鎌倉には源頼朝が建てた三大寺院という物がありまして、鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、そしてこの永福寺がそれであります!・・・源氏の氏神を祀った鶴岡八幡宮、亡き父義朝の菩提を弔う為に建立した勝長寿院・・・
頼朝は藤原泰衡を脅し源義経を攻めさせ、義経が自害すると、今度は勅命を待たずに奥州藤原氏の討伐軍を起こしました・・奥州藤原氏は阿津賀志山の戦いなどでことごとく敗北し、平泉に火を放ち、その栄華は灰燼に帰しました・・・
いわゆる奥州合戦です!
この時に見た中尊寺二階大堂(大長寿院)や毛越寺などに心を奪われた頼朝は、鎌倉にもこれらを模倣した寺を建てようと決意します!・・・そして建てられたのが永福寺であります!
二階建てだったので二階堂とも呼ばれ、現在もそれは地名として残っています!
この永福寺跡ですが、史跡碑があるだけで一面ススキだらけの湿地帯だった場所が、数年前から史跡公園にする為の工事が始まって綺麗に生まれ変わろうとしています! |
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取り敢えず例の史跡碑を見てみましょう!
永福寺世ニ二階堂ト稱ス 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ 文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス 輪奐壮嚴洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ
享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス
大正九年三月建之 鎌倉町青年會
内容を分かり易く現代語風にすると、 |
当時永福寺は二階堂と呼ばれていました・・・現在この辺りの地名が二階堂なのはこれに起因します・・・
文治5年(1189)、頼朝が奥州より凱旋すると、奥州で見た大長壽院の二階堂を模して永福寺を建てました・・・
その建物の立派な事は、荘厳無双の大伽藍であったと伝わります・・・享徳年間(1452~1455)に関東管領が歿落する頃より後、全く廃れてしまいました・・・
てな感じです・・・永福寺の絵図等は残っていないので想像するしかありません!(笑) |
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石碑側の入口には色々と貼ってあります・・・案内板もあります! |
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自分が生まれる何年も前に国指定史跡となり、鎌倉市は現在もちょっとずつ土地の買収を続けています!
自分が生きてる間に大きな動きはないだろうと思っていたので、急ピッチで工事が進められたのにはビックリしました!
ココも世界遺産登録候補地になっていましたからね・・・それも関係していると思います・・・
永福寺と勝長寿院が当時のままで現存していれば鎌倉の世界遺産登録も確実だったんじゃないでしょうか? |
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御覧の通り、史跡指定範囲(86.000㎡)にはテニスコートや戦後のドサクサに紛れて住み着いた民家もあります・・・
全てを買収するのは難しそうですね・・・
経塚からは一抱えほどもあるツボが出土し中には経典やら何やらイロイロと入っていたそうです!
中世のタイムカプセルなんてロマンがありますね!
どーでもいいんですけど、鎌倉宮と瑞泉寺にトイレありますよってアピールしてますが、将来的にもこの史跡公園内にトイレは造らないつもりなんでしょうか?・・・流石にそれはないか? |
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以前の状態を知っている方なら、この激変振りを分かって頂けると思います・・・こんなんなっちゃいました!
遊歩道が出来ています・・・つっても工事はまだまだ終わってないんですけどね・・・
最終的には池を造るらしいです・・・現在は土を被せてるので水は地表まで出て来ませんが、発掘当時はポンプで排水しながらの作業だった様で、何もしないと1日で50~60cmほどの水が溜まってしまうそうです!
だもんで土を掘り返せば池は労せずに出来るんだってさ・・・以前の見学会の時に担当の方が説明してくれました! |
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園内のベンチは老人ハイカー集団に全て占拠されていました・・・くそぉ~座れねぇじゃんか!
逗子からボロ自転車で山越えてきた自分の方が絶対疲れてるってのに・・・
どーせ獅子舞から天園ハイキングコースに入って建長寺に降りてJR北鎌倉駅から電車で帰るんでしょ?
サッサと逝きなよぉ~・・・もとい、行きなよぉ~(笑)
お弁当を広げだす輩もいます・・・上空にはトンビが旋回しています・・・鎌倉でそれは危険ですよ!
案の定ジイさんが襲われてました・・・Ziplocコンテナーがひっくり返されて地面におかずが散乱(笑)
皆さんも鎌倉ではトンビに気を付けて下さいね!・・・海岸だけじゃなく、この様な内陸部でも注意が必要です! |
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こんもりとした塚の様な物がありますが、これは当時池の南側にあった中島らしいです!
出土した岩などは保護の為にそのまま埋め戻されているそうです・・・
あの頂点で寝転がって腰を伸ばしたら凄い気持ちよさそうです!
池を復元するといってましたがココは果たしてどーするんでしょうか? |
ベンチも設置してありますし、池の南側はこのままで完成なんですかねぇ? |
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張り巡らされたロープには発掘当時の写真がぶら下がっていました・・・ |
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新しい案内板がありますが内容は先程の物とほぼ同じです・・・最後の一文が、
『今後は史跡公園としての整備も進めて行く予定です。』から『現在史跡公園として整備事業を進めています。』
に変更されただけです・・・そして英語、中国語、韓国語表記が追加!
これ必要かなぁ・・・どーせ作るならもっと内容を濃くしていただきたい・・・古い方は撤去するのかな?
CGによる復元図は湘南工科大学による物だそうですが、何か完成度が低い様な?
いつ頃制作されたのかは知りませんけど・・・手ぇ抜いたなぁ・・・最近の子供はこれくらいのCGでは感動しませんよ!
これじゃぁPS2レベルです・・・もうすぐPS4も発売されるってのに(笑) |
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現在はロープが張られていて三堂(二階堂、阿弥陀堂、薬師堂)が建っていた所には近付けません! |
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三堂基壇は完成している様子でした・・・今後は堂裏の水路等が復元されるんでしょうか?
鎌倉時代の礎石はそのまま土の中に残し、現在見えている石は本物を模倣した物だそうです!
枠材にコンクリートではなく木が使われているのは中々いいと思いました!
あ、そーそー、建物は復元しないそうです!・・・説明会の時に担当職員に聞いたんですが、史料がないので作れませんといってました・・・そりゃそーだ、納得(笑)
それにもし、テキトーに建てた後に史料が発見されたりして本物と全然違ったらアホですもんね!
橋も完全復元はしないそうです・・・
考えたんですけど、ココは日帰り入浴施設にしたら意外と客が入るんではなかろうか?
二階堂は受付ラウンジ、阿弥陀堂は男湯、薬師堂は女湯・・・そして2階部分はレストランと休憩所!
ハイカー集団は吸い込まれる様にココで汗と汚れを洗い流すんではないでしょうか?
隣りのテニスクラブからの客も見込めますね・・・最終的には池全体を露天風呂に(笑)
鎌倉の始まりともいえる大蔵幕府跡に平気で小学校を建てちゃう様なアバウトな市ですから、もう何やっても許されるんではないでしょうか?
『頼朝の隠し湯~スーパー日帰り温泉永福寺~ 入湯料¥500』・・・結構繁盛すると思うんだけどなぁ(笑) |
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奥へと進んで行きます・・・山の斜面に行きあたった所で綺麗な遊歩道は終了です・・・ その先は分岐になっていて、真っ直ぐ進めば鎌倉宮カントリーテニスクラブの横を通り二階堂大路へ出れます・・・ |
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右へ曲がり急な階段を上れば確か覚園寺から天園ハイキングコースへと繋がる道に出れたと思います・・・
何年も前の話ですが、かなり荒れた道だったと記憶しています・・・草ボボボーボボーボボ状態で!
天園方面から覚園寺へ下って来て、怪しい獣道に入り、ただの湿地帯だった永福寺跡に降り立った瞬間にマムシに噛まれたので良く記憶に残っています!
噛まれたといってもジーンズ履いてたので助かりました! |
ジーンズの裾に噛み付いてるマムシを引っぺがし、ムチの様に地面に3回思いっきり叩きつけてポイしました(笑)
夏場の山歩きは暑くても長ズボン推奨です!
まぁ、普通にコース上を歩いている限りは噛まれる前にヘビに気付くと思いますが・・・
草刈もする予定らしいですし、今後はどんどん整備されて行く事でしょう!
分岐の先で2人の老人ハイカーが並んで用を足していました・・・マジかよっ!・・・国の史跡だぞ!
奥津城やぐらの野グソもお前らの仕業じゃねぇーだろうな!?(北条首やぐら参照)
そんなに緩いなら外出時はアテントしとけってーの!
何だか老人ハイカーと徘徊老人の違いが分からなくなりそうです・・・鎌倉に来る老人はホントにマナー悪い!
老人がマナーが悪いといっていますが、自分が行く所に老人しかいないってのが真実なんでしょうか?
若者が好きそうな所へ行けば、若者のマナーの悪さも目に付くのかも知れません・・・
でもさすがに小町通りで野グソはしないだろうなぁ・・・逆にその勇気を讃えてしまいます(笑) |
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右に曲がって階段を上って行きます! |
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するとすぐに草刈No.8と書かれた札が立っている小さな平場に出ました・・・ココもその内に綺麗になるんでしょう・・・
そして平場の北側には結構前に建てられたと思しき案内板があります! |
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京都から招いた庭師とは静玄(阿波阿闇梨静空の弟子)の事ですね・・・頼朝は庭石の配置等を相談した様です!
この一番古いと思われる案内板が一番内容が濃いですね・・・ |
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平場の奥には小さな祠があります・・・中には狐の置物がありますが稲荷明神なんでしょうか?
そしてココからは三堂基壇が見下ろせます!・・・基礎の全体図が把握できますので、かつての永福寺がどの様な物であったのか想像し易くなります!
とまぁ、現在の永福寺跡はこんな感じです・・・鎌倉市は将来的には池を頼朝の時代の大きさまで拡大し、出土品の展示施設を建てる構想を持っている様ですが、これは自分が生きている内に実現される可能性は薄そうな気がします・・・
さて、暇なので永福寺が完成するまでの流れを【吾妻鏡】を参照しながら追ってみましょうか!
文治5年(1189)12月9日 甲午
此間御厩(十五箇間)を建てらる。奥州駒の中上馬三十疋を撰ばれ、始めてこれを立て置かる。景時別当たるべきの由これを奉ると。今日永福寺の事始めなり。奥州に於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか。梢雲天の極を挟み、碧落中丹の謝より起こる。
揚金荊玉の餝、紺殿剰え後素の図に加う。その濫觴を謂うに、由緒無きに非ずと。また伊豆の国願成就院の北畔に、二品の御宿館を構えられんが為、犯土するに忽ち古額を掘り出す。その文願成就院と。星序の運転、遠近量り難しと雖も、露点の鮮妍、蹤跡猶消えること無し。凡そ件の寺は、泰衡征伐の御祈りに依って、北條殿これを草創す。
群党の逆乱速やかに白刃に伏し、両国の静謐併しながら丹祈の如し。寺号また御心願の催す所に任せ、兼ねて撰定せらるるの処、重ねて今一字の依違無く、自然の嘉瑞有り。則ち修餝を加え、当寺の額に用いらるべしと。
誠にこれ希代の厳重、濁世の規模、何事かこれに如かず。始めを以て後を察し、古を引き今を思えば、仏閣の不朽・武家の繁栄、この額の字に違うべからざるものか。
奥州合戦の時に見た二階大堂を真似て、永福寺を建立する事を決めます!
また、伊豆国の願成就院の北側に頼朝の別荘を建てようと土を掘り返したら、古い扁額が出て来た様です・・・
それには『願成就院』と書かれていました!・・・この寺は、泰衡征伐の祈願に北條時政が建立した物で、この寺で祈願した通りに速やかに奥州平定も成りましたとさ・・・
しかし、不思議な事もあるもんですね・・・建てた寺と同じ名前の扁額が出土しただなんて!
めでたいし珍しいので、額をキレイに修理して使ったそうです!
額の字が同じだった事を仏閣の不朽、武士の繁栄に結び付けていますね!
でもちょっと待って下さいよ!・・・以前その場所に建っていた寺の寺号なんて当時なら簡単に分かったんじゃないか?
捏造だべや!(笑)
建久2年(1191)2月15日 甲午 風烈し
鶴岡若宮の臨時祭、流鏑馬以下例の如し。今日経供養(法華三部)を始行せらる。導師は安楽房重慶(当宮供僧の一和尚)。御布施、導師は裹物二つ、安房判官代これを取る。請僧は口別に帖絹二疋と。晩に及び幕下大倉山の辺を歴覧し給う。精舎を建立せんが為、その霊地を得給うが故なり。これ去々年奥州を征し給うの時、合戦無為の後、鎌倉中に伽藍を草創すべきの由御立願有り。而るに彼の年暮れをはんぬ。
去年は奥州騒動・国土飢饉並びに御上洛等計会す。これに依って営作無し。今に於いては郡国悉く静謐し、民庶皆豊稔の間、漸くその沙汰有り。善信・行政・俊兼等これを奉行可しと。
臨時祭って何でしょうね?・・・2月15日だし涅槃会(釈迦の命日)ですかね?・・・八幡様も当時は寺でしたし・・・
夜になって頼朝は永福寺建立の土地を物色する為に大倉山辺りを見て回った様です!
去年は奥州で騒動(大河次郎兼任の乱)があり、飢饉があり、京へ上がったりと建築の暇がなかったんだって!
今年は余裕があるのでやるそうです!・・・担当は三善善信、藤原行政、筑後權守俊兼!
藤原行政は先月の15日に政所次官の令に任命されています・・・別当の大江広元に次ぐ役職です!
後に別当が複数制になると別当となりました・・・エリート文官さんです!
彼は永福寺(二階堂)近くに住んだ事から二階堂を名乗る様になります!
つまり世に蔓延る二階堂氏の祖であります!(笑)・・・居そーで居ない名前ですよね?
自分は今までの人生で出会った事ないです・・・
建久3年(1192)1月21日 甲午
新造の御堂の地に渡御す。犯土の間、土石を運ぶ疋夫等の中に左眼盲の男有り。幕下覧てこれを怪しまれ、彼は何国の誰人より進するやの由尋ね仰せらる。仍って景時これを相尋ぬると雖も分明ならず。御前に召し寄せらる。
佐貫の四郎大夫御旨を伺い、面縛するの処、懐中に一尺余りの打刀を帯す。殆ど寒氷の如し。またその盲を覧れば、魚鱗を以て眼の上を覆う。仍っていよいよ害心有る者と知ろし食すの間、これを推問せらる。名謁り申して云く、上総の五郎兵衛の尉なり。幕下を度り奉らんが為に数日鎌倉中を経廻すと。即ち義盛に下し賜り、同意の輩を召し尋ねらるべきの旨これを仰せ含めらると云々。
頼朝暗殺を企てて永福寺造営の人足に紛れていた上総五郎兵衛尉平忠光が、あまりにも怪しい風体だったので捕まりました・・・この人物は悪七兵衛景清の兄です!・・・その後、忠光は六浦で首を切られました!
同年8月24日 甲子
二階堂の地に始めて池を掘被る。地形本より水木相応の所なり。近国の御家人に仰せ て各々三人の疋夫を召すと。 将軍家監臨し給う。御帰りの時に及び行政が家に入御す。 義澄已下宿老の類一種一瓶を持参すと。
本日初めて池を掘らせた様です・・・鎌倉近辺の御家人達にそれぞれ3人の人足を出させたそうです!
頼朝が現場を監督し、帰りは藤原行政の家に寄り、三浦義澄らが酒と肴を一品ずつ持ち寄ったみたいです!
いいなぁ・・・何だか楽しそうですね(笑)
同年8月27日 丁卯
将軍家二階堂に渡御す。阿波の阿闍梨静空の弟子僧静玄を召し、堂前池の立石の事を仰せ合わさるると。
厳石数十果、所々よりこれを召し寄せらる。積みて高岡と成すと。
案内板にも記述があった静玄の登場です!・・・頼朝は池の立石について相談している様子です!
同年9月11日 庚辰
静玄堂前池に石を立つ。将軍家昨日より行政が家に御逗留。この事を覧玉わんが為なり。汀野の埋め石・金沼・汀野の筋・鴉會石・嶋等石、悉く以て今日これを立て終わる。玉沼石並びに形石等は一丈ばかりなり。静玄が訓を以て、畠山の次郎重忠一人これを捧げ持ち、池の中心に渡り行きこれを立て置く。観る者その力を感不はと莫しと云々。
静玄が堂前の池に石を建てます!・・・頼朝はこれを見る為に前日から藤原行政の屋敷に泊まり込みです!(笑)
多くの石が本日中に立て終えられました・・・
静玄の指示通りに、畠山次郎重忠が1丈もある石を1人で抱え持ち、池の真ん中まで運び、これを立てました!
見ていた人達は重忠の怪力に度肝を抜かれた様です!
いわゆる大宝律令の尺で計算すると約3mの石になりますけど・・・スゲーなぁ(笑)
この話は結構有名ですよね・・・そしてこの重忠の立石ですが・・・現存します!
永福寺跡近辺の民家の庭石として!・・・3mもないです!130cmくらいだそうです!
頑張れば自分でも何とか持てそうな感じでした(笑)
【吾妻鏡】にも明記されていますし、永福寺を語る上で結構重要な石だと思うんですけど、史跡公園完成の暁には鎌倉市に返還されるんでしょうか?
畠山重忠は清廉潔白、文武両道、坂東武士の鏡といわれた人物です!
怪力の話は他にもあります・・・【古今著聞集 第十巻 相撲強力】では頼朝の命で当時最強の相撲レスラー長居と相撲を取る話がありますが、重忠は長居の肩の骨を折り、失神させています!
凄いけど、重忠は多分相撲取ってないですよね!(笑)
同年10月25日 甲子 二階堂に惣門を立てらると。
惣門が建ちました!
同年10月29日 戊辰
永福寺の扉並びに佛の後壁の画図功を終う。修理少進季長これを画く。これ秀衡建立の圓隆寺を模せられ、画図に至るまで、一事已上彼の如しと。
永福寺の扉と仏壇の後ろの壁画が描き終わりました・・・修理少進季長がこれを描きました・・・
絵に関しては全てが円隆寺(毛越寺金堂)の様になったとの事です・・・
同年11月13日 壬午
二階堂の池の奇石の事、猶御気色に背く事等相交わるの間、静玄を召し重ねてこれを直せさる。畠山次郎、佐貫大夫、大井次郎厳石を運ぶ。凡そ三輩の勤め、すでに百人の功に同ず。御感再三に及ぶと。
永福寺の池の庭石について、まだ気に入らない所があるので、静玄を呼んで直させました!
畠山次郎重忠、佐貫大夫四郎廣綱、大井兵三次郎実春が石を動かしました・・・
百人力である3人に何度も感心されておりました!
同年11月20日 己丑
永福寺の営作すでにその功を終う。雲軒月殿絶妙比類無し。誠にこれ西土九品の荘厳を以て、東関に二階の梵宇に遷すものか。今日御台所御参り有り。
永福寺の工事が終わりました・・・雲に届くような軒も、月の様に美しい建物も比類なき素晴らしさです!
ホントにこれは、西国浄土の阿弥陀の九品の荘厳さが関東の二階堂に遷って来ています!
今日は北条政子様も見物に来ましたよぉ~!
同年11月25日 甲午 白雲飛散す、午以後霽に属す
・・・中略・・・
今日永福寺の供養なり。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元行事たり。導師・請僧の施物等は勝長壽院供養の儀に同じ。布施取り十人を採用せらる。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。
将軍家御出でと。
先陣の随兵 |
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伊澤五郎信光 |
信濃三郎光行 |
小山田三郎重成 |
渋谷次郎高重 |
三浦左衛門尉義連 |
土肥彌太郎遠平 |
小山左衛門尉朝政 |
千葉新介胤正 |
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将軍家 |
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小山七郎朝光御劔を持つ 佐々木三郎盛綱御甲を着す 勅使河原三郎有直御調度を懸く |
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御後の供奉人(各々布衣) |
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武蔵守義信 |
参河守頼範 |
遠江守義定 |
上総介義兼 |
相模守惟義 |
信濃守遠光 |
越後守義資 |
豊後守季光 |
伊豆守義範 |
加賀守俊隆 |
兵衛判官代義資 |
村上判官代義国 |
籐原判官代邦通 |
源判官代高重 |
修理亮義盛 |
新田蔵人義兼 |
奈胡蔵人義行 |
佐貫大夫廣綱 |
所雑色基繁 |
橘左馬大夫公長 |
千葉大夫胤頼 |
野三左衛門尉義成 |
八田左衛門尉知家 |
足立左衛門尉遠元 |
比企右衛門尉能員 |
梶原刑部丞友景 |
左衛門尉景季 |
後藤兵衛尉基清 |
梶原兵衛尉景茂(景時ノ子) |
景定(朝景ノ男) |
畠山次郎重忠 |
土屋三郎宗遠 |
工藤庄司景光 |
加藤次景廉 |
梶原平三景時 |
因幡前司廣元 |
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後陣の随兵 |
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下河邊庄司行平 |
和田左衛門尉義盛 |
小山田四郎重朝 |
葛西兵衛尉清重 |
工藤左衛門尉祐経 |
野三刑部丞成綱 |
小山五郎宗政 |
佐々木五郎義清 |
今日は、永福寺の落慶式です・・・両界曼荼羅の供養が有り、導師は法務大僧正公顕です・・・
前因幡守大江広元が仕切りました・・・導師と坊さん達へのお布施は勝長寿院の時と同じです!
また、導師へのチップは銀作りの刀で、前少将時家が手渡しました・・・
将軍様のお出ましです!
前の随兵は、 |
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武田五郎信光 |
南部三郎光行 |
稲毛三郎重成 |
渋谷次郎高重 |
三浦左衛門尉義連 |
土肥弥太郎遠平 |
小山左衛門尉朝政 |
千葉新介胤正 |
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将軍家は、 |
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小山七郎朝光が刀持ち、佐々木三郎盛綱が将軍の鎧着、勅使河原三郎有直が弓矢持ちです! |
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後続の御供は、 |
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大内武蔵守義信 |
源參河守範頼 |
安田遠江守義定 |
足利上総介義兼 |
大内相模守惟義 |
加々美信濃守遠光 |
安田越後守義資 |
毛呂豊後守季光 |
山名伊豆守義範 |
加賀守俊隆 |
兵衛判官代義資 |
村上判官代義国 |
藤原判官代邦道 |
源判官代高重 |
関瀬修理亮義盛 |
新田蔵人義兼 |
奈古蔵人義行 |
佐貫大夫四郎廣綱 |
所雑色基繁 |
橘左馬大夫公長 |
千葉六郎大夫胤頼 |
小野三郎左衛門尉義成 |
八田左衛門尉知家 |
足立左衛門尉遠元 |
比企右衛門尉能員 |
梶原刑部丞朝景 |
梶原左衛門尉景季 |
後藤新兵衛尉基清 |
梶原三郎兵衛尉景茂(景時の子) |
梶原兵衛尉景定(朝景の子) |
畠山次郎重忠 |
土屋三郎宗遠 |
工藤庄司景光 |
加藤次景廉 |
梶原平三景時 |
大江広元 |
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後ろの随兵は、 |
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下河邊庄司行平 |
和田左衛門尉義盛 |
榛谷四郎重朝 |
葛西兵衛尉清重 |
工藤左衛門尉祐経 |
小野刑部丞成綱野 |
長沼五郎宗政 |
佐々木五郎義清 |
豪華な顔ぶれですね!・・・この後、陰謀の中で淘汰されてゆく人物の多い事(笑)
こんな感じで永福寺の供養が執り行われました・・・
翌建久4年(1193)11月27日には阿弥陀堂の、更に建久5年(1194)12月26日には薬師堂の落慶供養が執り行われています・・・人が多くてメンド臭いんで割愛させて頂きます(笑)
その後も永福寺は【吾妻鏡】に何度も出て来ます!
お寺というより客人をもてなす迎賓館的なイメージが強いです・・・
花見や雪見などに将軍が度々足を運んでいます・・・宝治合戦では三浦氏が陣を張ったりもしました・・・
何度か火災に遭いその都度再建された様ですが、
先程の案内板の通り、応永12年(1405)12月17日の炎上以後は再建されず、享徳3年(1454)の正月の吉書始めからは永福寺の名前が出て来なくなるので、この頃に廃絶したのでは?・・・と、いわれています・・・
史跡公園が完成したら、この地区の雰囲気も少し変わるかも知れませんね・・・
谷戸奥の暗いイメージですが、開けたスペースが出来ればかなり印象が変わるでしょう!
隣りのテニスコートは駐車場にでもしましょう!(笑)
6億円以上かけて行われるらしいこの公園事業・・・果たしてどんな物になるのやら・・・
いろんな意味で完成が楽しみです!
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おまけ
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熊谷直実という武将をご存知でしょうか?・・・義経に従軍し一ノ谷の合戦で平家軍に突っ込んで先陣を取り、平敦盛を討った勇猛な人物として有名ですよね・・・ちなみに現在の埼玉県熊谷市辺りを所領していました・・・ |
摂州一の谷合戦の図(画:芳藤) |
中央が直実、左側の海に入っている小さいのが平敦盛、右側は直実に続いて攻め入った平山季重です・・・ |
一ノ谷落城熊谷討敦盛(画:周延) |
上の2枚の絵は【平家物語第九巻 敦盛】の一場面ですね・・・
義経軍で一ノ谷合戦といったらこのシーンか、畠山重忠が愛馬を背負って坂を下るシーンで決まりでしょう! |
【平家物語】の話は取り敢えず置いておきまして、先述の永福寺落慶供養の日の【吾妻鏡】の記事で省略させて頂いた部分には、この熊谷直実と久下直光の所領争いについて書かれています!・・・熊谷直実のキレッぷりが面白いのでちょっと紹介させて頂きます!
建久3年(1192)11月25日 甲午 白雲飛散す、午以後霽に属す
早旦熊谷次郎直實と久下権の守直光と、御前に於いて一決を遂ぐ。これ武蔵の国熊谷、久下の境相論の事なり。
直實武勇に於いては一人当千の名を施すと雖も、対決に至っては再往知十の才に足らず。頗る御不審を貽すに依って、将軍家度々尋ね問わしめ給う事有り。時に直實申して云く、この事梶原平三景時が直光を引級するの間、兼日に道理を申し入るの由か。仍って今直實頻りに下問に預かるものなり。御成敗の処、直光定めて眉を開くべし。
その上は理運の文書要無し。左右に能わずと称し、縡未だ終えざるに、調度を巻き文書等を御壺中に投げ入れ座を起ち、猶忿怒に堪えず。西侍に於いて自ら刀を取り髻を除く。詞を吐いて云く、殿の御侍へ登りはてと。
則ち南門を走り出で、私宅に帰るに及ばず逐電す。将軍家殊に驚かしめ給う。或る説に、西を指し駕を馳す。
若しくは京都の方に赴かんかと。則ち雑色等を馳せ遣わし、相模・伊豆の所々並びに箱根・走湯山等に於いて、直實が前途を遮って、遁世の儀を止むべきの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣わさると。
直光は直實が姨母の夫なり。その好に就いて、直實先年直光が代官として、京都の大番に勤仕せしむるの時、武蔵の国の傍輩等同役を勤め在洛す。この間各々人々代官を以て、直實に対し無礼を現す。
直實その鬱憤を散ぜんが為、新中納言知盛卿に属き多年を送りをはんぬ。白地に関東に下向するの折節、石橋合戦有り。平家の方人として源家を射ると雖も、その後また源家に仕え、度々戦場に於いて勲功に抽んづると。
而るに直光を棄て新黄門の家人に列なるの條、宿意の基として日来境の違乱に及ぶと。
朝早くから、熊谷次郎直実と久下権守直光が御前で武蔵国熊谷と久下との境界について争いました・・・
熊谷直実は一騎当千の武将として知られていますが、口下手で、こと裁判に関しては充分な力を発揮できません!
質問に上手く答えられず、いってる事がちょっとおかしいので頼朝は何度も質問しました・・・
頭はあまり良くないと思われる直実が遂にキレます!
『梶原景時が、直光をえこひいきしている!それ故に自分は質問攻めにあっている!・・・このままではきっと直光の勝訴となってしまうだろう・・・これでは証拠の文書も意味ないし、どないせーちゅーねん!』
と吐き捨てると、裁判中にも関わらず、証拠の文書を投げ捨てて席を立ってしまいました!
さすがの頼朝もビックリ呆気にとられます!(笑)
なおも直実の怒りは収まらず、西の侍所で、自ら刀で髷の髻を切り、『殿の侍に出世はしたけどよぉー・・・』と吐き捨てました!・・・そして南門を走り出て、自宅へも帰らず行方をくらましてしまいました・・・
西へ向かって馬を飛ばしていたので、もしかしたら京都へ行くつもりなのかも知れません・・・との事で、すぐに雑用を相模や伊豆のあちこちと箱根神社や伊豆山神社へ走らせ、直実に世捨てを止めさせるよう御家人や坊さん達に伝えさせました・・・
直光は、直実の妻の母の夫です・・・その関係で、以前、直実は直光の代理として京都の大番役を勤めていた時に、武蔵国の同輩達が同様の役で京都におりました・・・その時、彼等は代理だと馬鹿にして直実に対して無礼な振る舞いをしました・・・直実はその鬱憤を晴らそうと、新中納言平知盛の家来となり何年か過ごしました・・・
そして関東へ帰る時に石橋山の合戦がありました!
平家方として源氏と戦いましたが、その後は源氏に仕えて何度も戦場で手柄を立てました!
そういった訳で、直光から離れて中納言平知盛の家来になったのが恨み合いの元となり、年中領地の境界争いをするようになりました・・・
裁判中に上手く立ち回れずにキレてどっか行っちゃうなんて・・・子供かっての!(笑)
捜索にかり出された人達もいい迷惑ですよねぇ?
とまぁ、永福寺落慶供養の朝にはこんな感じで熊谷直実失踪事件があった様です(笑)
直実と直光の関係は複雑ですから一概にどちらが悪いとはいい難いですなぁ・・・
さて、最後に先程ちょっと触れた【平家物語】の『敦盛』を見てみましょうか!
武士の無常というか、何とも切ないというか・・・自分は結構好きな話であります!
先程貼った2枚の絵の中で熊谷直実は扇を振っていますが、話の内容を知らない人からしたら、単なる陽気なオッサンか、酔っぱらってハメはずしちゃってるオッサンにしか見えないですよね?(笑) |
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取り敢えず読みましょう!・・・読めば全て分かります・・・【平家物語 第九巻 敦盛】・・・はじまりはじまりぃ~
武蔵国の住人熊谷次郎直実は思いました・・・平家の公達は助け舟に乗るために波打際へと落ちて行っただろう・・・
何とか立派な大将と組み合いたいものだ!・・・波打際を目指して馬を進めると、鶴を刺繍した直垂に萌黄匂の鎧を着、鍬形の飾りをつけた兜の緒を締め、黄金作の太刀を佩き、24筋差した切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗る武者が一騎、沖の舟を目指して海へザッと乗り入れると、5、6段ほど泳がせた!
直実は『名のある大将軍とお見受けした!卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか戻られよ、戻られよ!』
と扇を上げて招くと、武者は引き返し渚に上がろうとした所に、直実が波打際で馬を並べ、むんずと組んでどうと落ち、首を刎ねようと内兜を押し上げて見ると、薄仮粧にお歯黒を塗った16、7歳ほどの少年であった・・・
息子の直家と同じ位の歳で、実に美しい容貌だったのでどこに刀を突き立ててよいかも分からず直実が、
『そなたはどのような御仁なのか?・・・名乗られよ、お助けいたす!』というと、
『貴殿は誰であるか?・・・名乗れ、聞こう』と返して来ました・・・
『取るに足らない者ではありますが、武蔵国の住人熊谷次郎直実!』と名乗りました・・・すると、
『貴殿にとって私はよい敵だ・・・名乗らずとも首を取り誰かに問えば知っている者がいるであろう!』と、武者が答えた!
見事な大将軍だと直実は思いました!
この人ひとり討ち取っても負け戦に勝つ事はないだろう、また助けた所で勝つ戦に負ける事もあるまい・・・
息子の直家が浅手を負っただけでも自分は辛かった・・・この殿の父上は、我が子が討たれたと知ったらどんなに嘆き悲しむ事だろう・・・助けて差し上げよう!
しかし、後ろを振り向くと土肥実平と梶原景時が50騎ほどでこちらへ向かって来ます!
直実はほろほろと涙を流していいました、
『あれをご覧なされ、何とかしてお助けしたいが、味方の兵が雲霞のごとく充ち満ちて、とても逃がして差し上げる事は叶いません・・・同じ事なら我が手でお討ちして、後の供養を致します!』というと、
『どーでもいいから早く首を取れ!』と返されました・・・
直実は、この武者があまりに可哀想で、どこに刀を突き立ててよいかも分からない・・・
目も眩み、分別も失い前後不覚に陥ってしまったが、そーもいっておられず泣く泣く首を刎ねました!
ああ、武者ほど辛い事はない・・・武人の家に生まれなければ、こんな目に遭う事はなかったはずだ・・・
非情にも殺してしまった・・・と、袖を顔に押し当ててさめざめと泣きました・・・
首を包もうと鎧直垂を解いて見ると、錦の袋に入れられた笛が腰に差してありました・・・なんと可哀想な・・・
今朝方、城郭内で管弦を奏でていたのはこの方々だったのか・・・我が東国勢は何万騎もあっただろうが、戦陣に笛を持って来る者などいないだろう・・・
何と優雅な御仁であろう・・・と、これを取って大将軍義経殿にお見せすると、見る人は皆涙を流しました・・・
聞く所によるとこの若武者は、17歳になる修理大夫経盛の子息、大夫敦盛(清盛の甥)という事でした・・・
これを機に直実には発心の心が芽生えました・・・
この笛は、彼の祖父忠盛が笛の名手であったため、鳥羽院から賜られた物を腕前のある敦盛が持っていたとの事!
名は『小枝(さえだ)』といいます・・・
狂言は道理に合わないとして、仏教では歌舞管弦などは迷いの元としますが、その笛が直実の仏門への道となった事には考えさせられる物があります・・・
以上、【平家物語】より『敦盛』でした・・・
この名シーンは後に、能、幸若舞の【敦盛】などの題材となりました・・・戦国武将織田信長の好んだ歌に、
『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』
というのがありますけど、これは幸若舞の【敦盛】の一節であります!
小説やドラマ、ゲームに至るまで必ずといっていいほど織田信長が歌い舞うシーンがあるので耳に残っている人も多いと思います!
ちなみに信長は50を前に亡くなっています・・・でも、『人間五十年』というのは人の寿命はせいぜい50年という意味ではなくて、本来は、人の感覚でいう所の50年などは天の感覚からすれば一瞬であるという意味らしいです・・・
奥が深いですなぁ~・・・
熊谷直実は後に、法然の弟子となり法力房蓮生と名乗ります・・・そして多くの寺を建てました!
熊谷直実の人物像が何となく分かって来たのでは?・・・不器用ながらも誇り高く熱い男?・・・ただ不器用過ぎます!
先に述べた裁判中にキレてどっか行っちゃったって話もそうですが、それだけではありません!他にも話はあります!
文治3年(1187)8月4日 壬申 今年鶴岡に於いて放生会を始行せらるべきに依って、流鏑馬の射手並びに的立等の役を宛て催さる。その人数に、熊谷の次郎直實を以て上手の的を立つべきの由仰せらるるの処、直實鬱憤を含み申して云く、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬、的立役人は歩行なり。すでに勝劣を分けるに似たり。此の如き事に於いては、直實厳命に従い難してえり。重ねて仰せに云く、此の如き所役は、その身の器を守り仰せ付けらるる事なり。全く勝劣を分たず。就中、的立役は下職に非ず。且つは新日吉社祭御幸の時、本所の衆を召し流鏑馬の的を立てられをはんぬ。その濫觴の説を思うに猶射手の所役に越えるなり。早く勤仕すべしてえり。直實遂に以て進奉するに能わざるの間、その科に依って所領を召し分けらるべきの旨仰せ下さると。
鶴岡八幡宮の放生会で行われる流鏑馬の射手ではなく、的立て役に指名された直実は不満爆発です!
『御家人は、皆同格である!・・・それなのに射手は馬に乗り、的立て役の人は歩き・・・それが、既に仲間同士に優劣を付けた様に思われます!このような命令に自分は従う訳にはいきません!』
と、申し上げました!・・・それに対して頼朝は、
『これらの役目は優劣を分ける物ではない・・・それに的立て役は下等な役ではない!・・・新日吉神社の祭りに法皇がお越しの時は、荘園領主の貴族本所の侍衆が流鏑馬の的を立てたという・・・そう考えれば的立て役は射手の役目を越えている訳である!・・・だからサッサと役を受けなさい!』
直実はそれでもお受けすることは出来ないというので、頼朝は命令違反の罪で所領を取上げると仰せられました!
う~ん・・・弓の名手として有名だった直実・・・射手に選ばれなかった事でプライドを傷つけられ、単にスネてるだけ・・・
屁理屈並べて難癖つけてるようにしか思えません・・・
それを説得する頼朝の話も屁理屈にしか聞こえないのは自分だけでしょうか?(笑)
どー考えても射手の方がカッコイイでしょ!・・・的立て役ってぶっちゃけ裏方じゃないの?
ホントこの時代の人達はオモシロいなぁ・・・
まぁ、取り敢えず、騎乗して扇振ってる陽気なオッサンは熊谷直実と思って間違いないと思います!(笑)
JR熊谷駅前には彼の銅像がありますが、果たしてその姿は?・・・騎乗して扇を振っているんでしょうか?
それはご自身の目でお確かめ下さい(笑)
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おしまい |