をまたで 葛原岡に 消ゆる身の 露のうらみや 世に残るらん』
さぞや無念だった事でしょう・・・傍らの石碑にもこの辞世の句は刻まれております・・・
仮粧坂の名の由来は、平家の大将の首級をココで化粧して首実験したからとか、この辺りに娼家があって化粧した女性達がいたからとか、樹木が勢いよく生い茂っていたので木生え、気勢(きはえ)と言われていたから、などなど諸説あるみたいです・・・ |
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では源氏山から下って行きましょう・・・ついでに頼朝さんに挨拶しときましょう!
源氏山は八幡太郎義家が奥州に向かう時(後三年の役)にココの山上に源氏の白旗を掲げた事が名称の由来とされています・・・白旗って・・・出陣前に降伏してるみたいやねぇ・・・
旗といえば平家の総大将宗盛が最後まで持っていた赤旗が材木座の補陀落寺に伝わっています・・・
旗には清盛直筆と伝わる『九萬八千軍神』の文字があります・・・ホントかな?、大将が旗なんか持つのか?
生で見た事はありませんが、鎌倉まつりの時に公開していたと思います・・・
このお寺、別名『竜巻寺』と呼ばれ、度々竜巻による被害を受けて来たそーです・・・
養和元年(1181)創建で、開山は文覚上人、開基は源頼朝・・・ホントかな?
更に寺宝に、木造不動明王像(智証大師作)、木造薬師如来像(行基作)と両脇侍日光月光菩薩像(運慶作)、木造文覚上人裸形像(文覚自作)、頼朝像(頼朝自作)、弘法大師像(弘法作)、頼朝の位牌(文覚書)
などなどあるらしいですが・・・ホントかなぁ?、行基まで出て来ちゃったよ・・・
グッと信憑性が下がったなぁ(笑)・・・勧進に来て仏像彫ったりとかしてる暇ないだろうに?
永和3年(1377)銘の木造秘鍵大師坐像は見てみたいなぁ・・・
【新編鎌倉志】見てたら寺宝に文覚上人の位牌とありました・・・どういう事だ?
文覚直筆の頼朝の位牌って事か?、それとも文覚自身の位牌?
他にも情報が錯綜しています・・・一度ちゃんと調べてみなくてはなりませんね!
あの極小(創建当初は七堂伽藍の大寺院だったらしい)な寺にこれ程のお宝の数々・・・
しかしながら寺伝などは度重なる災害で消失してしまった模様・・・怪しいなぁ?(笑)
文覚は元々は『遠藤盛遠』とゆー北面の武士でした・・・
そんな盛遠と『袈裟御前』という女性の話があります!
仕事中に袈裟を見た盛遠はゾッコンになります・・・
そんなこんなしてる内に、袈裟は盛遠の同僚である源(渡辺)渡に嫁ぐことになります・・・
渡と袈裟は幸せな日々を送っていましたが、袈裟を諦め切れない盛遠は彼女につきまといます・・・
人妻である袈裟は、盛遠に断りを入れますが、恋に取りつかれた盛遠は、自分を受け入れてくれないのなら彼女の母を殺し、自分も腹を切ると脅迫します・・・
それを聞いた袈裟は悩んだ末、夫(渡)を亡き者にすればあなたの物になりましょうと盛遠に持ちかけます! |
遠藤武者盛遠(画:歌川国芳) |
恋に狂った盛遠は闇にまぎれて渡の屋敷へ忍び込み、袈裟の指示した通りに寝所にいた渡(わたる)の首を斬り落とします・・・や、やってやったぜっ!
しかぁーーし!、月明かりに照らされた首は渡の物ではなく、なんと愛すべき袈裟のそれだったのです!
渡を裏切る事も、母を危険にさらす事も出来ず、板挟みの彼女が選んだのは・・・
何て悲しい幕引きでしょうか・・・
というのが【平家物語】でのあらすじ・・・
【源平盛衰記】では大体同じ内容ですが、袈裟は仕方なく盛遠に体を許しています・・・
更に芥川龍之介の短編【袈裟と盛遠】では盛遠と不倫しまくり、夫である渡に対する贖罪的な感じで自分で死ぬ勇気もないので盛遠に殺してもらう・・・
という大胆アレンジ!
死を選んでまで夫に対する気持ちを貫き、武士の妻の鏡とまで称される袈裟御前が・・・
台無しですよぉ~・・・昼ドラ路線のドロドロ感!
まぁ、それもありか!? |
何にせよこれを悔いて盛遠は出家し、文覚と名乗ります!、
渡も一緒に出家します!、ついでに袈裟の母も出家します!・・・仲いいなぁ(笑)
文覚は後白河院が法住寺殿で管弦の宴に興じていた所にズカズカ入り込み、神護寺再興の勧進帳を大声で読み上げ、止めに来た警備の武士相手に大暴れした結果、伊豆に配流となります・・・
大暴れって(笑)・・・出家したはいいけど、あんま反省してないんじゃないのか?
そこでやはり伊豆蛭ヶ小島に流されていた頼朝と出会い、亡き父義朝のドクロを見せて平氏打倒を促したって話はよく聞きますね・・・その後、頼朝は見事打倒平氏を成し遂げました・・・
禍根を絶つため当然斬首となる運命の平六代・・・
しかし、文覚が頼朝を説得し、何とかその一命を取り留めました・・・
六代12歳の事です・・・何故『六代』かというと、
正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛-六代と、正盛から数えて六代目だからです・・・
『平高清』とも言われます!
頼朝の死後、文覚は力を失い隠岐に流されます・・・
六代は再び捕えられ、逗子市内を流れる田越川のほとりで斬首!
かくしてあの清盛直系の血は絶たれたのでした・・・チャンチャン!
【十二巻本平家物語】のラストはココ、我が逗子市であります!
祇園精舎に始まり六代被斬に終わります・・・ |
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処刑地とされる桜山柳作には六代御前の墓があり逗子市指定史跡になっています!
バス亭六代御前まえで下車すると目の前に『六代御前最後之故址』と彫られた大きな石碑があります!
その奥に見える階段を登った所に墓はあります・・・大きな欅の根元に建っています・・・ |
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え~と、仮粧坂を下ってる最中でしたね・・・
ちょっと振り返って坂を見上げてみましょう!
岩が階段状にボコボコしてます、凄い段差です!
楽しいと言えば楽しいですが結構キツイです・・・
源氏山公園へ行きたいけど足腰弱いって方は、仮粧坂はパスして車で行きましょう・・・
葛原岡神社まで行けます!
ハッキリ言って周りの迷惑ですけど(笑) |
と、ココまで自転車で遊びながら降りて来ましたが・・・
道の真ん中の大きな岩を避けようとして、ついに転倒! |
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そのまま崖下へ滑落・・・とはなりませんでしたが、痛かった・・・心が・・・てか恥ずかしぃ~!
ど~やら誰にも見られてはいなかった様なので口封じの手間は省けました・・・転倒記念にパチリ!
今でこそデコボコ道ですが、昔はもっとなだらかな坂でした・・・
昔といっても大昔ではないですよ、ほんの数十年前の事です・・・
空前のハイキングブーム(笑)によるハイカーの足で削れてしまったと聞きますが、ホントなんでしょうか?
凄いなぁ・・・修行僧が拳法の鍛錬ですり減らしたという少林寺の床よりコッチのが断然凄いぞ!
ジェット・リーさん、ハイカーなめたらあかんぜよ!
【石のかまくら】という本の9ページ目に当時の仮粧坂のカラー写真がドーンと掲載されています・・・
ちょうどこの大きな岩から坂頂上部までを左の崖中腹から俯瞰気味に撮ったものですが・・・滑らかです!
あれなら難なく自転車で降りれるし登れます!
数年前、人間が地面を踏む時の圧力を電気に変えるシステムを利用して、どこぞの駅の自動改札の電力を補う実験をやっていましたが・・・大衆のエネルギーって本当に凄いですね! |
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左にカーブする所らへんから路面がご覧の様に!
ココはいつ来てもビチョビチョの様な気がしますが、ボコボコの道は終わりです・・・以前はこれくらいの滑らかさで頂上部まで繋がってた模様・・・
ハイカーが磨り減らした説を採るなら、ココもボコボコしててもいいと思うんですが?
石質が違うんでしょうか?、いやいや・・・
まぁ、深く考えるのはやめて置きます・・・ |
右にカーブして下ると『史跡 仮粧坂』と書かれた柱が建っています・・・
ココからは舗装路となり住宅地を下って行く事になります・・・
道の左側には仮粧坂の石碑があります・・・市内に80基以上あるこのタイプの史跡碑・・・
その中でもこの仮粧坂の石碑が一番好きです!・・・ペンキをぶち撒けた様な白いシミがカッコイイっす!
何ともいえない雰囲気を醸し出していますね・・・ |
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假粧坂
気生坂又ハ形勢坂ニ作ル 此名称ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ 其首ヲ仮粧シテ實瞼ニ備ヘシニ縁リ起ルト言ヒ 又 一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ縁り此名ヲ負フト相傳フルモ東鑑ニハ其名見エズ
此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ當リ 元弘三年(皇紀1993)五月 新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来度々戦場トナレル所ナリ 昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
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と刻まれています・・・確かに【吾妻鏡】に『仮粧坂』の文字は出て来ない様ですね・・・
前述の『気和飛坂山上』が初見になります・・・何でこの字を充てたんでしょう?
皆で和気あいあいと商店街で買い物した後、坂から飛んだんでしょうか?(笑)
ちなみに【太平記】には『粧坂』と記されています・・・
尚、【筋違橋】のページで書いた通り、文永2年(1265)3月5日にはココは商業地ではなくなっています! |
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更に坂を下って行くとT字路になっています・・・その角にあるのが景清土牢址です!
崩壊していて土牢と言われてもピンとこないのですが、悪七兵衛景清がこの土牢で絶食して果てたという言い伝えがあります・・・
上部にある石碑には『水鏡景清大居士』の文字が・・・景清については諸説あるのでまたの機会に・・・
以上が仮粧坂の現状です・・・
この坂が開鑿されたとか修復されたとの情報は【吾妻鏡】には記されておりません(自分が見た限りですが)
とゆー事は頼朝の鎌倉入り以前から、それなりな道であったとゆー事の裏付けにもなると思うのですが・・・
やはり山内の知家事兼通の解体された家は、ココから運ばれたんじゃなかろうか?
【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【假粧坂】
假粧坂は扇谷より西の方へ行く坂なり。往還の道なり。相傳ふ、 昔し平家の大将の首をけしやうして實瞼したる地なり。故に名く。或は云、古へ遊女の住居せし故に名くとも云ふと。『曾我物語』に、假粧坂の麓に曾我五郎時宗が通ひし遊女あり。梶原源太景季も亦、此女に通て歌など詠じけるとなん。時宗が歌もあり。
【東鑑】には假粧坂不見。
『太平記』に新田義貞、五十萬七千餘騎、假粧坂より寄するとあり。又、『鎌倉大草子』に、禅秀亂の時、持氏方より 氣生坂へは三浦相模の人々を差しむけらるとあり。此の時持氏、佐介が谷に居られたり。
新田義貞の鎌倉攻めについて記してますね・・・50万なんて通れないって!【太平記】って大袈裟!
上杉禅秀の乱は応永23年(1416)10月2日です・・・
鎌倉公方の足利持氏は劣勢で鎌倉を追われましたが、駿河守護今川範政と越後守護上杉房方の援軍もあり、翌正月に乱は終結します・・・持氏は同17日に鎌倉へ戻りました・・・
そんな持氏も永享の乱(1439)で幕府との戦いに敗れ、永安寺で自害しています・・・
幕府、鎌倉公方、関東管領入り乱れてグチャグチャです・・・
ちなみに永安寺址の石碑は瑞泉寺の近く個人宅にありますよ!
【曽我物語】が出て来ましたねぇ・・・曽我兄弟の仇討物語ですね・・・
『通ヒシ遊女』とは仮粧坂の少将の事でしょう・・・兄の曽我十郎祐成には大磯の虎(虎御前)という妾がいて、彼女はこの物語の成立に大きく関わっている様です・・・
さて、どーいった経緯で仇討に至ったのかとゆーと・・・
伊豆に伊藤祐親という人物がいました、蛭ヶ小島に流されて来た頼朝の監視役ですね・・・
頼朝は祐親の留守中にその娘(八重姫)とねんごろになり、子(千鶴丸)を儲けています・・・
この事実を知った祐親は当然怒り狂い、千鶴丸(3歳)に石を縛り付けて松川の稚児ヶ淵に投げ入れて殺させました・・・
千鶴丸の遺体は富戸の海岸に流れ着き、その時握っていた橘の枝は富戸の三嶋神社に根付いたと言われています・・・
怒りのおさまらない祐親は頼朝も殺そうとしますが、頼朝は伊豆山神社に逃げ込みました!
北条時政に匿われ難を逃れます・・・そして時政の留守中にまたまた娘(政子)とねんごろになります・・・
時政はこの縁を認めず政子を山木兼隆と結婚させようとしますが、政子はこれを良しとせず伊豆山神社に籠ります!
それを知った頼朝も駆けつけ、めでたく二人は結ばれました・・・
って事で伊豆山神社は縁結びの御利益があるとして有名なんですね・・・
しかし、可哀想なのは八重姫、時政の屋敷に行っても門前払い・・・
彼女は江間小四郎と結婚しましたが、頼朝の事が忘れられずに再び伊豆に戻り、身を投げて死んでいます!
韮山には頼朝と八重姫の銅像があります・・・
政子と結婚した時、頼朝には『亀の前』とゆー妾が既にいたと思うんですが?
その亀の前、鎌倉では飯島(逗子マリーナの辺でしょうか?)の伏見広綱邸に住していました・・・
政子が頼家を宿していた間も、頼朝は熱心に亀の前の所へ通っていました・・・
産後その事を知った政子は激怒し、牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱邸をぶっ壊しました!
それを知った頼朝も激怒し宗親の髷を切り落とす始末、挙句の果てに事の顛末を知った北条時政は、頼朝の宗親(時政の義理の父)に対する仕打ちに激怒して伊豆に帰ってしまう騒ぎに・・・
何て人間臭いんでしょう・・・頼朝って奴は・・・
そして、怒りのおさまらない政子によって伏見広綱は遠江へと流されました・・・政子怖ぇ・・・
と、話が脱線しましたが、前述の伊藤祐親は同族の工藤祐経と所領を巡りもめていました・・・
工藤祐経は静御前が舞を披露した時に鼓を打っていましたが音楽の才能もあったんでしょうか?
畠山重忠は銅拍子を担当・・・おっと、また話が脱線しそうです!、戻しましょう(笑)
祐経は祐親を暗殺しようと刺客を放ちますが、放った矢は祐親ではなく息子である河津三郎泰祐に当たり泰祐は死んでしまいます・・・ちなみにこの河津三郎泰祐は相撲技の河津掛けの発明者としても有名です!
で、この泰祐の息子が曽我十郎祐成と五郎時致なんです!
何故曽我姓なのかというと、母(満江御前)が曽我祐信と再婚したからです・・・
兄は元服後に家督を継ぎ、弟も箱根権現社(箱根神社)に稚児に出されていましたが、出家はせずに北条時政を頼り(時政前妻は祐親の娘)烏帽子親になってもらい元服します・・・
そして時は来ます・・・
建久4年(1193)頼朝が催した富士の巻狩りにおいて、曽我兄弟は酒で酔い潰れて寝ていた工藤祐経を叩き起こしてブチ殺し、見事父の仇をとったのでした・・・
兄十郎祐成はその場で斬られて死亡・・・
弟五郎時致は捕えられ、頼朝は部下にしようともしましたが祐経の遺児の願いで結局斬首されました・・・
祐経にトドメをさした短刀は、五郎時致が箱根権現社にいた頃に祐経自身が授けた赤木柄の短刀でした!
ちなみにこの曽我兄弟の墓は至る所にあります(笑)
この仇討事件は【吾妻鏡】にも見られ、5月8日の富士の巻狩りに始まり6月18日、大磯の虎が19歳で出家して信濃の善光寺へ赴く所まで記されています・・・
頼朝も討たれたとの誤報に狼狽する政子に対し、頼朝の弟の範頼が『自分がいるから心配ない』と諭します!
この一言が謀反の疑いありとされてしまい範頼は伊豆へ流されました・・・8月17日の事です・・・
15日に鶴岡八幡宮の放生会、16日に流鏑馬が行われた次の日でした・・・
【平家物語】では義経の追討を辞退したため頼朝に疑われ、しきりに弁明したが討たれたとしています!
範頼は修善寺で自害したとも言われ同地には墓もあります・・・
修善寺というと2代将軍頼家の悲劇の地ってイメージが強いですが、鎌倉が窮地の時も蹴鞠に耽っていた暗愚頼家よりも、範頼の方がよっぽど悲劇だと思います・・・
それに【曽我物語】の工藤祐経も敵役としてイメージが悪いですが、祐親の悪巧みで所領を奪われ、奥さんの万却は勝手に他に嫁がされ・・・と、ハッキリ言って被害者だと思うんですが?
【新編鎌倉志】に六本松という項目があります・・・
【六本松】
六本松は假粧坂の上に二本ある松なり。古へは六本ありつる歟。里人の云、駿河次郎清重、此處に立て鎌倉中を見おろしたりと。『上杉禪秀記』に、源ノ満隆の兵供、拾萬騎にて六本松に押し寄する。上杉禅正少弼氏定、扇が谷より出向て爰を先途と戦ひけりとあり。
仮粧坂の上に2本ある・・・昔は6本あったのだろうか?・・・って言ってますね・・・
松なんてあったかな?・・・今度見に行って見よう! |