ブログ 常楽寺タイトル
File.050 
 
常楽寺はJR北鎌倉駅と大船駅のちょうど中間地点にあります・・・若干大船駅寄りではありますが、どちらからも1km以上は歩かねばなりません・・・北鎌倉の多少風情のある道を歩くか、店舗の立ち並ぶ大船の賑やかな道を歩くか・・・
悩みドコロですね・・・自分はいつも自転車なので必然的に北鎌倉からのルートになってしまいますが、大船もいろんな店があって飽きないと思います、景観重要建築物第14号の小池邸もありますし大船ルートもアリですね!

常楽寺は歴史のある寺なので一度は訪れて置いて損は無いと思います!
常楽寺参道 常楽寺山門
寺の案内板があります・・・見てみましょう!

粟船山常楽寺と号し、開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ、大覚禅師の初道場です。寺の名は泰時の法名常楽寺殿からとったものです。また鎌倉国宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。

相変わらずシンプルな説明です・・・嘉禎3年(1237)北条泰時が妻の母の供養の為に粟船御堂(あわふねみどう)を建てて退耕行勇が導師を務めた事がこの寺の始まりとされています・・・その事は【吾妻鏡】にも見えます!

嘉禎3年12月13日 庚寅 晴
左京兆室家母尼の追福の為、彼の山内墳墓の傍らに於いて一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。導師は荘厳房律師行勇。匠作・遠江の守聴聞せしめ給う。

退耕行勇は頼朝や政子も帰依した高僧です・・・政子が出家した時も行勇が戒師を務めています・・・
鎌倉では東勝寺や浄妙寺を開いています・・・

梵鐘については建長寺、円覚寺の物と合わせて鎌倉三名鐘と呼ばれています!
他の2つは国宝ですが、ココのは悲しいかな国重文であります・・・おまけに鎌倉国宝館に寄託しているのでココへ来ても見る事は出来ません・・・宝治2年(1248)の銘があり市内最古の梵鐘であります!

粟船は大船の地名の由来のひとつで青船とも記されていたそうです・・・
昔はこの辺も入り江だったらしく粟を積んだ船が繋がれていた事に因むそうです・・・
常楽寺扁額 以前友人が栗船山といっていましたが・・・
『栗』(クリ)じゃなくて『粟』(アワ)ですから!(笑)
確かにクリもモンブランっぽくて中々捨てがたいですけど、ココの山号は粟船山(ぞくせんざん)といいます!

モンブランって昔は嫌いだったけど、最近はそーでもないなぁ・・・ケーキ自体あまり得意ではないんですけどね・・・
昔、地元の仲間とパフェを食べに行って、メニュー見たら冷やし中華があったので頼んでしまいました(笑)
それくらい甘い物は苦手です・・・地元の仲間達はアホみたいに全員甘党なんですよね・・・
まぁ、別にいいんですけどね・・・アホな話は置いといて【新編鎌倉志】を見てみましょう!

【常楽寺】
常楽寺は離山の東北、粟(或作青。)船の郷にあり。粟船山と號す。【常楽寺略傳記】に曰く、古老相傳、以粟船號村、依山得名。此地往時為海濱。以載粟船繋于此。一夕変而化山。今粟船山是也、其形如船、又海濱化為桑田。人家于此。故曰粟船村、山南曰垢拂村、昔掃船中垢處也、又山北有小山、形圓轉、里民呼曰柄杓山。汲垢水器化山。其餘依名不具記。此地四仞之下、腐貝朽蘆、古株泥等今猶存。鑿井知焉とあり。
此寺は平の泰時の建立なり。泰時を常楽寺と號し、法名観阿と云ふ。位牌に、過去観阿禪門とあり。本尊、阿彌陀三尊なり。【東鑑】に仁治四年六月十五日、故前の武州(泰時。)周關の御事を、山の内粟船の御堂に於て修せらる。
又、建仁六年六月十五日。前武州(泰時。)十三年忌のため、彼の青船の御塔を供養せらる。導師は大阿闍利道禪とあり。按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時頼、隆蘭溪が来化を聞、延いて常楽寺に居らしむと有。此の寺元は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり。

昔この辺は入り江で粟を積む船が繋がれていた・・・そんなこんなで山が出来た・・・それが今の粟船山だっ!
その形はまるで船の様だった・・・そして人が住み着き粟船村となった・・・と言っていますね・・・
古老の話では粟船村は山の名前から来ているとの事です・・・
自分が思っていたのとはちょっとニュアンスが違いました・・・粟積んだ船があったから粟船でいいじゃんかよぉ!

泰時の回忌法要もココで行われた様ですね・・・
そして元々は天台宗だったが蘭渓道隆(大覚禅師)が入ってからは禅宗に改宗したともあります・・・
蘭渓道隆は寛元4年(1246)には日本に来ておりました・・・5代執権北条時頼は宝治2年(1248) 、寿福寺にいた道隆をココに招き禅の道場を開きます・・・こうして純宋風の禅が広められる事になります・・・
教えを請う多くの僧で境内は溢れ返ったと伝わります・・・

建長5年(1253)、建長寺の落慶供養が行なわれます!・・・以下はその時の【吾妻鏡】の記事です・・・

11月25日 庚子 霰降る。辰の刻以後小雨灑ぐ
建長寺供養なり。丈六の地蔵菩薩を以て中尊と為す。また同像千体を安置す。相州殊に精誠を凝らせしめ給う。去る建長三年十一月八日事始め有り。すでに造畢の間、今日梵席を展ぶ。願文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は相州、導師は宋朝の僧道隆禅師。また一日の内五部大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝万歳、将軍家及び重臣の千秋、天下太平を祈り、下は三代の上将、二位家並びに御一門の過去数輩の没後を訪い御うと。

地蔵菩薩千体が安置されました・・・さすがに気合入ってますね!
こうして蘭渓道隆は建長寺の開山となりました・・・建長寺の住持は常楽寺も兼任しました!
常楽寺なくして建長寺はなし!・・・これが『常楽は建長の根本なり』といわれる由縁であります!

先へ進みましょう!・・・山門は潜れないので横の木戸から・・・極楽寺スタイルですね・・・ 
常楽寺山門2 仏殿への道
右手には本堂と庫裏があります・・・ちなみに本堂には釈迦如来が安置されています!
正面には仏殿が見えています・・・
常楽寺石碑 常楽寺銀杏
途中に石碑がありました・・・『之是銀杏樹開山禅師御手植也』とあります・・・開山禅師とは退耕行勇の事なんでしょうか?それとも蘭渓道隆?・・・そーいえば退耕行勇ってかなりの高僧ですけど禅師号って聞いた事ないなぁ・・・
もしかして贈られてないのかな?・・・そんな馬鹿な!・・・ちなみに日本で最初に禅師号を贈られたのは蘭渓道隆です!
没後に後宇多天皇より『大覚』という禅師号を賜りました!

まぁ、取り敢えずその銀杏が大正6年の台風で傾いて、関東大震災で更に傾いて、昭和13年8月30日の台風でついに倒れたんだそうです・・・でも檀信徒や有志の援助で復旧したよって事が刻まれていました・・・
銀杏の木は石碑のすぐ後ろにありましたが、いまだに傷跡が生々しいです・・・
常楽寺庚申塔1 常楽寺庚申塔2
石碑の左側の方に脇道があり石柱が見えたので、そちらへ進んで見る事にしました・・・コレは!?
【星ノ井】のページで自分がでしょうか?頭が取れちゃったんでしょうね・・・』と、いってたものと全く同じ形状・・・ 
常楽寺庚申塔3 常楽寺庚申塔4
これも頭が取れたのか?・・・そんな馬鹿な・・・それに割れたような形跡もない・・・
良く見るとカエルにしては脚の形状が少しおかしい・・・そしてケツのワレメがいいですね(笑)・・・じゃなくて!
実は壊れたのではなくて、コレはこの形状が本来の姿なんじゃないのか?・・・う~ん・・・何なんだろう?

そこへ地元の方らしきお爺さんがコチラへ向かって歩いて来たので、コレは一体何なのか尋ねてみました・・・
答えは簡潔・・・だそうです・・・コレはいわゆる庚申塔で、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿をこの一体で表しているんだとか・・・つまり頭を地面に突っ込んでそれを体現しているとゆー訳です!

なるほど!コレはスッキリしました!・・・だてに長生きしてないなぁ、お爺さん凄ぇや!
老人は家で寝ててくれないかな、とかいって申し訳御座いませんでした・・・これからは知恵袋と呼ばせて頂きたい!
でも今日はもう用は無いので帰っていいですよ・・・これからは日曜くらいなら出歩くのを大目にみます!(笑)

いやぁ~ホント何だろうって思ってたんで解決できて良かったです!・・・やっぱ知らない事は聞くのが一番ですね!
歴史の本質について語る物は多くを知らず、知る物は多くを語らず・・・というのが定説ですが、まさにその通り!
かくいう自分も素人レベルであります・・・もっと勉強せねばなりませんなぁ・・・

ところでこの猿窒息死しますよね?・・・既に死んでるのかな?(笑) 
常楽寺仏殿 常楽寺阿弥陀三尊
晴々とした気分で仏殿へと向かいます・・・ココには阿弥陀三尊が安置されています・・・光背が綺麗ですね・・・
ココの天井には狩野雪信による『雲龍』が描かれています・・・目が白く塗り潰されていますが、これは夜な夜な龍が水を飲みに行ってガタガタと五月蠅いので目を塗り潰したんだそうです・・・以後は大人しくなったという話です!
写真はどーしたって?・・・なんか浮かれ気分で撮り忘れてしまいました(笑)
常楽寺文殊堂 仏殿の左横には文殊堂(秋虹殿)があります・・・
当然文殊菩薩が祀られています・・・【新編鎌倉志】には、
文殊堂 額、秋虹殿トアリ。文殊、毗沙門、不動ヲ安ズ。文殊ハ首バカリ蘭溪宋ヨリ持來リ體ハ本朝ニテ蘭溪作リギタルトナリ。
とあります・・・現在は秋虹殿の額は見当たりません・・・
蘭渓道隆が首だけを宋から持参して、体はこっちで造った様ですね・・・
1月25日の文殊祭りの時だけ開帳されます!・・・右手に如意、左手に経巻を持ち、岩に座した像容であります・・・
胎内銘札によると、永禄10年(1567)5月に仏師長盛が彩色し直した事や、安永2年(1773)に仏師三橋宮内が修復した事が伺える様です・・・
『常楽寺略記』は、この文殊菩薩像はわが国における五文殊(第一奥州永居、第二和州安倍、第三当寺、第四丹後久世渡、第五甲州市川)のひとつで、「御首ハ天竺毘首羯摩作、開山禅師宋国ヨリ将来、自(みづから)尊容ヲ続ギ当寺ニ安置シ玉フ。宝治二年戌申十二月、禅師時頼ノ請ニ応ジテ寿福ヨリ当寺ニ移住シ玉フ。翌建長元巳酉ノ春、時頼僧堂ヲ建立シ一百人ノ大衆ヲ安ズ。即静覚堂ト扁シ此文殊ヲ以テ本尊トス。」と記しています・・・
色天無熱池 色天無熱池2
仏殿の右側には色天無熱池と呼ばれる物があります!・・・色天とは不浄な欲界から離れた清浄な世界で禅僧が生まれ変わる場所といわれています、また、無熱池とは阿耨達池といわれる竜王が住む池の事で炎熱の苦しみの無い場所だそうです・・・この色天無熱池には言い伝えがあります・・・

江ノ島弁財天蘭渓道隆に仕えていた乙護童子を美女に変身させてからかったっていう話です・・・
そうとは知らない童子は、いつもの様にせっせと道隆に仕えていましたが、傍から見ると道隆が美女を連れている様にしか見えません・・・当然巷では、道隆が美女を侍らせているという話でもちきりとなります・・・
事の次第を知った童子は、身の潔白を示す為、俄かに白蛇と化して仏殿前の銀杏樹を七周り半回り、色天無熱池を尾で叩いたとの事です・・・
単に美少年だったが同じ様に噂が広まり、疑いを晴らすために白蛇になり江ノ島弁財天の使いである事を示したという話も聞いた事があります・・・ 
常楽寺墓碑 北条泰時の墓
仏殿の裏には墓が3基並んでいます・・・向かって右側が北条泰時の墓であります・・・
だいぶ古そうですが・・・五輪塔だったんでしょうか?・・・寄せ集め感は否めませんねぇ・・・
3代執権北条泰時は御成敗式目を制定したり、朝夷奈切通を開いたり、和賀江嶋を築港したりと色々やっている人物です・・・
龍淵和尚の墓 大応国師の墓
そして真ん中が中興に尽力したという龍淵和尚の墓・・・保存状態がいいですね・・・
そして向かって左側には大応国師(南浦紹明)の墓がありますが・・・何だコリャ?・・・何か恥ずかしい墓だな?(笑)

大応国師は宋からの帰国後は蘭渓道隆のもとで要職を勤めました・・・その後、博多の崇福寺に移り30年以上北九州を拠点にしましたが、徳治2年(1307)に北条貞時に招かれ建長寺の住持となっています・・・
大応国師の教えは京都大徳寺の開山大燈国師を始め多くの高僧に伝えられ、京都妙心寺の開山関山慧玄国師に受け継がれました・・・これが『応、燈、関の一流』といわれる現在の臨済宗の源流なんだそうです!
常楽寺絵図 北条泰時の墓ですが、【新編鎌倉志】には、
『山ノ上ニアり』・・・とだけ記されています・・・
非常に見難いと思いますが、左の画像の上部真ん中に五輪塔が描かれています・・・
『平泰時塔』と文字が書かれています!
その左横が姫宮木曽塚であります・・・
そして下に描かれているのが恐らく色天無熱池だと思われます・・・
やはり泰時の墓は当時は山上にあった様ですね・・・
いつ頃に現在地へ移されたんでしょうかねぇ・・・
せっかくなんで姫宮(泰時の娘)の墓木曽義高の墓も見て置きましょう! 
常楽寺境内 常楽寺境内2
いやぁ~、微妙なカエルだと思い込んでいた物が猿だと判明して中々実りあるひと時でした・・・
取り敢えずココから裏山へは行けないので一度外へ出ましょう・・・ 
木曽塚への道 木曽塚への道2
外へ出たら回れ右して境内沿いの細い道を進んで行きます!
木曽塚への道3 木曽塚への道4
突き当りのシケインを抜けるとすぐに山道が始まります!・・・気合を入れて歩きましょう!
木曽塚への道5 案内板
そして延々1時間歩くと到着であります!・・・というのは冗談で、1分もあるけば着きます(笑)

奥 粟船稲荷、手前 姫宮の墓(泰時公の娘)

と書かれた案内板が立てられています!
こーゆーの助かりますよね・・・鎌倉は訳の分からない物件が多いですから・・・
姫宮の墓 粟船稲荷
姫宮の墓・・・花がナチュラルにドライフラワー化しています・・・相当放ったらかしにされている事実が伺えますね・・・
常楽寺が管理している訳ではないんでしょうか?・・・昨日今日の枯れ具合じゃないですよね?
いくら寺の近くにあってもこれではちょっと可哀想な気がします・・・かくいう自分も花など持ち合わせていませんけど・・・

そして粟船稲荷・・・金色の霊狐です!・・・何か野暮ったいなぁ・・・ココだけ東南アジア臭をまき散らしております(笑)
絵図から察するに、以前はこの辺りに泰時の墓があって父娘一緒に供養されていたんでしょうか?
それとも全部山上にあったのかな?

取り敢えず山上にある木曽義高の墓へ向かいましょうか!
木曽義高と頼朝の長女大姫の話は【扇ノ井】のページでさせて頂きました・・・
鎌倉で1、2を争う悲恋の話だと思います・・・
そしてこの姫宮の墓が大姫の墓であるという説もあります・・・こじ付けの様な気もしますがホッコリしますね・・・
でも何の文献か忘れましたが、政子が大姫をココで供養したという話もありますので、一概にこじ付けともいえません!
木曽義高の墓 木曽冠者義高之墓
少し登ると『木曽塚』と呼ばれる木曽義高の墓へ到着であります・・・例の如く史跡碑が建っています!

義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル 爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ元此地ノ西南約二町木曾免トイフ田間ニ在リシヲ延寶年中此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ餘韻ヲ傳ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
                                            大正十五年一月 鎌倉同人會 建

木曽義高は木曽義仲の長男であります・・・かつて義仲は頼朝の怨を招き、戦になろうとした時、義高を人質として鎌倉に送り、ようやく和解する事が出来ました・・・以後、義高は頼朝の世話になり、 その娘を妻に迎えました・・・その後、義仲が粟津で殺された事を聞き及び鎌倉を逃げ出しましたが、入間川で捕まり斬られました・・・塚は、元はココから南西に約200メートルの所の木曽免という田の間にありましたが延宝年間にココへ移されたそうです・・・旭将軍といわれた義仲は、激しく豪快な短い人生を送り、運命に弄ばれ薄命であったその息子の首はココにて永い眠りを結んでおります。

てな感じですね・・・【新編鎌倉志】も見てみましょう!

【木曾塚】
姫宮の西にあり。此の塚、本は常楽寺の未申の方、十町ばかり田の中に有て、里民呼んで木曾免と云ふ。相傳ふ、木曾義仲の嫡子、清水の冠者義高が塚なり。義仲は江州にて討たる。義高は頼朝の婿にて、鎌倉に在りしが、ひそかに遁れて、武州入間河原にて、追手の堀の藤次親家が郎黨、藤内光澄に討たる。光澄首を持て歸る。實検の後、爰に葬ると也。【東鑑】に、元曆元年四月廿六日とあり。
延寶庚申二月廿一日に、田の主石井某と云者、塚を掘出して、今の所に移す。塚の内に、青磁の瓶あり。内に枯骨泥に交はつて有しを洗ひ清めて塚を建しとなり。

木曽免は常楽寺から南西約1.1kmの所にあったといっています・・・石碑の内容とだいぶ距離が違いますね・・・
常楽寺のドコから十町なのか知りませんが、結局木曽免はドコなんでしょう?
延宝庚申は延宝8年(1680)です・・・2月21日に石井なにがしって輩が畑から掘り出して現在地へ移した様ですね・・・

【鎌倉攬勝考】も【新編鎌倉志】と同じ内容でした・・・でも義高石塔という項目がありました・・・

【義高石塔】
寺後の山上にあり。石面に木曽冠者義高公の墓とあり。
義高石塔 木曽塚
『木曽清水冠者義高公之墓』と刻まれています・・・これが義高石塔で間違いないでしょう・・・
そして、その後ろの木の根元にあるのが木曽塚と呼ばれる物です・・・塔婆が地面にブッ刺さってますね・・・
地面に刺さっている塔婆は久し振りに見ました・・・
義高は4月26日に殺されています・・・塔婆の日付もその前後の物でした・・・11才で殺された義高ですが、現在もちゃんと供養して貰っている様です・・・成仏してますかね?

それより理不尽な扱いを受けたのは義高を斬った藤内光澄です・・・コチラは死んでも死にきれないと思います・・・
命令通り斬ったのに晒し首なんて・・・成仏なんか不可能ですよね?
木曽塚2 木曽塚3
木曽塚から常楽寺へは下りずに矢印方向へ進むと墓地があり住宅街へと繋がっています・・・
その途中右側フェンス越しに五輪塔を1基発見しました!・・・近くで良く見てみたいけど金網フェンスで先へは行けない様になっています・・・五輪塔のすぐ先は常楽寺まで崖になっていますから当然の危険防止柵です・・・

竹林となっていますが、ちょっと不自然な2段階の平場の様に見えます・・・
もしかしてココに姫宮と泰時の墓があったのではなかろうか?・・・そして地震か何かで下まで落ちた・・・
なんてバカな話ある訳ない(笑)・・・でも元々この辺りにあったという可能性はありますよね!
常楽寺絵図2 【鎌倉攬勝考】付随の粟船村常楽寺の絵図です・・・
この時にはもう泰時の墓は現在の位置へと移っていた様ですね・・・
説明も『阿彌堂の後にあり』・・・となっています・・・
そもそもホントに山上にあったんでしょうか?
【新編鎌倉志】は結構テキトーな所もあるからなぁ・・・

それより銀杏古木が描かれているんですけど、何か形がちょっとおかしい気が?・・・折れてる?
江戸時代には既に折れていたんでしょうか?・・・謎がどんどん増えて行きます・・・
庚申塔のお爺さんにもう一度お話を伺いたい気分です・・・そして問題が解決したらまた家で寝てて貰いましょう!(笑)

おまけ


『常楽寺』といえば北向観音でしょうか!・・・長野県のこの辺りは『信州の鎌倉』と称されています・・・
相染食堂という店であまり得意でないうどんを食べたので、自分的には強く印象に残っている場所であります!
馬肉好きな寺仲間が事前に下調べしていた様で、ココの肉うどんを食べてみたいとの事だったので乗っかりました!
味は・・・よく分かりませんでした・・・普段あまり食べない物は判断の基準が分からないんですよね(笑)
北向観音 北向観音2
北向観音の入口です・・・参道は階段下りてまた上がる仕様になっていました・・・
北向観音3 北向観音4
ココは信州で一番古いといわれる別所温泉があります!・・・温泉街の雰囲気がプンプンしますね!
この手のお土産屋って全然関係ないおもちゃとか売ってますよね・・・ココもご多分に漏れずそうでした・・・

階段の脇には『長楽寺古跡』と、刻まれた黒光りした石柱が建っています・・・北向観音はもともとはこの長楽寺の本坊であったそうです・・・
北向観音5 北向観音6
北向山の額が掲げられています・・・単純に北を向いているからその名が付いたそうです・・・
南向きの善光寺と一対とされていて両方行かないと片参りになってしまうとか・・・メンド臭いシステムですね・・・
懸造りの薬師堂もイイ雰囲気を出していました!

鎌倉にも長谷観音がありますが、それと対をなす様に材木座の来迎寺の東の山に観音堂があったそうです・・・
散歩中のジイさんが語ってくれました・・・テキトーな事いってんじゃないだろうなと思って調べてみたら、どーやら本当にあったようです・・・戦時中に敵の目標になるといけないとの事で取り壊されたそうです・・・

北向観音の裏には観音様が火柱と共に出現した場所というのがあって、現在多宝塔が建っているんですが、自分は観音堂だけ見て次の目的地へ向かうというミーハーぶり・・・観音堂を管理している常楽寺へも行きませんでした(笑)
完全にザ・観光客です!

北向観音は木曽義仲の兵火で焼失した様ですが、源頼朝の命のもと伽藍復興がなされ、建長4年(1252)、塩田陸奥守北条国時により再興された様です・・・
大師の湯 日野出食堂
入浴料金¥150ですって!・・・ちょっと安すぎないか?・・・逆になんか怖いんですけど・・・
別所温泉には公衆浴場が3つある様で、大師湯は北向観音開山の慈覚大師、大湯は木曽義仲、石湯は真田幸村に縁があるんだそうです・・・

そんなどーでもいい情報より日野出食堂ってのが気になって仕方ありませんでした!
こーゆー地味な定食屋って意外と美味かったりしますよね? 
安楽寺への道 安楽寺への道2
田舎っぽい道をどんどん進みます・・・っぽいというかリアルに田舎なんですけどね(笑)
のんびりした雰囲気に包まれた場所であります!
住みたくはないけど、たまにはこーゆー場所に来ないと人間やってられません! 
安楽寺への道3 安楽寺
ゆっくり時間を忘れて歩きましょう・・・でも駐車場を見ると・・・『何だ!車で来れたのかよっ!』って感じになります(笑)
『あ~時間損したぁ!』・・・これは現代人の性なんでしょうかね?・・・なんていってる間に安楽寺に到着です!
護良親王墓 安楽寺山門
さすが『信州の鎌倉』といわれるだけあります・・・所々に鎌倉っぽさを感じさせてくれます・・・
門へと続く階段も趣がありますね・・・そして門を潜ればまた違った風景が目に飛び込んできます!

気が付きましたか?・・・実は左上1枚(階段の写真)は鎌倉の理智光寺ヶ谷にある護良親王のそれです!
勝手に差し替えてみました(笑)・・・観光スポットではないのでちょっと荒れていますが、縁石の苔生し加減が全く同じ感じだったのでつい出来心で・・・失礼しました!
安楽寺の高野槇 安楽寺境内
天を貫くように突き抜けた高野槇が印象的な境内です・・・しかし見事に刈り込まれていますねぇ・・・
あんな高い所まで・・・庭師も大変でしょうねぇ・・・高野槇以外もとにかく刈り込まれています! 
安楽寺の紅葉 安楽寺境内2
紅葉のグラデーションが素晴らしい・・・自然が生み出す美しさには何やっても敵わないですね・・・
六地蔵の頭巾と前掛けも赤ですけど・・・やっぱ全然違いますね・・・比べる対象として間違ってるか?(笑) 
安楽寺境内3 八角三重塔
綺麗な景色の中をどんどん進んで行くと見えて来ました・・・八角三重塔!・・・国宝です!
四重塔に見えるけど三重塔なんだそーです!
八角三重塔2 八角三重塔3
斜めってますが案内板貼って置きますね・・・興味のある方は目を通してみて下さい! 
八角三重塔説明
安楽寺の紅葉2 珍しい物なのかも知れませんが、この塔に関しては別段惹かれる様な感情は湧いて来ませんでした・・・

まぁ、国宝なので一度は見て置いて損は無い!
と、思う事にしました・・・
何ででしょう?・・・思ったより小さくまとまり過ぎていたからかなぁ?・・・修復したばかりなのか屋根が妙に新しかったのもその要因のひとつかも知れません・・・
難しいですね・・・
自分的にはあの綺麗に刈り込まれた高野槇の方が印象深い物となっています・・・そして一番は肉うどん!(笑)
何にしても紅葉が綺麗でよかったです!

結局三楽寺巡りのハズが、訪れたのは安楽寺だけというお粗末な結果に・・・
まぁ、長楽寺は廃寺だし行きたくても行けません、あの石碑を見た事で巡った事にするしかないです・・・
しょぼかったなぁ~あの石碑・・・もうちょっと何かを期待していたんですが残念でした・・・

今回の粟船山常楽寺とあわせて三楽寺巡り結願という事にして置きましょう!(笑)
おしまい
ダム 上へ     HOME