ブログ 鉄ノ井1
鎌倉十井 
    
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鉄ノ井2 鉄ノ井3
鎌倉駅から人混みで溢れかえる小町通りを北上するとやがて宝戒寺から三ノ鳥居前を通る道、所謂横大路と交差します・・・まさにその角にあるのが鉄ノ井であります!

とにかく人が多いのと、寿福寺方面から抜けてくる車が結構多いので邪魔にならない様に写真を撮るのも大変です!
地元民ならいざ知らず、よくあんな道を車で通る気になるもんだと感心してしまいます・・・
向かいの干物屋は繁盛していて店頭に置かれた試食スペースはいつも賑わってます・・・
自分で焼いて食べるシステムです!・・・いい匂いに釣られて店内へと吸い込まれる事うけ合いですね!

ところで何故『鉄ノ井』と呼ばれているのか?・・・ちゃんと由来があります!
取り敢えず【新編鎌倉志】を見てみましょう!

【鐵井】(附鐵観音 鎌倉の十井)
鐵井は雪下西南の路傍にあり。里人の云く、此の井より鐵観音を掘り出したる故に名くと。今、鐵の井の西向に鐵像の観音、大きなる首ばかり小堂に安ず。胴は崩れて堂内にあり。新清水寺の観音と云傳ふ。今按ずるに、此観音堂の西に巌窟堂あり。
【東鑑】に正嘉二年正月十七日、秋田の城の介泰盛が、甘縄の宅より火出て、壽福寺・新清水寺・窟堂・若宮の寶蔵・同く別當坊等焼亡すとあり。然らば此災にかゝりて、土中にありしを掘出したる歟。
【鎌倉の十井】鎌倉に十井あり。棟立の井・瓶が井・甘露の井・鐵の井・泉が井・扇の井・底拔の井・星月夜の井・石井・六角の井、此を鎌倉の十井と云ふ。

傍らにある鎌倉市青年団が建てた鉄ノ井の史跡碑にも大体は書いてありますが、1699年にこの井戸から五尺あまりの鉄造の観音様の頭が掘り起こされたらしいのです・・・頭だけです・・・
で、取り敢えず井戸の西側に観音堂を建ててそれを祀ったんだそうです・・・
以来鉄ノ井と呼ばれる様になったとあります・・・
もし観音様がチタンとかアルミダイキャスト製だったら何て呼ばれてたんでしょうか?・・・

それよりも干物屋の辺りが観音堂だったんですね・・・へぇ~・・・見る影もないなぁ・・・

それはさておき明治の神仏分離、廃仏毀釈の流れでお堂も壊され、この鉄観音も廃される運命となったのですが、何とか東京深川御船蔵前に移して難を逃れたそうです・・・
その後いろいろあって現在は日本橋人形町にある大観音寺の本尊となっています!
ちなみに『おおがんのんじ』と読むらしいです・・・
こんな所にって感じのお寺ですよ!、東京ですからね・・・毎月17日に御開帳してます!

高さ170cm、横幅54cmですんで、有名な興福寺の仏頭よりも迫力あります・・・
繊細さでは負けですが・・・あっちは国宝ですからね・・・
ちなみにコチラは東京都の重文に指定されています!

そもそもこの鉄造聖観世音菩薩は何なのか?

結論から言うと京都の清水観音に帰依していた北条政子がこの地に新清水寺(しんせいすいじ)を創建した時の本尊との事です・・・
新清水寺は現在は無く、浄光明寺向かいの谷戸名(清水ヶ谷)として残るのみです・・・

正嘉二年(1258)一月十七日丑の刻に甘縄の安達泰盛邸から火が出て、南風に煽られて薬師堂の裏山を超えて寿福寺の全てを焼き尽くし、若宮寺、新清水寺、巌堂なども燃えた、と【吾妻鏡】にあります・・・
長谷から八幡宮の方に燃え広がったって事ですね・・・
大観音寺の縁起によると、寺の僧が井戸に本尊を避難させ難を逃れたとあります!

つまりこの鉄観音は焼け落ちた新清水寺の物だとの事です!
この巌窟付近はたびたび火災にあってます・・・関係ないけど坊さんが変死たり・・・不運な土地です!
現在は甘味処として繁盛していますが火事には気を付けて欲しいものです・・・

この火災の一年前(1257)の8月23日は地裂け水湧き出るで有名な正嘉の大地震がありますね・・・
江の島沖10km、マグニチュード7以上の地震だったとされています・・・
被害を受けてない社寺は無く、中下馬橋では地面が裂け青い炎が上がったと【吾妻鏡】に記されています!
おおおおおおおぁ~凄ぇカオスだ!

陰陽師(鎌倉に初めて陰陽師を置いたのは3代将軍実朝の時だったそうです)に祈祷させたり色々やりましたが、9月に入っても余震がおさまらないので幕府は天地災変祭を執り行ってます・・・
でも翌年の10月16日に今度は大洪水が起きてしまいます・・・

とてもじゃないが観音様を掘り起こしてる場合じゃなかったのかもしれませんね・・・
などと勝手に想像を膨らませちゃいました・・・

この鉄ノ井は夏場も涸れた事はなしと石碑にあります・・・
水不足の鎌倉では貴重な水源だったんでしょうね・・・

【鎌倉廃寺事典】の新清水寺の項を見てみましょう・・・

正嘉二年(1258)正月十七日、甘縄の大火で炎上した(吾妻鏡)。亀田『鎌倉』三の一(八)三○項に、清水寺谷(畑と記す、浄光明寺前なり)とある。『風土記稿』には鉄観音堂としてみえており、『新清水寺(廃寺ナリ)ノ本尊トナリシト云伝フ』とみえ、鶴岡少別当大庭元長持とある。
その位置は『堂前ノ井 鉄井ト呼ブナリ』とみえるから、今の鉄井とは道をはさんで西側にあったものとみえる。
そうすると、地図の清水寺谷とは山一つへだてることになるが、ちょっと考えさせられる問題である。

確かに位置関係がちょっとおかしいですね・・・
この説明だと川喜多映画記念館の辺りになってしまいますね・・・

中央区史(昭和三十三年十二月二十五日発行、東京都中央区役所)の下巻九○○項に、日本橋人形町二ノ三にある大観音寺のことをのべている。この寺は現在聖観音宗に属している。

本尊は丈五尺あまりの首像で、青銅の蓮台上に鎮り、作者は高麗名工というが、もと源頼朝の守護仏で、その室政子の創立にかかる寿福寺とともに、鎌倉屈指の霊場であった扇ヶ谷清水寺の本尊であった。

明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年、石田可村、山村卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし、明治九年にいたり人形町通り蠣殻町二丁目に仮堂をいとなみ、さらに十三年二月、許可をうけて(中略)大悲閣を建立して(中略)大正大震災に(中略)灰燼に帰した。(中略)昭和十五年十月十七日、堂容をあらたにした。

とみえている。頼朝のことはあやふやであるけれども、鎌倉に伝わる話と合致するところもなくはないし、明治以降のことは、一応信頼できると思う(参照:貫祥子『鎌倉十井五名水の研究』、沢『鎌倉』32号。太田晶二郎『鉄観音』、『日本歴史』)

だってさ・・・昔の事を知るってのはホント難しいですね・・・そしてメンド臭い(笑)
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