ブログ 建長寺タイトル
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先週程ではありませんが、今日(2月14日)も未明から雪が降っています・・・
もう降らないだろうと勝手に確信していたのでビックリです!・・・また雪かきしなきゃならんのかと思うと憂鬱ですが・・・
でも、考え方によっては普段見れない景色を堪能できるチャンスの再来ですよね!

前回は鎌倉の東慶寺を諦めて近所の神武寺などを巡りましたが、今日は金曜日、平日です!
これは行くしかないですね!・・・リベンジです!
平日ならば、休日に比べてカメラ野郎の数も大幅に少ないはず・・・花好き観光ジジババに至っては、この寒さにわざわざ寺へ赴く情熱なんて物は皆無でしょう!・・・ネコと一緒にコタツで丸くなっているハズです!
北鎌倉駅 北鎌倉駅2
てな訳でJR北鎌倉駅に到着です!・・・改札が鎌倉駅方面だって事をすっかり忘れていて、先頭車両に乗っていた自分は雪の中をホームの端から端まで歩くハメに(笑)
そして北鎌倉名物、『鎌倉学園の登校』です・・・この大集団は建長寺まで続きますので、かなりウザイです!
自分も第一志望校に受かっていなかったらココへ通う事になっていたので、勉強しといてホント良かった(笑)

まぁ、東慶寺は線路を挟んで向かい側の道にあるので、今回はこの集団と行動を共にする事はありません!
東慶寺1 東慶寺2
はい、やって来ましたよぉ~東慶寺!・・・現在時刻は8:15・・・開門までにはまだ15分あります!
先客が1人いらっしゃいました・・・お決まりですがゴッツイカメラを手にしています(笑)・・・頑張るなぁ・・・
東慶寺はホントに雪の似合う寺です・・・降ってる最中に訪れたのは初めてですが、中々の風情があります!
東慶寺3 梅と雪のコラボは定番ですが、やはりいいですねぇ・・・
紅梅に限っての話ですけども・・・紅以外だと、ただの綿帽子みたいに見えるだけですもんね(笑)
こんもりとして可愛らしいってのはありますけど、すぐに飽きてしまいます・・・
階段の方へ近づいてみると、
大雪の影響で危険を伴う為、本日は終日閉門とさせて頂きます。ご了承ください。           東慶寺
何ぃ~!?・・・そりゃないぜとっつぁ~ん!・・・マジかよぉ・・・わざわざ雪がそぼ降る中来たってのに・・・
終日閉門って・・・まぁ、仕方ありませんね・・・マヌケな観光客が滑って怪我でもしたら寺側もメンド臭いですからね!
雪ウサギ1 雪ウサギ2
そのまま立ち去るのもアレだったので微妙な雪ウサギを作成して記念撮影(笑)
せっかく手を冷たくしてまで撮った写真なので東慶寺のフォトギャラリーに投稿してみようかな?
東慶寺4
しかし雪の東慶寺はやはり素晴らしい・・・境内に入れないのがホントに残念です・・・ 
素直に諦めましょう・・・今回の旅は終わりです・・・家に帰ってマッタリしましょう!

なんてね(笑)・・・こうなる事は想定内で、代替案としてのプランBも持ちこんでの15分前到着です!
さすがに東慶寺は諦めますが、天邪鬼な自分が素直に帰る訳がありません!

プランBはズバリ建長寺です!・・・鎌倉一の大寺院にして多くの観光客でごった返す禅寺です!
人混みが嫌いな自分はあまり好きな寺ではありませんが、平日でこの雪ならば観光客の足も止まるのでは?
静かな大寺院となれば話は別です、メッチャ行きたいです!(笑)
撮影対象としてメジャー過ぎるのか、カメラ野郎供も意外と少ないらしいので、もしかしたら建長寺の雪景色を独り占めできるかも知れません!・・・そんな中に居て発心の心が目覚めてしまったらどーしましょう!?(笑)

建長寺へ向かいますが、途中浄智寺にちょっと寄り道・・・
浄智寺1 浄智寺2
おぉ、中々イイ感じですねぇ・・・ココにはバズーカの様なカメラを持った一眼レフ軍団がいました・・・
みんな気合入ってるなぁ・・・自分はCyber-shotです!
そこまで綺麗な写真は撮れませんけど、厚さが1.5cmくらいでジーンズのポケットに余裕で入るし便利なんです・・・
自転車で鎌倉巡りをする自分は機動力重視なんで、そのコンセプトにピッタリ!

一眼レフをズボンのポケットに入れたら『見栄っ張り』か、ただの『変態』ですよね?(笑)・・・職質モンです!
でも何だかんだいってあと20年後には、恐らく自分も一眼レフを首にぶら下げて鎌倉を練り歩いていると思います・・・
その時は他の人の邪魔にならない様に気を付けよう・・・
自転車で鎌倉へ行く元気がいつまで続くかなぁ?・・・20年後っていったけど・・・3年後の様な気もします(笑)

あまりゆっくりしていると鎌学軍団の第二陣に巻き込まれる恐れがあるのでボチボチ行きましょう!
建長寺天下門1 建長寺天下門2
建長寺に到着です!・・・正式には巨福山建長興国禅寺といいます!
鎌倉五山の第一位であり、今更説明など要らないほど有名な寺だと思います・・・大抵の観光客はココを訪れるのではないでしょうか?・・・日本初の本格的な禅道場として建立され、鎌倉では珍しい非常にスケールの大きい寺です!
天下門(西外門)には『天下禅林』の文字が掲げられています!・・・何年か前に放火騒ぎのあった門です(笑)
建長寺駐車場 総門の手前は専用駐車場になっています・・・
もちろんタダじゃぁござぁ~せん・・・
鎌倉価格で料金を徴取されます・・・
車で鎌倉巡りするなんて、余程の横着者かアホかのどちらかなのは確かです(笑)
さすがに今日は来ないでしょうけど・・・こんな日に車で来たら逆に凄いと尊敬してしまうかも知れません(笑)

静かな駐車場には案内板があります・・・見てみましょう!
建長寺境内図 
広いですねぇ・・・ほとんどが一般拝観不可ですが塔頭も沢山(最盛期は49院)あり、裏山はそのまま天園ハイキングコースへと繋がっています・・・全部見て回ったら結構疲れますよ(笑)
建長寺境内文学案内板
文学案内板もありました・・・葛西善蔵宝珠院に下宿して執筆活動をしていた話は有名ですね・・・

総門を潜る前に【新編鎌倉志】を見てみましょう!
【建長寺】
建長寺は巨福山と號す。五山の第一なり。相模守平の時頼の建立なり。【東鑑】に、建長五年十一月廿五日、建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢す。丈六の地蔵菩薩を以て中尊とす。同像千體を安置す。
相州、殊に精誠を凝さしめ給ふとあり。開山、宋の大覚禅師、諱は道隆、蘭溪と號す。寛元四年丙午に来朝す。
【元享釋書】に傳有て詳かなり。今寺領九十五貫九百文なり。
建長寺総門1 建長寺総門2
さぁ、総門(巨福門)を潜りましょう・・・潜ったら拝観料として¥300を徴取されます・・・鎌倉のくせに高ぇなぁ・・・
入山券をくれただけでパンフレットの様な物は何もくれませんでした・・・この規模の寺院でそりゃないよぉ!
入山券には先程の天下門の『天下禅林』の扁額が印刷されていました!

『天下禅林』
『人材を広く天下に求め育成する禅寺』との意、西の外門(北鎌倉側門)に掲げ我が国最初の禅宗寺院で鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語
との事です・・・

総門には『巨福山』の額が掲げられています・・・『巨』の文字に謎の点がありますが、これが『百貫点』と呼ばれている物です・・・案内板があるんで見てみましょう!
建長寺総門案内板
あれ?・・・百貫点について何も説明がありませんね?(笑)
一山一寧『巨』の字に筆の勢いで点を加えてしまったが、これを百貫分の価値があるとして百貫点といったらしいです・・・筆の勢いって要は失敗って事なんですかね?

案内板にある通り、建長寺は5代執権北条時頼蘭渓道隆を開山に招き創建した寺です・・・
建長寺落慶までの間、蘭渓道隆は大船の常楽寺に居ましたが、教えを請おうとする僧達で溢れ返ったそうです・・・

常楽は建長の根本なり

という文句は、そーいった経緯があったからです・・・ 以下は【新編鎌倉志】です!

【總門】
額は巨福山。筆者不知。或は寧一山と云ひ、又は趙子昂と云ふ。【百貫點】、巨の字、上の一畫の下に、一點を加へて書たり。時人褒美して、此の額此の點を加へて百貫の價を添たりと云しより百貫點と云ふなり。

ありゃ?・・・扁額の筆者は一山一寧かも知れないよ的ないい方ですね・・・確定ではないんでしょうか?
建長寺三門1 建長寺三門2
総門を潜った先には三門(三解脱門)が見えます・・・立派ですねぇ・・・
建長寺三門3 『建長興國禅寺』の額が掲げられています!
楼上には五百羅漢像などが安置されていますが、通常は拝観出来ませんのであしからず・・・
仁王像が無いのは別にいいんですけど、門扉も壁もありません・・・何だか変な感じです・・・

どーでもいいんですけど吹雪いて来ました・・・
ちなみに自分以外に観光で訪れている人は見当たりません・・・
観光客がいないのはいいけど吹雪きは勘弁です(笑)
ちょっと三門の中に避難・・・荒ぶる風が落ち着くまでやり過ごしましょう!
賓頭盧尊者1 賓頭盧尊者2
三門には賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)がいらっしゃいます・・・『おびんずるさん』の通称で良く知られていますね・・・

佛弟子十六羅漢第一番 賓頭廬尊者 神通力第一ト称セラル 撫佛です、どうぞおなぜください

と書かれた立札が立っていました・・・

賓頭盧尊者は立札の通り、釈迦の弟子で十六羅漢のひとりです・・・
インドの僧侶で医学的にも優れた力を持ち大勢の病人を救った事から、体の悪い部分を撫でると病気平癒の功徳があるといわれています!

賓頭廬尊者は神通力に優れていたそうですが、その神通力を人々に誇示したので、釈迦が怒って、
『お前は悟りを得ず、この世に留まり仏法を守りながら人々の病を癒し、多くの衆生を救いなさい』と命じました!
そんな訳で尊者は、今でも衆生を救い続けている菩薩なんです・・・悟りは開けません!

また、大変に酒好きであったという話もあります・・・顔を良く見ると、目が酔っ払いっぽいですね(笑)
修行の合間に飲んでいたのが釈迦にバレて、尊者は今後は飲まない事を誓いました・・・
しかし、我慢できずに誓いを破り酒を飲んでしまいます!
これまた釈迦にバレてしまいます・・・釈迦は尊者を入堂禁止とします、出禁です(笑)
これに懲りた尊者は一生懸命修行に励みました・・・その様子を見て釈迦は、堂外なら傍にいる事を許したそうです!

多くの寺で見かける賓頭廬尊者の像ですが、皆が撫でるのでツルッ禿げです(笑)
かくいう自分も摩擦で火が出るくらいに腰部分を撫で撒くって置きました!
建長寺三門案内板
三門の案内板です・・・通称『狸の三門』とも呼ばれていますが、その逸話などは書かれていませんね・・・

万拙和尚が再建に尽力した事が書かれています・・・その熱心さに感心したのが建長寺の裏山に棲みついて、残飯などをもらって生きていた古狸です!
長きに渡り読経や説法を聞いている内に仏性を得ていた狸は、長年の恩に報いる為に和尚の姿に化けて勧進の旅に出ました・・・

板橋宿や練馬宿などで狸の時の姿を見られるなどして、『勧進僧の中に狸が化けた和尚がいるらしいぞ!』という噂が広まりました・・・
ある日、狸和尚は青梅街道で籠に揺られていました・・・籠かきは、これが噂の狸和尚かもしれない・・・と考え、犬をけしかけてみました・・・すると犬は和尚の袈裟を咥えて籠から引きずり出し、噛み殺してしまいました・・・

しばらくすると和尚の姿が狸に変わり、籠の中には狸和尚が集めたと思われる金が残されていました・・・
哀れに思った籠かきは狸和尚の志に報いる為、その金を三門の再建資金として建長寺に届けたそうです・・・
そんな逸話から『狸の三門』と呼ばれているそうです・・・

この三門では通常行われる施餓鬼会の後に『梶原施餓鬼会』という法要が行われます!
その名の通り梶原景時の為に行われる施餓鬼会です!

その昔、この三門で施餓鬼会を行い、終わった頃に1人の騎馬武者が現れ、施餓鬼が終わってしまった事のを知ると、残念そうに帰ろうとしました・・・その姿を見て哀れに思った住持は武者を引き止め、もう一度施餓鬼会を行ったんだそうです・・・それを喜んだ武者は、自分は梶原景時の霊だと名乗ったとの事です・・・

以下は【新編鎌倉志】・・・
【山門】
額は建長興國禅寺、二行に書す。宋の子曇が筆なり。山門の樓上に十六羅漢あり。いつの時か紛失して今八體あり。
又、此門下にて七月十五日に梶原施餓鬼と云を行ふ。相傳ふ、昔し開山在世の時に武者一騎来て施餓鬼會の終りたるを見て後悔の色有て歸る。時に禅師これを見て呼かへさせて、又、施餓鬼會を設けて聴カしむ。
時に彼武者、我は梶原景時が霊なりといひて謝し去る。爾しより以来、此寺には毎年七月施餓鬼の會終て後、梶原施餓鬼と云を設るなり。
心経を梵音にて二三人にて誦む。餘の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心経と云なり。

子曇とは西澗子曇(大通禅師)の事でしょう・・・
彼は建長寺、円覚寺の住持も務めました・・・円覚寺の洪鐘(国宝)の撰文も彼によるものです・・・
つ~か梶原景時の霊の為にもう一度施餓鬼会を行ったのは蘭渓道隆だったんですね!

三門に向かって右側には梵鐘(国宝)があります・・・
円覚寺
常楽寺と共に鎌倉三名鐘のひとつに数えられています!
建長寺梵鐘1 建長寺梵鐘2
建長寺梵鐘案内板
国宝です国宝!・・・ちなみに撞く事は出来ません・・・国宝の鐘はどんな音色がするんでしょうかね?
以下は【新編鎌倉志】です・・・
【鐘樓】
山門の東方山の上にあり。鐘の圍み一丈四尺七寸、厚さ四寸、長六尺六寸、龍頭一尺七寸、銘如左。

巨福山建長興國禅寺鐘銘

南閭浮提 各以音聲長爲佛事 東州勝地 聊蒐榛莾剏此道場 天人影向 龍象和光 雲歛霏開兮樓觀百尺 嵐敷翠拂兮勢壓諸方 事既前定 法亦恢張 圍範洪鐘結千人之緣會 宏撞高架鎭四海之安康 脱自一摸 重而難揚 圓成大器 鳴則非常 蒲牢纔吼 星斗晦藏 羣峯答響 心境倶亡 扣之大者 其聲遠撒 扣之小者 其應難量 東迎素月 西送夕陽 昏寐未醍 攪之則寤 宴安猶恣 警之而莊 破塵勞之大夢 息物類之顚狂 妙覺覺空 根塵消殞 返聞聞盡 本性全彰 共證圓通三昧 永臻檀施千祥 因此善利 上祝親王 民豐歳稔 地久天長 建長七年乙卯二月廿一日 本寺大檀那 相模守平朝臣時頼 謹勸千人同成大器
建長禅寺住持宋沙門道隆謹題 御勸進監寺僧琳長 大工大和權守物部重光。

『山門ノ東方山ノ上ニアリ。』とありますね・・・確かに当時の絵図を見ると現在とは場所が違うみたいです・・・
現在地には『浴室』と記された建物がありましたが、これは風呂場の事なんでしょうか?

三門に向かって左側には巨福稲荷大明神があります・・・
巨福稲荷大明神1 巨福稲荷大明神2
社の傍らに信楽焼の狸が置いてあり、思わず笑ってしまいました・・・何で?・・・三門の狸に因んでなんですかね?
だったら三門に置けばいいのに・・・よく分かりませんがホノボノとしてていいですね・・・
建長寺のビャクシン1 建長寺のビャクシン2
三門から仏殿までの参道沿いにはビャクシンの古木が立ち並んでいます
建長寺のビャクシン3 建長寺のビャクシン4
かながわの名木100選 建長寺のビャクシン

まぁ、そーなりますよね(笑)・・・かながわの名木シリーズのひとつとされています!
ちなみに開山の蘭渓道隆が中国から持ってきた種を撒いたんだそうですよ・・・ そー書いてあります!
写真では伝わり難いですが、近くで見ると幹の荒々しさなど迫力満点です!

建長寺柏槇の劣化対策事業
建長寺の柏槇は、建長寺が創建された建長五年(1253)以来。七五七年の歳月を経てここに大きく根をはっています。
しかしながら、近年元気がなく木材腐朽菌の仲間のキノコ(褐色腐朽菌)により、劣化が発生していました。
このままにしておくと、強風などによって樹幹や大枝が折れたり、根返りを起こし、大きな被害を及ぼします。
そこで、当会の創立三〇周年記念事業の一環として、診断と当面の対策を実施しました。
こうした取り組みが、我が国の自然遺産を次世代に継承するための一助となることを願っています。
                               
                               平成二二年二月 社団法人ゴルファーの緑化促進協力会
                               協力 (財)日本緑化センター・日本樹木医会神奈川県支部

あのぉ~本気ならゴルフやめればぁ?(笑)・・・自然遺産を破壊しているのが誰なのか分かってない様ですね?
こんなせこいアピールしなくてもいいのに・・・ゴルフ場がある限り何も変わらんさね・・・
でもゴルフは娯楽として深く国民に浸透していますから、『ゴルフ場ゼロ運動』なんて絶対無理です!
だったらゴルファーはゴルファーらしくゴルフすればいいんですよ!
ゴルファーも緑化に取り組んでおります的な看板立てちゃってまぁ・・・単なるパフォーマンスですね(笑)
この立派な看板立てる代わりに木の1本でも植樹した方がよろしいかと思います・・・ホント・・・
俺は騙されんぞっ!(笑)

仏殿には建長寺の本尊である地蔵菩薩が安置されています・・・これまたスケールのデカい地蔵菩薩です!
堂内格子天井の花鳥図や欄間の彫刻も大変見事で見応えがあります!
建長寺の地蔵菩薩1 建長寺の地蔵菩薩2
建長寺仏殿案内板
この木造地蔵菩薩坐像は室町時代の作で、座高約2.4m、台座を入れると5mにもなります!
2代住持の兀庵普寧は、この地蔵菩薩を自分よりも格下だとして拝さなかったと伝わります!

禅寺の本尊に地蔵菩薩とは珍しいですが、それには理由があります・・・

もともとこの地は地獄谷と呼ばれる刑場であり、死者を葬る場所でした・・・
そしてその死者の霊を弔う為に伽羅陀山心平寺という寺がありましたが、いつしか廃寺となり、地蔵堂だけが残っていたそうです・・・
建長寺の本尊が地蔵菩薩とされたのは、その地蔵堂の地蔵像を祀ったからとも、地蔵堂から発展した寺だからともいわれています・・・

また斉田地蔵という物があり、その逸話も残されています!

その昔、斉田左衛門という者が無実の罪で斬首となります!・・・ココ地獄谷で処刑人が彼の首を目掛けて刀を振り下ろしましたが、刀は折れ、何度やっても首を斬れないので調べてみると、髻の中から小さな地蔵像が見つかり、その地蔵像にはいくつかの刀傷があったといいます・・・
斉田左衛門は、日頃から地蔵を信仰していて、この小さな地蔵像を肌身離さず身に付けていた為、そのご利益により命拾いしたとの事です・・・その信仰心に免じて、斉田左衛門は斬罪を許されたといいます・・・

この小さな地蔵像は『斉田地蔵』と呼ばれ、地蔵堂の地蔵菩薩の中に納められていましたが、後に、建長寺の地蔵菩薩の胎内に移されたとされています・・・
像高5cm強程の小さな地蔵像で、現在は地蔵菩薩の胎内ではなく別の場所に保管されています!

心平寺の地蔵菩薩も仏殿内に安置されています!・・・千体地蔵に紛れてるのがそれです(笑)
地蔵堂は横浜の三溪園に移築されています・・・天授院というのがそれです!・・・三溪園は気持ちいいですよぉ!

【新編鎌倉志】もチェックしてみましょう!
【地蔵堂】
地蔵堂は小袋坂より山の内へ行ば右の方にあり。【心平寺】伽羅陀山心平寺と云ふ。建長寺の境内なり。
【鎌倉大日記】に建長元年に小袋坂の地蔵堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄谷と云し時より地蔵此の所にあり。濟田地蔵ノ根本ナリ。


ちなみに仏殿は掃除の真っ最中でした!・・・寒い中、雲水(修行僧)達が白い息を吐き、指先を真っ赤にしながら堂内をキレイキレイ・・・してるんだと思っていましたが、作業着姿のどっかの業者さん数名でやっていました・・・
何だかなぁ・・・絵にならないなぁ(笑)・・・そーいえば今回の行程では坊さんを一度も見掛けませんでした・・・

仏殿のすぐ後ろには法堂が建てられています!
建長寺法堂1 建長寺法堂2
建長寺法堂3 何かまた吹雪いて来ました(笑)
電車止まったりしないだろうな?・・・頼むぜ!

『海東法窟』の扁額が掲げられています・・・
『崇禎元年十一月 竹西書』・・・との銘も刻まれています!
この額は今は無き東外門に掲げられていた物です!
東外門は現在の駐車場入口の辺りに建っていました・・・

天下門(西外門)の『天下禅林』の額も崇禎元年(1628)、
同一人物による物です!・・・案内板がありますんで見てみましょう!
建長寺法堂案内板 
現在の法堂に388人はとても入れない気がしますが・・・肩車しないと無理じゃね?(笑)
まぁ、昔の日本人は基本小さいからなぁ・・・無理やり詰め込めばどーとでもなりそうだな・・・

案内板の通り、法堂とは住持が仏に代わって仏教の教義を説法する場所です・・・
ちなみに鎌倉五山で法堂が現存するのは建長寺だけであります・・・
建長寺の釈迦苦行像1 建長寺の釈迦苦行像2
釈迦苦行像
釈迦苦行像は、お釈迦様が極限の苦行・禁欲(断食)を行っているお姿を表したもので、顔に鬚を生やした姿は、きわめて稀であるとともに、徹底的に肉体をも痛めつけるような荒行をしていたことを表してます。
この釈迦苦行像は、パキスタンの北西部地方のガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されているお像をもとに製作され、2005年愛知万博に陳列された後、この度パキスタン国より建長寺に寄贈されました。

※本仏像は、パキスタン政府から公式承認され、唯一国外への持ち出しが許可されたものです。

千手観音の手前に安置され一際異彩を放つその像容に目を奪われます・・・鶏ガラですね(笑)
銅像かと思っていましたがグラスファイバー製の様です・・・一気にフィギュア感が増しましたね!
建長寺法堂の雲龍図 創建750年記念に堂内天井に描かれた雲龍図です!
迫力満点ですねぇ・・・ちなみに5本爪です!
画家の小泉淳作氏の手によるものです。
龍は水神であり天井に描かれた物には修行僧に法の雨を降らすという意味があるそうです・・・

氏は建仁寺法堂の双龍図も手掛けています!
父は政治家の小泉策太郎・・・
慶應に幼稚舎から通うおぼっちゃんでした・・・
鎌倉の十二所に住んでいましたが残念ながら2012年に亡くなっています・・・

法堂には頼朝が富士の巻狩りで使ったと伝わる大太鼓や、数年前に納められたピカピカの華厳小宝塔もあります!
以前は境内に20mを越える華厳塔があった様ですが、今は石碑が残るのみです・・・

仏殿の奥にはピカピカの唐門が目を引きます!・・・自分はあまり金ピカな感じの物には心惹かれない性質です・・・
建長寺唐門1 建長寺唐門2
金ピカ極彩色の物は何かダメなんですよねぇ・・・小学校の修学旅行かなんかで訪れた日光東照宮・・・
陽明門を見てもイマイチ、ピンと来ませんでした・・・小学生の頃からそんな感じですからしょーがないですね・・・
東南アジアな毒々しい極彩色寺院もダメです・・・何か安っぽく感じてしまいます!・・・実際安そうだけど(笑)

案内板がありませんが、この唐門崇源院(お江の方)の霊を祭る霊屋(現在の建長寺仏殿)の廟門として芝の増上寺にあった物を1647年に移築した物です・・・関東大震災の被害に遭い解体修理されていましたが、2011年5月に遂に全ての修復作業が終了し、当時の姿が蘇りました!

崇源院は織田信長妹(お市の方)の三女・・・江戸幕府2代将軍徳川秀忠の妻となり、3代将軍家光らを産みました!
【鳥居を捜せ!】のページでも紹介しましたが、孫である4代将軍家綱に鶴岡八幡宮の鳥居を建て直す様に懇願した人物でもあります・・・
得月楼1 得月楼2
唐門の右側の道を進むと大玄関があります・・・『庭園拝観 ご自由にお入り下さい』と書かれています・・・
あがらして頂きましょう!・・・なんか旅館に来たみたいです(笑)・・・実際客人はココに泊まるみたいですけどね!

入口のホワイトボードには『本日雪の為庭園拝観は廊下からになります』とありました・・・
あーそーですか、どーでもいいですよって感じで進みます・・・
得月楼3 心字池
廊下にはアップライトのピアノが1台置かれていました・・・突き当りは屏風で区切られていて、それ以上進む事は出来ませんでした・・・『浴室』と書かれた額が飾ってありましたけど、風呂場があるのかな?・・・入りてぇ(笑)

廊下から方丈奥に広がる庭園を眺めます・・・良いのか悪いのかよく分かりません・・・この庭園は夢窓疎石の作であると耳にした事がありますがホントなのかな?・・・自分の感覚では、あまり雪の似合わない庭だな・・・という印象でした!

方丈龍王殿ともいわれ、総門と同じく京都の般舟三昧院から移築された物と伝わります!

再び外に出て方丈横の道から更に奥へと進みます!
半僧坊道1 半僧坊道2
どーでもいいですがホントに自分以外誰もいないんですけど(笑)
この雰囲気を独り占め出来るんなら拝観料の¥300は安いなぁ・・・あとプラス¥50くらいなら出しても構わないッスよ!

塔頭の宝珠院がありますが一般拝観不可なハズです!
宝珠院
でも注意書きみたいな物が無かったので奥の階段を上ってみたら普通に境内に入れました!
あれ入れるじゃん!?・・・でもやっぱり忍び込んでしまった様な気が(笑)
本堂背後の庭園も見たかったですが早々に退散・・・
すると、来た時には気付かなかったんですが、自分が登った階段の手前にも入口があった様で、そこには、

関係者以外の方は出入を御遠慮下さい OFF LIMIT (宗)宝珠院

と書かれた張り紙が・・・普通に見過ごしていました(笑)・・・塔頭はその殆んどが一般拝観不可です!
そんな訳で塔頭は門前から外観しか撮れませんが、ムービーを作成しましたんで雰囲気を感じて下さい!

宝珠院は正平4年(1349)創建、建長寺第35世了堂素安(本覚禅師)の塔所です・・・
了堂素安(1292~1360)は博多の人物で蘭渓道隆の直弟子同原同本の法を嗣ぎました・・・後に円覚寺の西澗子曇に学び、東勝寺、寿福寺の住持を経て建長寺に入りました・・・

開基の畠山国清は室町幕府の武将・・・足利政権樹立に貢献し紀伊国の守護に任ぜられるなど重用されましたが、専横が目立ち足利基氏に攻められました・・・
本尊は地蔵菩薩でしたが盗まれ、現在の本尊は天源院と龍源院が合併した時に譲り受けた木造釈迦如来坐像です!
慶長12年(1607)7月12日付の長谷観音堂棟札を宝珠院の住持が書いている事から、当時は長谷観音の管理をしていた事が分かります!・・・【長谷寺相続次第】という長谷寺の歴代住職を記した史料も伝わるそうです・・・

この宝珠院には大正8年~12年の間、小説家の葛西善蔵が下宿して執筆活動をしていた事でも知られています・・・
善蔵の小説に登場する『おせい』という女性のモデルは、善蔵が賄いなどを頼んでいた半僧坊下の招寿軒という茶店のハナという娘です!
小説での表現をみる限りでは、チビデブ赤ら顔・・・お世辞にも美人とは言い難い感じです(笑)

関東大震災の後、善蔵は鎌倉を離れました・・・借金の取り立てにハナが善蔵のもとを訪ねますが、何故か同棲生活が始まります・・・ちなみに善蔵には青森に妻子がいた様です・・・テキトーだなぁ(笑)

天源院
です・・・建長寺第13世南浦紹明(大応国師)の塔所です・・・
天源院
南浦紹明(1235~1308)は駿河の人物で渡宋修行の後に帰国し、蘭渓道隆のもとで要職を務めました・・・
文永8年(1271)に博多の崇福寺に移って30年以上に渡って北九州を拠点に禅を広めた後、徳治2年(1307)に北条貞時に招かれて建長寺の住持となります!
塔所は亡くなってから20余年後に建てられたと伝わります・・・大応国師の墓と伝わる物は確か大船の常楽寺にもあったと思います!・・・凄い微妙な形の墓だったと思います(笑)

龍峰院です・・・創建:徳治2年(1307)、開山:約翁徳倹(仏燈国師)、開基:北条貞時、本尊:聖観世音菩薩
龍峰院
建長寺第15世である約翁徳倹(仏燈国師)の塔所です・・・もともとは北条時宗が建てた持仏堂だったそうです!
約翁徳倹(1244~1320)は生後、鎌倉の路傍に捨てられていたのを拾われ、蘭渓道隆のもとで禅を学び、鎌倉の禅興寺、長勝寺(山ノ内)、京都の南禅寺、建仁寺の住持も務めました!

鎌倉33観音霊場の第29番札所にもなっていますが、納経しないと御朱印がもらえないと聞いた事があります・・・
本尊の木造聖観世音菩薩坐像(市文)は南北朝時代の仏師運朝の作、宝冠を被っているので宝冠釈迦如来とも推察されているそうです・・・

階段に設置された柵には『不許拝観』の文字が・・・拝観は許さず・・・

檀信徒関係者以下の立入ご遠慮下さい。御朱印は記帳が必要な方のみお入り下さい。(九時~十六時)
その他の参拝等できません。防犯カメラ作動中。

記帳が必要でない御朱印って何なんでしょうか?・・・何だかんだいってもココでしか御朱印もらえないんですから入るしかないですよね?・・・イマイチ意味が分かりません・・・檀信徒関係者以下ってのも(笑)

少し進むと正面に正統院があります・・・建長寺第14世である高峰顕日(仏国国師)の塔所です!
正統院
この手前の石垣がいいんですよねぇ・・・以前、紅葉の季節に訪れた事がありますが凄い綺麗でした!

正統院は、もともとは浄智寺にありましたが建武2年(1335)、夢窓疎石により建長寺へと移されました・・・
高峰顕日(1241~1316)は後嵯峨天皇の皇子といわれています・・・16歳で円爾弁円のもとで出家し、鎌倉へ下ってからは兀庵普寧に学び、無学祖元から法衣と法語を授かりました。
その後、北条貞時の帰依をうけ、浄妙寺、浄智寺などの住持を経て建長寺第14世になりましたとさ・・・
冷泉為相とも親交があった様です!

木造高峰顕日坐像(国重文)は正和4年(1315)、院恵という仏師の手による物・・・作者年代がハッキリと分かる仏像は様々な意味で価値がありますね・・・

墓地には神雷戦士の碑があります・・・神風特攻隊ですね!・・・隊員の名前がビッシリと書かれていました・・・
半僧坊道3 半僧坊道4
正統院を後にして半僧坊道をドンドン奥へと進んで行きます・・・道の左側には家が立ち並びます・・・
招寿軒 そして半僧坊入口手前に建っているのが招寿軒です!
現在は営業していません・・・
『おせい』のモデルの浅見ハナさんも平成4年に亡くなったそうです・・・ナ~ム~・・・

当時はこの通り沿いに茶店が沢山出ていたそうです・・・
営業再開してくれないかなぁ?
こんな外観の定食屋があったら迷わずに飛び込むんですけどねぇ・・・これはかなりキテるなぁ!カツ丼食べてぇ~!
この招寿軒のある交差点は五叉路になっています・・・
今通って来た道、鎌倉学園グラウンドへの道、河村瑞賢墓への道、半僧坊への道、回春院への道・・・
ドコへ行きましょうか?・・・取り敢えず道向かいに玉雲菴があるので見てみましょう!
玉雲菴
何か寺というよりは普通の民家って感じです・・・ココは以前は畑地でした・・・
現在はNPO法人だかと一緒に『建長寺親と子の土曜朗読会』とかいうのをやってるみたいですね・・・門の所にその旨を示す看板が掛かっていました・・・朗読会の様子はYouTubeにもアップされてましたよ!

またココは、法堂の雲竜図を描いた小泉淳作がアトリエとしても使用していた様です・・・

一山一寧は正安元年(1299)に来日し、建長寺10世となりました・・・
正安4年(1302)には円覚寺の住持となり、一時は両寺を兼住しました・・・その後、眼を患い、建長寺の杉谷に玉雲庵を建てて移り住みます・・・
正和2年(1313)、後宇多法皇の招きで、南禅寺住持となり、後宇多法皇をはじめ公家の厚い帰依を受け、南禅寺で没し、南禅寺大雲庵、建長寺玉雲庵を塔所としました!

まぁ・・・普通の民家ですなぁ・・・ちょっと庭が広いみたいな・・・田舎でよく見かけるパターンです(笑)

お次は・・・回春院へ行ってみましょうか!
回春院
建長寺第21世である玉山徳璇(1255~1334)の塔所です・・・
彼は信州の人物で蘭渓道隆を師と仰ぎ修行に励み建長寺の住持となったようです・・・
葛西善蔵、五味康祐、大島渚の墓があります・・・
善蔵の墓には先程の招寿軒のハナさんも一緒に埋葬されているそうです!

精力回復に御利益がありそうな名称ですが、そーいった話は聞いた事がないですね(笑)
それもそのはず蘭渓道隆の語録『深山幽谷の面々は春に廻る』から命名されたそうですから!
大覚池という大きな池があり、鴨が沢山浮かんでいました・・・今夜は鴨鍋だっ!
この池も道隆が境内全域を水害から守る為の調整池として創建当時に造ったんだそうです
池を回り込む様に遊歩道が造られていて、奥へと続いていました・・・
以前やぐらか何かの調査を行っていたと思うんですが?・・・雪が降ってなければ奥まで行ってみたいんだがなぁ・・・

ちなみ塔頭の中でこの回春院だけは入口に『通せん棒』『立入禁止』の立札等がありませんでした・・・
建長寺の塔頭で普通に拝観できるのは円応寺だけだと思っていましたが、ココは開放されているんでしょうか?
それともこの雪の中を訪れる物好きもいないだろうと放置されていただけなのか?
建長寺はあまり来た事の無い寺なので事情は良く分かりません・・・

さて、次はドコへ行きましょうか?
鎌倉学園のグラウンドへ行ってもしょーが無いですし、半僧坊河村瑞賢墓次回紹介させて頂くとして・・・
取り敢えず戻る事にしましょう!
法堂横の道 法堂の所まで戻って来ました・・・
ココでようやく観光客と遭遇しました(笑)
修学旅行に来た中学生グループっぽかったです・・・
こんな大雪の日に可哀想に・・・いや、逆にいい思い出になるのかも知れませんね!

仏殿の前で『すみません写真撮って頂けますか?』
と頼まれました・・・久し振りに聞いたなぁこのセリフ・・・
自分は『すみませんそーゆーの慣れてないんで・・・』
と、丁重にお断りさせて頂きました・・・そして、唖然とする中学生を横目に先を急ぐのでした!
とゆーのは冗談でちゃんと撮ってあげましたよ(笑)・・・カメラはiphoneでした・・・
最近の中学生はスマホを操るのか!?・・・時代も変わったなぁ・・・と、あらためて実感させられました・・・

他にも2、3の観光グループが境内を徘徊していました・・・やっぱり雪の日でも来る人は来るんですねぇ・・・
どーせ来るならあと1時間早く来れば、また違った雰囲気を味わえるのに・・・

仏殿鐘楼の間に同契院があります・・・建長寺第31世である象外禅鑑(妙覚禅師1279~1355)の塔所です!
同契院
彼は肥後の人物で、円覚寺第23世を経て建長寺へ入りました・・・建長寺を去った後に円覚寺に同契庵を建てましたが、象外禅鑑没後の応安7年(1374)に火災に遭い、その後建長寺に移されたんだそうです・・・
本尊の木造十一面観世音菩薩坐像は江戸期の作!
他には長寿寺開山で建長寺第38世でもある古先印元坐像などがあります・・・

まぁ、これも田舎にありがちな普通の民家ですね(笑)

同契院鐘楼の間に坂道があり、その先には西来庵があります!
西来庵
建長寺開山である蘭渓道隆(大覚禅師)の塔所であり聖域です・・・
弘安4年(1278)に道隆が亡くなり、間もなく建てられたそうです・・・
境内は昭堂、開山堂、食堂(本堂)、大徹堂(座禅堂)からなっていたそうですが・・・現在、大徹堂は無い様です・・・
代わりに昭堂を座禅堂として使っている模様・・・

鎌倉期の木造大覚禅師坐像、乙護童子立像、聖徳太子立像などがあります・・・

開山堂背後の山には蘭渓道隆の墓があります・・・安山岩製の無縫塔で、和洋化された作風の最古品ともいわれています・・・横には無学祖元の墓もあります・・・鎌倉五山第一位(建長寺)と第二位(円覚寺)の初代住持の墓が並んでいるんですから、まさに聖地ですね!

ちなみに前は坂の入口に嵩山門が建っていたと思いますが、少し横に移動した様で同契院の庭の隅にありました!
道幅が以前よりかなり広くなっていたので、恐らく車が入れる様にしたかったのではないでしょうか?
そんな錯覚もあって、この道が西来庵に続いている道とは思わずに、またも普通に侵入してしまいました!
坂の入口に小さな柵がありましたが、ただの車止めだと思ってました・・・三門側から見れば柵に付いてる注意書きが目に入ったでしょうけど、同契院側からスルッっと入ったので全く気付きませんでした・・・
そして、『ん?』と思った時には西来庵の門前でした・・・聖地の割に他の塔頭に比べてガードが甘いッス(笑)

【新編鎌倉志】を見てみましょう!
【開山塔】
外門の額、嵩山(佛光筆。)中門の額、西来菴(筆者不知)昭堂の額、圓鑑(關山ノ筆。)昭堂の内、右の方に達磨の像あり。開山の像は自作なり。側に拄杖あり。開山宋より携へ来る。故に渡海の拄杖と云なり。左の方に乙護童子の像あり。此は江島の辨才天より、隨侍の為に遣して、開山一生の間だ隨身すと云傳ふ。然れども乙護童子は本より伽藍には有べき物なり。江の島より来にあらじ。

嵩山門の『嵩山』の文字は無学祖元(仏光国師)の筆による物だったんですね・・・そう聞くと有難味が増します(笑)

乙護童子はもともと伽藍にはある物だから別に江ノ島から来た物ではないといっていますが、これは常楽寺のページで書かせて頂いた色天無熱池の逸話を絡めてそーいっているんだと思います!
いきなり江ノ島とかいわれても意味分かんないですよね?(笑)・・・気になる方はチェックしてみて下さい!

【舍利樹】
昭堂の前にある混柏を名く。【元亨釋書】に、蘭溪を闍維して五色の舍利を待たり。其の煙樹葉に触れて累々然として皆舍利を綴る。門人遠方より至る者、數十日を歴て葬所に到て林木を搜索して多く舍利を得たりとあり。此より舍利樹と名くとなり。

現在も昭堂の前にはビャクシンの大木がありました・・・舎利樹と呼ばれていたんですね・・・

【嵩山幷ニ兜率巓】
開山塔の後の山を嵩山と號し、峯を兜率巓と云ふ。兜率巓に開山幷に佛光の石塔あり。佛光禅師は圓覚寺の開山なれども建長寺にて葬る故に塔は嵩山にあり。

開山塔の裏山を嵩山、峰を兜率天というらしいですね・・・兜率天というと弥勒菩薩が居る所ですね・・・
如来となる為に菩薩が居る場所で、かつては釈迦もそこに居ました・・・

聖域(西来庵)に侵入して長居するわけにも行かないので早々と退散です!
道隆祖元の墓・・・見たかったなぁ・・・
建長寺三門4 建長寺三門5
建長寺総門3 雪が・・・マジでやばいくらい降って来ました(笑)
来た時の三門の写真と見比べて頂ければ分かると思いますが、桜の木に降り積もっている雪の量が明らかに違います・・・そんなに長居してないんだけどなぁ・・・

塔頭の妙高院は鎌倉三十三観音巡りの時に来る事になるだろうし、今日の所はマジで退散した方が良さそうです!
中々良かったです・・・いつもこのくらいの観光客数だったら素晴らしい寺なんですけどねぇ・・・
もうすぐ桜の季節です・・・桜を見にわざわざ寺まで来る人々で溢れ返り、平日でも凄い人混みになります!
無理無理・・・家で寝てた方がマシ(笑)
建長寺駐車場2 船越講中の石標
数分前にはウチに帰ると心に決めていたんですが、総門から出ると急に、ココまで来たなら雪の円応寺も堪能させて貰おうという欲が出てしまいました(笑)・・・一応建長寺の塔頭ですしね!

てー訳で旧東外門側の出口から寺を出る事にします・・・円応寺はすぐそこ、歩いて1分くらいです!
出口の道路端に石柱が建っていました・・・
側面には『是勝上けん八町』の文字が見えます・・・道標の様です・・・よくあるどっかの講中が建てた物でしょうか?

道誌 寄付 船越講中

え!?・・・船越ですか?・・・自分が小学校の6年間を過ごした町ですよ(笑)
逗子市に隣接している横須賀の小さな町です!
寺もひとつしかありません!・・・あ、心王寺とかいうよく分からない怪しいのがもうひとつあったなぁ・・・

こんな大寺院の入口に船越の講中が寄進した石標が建っていたなんて・・・何にしてもちょっと嬉しい発見でした!
小さな発見の喜びに浸りながら円応寺の階段を上ります!
円応寺1 円応寺2
しかし門は固く閉ざされていました・・・『拝観終了しました』ってお前、今日は始めてもねぇーだろっ!
それに『三時半終了です』って、いくらなんでも閉めるの早過ぎでしょ!・・・サラリーマンに謝れっ!(笑)
くそぉ・・・せめて階段の下に書いといてくれよぉ~!・・・せっかく上ったのに・・・幟が出てたらやってると思うべさ・・・

ちょっと欲を出したばっかりに無駄な体力を使ってしまった・・・まだまだだなぁ自分・・・
禅の修行に於いて、睡眠時間を減らし、睡眠欲で他の欲を除くというのがあるそうですが、全然眠くないや(笑)
以前は長距離バスの運転手などが超過勤務で居眠り事故などをよく起こしていましたが、彼等もある意味全ての欲を断ち切った禅僧の様な境地に達していたのかも知れませんね(笑)

少し北鎌倉駅方面に下ると禅居院があります・・・ココも建長寺の境外塔頭です!
禅居院
建長寺第22世である清拙正澄(1274~1339)の塔所です!
一般拝観不可なのは知っていますがちょっと様子だけ覗いてみました・・・

創建:元徳年間(1329~1331)、開山:清拙正澄(大鑑禅師)、開基:小笠原貞宗
寺宝には本尊木造聖観音菩薩半跏像(県重文)他、秘仏の木造摩利支天坐像があります・・・
寺に伝わる【護国摩利支尊天霊像記】によると、この摩利支天像は清拙正澄が来朝した際に中国皇帝から託された物だそうです!

清拙正澄は中国の僧で、嘉暦元年(1326)に北条高時の招きで来日しました・・・建長寺の他、円覚寺、浄智寺、南禅寺、建仁寺などの住持を務め、信濃に開善寺を開きました・・・
清拙正澄は漢詩文に優れた人物で、【禅居集】などの作品があります・・・

ちょっと消化不良なのでもうひとつ寺を巡りたい・・・でも拝観料を取られる寺はヤダ・・・
亀ヶ谷坂 となると北鎌倉では光照寺しかありません・・・
でもわざわざ訪れる様な寺ではないしなぁ・・・

亀ヶ谷坂が通れる様だったら寿福寺へ参ってそのまま鎌倉駅から電車に乗るか・・・うん、そーしよー!
寿福寺もこの雪でかなりイイ感じだろうなぁ・・・

つー訳で亀ヶ谷坂ですが、これは無理だなぁ・・・
雪かきしたようですが、これは・・・
逆に滑りやすくなってます・・・もうちょいフワッと積もっていれば行けそうですが、ちょっと危ないですね・・・
それもコチラ側だけの話で、反対側の斜度はコチラ側の比ではないので、滑ったらそのまま下まで行きそうです(笑)
オッサンが独りで坂の上から下まで滑ってる絵は悲し過ぎます・・・ダメだコリャ・・・帰ろ帰ろ!

今回、雪の中、プランBとして建長寺を訪れてみましたが、凄い良かったです!
特に最奥部の半僧坊は完全に別次元でした!
静けさの中、雪の降る音に耳を傾け、眼下の景色を眺めていると、時間の概念は完全に消し飛びます!

建長寺・・・素晴らしい寺ですね・・・雲霞の如しな観光客さえいなければ・・・

おしまい
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