|
|
長勝寺を出て逗子方面へ向かいます・・・とにかく左を見ながら歩いてください!
すると上の写真の様に狭い路地があります・・・
勇気を出して入って行くと、右側の足元にあるのが 銚子ノ井です!
別名『石ノ井』ともいわれています・・・単に石で出来ているからだそうです・・・
注意していないと絶対見つかりません!
自分もこの道は良く通るんですが、鎌倉十井なんて物があるとは知らない時分は全く気付きませんでした!
民家の小さな花壇の中に一応標柱は立ってたんですね・・・
写真には写ってませんが、すぐ左に地域の掲示板があるので、そっちに目が行ってしまいますよ・・・
名前の由来は、井戸の形がお酒を注ぐ『おちょうし』に似ている所からそう呼ばれているとの事・・・
蓋があります・・・6面で中心に向かって盛り上がっています・・・
こういう帽子をかぶっている人を見た事があります・・・どーでもいい話でしたね・・・失礼・・・
しかし毎回この石造の重そうな蓋を開けて使っていたんでしょうか?、女性には無理ですよねぇ?
ちなみにこのまま路地を進み裏道に出て右に少し行くと鎌倉五名水のひとつ日蓮乞水がありますよ!
【新編鎌倉志】巻之七の長勝寺の項にこうあります・・・
長勝寺は石井山と沸す。名越へ通る道の南の谷にあり。寺内に岩を切り抜きたる井あり。
鎌倉十井の一なり。故に、俗に石井の長勝寺と云ふ。法華宗也。
なんと長勝寺の境内にあったと・・・マジすか?、昔はここも長勝寺の境内だったのかな?
確かに電車も道路もない昔なら名越切通へと続く道は安国論寺をかすめて今の線路の北側にあったのかも知れない・・・道路の拡張と共に境内は削られて行ったんだろうか?
調べるのも考えるのもメンド臭い・・・あったってんだから取り敢えず行ってみよう! |
|
|
とゆー訳でやって来ました長勝寺!・・・帝釈天ゆかりの霊場となっております!
その帝釈堂の前に四天王に囲まれて日蓮さんの銅像が立っております・・・
5人揃うと何かヒーロー戦隊っぽい・・・
妙法戦隊ニチレンジャー!(笑)
辻説法をしているシーンですが、作者は高村光雲であります!、上野の西郷さんで有名ですよね・・・
ちなみに連れている犬は別の作者による物だとか・・・
四天王よりデカくて強そうです・・・こんな人に説法されたら無条件で帰依せざるをえませんねぇ・・・
ツボでも布団でもなんでも買いますよ!、いくら払えばええのん?
帝釈天はもともとはヒンズー教とかの武神で強いです!、女癖が悪いのでも有名です・・・
悪神の阿修羅と闘います!、倒します!
ちなみにこの超絶激しい闘いは『修羅場』の語源にもなっているそうです・・・おお怖っ!
でも阿修羅がキレたのは帝釈天が阿修羅の娘に手を出したからだとも・・・
仏教に取り入れられてからは護法の神様として天部を率いて戦います・・・
今の時代で言うと自衛隊の幕僚長みたいなモンでしょうか?
四天王も部下です・・・厳密には違いますけど・・・
お寺で門番しているあの仁王さんも帝釈天の化身とであると言われております・・・ |
|
で、井戸ですが探しまくって諦めかけた時、何気なく堂の裏に回ったら・・・
おおっ・・・井・・・池だ(笑)
金魚泳いでるし・・・いいなぁ・・・じゃなくてっ!
でも大きさ的に井戸として使っててもおかしくないなぁ・・・
よく見たら後ろの岩が掘られてて水が浸み出しているじゃないすか!
コリャ横井戸ってヤツですね・・・ |
文献にある『岩を切り抜きたる井』ってのにしっくりくるんですけどねぇ・・・
水脈があるのは確かだし・・・どうなんだろうか?
てゆーか、よく見たら金魚じゃなくて葉っぱに何かの実が付いて浮いてただけだった・・・
自分疲れてんのかな?
【新編鎌倉志】の続きで、
當寺は洛陽本國寺の舊跡なり。今は却テ末寺となる。寺僧語て曰く、此地に昔、日蓮菴室をとめて居せり。
後の日朗、日印、日靜と次第して居す。日靜は源尊氏の叔父なるゆへに此寺を京都に移し本國寺と號す。
址の長勝寺を弟子日叡に相続して住せしむ。日叡、寺號を妙法寺と改む。本、日叡を妙法坊と云ひしを以てなり。其の後、大倉の塔辻へ移し、又其の後、辻町へ移す、寺僧の云く、今の辻町の啓運寺なり。
近来、妙法寺と啓運寺と寺號を易へたり。辻町の啓運寺は元妙法寺なるを今は啓運寺と云ひ、名越の妙法寺は元啓運寺なるを今妙法寺と云ふ。其の謂を不知。今の長勝寺は荒地なりしを中比日隆法師と云僧、舊地を慕ひ一寺を立て、又、寺號を長勝寺と號す。故に日隆を中興開山と云也。
とあります・・・
つまり尊氏の叔父である日静が住職の時に京都に移して本國寺とした・・・
で、ここは弟子の日叡が受け継ぎ寺号を妙法寺とした・・・
その後大倉の塔辻、辻町と移動を重ねた・・・
坊さんが言うには今の辻町の啓運寺であり、近頃妙法寺と啓運寺の寺号を入れ替えた・・・
つまり、辻町の啓運寺は元は妙法寺だったけど今は啓運寺となり、名越の妙法寺はその逆なんだけど何故そうしたのかは俺は知らん・・・と。
で、荒れ果ててた長勝寺の跡地に日隆が寺を建て中興開山となったと・・・
なんと!、自分の好きな寺ランキング上位に位置する妙法寺が、嫌いな寺ランキングぶっちぎりトップの啓運寺だったなんて・・・昔の話とはいえかなりショック!
ちなみに日静(にちじょう)は姉の上杉清子が足利尊氏を生んでます!
日静の師匠に日印てのがいます・・・上の文献だと日静の前に住職してたみたいですね・・・
日印は九老僧と言われる日朗の高弟の一人です・・・日朗は六老僧と言われる日蓮の高弟の一人です・・・
つまり、骨の髄まで法華経まみれな系統ですね・・・
日蓮宗はその過激な布教活動から結構目を付けられ弾圧の対象になり易かったです・・・
1318年12月20日から翌年9月15日までの間、3回にわたって日蓮宗と他宗派との問答対決が執権北条高時の御前で行われる事になります・・・
日朗はこの時オジいちゃんだったので代わりに弟子の日印が出る事になりました・・・
負ければ日蓮門下は執り潰しと言う事になります・・・
この最大のピンチに日印は見事全宗派を論破して切り抜け布教を許されます!
この時の事を日静は【鎌倉殿中問答記】として執筆しております・・・
やり手のセールスマン並みに口が達者だったんでしょうねぇ?
この日蓮宗スーパーエースの日印さんですが・・・自分がいつもお世話になっているお寺の開基でした・・・
開山は日蓮さん・・・最近知りました。ハハハ・・・
この長勝寺、もともとは石井藤五郎長勝って人が配流先の伊豆から帰って来た日蓮さんに土地を寄進したのが始まりと聞いております・・・当然開山は日蓮で開基は石井藤五郎長勝・・・
ちなみに山号は石井山・・・
だもんで山号もこの人の名前から取ったんだと思ってましたが、石ノ井があるので俗に、『石井の長勝寺と言う』なんて記されてしまうと、こっちに由来があるのか?・・・とも思わされてしまいます・・・
石井藤五郎長勝も石ノ井があったので石井姓にしちゃいました(笑)・・・なんて事はないだろうな?
毎年2月11日に行われる大國祷会成満祭(だいこくとうえじょうまんさい)では千葉の法華経寺で100日間修行した僧達が総仕上げとしてここで冷水をかぶる荒行をします・・・寒そうだけど気持ち良さそうです!
法華三昧堂は県の重要文化財に指定されています!
八角円堂にはタイから来た金色の釈迦像があります・・・開眼式にワサケ寺のスリウリスメスイ大僧正が来られたそうです・・・早口言葉みたいな名前ですね(笑)
先程出た妙法寺の日叡ですが、護良親王の息子です・・・妙法寺は山との融合が素晴らしい寺です!
仁王門から続く苔生した階段がたまりません・・・立ち入り禁止ですけど・・・
横の階段を上って日叡が植えたと言うソテツを横目に更に登り、右に行くと護良親王の墓、左に行くと日叡とその母である南方の墓があります・・・親子三人仲良く!
護良親王の墓は理智光寺址にもありますが、あちらは宮内庁が管理しています・・・
また妙法寺では5月5日に加藤清正にちなんだ祭事があり、必勝のお守りが配られますよ!
さてさて妙法戦隊ニチレンジャーの四天王ですが、それぞれ東西南北を守護しています!
持国天、増長天、広目天、多聞天といますが誰がドコ守ってんだか・・・てな方にウケウリではありますが、
東 南 西 北 の順に地蔵買うた!
何故か関西弁ですけど(笑)・・・持 増 広 多です・・・
【東:持国天】、【南:増長天】、【西:広目天】、【北:多聞天】って事です・・・
誰が考えたんでしょうか?・・・関西弁がウケル!
4個もお地蔵さん買わされちゃたんですね・・・どんだけ気の弱い関西人なんでしょう(笑)
北方を守ってるリーダー格の多聞天ですが、ほぼマストで右手に宝塔、左手に宝棒、三叉戟を持っています!
で、彼が独尊で崇められる時だけ毘沙門天と言われます・・・
毘沙門天の時はだいたい左手に宝塔を持ち替えます!
ただ日蓮宗法華曼荼羅での四天王では4人勢揃いの時も毘沙門天です・・・あしからず・・・
だもんでココ長勝寺の四天王の台座には『大毘沙門天王』と表記されています・・・
隣に『交通安全』と書かれてて思わず笑ってしまいました・・・ |
|
|
|
|
さぁ、もうどれが毘沙門天(多聞天)か分かりますよね?
左から順に『持』 『増』 『広』 『多』です・・・四天王を見分けるのは配置と持物で大体はOKです!
持国天は刀を持っている場合が多いです、増長天も刀か戟が多いです・・・
ココのは独鈷も持っていますね、広目天は筆と巻物・・・それか羂索、ココは羂索パターンですね、長谷寺のは前述パターンでした、多聞天は宝塔です・・・
ただ、各々が自由にテキトーな武具を持っているパターンもあるので注意!
特に『持』、『増』のお二方はかなり奔放でテキトーです!(笑)
そんな時は配置で見分けましょう!・・・配置が変わる事はまずありません!
本尊(ココでは日蓮上人)に向かって右前が持国天、左前が増長天、左後ろが広目天、右後ろが多聞天です!
写真だと良く見えないと思いますが、各々のヘソの所に邪鬼の顔みたいのがあり、紐でベルトみたいに巻き付けてあります・・・これが所謂天邪鬼って奴で、もともとは水の神様だった様です・・・
後世、邪鬼を踏みつけるお馴染みの像が造られ始めると、下で苦悶の表情を浮かべてる方が天邪鬼として浸透して行ったと言う話を聞いた事があります・・・
四天王信仰は古く、あの聖徳太子が創った四天王寺は593年創建です!
物部守家との戦いで聖徳太子が自ら四天王像を彫り『戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう』と願い、勝利の後その約束を守って建立した様と伝わります・・・
蘇我馬子とか懐かしいですね~・・・
毘沙門天は室町末期に始まる七福神信仰の一員となります、福神戦隊ナナレンジャーですね(笑)
鎌倉・江の島七福神の毘沙門天は宝戒寺にいらっしゃいます・・・
弁財天は鶴岡八幡宮ですよ、間違えて銭洗の方に行かないで下さいね・・・
それと、七ヶ所巡った後に江ノ島の弁財天で結願という見方もあるそうです!
毘沙門天は武将達にも人気があり、先程の護良親王つながり行くと、彼と共に戦った楠木正成の幼名は多聞丸といいました・・・有名な所で上杉謙信が、自分は毘沙門天の生まれ変わりだと信じていた様ですね・・・
彼が上杉姓を名乗る様になったのは山内上杉家当主上杉憲政から関東管領職と家督を受けついだからです!
拝賀の式は鶴岡八幡宮で行われました・・・
1561年3月小田原城を攻め切れず鎌倉に戻って来た時です!
もともとは上杉家の下で越後の守護代を務め長尾景虎と言いましたが、上杉姓を名乗る際に憲政から一字もらい上杉政虎とします・・・その後将軍足利義輝からやはり一字もらい上杉輝虎・・・
最終的に出家して上杉謙信となります・・・でも出家した後も普通に戦います(笑)
ちなみに足利義輝は唯一戦死した将軍ですね・・・
あと毘沙門天の使いは百足(ムカデ)です・・・以上銚子ノ井でした・・・ |