ブログ 星ノ井1
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星ノ井2 星ノ井3
長谷から極楽寺坂を上る手前右側にあります・・・『星月ノ井』『星月夜ノ井』ともいわれています!
昼間でも井戸の底を覗くと水面に星が映って見えたと言う話からこの名前が付いたとの事です・・・
今は蓋がしてあり井戸の底を覗く事は出来ません・・・

後ろの立札には、奈良時代の名僧行基がこの井戸で光る石を見つけ、これは虚空蔵菩薩の化身だと思い、堂を建てて祀った伝説があると書いてあります・・・
また、清らかで美味だったので昭和の初期まで旅人に飲料水として販売していたとも記されています・・・

すぐ横には『南無虚空蔵菩薩』と書かれた白い幟が立ち並ぶ階段があり、上には虚空蔵菩薩を祀ったお堂が建っています・・・
ココは向かいにある成就院が管理している『明鏡山円満院星井寺』という真言宗のお寺です!
通称『星の井寺』といわれています!
星ノ井4 階段の登り口右側の石柱には、でしょうか?
頭が取れちゃったんでしょうね・・・
井戸にちなんで蛙なんでしょうか?、
何にしても珍しい!

右側を頭として見てみると土下座している人にも見えて来ます・・・
仕事で何かやらかしちゃったんでしょうか?
この蛙については、後に自分の無知ぶりを思い知らされる事実が発覚します・・・
詳細は【常楽寺】のページへ!

階段の上部には狛犬が左右対で置かれていました・・・神仏混淆の名残ですね・・・

【新編鎌倉志】には『この井戸の西に虚空蔵堂があり星月山星井寺と言い極楽寺の成就院の持ち分である。』との記述があります・・・星まみれですなぁ・・・ また、次の様な記述もあります!

後堀河百首に常陸が歌に

『我ひとり 鎌倉山を 越へ行けば 星月夜こそ うれしかりけれ』

又、法印堯慧が『北國紀行』に極楽寺へいたるほどに、いとくらき山間に星月夜と云所あり。昔此道に星見堂とて侍りきなど、古き僧の申し侍りしかば、歌に、

『今もなを 星月夜こそ 残るらめ 寺なきたにの 闇の燈』

とあり。星の御堂と云ふは、此虚空藏堂の事なりと云ふ。今按ずるに、此谷の名を星月夜と云ふ。あながち井の名にはあらず。千寿の謡にも『明もやすらん星月夜』と有、古歌にも井は不詠。

星月夜とは単に井戸の名称から派生したのではなく、実はもともとこの谷戸の呼称ではなかろうか?
その証拠に古い歌には星月夜は出て来るが、井戸の事は詠まれていない・・・てな感じでしょうか?
答え(?)は石碑に刻まれておりました・・・

往時ノ附近ノ地 老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ 後 轉ジテ星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク

その昔この付近はデカイ木が鬱蒼と生い茂り、昼でも暗かったので『星月谷』といった、その後転じて『星月夜』といわれる様になった・・・この井戸の名称も恐らくそこから付けられたものであろう・・・
てな感じですね・・・

また石碑には、近所の下働きの女が井戸に菜刀を落としてから星は見えなくなってしまったとも、慶長5年6月、徳川家康が京からの帰路、鎌倉へ立ち寄り、この井戸を見た事により世に知られる様になったとも記してありました・・・

全てが星ノ井の呼称から派生して行った訳ではない可能性が高いと言う事ですね・・・
星ノ井5 星ノ井6
星ノ井を長谷方面へ少し戻り左折すると御霊神社(ごりょうじんじゃ)の参道になります・・・
ちなみにこの神社の面掛行列は県の無形民俗文化財に指定されています・・・

その参道入り口角にあるのが力餅家です!、小洒落てなくていい店名ですね!
木製の看板には『鎌倉名物夫婦饅頭』の文字が・・・この看板いい味出してます・・・

今回は草餅バージョンの権五郎力餅を頂きました・・・美味い・・・普通に美味いのがいいです!
商品名の由来は、この先の御霊神社の祭神である鎌倉権五郎景政に因みます・・・

品書きには袂石手玉石が描かれています。これは景政公が手玉にとり袂に入れたと言う伝説のある石です!
それぞれ十六貫(60kg)と二十八貫(105kg)あります・・・怪力ですね!
石は神社にありますが柵に囲われているので持ち上げる事はできませんよ!
星ノ井7 星ノ井8
祭神が鎌倉権五郎景政という事で知名度の高い神社ですが、何よりその立地にインパクトがあります!
鳥居の目の前に江ノ電の踏切があります・・・う~ん、なんとも鎌倉らしい風景ですね・・・
お参りした後に、極楽洞から出て来た 江ノ電に轢かれない様に気を付けましょう・・・
遮断機が下りたらゆっくり待ちながら風情を楽しむべし!

鎌倉権五郎景政は16才の時、後三年の役に初陣した際右目に矢を射られながらも果敢に戦ったそうです!
一緒に戦っていた平太郎(三浦為継)が景政に刺さった矢を抜こうとした際に顔を踏みつけた事に対し猛烈に怒っています!・・・以下は【奥州後三年記】のその場面です・・・

同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、

弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるる事にあらん。

しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかがめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよならびなし。

なんて誇り高い16才なんでしょうか!
自分がその時分はポテチとジュース飲みながらドラクエⅢとかやってましたよ(笑)

三国志演義の夏候惇みたいですね・・・あっちは自分で矢を引き抜いてその目玉を食らいましたが・・・
猛将のイメージの強い夏候惇ですが、実際は武芸も人並み程度のどちらかと言うと文官として功績を残すタイプの人物だったという話も耳にします・・・

景政も武勇とは別に開発領主としての一面を持っています・・・
父の代から鎌倉に住み大庭御厨などの開拓に尽力した人物です・・・
テラスモール湘南
が出来たのも彼のおかげかもしれませんね(笑)

高校の同級生が大庭に住んでいてテラスモールを大絶賛していたので、まだオープン間もない頃にちょっと様子を見に行った事があります・・・なんなんでしょう!あの人混みは!
行く時期を間違えました・・・あれから行ってませんけど少しは落ち着いたんでしょうか?

また、景政は歌舞伎十八番【暫】でもお馴染みの人物ですね・・・長い刀差して『しばらく~』ってヤツ!
歌舞伎にはあまり興味ないので内容は全く知りませんけど(笑)

後三年の役と言えば八幡太郎義家ですが、この戦は義家の私闘とみなされて朝廷からの恩賞は出なかったんですよね・・・で、義家は動員した兵達に私財を投げうって褒美をとらせたんです!
かっこいいですね・・・この出来事は関東武士の心を掴むに十分だった様です・・・

奥州合戦に関する書籍はその後の鎌倉を知る上で重要な人物がたくさん出て来るし面白いのでお勧めです!

以上、星ノ井でした・・・
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