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平景清なる人物をご存知でしょうか?・・・歌舞伎、謡曲、浄瑠璃・・・また浮世絵の題材などにもされる平安~鎌倉初期に活躍した人物です・・・
自分が子供の頃、源平討魔伝という激ムズアクションゲームがありまして、その主人公でもありました・・・
平家の剛の者が黄泉がえり、宿敵頼朝を倒すというゲームでした・・・
真っ赤な長髪に白塗りの顔・・・メッチャ怖い・・・でもパンチパーマだったらマクドナルドのキャラクター!(笑)
顔が怖いのもそうですが、当時は敵キャラの弁慶のデカさに衝撃を受けた記憶があります・・・

そんな彼ですが藤原秀郷の子孫で本名は藤原景清、伊藤景清とも言います・・・平家に仕える武士であり、都落ちに従った為、俗に平景清とも言われています・・・また上総介忠清の七男である事から上総七郎とも呼ばれています・・・
悪七兵衛とも・・・この時代の悪は強さそのものを表しますから勇猛な人物として通っていた事が窺えます・・・

景清は平家物語にも登場します・・・屋島の戦い・・・義経に脅された那須与一が気が進まぬながらも見事に船上の扇の的を射落とした有名なシーン・・・その直後の事です・・・

あまり感に堪へずと思しくて平家の方より年の齢五十ばかりなる男の黒革威の鎧着たるが白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひ締めたり、伊勢三郎義盛与一が後ろに歩ませ寄せて御諚であるぞこれをもまた仕れと云ひければ与一今度は中差取つて番ひよつ引いて舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す。
ああ射たりと云ふ人もあり嫌々情なしと云ふ者も多かりけり。平家の方には音もせず源氏の方にはまた箙を叩いて響めきけり。平家これを本意なしとや思ひけん、弓持つて一人楯突いて一人長刀持つて一人武者三人渚に上がり源氏此処を寄せよやとぞ招きける。判官安からぬ事なり馬強ならん若党共馳せ寄つて蹴散らせと宣へば武蔵国の住人美尾屋四郎、同藤七、同十郎、上野国の住人丹生四郎、信濃国の住人木曾中次、五騎連れて喚いて駆く、まづ楯の陰より塗箆に黒保呂矧いだる大の矢を持つて真先に進んだる美尾屋十郎が馬の左の鞅尽くしに弭の隠るるほどにぞ射籠うだる屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば主は弓手の脚を越え馬手の方へ下り立ちてやがて太刀をぞ抜いたりける。また楯の陰より長刀持つたる男一人うち振つて懸かりければ、美尾屋十郎小太刀大長刀に叶はじとや思ひけん、掻き伏いて逃げければやがて続いて追つ駆けたり長刀にて薙がんとするかと見るところにさはなくして長刀をば弓手の脇に掻い挟み、馬手の手を差し延べて美尾屋十郎が甲の錣を掴まうとす、掴まれじと逃ぐる、三度掴み外いて四度の度にむずと掴む暫しぞ堪つて見えし鉢付けの板よりふつと引き切つてぞ逃げたりける。
残り四騎は馬を惜しうで駆けず見物してぞ居たりける。美尾屋十郎は御方の馬の陰へ逃げ入つて息継ぎ居たり敵は追うて来ず白柄の長刀杖につき、甲の錣を高く差し上げ大音声を揚げて遠からん者は音にも聞け近からん者は目にも見給へこれこそ京童部の喚ぶなる
上総悪七兵衛景清よと名乗り捨ててぞ退きにける・・・
源平盛衰記 讃州八嶋合戦
源平盛衰記 讃州八嶋合戦(画:歌川国芳)
那須与一の弓の腕前に感極まって踊りだした平家方のオッサン・・・なんと与一はそのオッサンも射殺してしまいます・・・
平家方ドン引きです・・・何しとんねん!そりゃやり過ぎだろ!と平家方の武者3人が陸に揚がり源氏かかってこいや!
と挑発し、義経もこれに応じ5騎を出します・・・
源氏方の美尾屋十郎は馬を射られ小太刀で応戦しようとしますが、長刀相手では分が悪いと逃げます・・・
後ろから長刀を持った武者が迫ります!・・・そして十郎の兜の錣(しころ)を素手で掴んで引きちぎった!

これがかの有名な『錣引き』ってヤツです!
兜 猫
錣ってのは兜のヒラヒラした部分の事です・・・写真は腰越の満福寺に陳列してあった源氏方の兜です・・・
同じく満福寺の看板猫が凄い体勢で寝てたのでパチリ!・・・腰痛くなんないのかなぁ?

まぁ、そんなこんなで引きちぎった錣を高く掲げて名乗りを挙げた人物が景清です!

その後の壇ノ浦でも生き延びて頼朝の暗殺を企てる事に・・・景清には忠光という兄がいました・・・
ちなみに上の源平盛衰記 讃州八嶋合戦の絵の中にもちゃっかり描かれています!
一番左の長刀を持っている人物が忠光です!
景清と共に名前が挙がる場面も多かったので、壇ノ浦までは一緒に戦ったのではないかと思います・・・
その後は別々に落ち延びて・・・この忠光も頼朝暗殺を企てます・・・以下は【吾妻鏡】の記述です!

建久3年(1192)1月21日 甲午
新造の御堂の地に渡御す。犯土の間、土石を運ぶ疋夫等の中に左眼盲の男有り。幕下これを覧怪しまれ、彼は何国の誰人より進するやの由尋ね仰せらる。仍って景時これを相尋ぬると雖も分明ならず。御前に召し寄せらる。佐貫の四郎大夫御旨を伺い、面縛するの処、懐中に一尺余りの打刀を帯す。殆ど寒氷の如し。またその盲を覧れば、魚鱗を以て眼の上を覆う。仍っていよいよ害心有る者と知ろし食すの間、これを推問せらる。名謁り申して云く、上総の五郎兵衛の尉なり。幕下を度り奉らんが為に数日鎌倉中を経廻すと。即ち義盛に下し賜り、同意の輩を召し尋ねらるべきの旨これを仰せ含めらると云々。

永福寺の造営工事に紛れ込んで暗殺の機会を窺っていた様ですね・・・
しかし、その容貌を頼朝が怪しみ(五体満足でない人足を御家人が差し出す訳がない!)問い質した所、懐に30cmほどの刀を隠していた・・・また左目も魚の鱗を被せて盲を装っていた・・・


何でこんな目立つ変装したんでしょうか?・・・謎です・・・意味わかりません・・・怪しまれるに決まってるじゃんか!

同年2月24日 丁卯
武蔵の国六連の海辺に於いて、囚人上総の五郎兵衛の尉忠光を梟首す。義盛これを奉行す。日来漿水を断つと。
推問するの間、申して云く、更に同類無し。但し越中の次郎兵衛の尉盛継去年の比丹波の国に隠居す。
彼同じく会稽の志を存ずるか。当時に於いては在所を知り難し。曽って一所を定めずと云々。

結局六浦の浜辺で晒し首となります・・・何がしたかったんでしょうか?・・・謎です・・・意味わかりません(笑)
死亡時期も様々です・・・【平家物語】ではこの何年か後にも登場します・・・まぁ【平家物語】自体も色々ありますから、実際いつ死んだのかは分かりませんね・・・ここは公式記録の【吾妻鏡】を信じるべきでしょうか・・・

一方弟の景清は、建久6年(1195)、頼朝が東大寺大仏殿の落慶法要に参列する情報を得て、これはチャンスとばかりに転害門に隠れて頼朝を待ち伏せ!・・・しかし頼朝が到着する前に怪しい奴として捕縛されます・・・

この兄弟はホント詰めが甘いッスネ(笑)
東大寺大仏供養
東大寺大仏供養 悪七兵衛景清(画:月岡芳年)
三枚続きの錦絵です・・・景清カッコイイですねぇ・・・でもコレじゃぁ見つかるでしょ!もっと地味に隠れなきゃ!(笑)
錣引きの時といい、景清は長刀が好きみたいですねぇ・・・

捕えられた後、すぐに処刑される事はなく鎌倉に移送され、脳ミソ筋肉和田義盛に預けられます・・・しかしだてに悪七兵衛とは呼ばれてません・・・景清は義盛邸の庭で馬を乗り回し、酒を飲んでは大暴れ・・・豪快すぎます!
さすがに困り果てた義盛は、頼朝に願い出て八田知家に預かり役を代わってもらいます・・・

八田知家は景清の主を思う気持ちに武士の誇りを感じていたので、大切な客人をもてなす様に景清に接しました・・・
するとあんなに好き放題やっていた景清もおとなしくなり、やがて洞窟に籠る様になります・・・食事には一切手を付けず、終にはそこで死んでしまいます・・・何となく景清の気持ち分かります・・・

その景清が果てたと伝わる洞窟ですが景清土牢、景清窟などと呼ばれています・・・
場所は鎌倉市扇ガ谷にあり、仮粧坂に向かう道の途中にあります・・・ 
景清土牢1 景清土牢2
道路の拡張で削り取られ土牢と言われてもピンときません・・・また案内板もないので事前情報の無い人にとっては訳の分からない物件でしょう・・・
白い案内板が2つもあるじゃないか!・・・と思われるかもしれませんが、あれは銭洗弁財天と近所の店の物です・・・
景清土牢3 『水鑑景清大居士』と刻まれた文字だけが悪七兵衛との関わりを匂わせます・・・
景清は有名人なだけに、様々な伝説や逸話などが多く伝わっています・・・ココで果てたという話もその中のひとつという事です・・・

もうひとつ別の話をしたいと思います!
景清がココで死なないパターンの話です・・・
牢から逃げ出したって話もありますけど(笑) 
頼朝は景清の武勇に惚れ込み家来にしようと考えます・・・しかし景清は頼朝の前に引き出されると頑なにそれを拒みました・・・『源氏の世など見たくないわ!』と言って自分の両目をえぐり出して投げつけたという話もありますが、とにかく日向匂当(こうとう)として宮崎県に流される事を望みます・・・

日向の地に住み着いた景清は深く神仏に帰依する様になりました・・・煩悩を捨て去り静かに暮らしたいと考えていましたが、目に見えるのは源氏の世・・・実に37回も頼朝暗殺を企てた景清(笑)、やはり心乱されます!
この目があるからいかんのじゃ!景清は両目をえぐり出して虚空に投げつけました!
目は生目の地に留まり、現在の生目神社はこの景清の両目を祀っていると言われています・・・目の神様です!

その後もみすぼらしい(慎ましい)生活を送り、建保2年(1214)8月15日に霧島山参詣の帰路、池の畔で病死・・・
享年62才・・・遺体は下北方町に埋められ、現在そこには景清廟があります・・・鎌倉の土牢とは違い、立派な廟所になっています・・・

さてさて景清には尾張熱田の阿古屋なる遊女との間にもうけた人丸という娘がいました・・・女ではロクに役に立つまいとのことで、鎌倉の亀が江が谷(亀ヶ谷)の長者の家に預けていました・・・
この人丸が父である景清を慕って日向(宮崎)の地まで会いに行く話があります・・・以下謡曲【景清】より、

父を慕った人丸は、一人の供を従えて鎌倉を出発しました・・・長い旅路の末やっとこさ日向の地に辿り着きます・・・
そのころ景清はボロボロの庵の中、門を閉ざし一人住していました・・・盲人であり、見る陰もない姿・・・体も痩せて骨ばかりというあり様でした・・・
『世を捨てた身であるから出家入道の姿をしているはずであるのに墨染の衣も着ていない・・・俗体のままで零落し、自分ですらあさましく感じるくらいだから、人が嫌がるのも至極当然である。』などと呟いていました・・・

日向に着いた人丸主従・・・辺りを尋ね回っていた所、古びた草の庵の中から、何かを呟く人の声が聞こえてくるではありませんか・・・物乞いでも住んでいるのだろうか?・・・などと思いつつ尋ねてみました・・・

『この辺りに平家の侍で悪七兵衛景清という流人がいるはずなのですが、その人の居場所を御存じありませんか?』
景清はその声が自分の娘人丸である事に気付きながらも、

『そんな人がいるとは聞いておりますが、私はこの通り盲目ですから見知りません・・・人の噂によると、その人はいかにもあさましい様子でいられると聞いております・・・お気の毒な事ですが詳しいことはよそでお尋ねなさい。』
人丸が立ち去った後、景清は声を聞くだけで、娘の面影をも見る事のできない己の不遇を嘆きました・・・

一方景清の元を離れた人丸は、道で土地の人に出会います・・・その人が言うには、先程人丸が尋ねたみすぼらしい老人こそが父の景清であるとの事・・・景清が盲人となった事、髪をおろして自分から日向の勾当と名乗っている事、旅人や土地の人達に物乞いをし何とか生きている事などもその人は語ってくれました・・・
その人の案内で人丸は再び景清の元へと引き返しました・・・その人が景清に声を掛けます!

『先程あなたを訪ねた人はありませんか?』
景清は静かに答えました
『あなたの他に誰も訪ねた人はいませんよ・・・』

『何故その様な嘘をつくのです・・・あなたの娘さんがあまりにお気の毒なので、連れて来ましたよ!』

その人は、人丸を招き入れます・・・人丸は父景清に抱きつくと泣き崩れました・・・

『この物乞いが父であると名乗ったら、花の姿のお前の恥になると思い親子の名乗りもしなかったのだ・・・恨みに思ってくれるな・・・』
ステラって映画がありました・・・どーしょうもなくだらしない母親とその娘の話です・・・
ラスト、教会での結婚式のシーン・・・親の愛の深さを思い知らされるいい映画でした・・・
シチュエーションは違いますが景清と人丸の再会シーンと何か通ずる物を感じました・・・

『昔は権勢に誇る気持ちがあり、それほど親しくない人でも訪ねて来ないと悪く思ったものだ・・・それがどうだろう、今では自分の娘にさえ顔を会わせまいとする・・・何と悲しい事か・・・』 
景清と人丸 何はともあれ2人は無事親子の再会を果たしました!
左の画像は歌川国芳による景清人丸親子の再開シーンであります・・・人丸エビ反りですね(笑)

この後、景清は自分の屋島での武勇伝(錣ひきの場面)を人丸に聞かせます・・・そして、
『昔忘れぬ物語、衰へ果てて心さへ、乱れけるぞや恥かしや、この世はとても幾程の、命のつらさ末近し、早立ち帰り亡き跡を、弔ひ給へ盲目の、暗き所の燈火、悪しき道橋と頼むべし』と歌います・・・

昔を思い出しての物語、恥ずかしながら身の衰えに心も乱れました・・・自分の余生はいくばくもない・・・人丸には早く鎌倉に帰り、自分の亡き後を弔って欲しい・・・それを自分は瞑土で待ちましょう・・・

てな感じでこの歌を形見に人丸は涙ながらに景清と別れ鎌倉に帰るのでした・・・

宮崎の伝説では人丸は宮崎に残り27才の若さで景清より先に亡くなったという話・・・先の景清廟には人丸の墓もあり共に祀られています・・・でも鎌倉で紹介したい場所が有るので、今回は鎌倉に帰った方の話を採用します(笑)
鎌倉に帰った後、父の死を聞き及びその菩提を弔う為に人丸は尼となります・・・向陽庵という寺を建て、父の形見の観音像を置いて供養の日々を送ったそうです・・・この向陽庵ですが、【鎌倉廃寺事典】で調べてみました!
向陽庵石碑
(禅宗)扇ヶ谷、海蔵寺持、梅谷山向陽庵、扇ヶ谷景清土牢の近くに石碑あり。
そーいえば景清土牢のトコに何かビッシリと文字が彫られた石碑があったなぁ・・・文章長いし下の方は腰が痛くなるから読むの諦めたアレ(笑)

確かに向陽庵の文字が見て取れます・・・
つーか海蔵寺持ちって塔頭って事なんでしょうか?
海蔵寺門前北側にあった真光院という寺との関わりも気になりますね・・・ 
詳しくは【市史社寺編】も読んで見ないと分かりません・・・でも取り敢えず景清、人丸、亀ヶ谷、土牢、向陽庵・・・
と、確かな繋がりを確認出来ました・・・景清が人丸により供養された証拠ともいえます!

と、鎌倉で見せたい物とはこの石碑の事ではなくて・・・ 
人丸墓1 場所は大町の安養院へ移ります・・・境内の片隅に何か建ってますね・・・何なんでしょうか?

実はコレ、人丸の墓だと言われています・・・
何で安養院にあるんでしょうか?・・・その経緯は分かりませんが・・・とにかく人丸の墓だと言われています・・・

多分元々は扇ヶ谷にあったんでしょうかね・・・
それはいいとして何の説明もありません(笑)
それなりの謂れがある物が放置されている・・・現状鎌倉には沢山あります・・・メンド臭いんですかね?
人丸墓2 先日オオムラサキの様子をチェックしに久し振りに安養院へ行って見たら・・・人丸の墓が綺麗になってました・・・
なんと五輪塔追加(笑)・・・でも以前の方が雰囲気あって良かった様な気もします・・・どっちが好みですか?

相変わらず何の説明もありません・・・
まぁ実際、人丸と聞いてピンと来る人は相当な歴史マニアですよ・・・景清はご存知の方も多いと思いますが・・・
人丸はねぇ・・・ちょっとマニアック過ぎますよね・・・
知った所でどーかなる事でもありませんけど・・・ちょっとしたウンチクくらいにはなりますかね・・・
へぇ~・・・みたいな(笑)・・・でも、まず人丸の説明からしなきゃならなさそうだしメンド臭そうですね・・・

景清の伝説の地はいたる所にあります・・・それぞれが矛盾に満ちていますが、無理やり歴史と照合して見るのも楽しいかもしれませんね・・・ちょっと【新編鎌倉志】の景清土牢の説明を見てみましょう!

【景清籠】
景清籠は扇谷より假粧坂へ登る道の端、左に大巌窟あり。惡七兵衛景清が籠也。或人の云、景清は鎌倉へ不下、可下との支度の為に作りたるならんと。今按ずるに、【長門本平家物語】に建久六年三月十三日、大佛供養あり(于頼朝在京)。上総の惡七兵景清、鎌倉殿へ降人に参ければ、和田左衛門の尉義盛に預らる。昔し平家に候ぜし樣に、少しも口へらず。義盛に所をも不置、一座をせめて盃先に取り、或は縁のきはに馬引寄のりなどしければ、もてあつかひて、他人に預けさせ給へと申しければ、八田右衛門の尉知家に預けらる。後には大佛供奉の日を數へて、同く七年三月七日にて有けるに、湯水を止めて終に死にけるとあり。
【東鑑】に頼朝卿、建久六年二月十四日、御上洛有て、同年七月八日、鎌倉に著御とあり。時に義盛・知家も供奉す。しかれば景清が死去、建久七年とあれば、鎌倉にて死たる事明かなり。且景清が女を、龜谷の長に預けしと云傳ふ。其の塚今、巽荒神の後にあり。彼是れ考ふるに此籠にて死たる歟。

以外と詳しく記されていてビックリしました・・・人丸の墓(塚)にも触れていますね・・・巽荒神の後ろにあったと!
へぇ~・・・巽荒神ってのは扇ガ谷にある巽神社の事です・・・その歴史は古く、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷に向かう途中、葛原岡に勧請したのが始まりと言われています・・・田村麻呂懐かしい(笑)
永承4年(1049)源頼義が社殿を改築・・・その後、年代は不詳らしいですが現在地へと移された様です・・・
寿福寺の鎮守神として崇敬されていました・・・その寿福寺から見て辰巳(南東)の方角にあるので巽荒神と称されたと神社の案内板にありました・・・テキトーに名前付けられてんなぁ(笑)

しかし・・・神社の後ろって言われても・・・現在は家しかありません・・・人丸塚ってどんな物だったんでしょうか?
気になります・・・でもこの分なら紹介されているかもしれませんね・・・う~ん、ありました!次の第5巻に!

【人丸塚】
人丸塚は巽の荒神の東の方、畠の中にあり。惡七兵衛景清が女め、人丸と云いし者の墓也と云傳ふ。景清が女を亀谷の長に預けしとなり。此の邊、亀が谷の内なり。景清が籠の下と照らし見るべし。

う~ん・・・目新しい説明ではありませんけど畠の中にあったらしいですね・・・つ~事は現在はもう宅地造成されてますから遺構は見る事はできませんね・・・残念・・・
人丸塚 絵地図で我慢しましょう・・・見渡す限りの畠です(笑)
地図が南北逆になっていますが・・・
巽荒神の東の方に確かにあります・・・人丸塚!
結構大きかったんですかね?・・・塚の上になんでしょう、松でしょうか?・・・が植えられていた様子です!
絵地図だと良くも悪くも想像が膨らみますねぇ・・・
江戸時代には観光スポットのひとつだった事でしょうね・・・
景清人気凄かっただろうし・・・
今でいう所の聖地巡礼ってヤツですね!
近松門左衛門の人形浄瑠璃を見たヲタクな方達が景清に縁のある地を巡った事でしょう(笑)
土牢の前で景清フィギュアも売っていたかもしれませんね・・・

ここまで調べたんですからついでに【鎌倉攬勝考】も見て置きましょうか!

【人丸塚】
巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衛景清が娘、人丸姫といふものの塚なりといふは、【平家物語】に、景清が女を、亀ヶ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姫が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廃せり。夫ゆへ後に、景清が女の塚と唱へ誤れる由。

ななななな、なんと・・・最後に余計な事を知ってしまいました・・・全てがいい感じで繋がりを持っていたのに・・・
ココに来て人丸塚全否定!・・・マジすか?(笑)・・・どーなってんの?
もったいぶって写真2枚も使って紹介した自分の立場は?歌塚って何だよ?宗尊親王余計な事を・・・
メッチャ恥ずかしいやんか自分!(笑)
もぉーいいや・・・今回はこれ位にして置きましょう・・・急に疲れて来ました(笑)

最後に、松尾芭蕉が詠んだ一句を・・・『景清も 花見の座には 七兵衛』

『悪』が取れてます・・・ほのぼのとしていいですね・・・美しい桜を純粋に楽しんでいる景清の姿が目に浮かびます!

おしまい
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