3月3日の雛祭り・・・ちょっと空いた時間を潰す為に、雪ノ下の辺りを当ても無くブラついていました・・・
何か前にも同じような事したなぁ・・・あぁ、そーだ、カフェ巡りしてこ寿々のわらび餅を買って帰ったっけ・・・
今日も買って帰ろっかなぁ・・・でも夏場に冷えたの食べたいなぁ・・・もう少し我慢して梅雨明けしてからにしよう(笑)
ふと、いつもは前を素通りするばかりの愛宕社の様子が気になったので、久し振りに伺ってみる事にしました! |
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愛宕社は鉄ノ井から寿福寺へと抜ける道を進んで行った右側にあります!
上の写真の矢印の所から階段を登った先に小さな社が建っているハズです・・・
通行止め(?)の柵を跨いで階段を登って行きましょう・・・どーやら最近草刈をしたようですね・・・スッキリしています!
去年の夏に訪れた時は、草木の繁茂が凄くて断念した覚えがあります・・・ |
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何よりヤバイ物が落ちているのを発見してしまったので!
1mmくらいの黒い物が階段にビッシリと・・・
それは何なのかというと・・・イモ虫どものウンチです!
以前ウチにはニッキの木が植えてありました・・・
ベランダの高さを越えて電線に到達する部分を伐採する作業を年2回ほど・・・結構大変でした・・・
切った枝葉をまとめる作業がホント大変! |
木の生命力は凄くて地中に張った根がコンクリートにヒビを入れる程でした・・・
今から10年以上前のある時、家全体を修繕する事になりまして、その時にニッキの木も撤去する運びになったとです・・・一応お世話になっている寺の住職に拝んでもらってから切り倒しました!
現在も経文の書かれた幹の一部はウチに置いてあります・・・この木の精霊も静かに眠っている物と信じます・・・
で、この木が健在だった頃・・・シーズンになると彼等が来るんですよね・・・ウネウネと動く彼等が・・・
そりゃもう木にビッシリと!・・・アゲハの幼虫が!・・・デッカい緑色の彼等が!
ムッチムチで、はち切れんばかりの我がままバディを自分に見せ付けるんです・・・気持ち悪ぃよぉ~(+o+)
まだ毛が生えてる奴等の方がカワイ気があります・・・
そして木の下にはやはり1mmくらいの黒い物が沢山落ちていました・・・
そんな経験があるので、あの黒い物体を見た瞬間に愛宕社探訪を諦めたのでした(笑)・・・無理無理!
今回は、まだ彼等の活動時季ではない様なので強気で進みます!・・・でも、もうそろそろ出て来ますよね?
憂鬱だなぁ・・・花粉とイモ虫のダブルパンチは自分の致死量を超えるかも知れません(笑) |
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ちょっと登った先には小さな平場があり・・・って、アレ?・・・愛宕社が無いぃぃぃぃっ!
ドコ行った!?・・・礎石だけ残して社は跡形もありません・・・周りに集められた瓦は恐らく愛宕社の物だと思います!
確か瓦屋根でした!・・・コレはどーゆー事でしょう!?・・・何があった!?
どっか別の場所に遷されたんでしょうか?・・・何の為に?・・・おいおいホントにどーしちゃったの?
参ったなぁ・・・以前撮った写真を紛失してしまったので、新たに撮って置こうという目論見もあったのにぃ・・・
こんな事になっていたなんて全然知らなかったよぉ・・・物が無いんじゃどーしょーもない! |
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更に上へと続く道とは言い難い道がありますが、虎ロープが張られていて先へは進めません!
眼下を通る道は、往時は山の上の方を通っていたってゆーし、もしかしたらその痕跡みたいな物が残ってたりするかも知れないですね・・・
愛宕社がいつ頃この地に勧請されたのか、ハッキリした事は分かっていません・・・
愛宕社
雪ノ下に鎮座する火伏の神。愛宕社を火伏の神とする信仰は、京都の北西にある愛宕神社から始まった。
京都・愛宕神社では火の神・迦具土神を祭神としていたため、これが民間に広まった際に火伏の神として信仰されることとなった。古代から中世にかけて起った神仏習合では神社を奥の院として寺を建て、そこに仏を祀って愛宕大権現と総称した。
愛宕信仰は武家社会からも歓迎されたことから、この信仰が関東以北に伝播したのは、武家の台頭する中世から近世頃ではないかとも考えられている。
雪ノ下にあるこの社もそうしたなかのひとつ。鎌倉では青梅聖天に愛宕の本地仏勝軍地蔵像があり、佐助ヶ谷の天狗堂山にも愛宕社があったという。
と、【鎌倉の神社小辞典】には書かれていました・・・
愛宕権現(伊邪那岐)の本地仏は、馬に跨った姿で御存じの勝軍地蔵ですね!
伊邪那岐は火の神・迦具土を生んだ時にアソコを火傷して病に臥せり亡くなったと伝わります・・・熱そうだなぁ(笑)
そして愛宕信仰は天狗信仰とも関わりがあります!
京都の愛宕山には八天狗の1人である愛宕山太郎坊がいます!・・・日本一の大天狗ともいわれ、非常に強い通力を持つ大天狗です!
もしかしたら佐助ヶ谷の天狗堂山も、愛宕信仰から名付けられた物なのかも知れませんね!
一応、【新編鎌倉志】を見てみましょうか!
【天狗堂】
天狗堂は長谷小路より佐介谷へ入手の右の山の出前なり。昔し愛宕の社ありけるとなり。【太平記】に天狗堂と扇が谷に軍ありと云は此所の事なり。
黄門様が訪れた時には佐助の愛宕社は既に無かった様ですね・・・
天狗堂山は現在の佐助ヶ谷の東側丘陵の南の辺りです・・・
さて、お目当ての愛宕社がこんな状況で困ってしまいました・・・どーしたモンでしょう?
取り敢えずは情報収集でしょうか!・・・小腹も空いて来たし、すぐ横にある不動茶屋に入って話を聞いてみましょう!
目の前ですから何らかの情報は得られる事でしょう! |
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入口には講中が建てた石柱が置いてありました・・・『不動尊』の文字が刻まれているんだと思いますが、最後の一字の摩耗が激しく良く読み取れませんでした・・・まさか『不動産』じゃないですよね?(笑)
『山林奉納』、『講中』の文字も見て取れます・・・
側面には『明治十六年十月・・・』とあり、見た目通り古い物ではありません!
奥に怪し気(笑)な社が見えますけど、取り敢えず店に入りましょう! |
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客は自分ひとりです!・・・ラッキー!
店内はテーブル席2つと窓際にカウンター席があるだけの狭いスペースですが、落ち着いた内装で結構寛げるんですよねぇ・・・
BGMには控えめな音量でボサノバが流されていて、昼下がりの一時を過ごすにはいい店です!
客が多い時は窮屈でストレス溜まりますが、今日は自分の家の様に過ごせそうです・・・
前回はラーメン食べたので、今回はポークカレーセット! |
ミニサラダと食後のコーヒーが付いて税込¥1.000です・・・こーゆーオーソドックスな欧風カリーって意外と無いんですよねぇ・・・カレー専門店ってゆーと、大体はスパイシーなインドやタイカレーになってしまいます・・・
自分は基本的にはそっちの方が好きなんですけど、たまには欧風な感じのも食べたくなるモンです!
長谷のwoof curryも欧風で美味しい・・・でも、あっちはお洒落っぽくて1人だと何か入り難くて(笑)
いやぁ~久し振りに食べたなぁ・・・マイルドな感じのカレー・・・満足満足!
食べ終わって10秒もしない内にコーヒーが運ばれて来ました!
良く見てるなぁ・・・まぁ、客は自分ひとりですからね(笑)・・・コーヒーも美味いです!
コクテール堂の豆を使っているそうです!・・・不動茶屋のwebサイト貼って置きますね、色々と書いてあります!
クーポンもありました!・・・くそぉ~、クーポン使ってれば同じ内容で¥800で済んだのかっ!
コーヒーをマッタリと頂きながら愛宕社について聞いてみた所、何でも3年前だかの台風で社が倒壊してしまったんだそうです!・・・そこまでオンボロでもなかった様に思いましたが、台風による倒壊だったとは・・・
『でも、中身はウチが保管してます!』・・・と、いってらっしゃいました・・・中身って言い方に思わず笑ってしまいました!
とにかく、自分は愛宕社が消えた理由が分かってスッキリしたのでした・・・
支払いを済まして店を出ます・・・先程チラッと見えた物を紹介しますね! |
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庚申塔が5基並んでいます・・・どれも江戸期以降の造立で古い物ではありませんでした・・・
こないだ何となくヤフオクを見ていたら、こーいった庚申塔や石仏が出品されていてビックリしました!
商品の説明を見ても詳しい事は何も書かれていませんでしたが、どーいった経緯で出品されたんでしょうか?
まさか拾ったり、盗んだりしてきた物をなんて事はないですよね!? |
新品なら話は別ですけど、江戸期の物だったし・・・以前は確実に道端に置かれていた様な代物です・・・
観音菩薩の彫られた石標なんかもありましたが、個人宅に道標なんて置くわけないし、ホントにどーゆー事なんでしょ?
気になりますねぇ・・・出品者に聞いてみようかな?
あまり訳の分からない物は怖くて買えないですよね・・・1人入札している人がいましたが、スゲー勇気あるなぁ・・・
ガーデニングにみたいな事が書かれていましたが、確かに和風庭園にあったらカッコイイですね・・・
でも実際に信仰の対象となっていた物は、あまりテキトーに扱うのは良くないですし、やっぱ怖いです!
ビンテージ加工され、古く見える新品ならばオブジェとして使いたいですけどね・・・ |
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五輪塔や宝篋印塔の残骸の先には不動明王がいらっしゃいます! |
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そして『岩窟不動尊』と書かれた額の掛かる鳥居の先の社内には、 |
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不動明王の石像が安置されています!・・・社後部のやぐらは金網でガードされていて入れませんが、内部奥には観音菩薩っぽい像が見えました・・・
この岩窟不動尊ですが、胡散臭い外観に反比例して歴史は結構古いです!
史書には巌谷堂、窟堂、岩井堂、岩屋堂など色んな字が当てられますが、ココの事です・・・
先程も述べましたが目の前の道はもともとは山上を通っていて、不動明王もそこに居られました!
岩窟の奥に彫られていて弘法大師の作と伝わっていたそうです・・・それが風化に伴って新たに石像が造られて、道も災害などで削れて山裾を通る様になり、不動明王も現在地へと移動して現在に至っているそうです・・・
【朝夷奈切通】のページで頼朝が鎌倉入りする以前からあったであろう幹線道路の検証をした時に、そのルートを証明する為の物件としてココの名前を挙げたと思います!
実際にいつからあったのかは分かりませんが、頼朝以前にあった可能性大で、鎌倉では一番古いお不動様でしょう!
ちなみに、このお不動様に面した道は、窟堂に因んで『巌窟小路』と呼ばれていました・・・
【新編鎌倉志】を見てみましょう!
【巌窟不動】(イワヤフドウ)
巌窟不動は松源寺の西、山の根にあり。巌窟の中に石像の不動あり。弘法の作と云ふ。『東鑑』に文治四年正月一日、佐野太郎基綱が窟堂の下の宅焼亡。鶴が岡の近所たるに因て、二品(頼朝。)宮中燈に参り給ふとあり。此の處の事ならん。此前の道を巌窟小路と云ふ。『東鑑』に、大学の助義清、甘縄より龜谷に入。窟堂の前路を經るとあり。此路筋ならん。『東鑑』には窟堂とあり。(岩井堂)俗、或は岩井堂と云ふ。巌窟堂、今は教圓坊と云ふ僧の持分なり。昔しは等覚院の持分なりけるにや。
岩井堂日金事、可被立卵塔之由承候、先以目出候、然者、(自)御万歳夕、至于三會之曉、留慧燈於彼地、可覆慧雲於他界給之條、殊以令庶幾候之間、以彼所、限永代奉避渡候了、兼又同以被申方候之由承候、其段可令存知候也、恐々謹言、應永卅三年七月十七日、等覚院法印御房へ、尊運判とある(尊運は今河朝廣の子なり。)状あり。
又岩井日金事、如来院僧正、任證文、成敗不可有相違候、恐々謹言、五月九日、等覚院へ空然判とある状あり(空然は古河の源の政氏の子。)
巌窟不動は【吾妻鏡】に度々登場します!
『東鏡に、大学の助義清、甘縄より龜谷に入。窟堂の前路を經るとあり。此路筋ならん。』・・・とありますね、
大学ノ助義清とは土屋義清の事で、和田合戦の時の事をいってるんだと思います!
和田義盛の軍は若宮大路から御所へ攻め上がりましたが、義清は確か寿福寺方面からの道筋を行軍し、赤橋に差し掛かった所で平家池方面からの横矢を浴びて戦死してたと思います・・・
何で和田合戦に参加したかというと・・・え~・・・取り敢えず義清の素性から軽く説明させて頂きますね(笑)
三浦大介義明の弟である岡崎四郎義実の次男です!
和田義盛は義明の長男の杉本義宗の息子ですから、同じ三浦党という事で合戦に参加したという見方も出来なくもないですが、義清はそれ以前に三浦党と中村党の結束を深める為に中村宗平の息子である土屋宗遠のもとへ養子に出されています!
土屋宗遠は【主馬盛久之頸坐】のページでも紹介したと思います・・・由比ヶ浜で行われた盛久処刑時の執行人です!
刀が折れて盛久は助かりましたけどね(笑)
また、『七騎落』でも知られている人物ですね・・・石橋山の敗戦で安房に逃げる際に頼朝に最後まで付き従った7人の内の1人です・・・
頼朝挙兵時には宗遠、義清、忠光と親子で出陣しています!
この土屋宗遠ですが承元3年(1209)5月に、いざこざから梶原家茂を刺殺してしまいます!
西浜事件と呼ばれていますが、侍所別当家である梶原一族の者を殺ってしまったんですから斬首の罪を問われてもおかしくない所業です!・・・当然ですが宗遠は侍所別当の和田義盛の預かりとなります!
しかしその翌月、3代将軍実朝は特別に宗遠の罪を赦しました・・・
恩赦の理由は色々とあったといわれていますが、義盛が何らかの口添えを行ったであろう事は容易に想像出来ます!
そんな経緯から義清は、実父ではないにしろ父宗遠を救ってくれた人物として、義盛に少なからず恩を感じていたのではないでしょうか?
また、義清は石橋山の敗戦は北条時政が原因と考えていた節もある様ですし、様々な要因が重なり合っての和田合戦参加だったのかも知れませんね・・・
『今は教圓坊と云ふ僧の持分なり。昔しは等覚院の持分なりけるにや。』・・・ともありますが、
現在は教圓坊って僧が管理しているが、以前は等覚院が管理していましたって事ですね・・・
等覚院(南禅坊)は他のページでも何度か説明させて頂きましたが、鶴岡二十五坊の内、江戸時代に残っていた12院のひとつです!
更に後年の刊行となる【鎌倉攬勝考】も見てみましょうか!
【巌窟不動尊】
【東鑑】に、窟堂又は岩屋堂、或は岩井堂と有るも此所の事なり。日金地蔵のにしの山嶺にて窟中に石像の不動あり。弘法大師のさくといふ。此前の道路盲岩屋小路と唱ふ。【東鑑】に、建長四年五月五日、将軍家(宗尊。)御方違の評定有て、龜が谷の方角を是可申由仰にて行義・行方。景頼等、彼六人を具して、窟堂のうしろの山上へ登とあるも此地なり。昔は等覚院といふが別當なりしが、今は散圓坊といふ菴の持とす。むかし等覚院別當のときは日金堂と兼持せしといふ。梅に、等覚院といふは、十二院のうちなる等覺院なるべし。
『今は散圓坊といふ菴の持とす。』・・・というフレーズが気になりますね・・・【新編鎌倉志】のいってる教圓坊とは別物なんでしょうか?・・・誤植かな?・・・しかし、名称は似ていても僧と菴という別々の物を指していますからそーとも言い切れません!
『梅に、等覚院といふは』・・・こちらは誤植でしょうね!・・・『梅に鶯(ウグイス)』なら聞いた事がありますけど(笑)
恐らく『此に』の間違いではないでしょうか?・・・余談ですが窟堂の東側にある谷戸は鶯ヶ谷と呼ばれています!
変な繋がり方するなぁ(笑)
『日金堂』は日金地蔵の事でしょう・・・以下も【鎌倉攬勝考】の記事です!
【日金地蔵堂】
岩屋堂の東にて山の半腹にあり。本尊地蔵、運慶作。右大將家、豆州謫居の頃より御誓願有て爰に移し給ふといふ。別當日金山彌勒院松源寺といふ。真言新義。御室御所の末なり。弘長三年四月七日、群盜十餘人、地蔵堂にかくれ居るの間、夜行の輩行向ひ、其庭にて生虜とあり。玆の地蔵堂の事なり。
ココに隠れた盗賊団が生け捕りにされた様ですね(笑)
この日金地蔵は窟堂の東隣りにあった松源寺という寺の本尊でした・・・松源寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、それまでは窟堂も愛宕社もこの松源寺が管理していた様です!
そー考えると先程の散圓坊とは松源寺の塔頭であったかも知れない・・・とも考えられますね!
ちなみにこの日金地蔵は鎌倉二十四地蔵霊場の第十九番札所となっています!
で、その場所なんですが、横須賀市の武にある東漸寺となっています・・・なんでも日金地蔵は法源寺廃寺後に転々とし、昭和の頃に東漸寺に遷されたそうです・・・
第十八番の延命地蔵(寿福寺)から第十九番の日金地蔵(東漸寺)へ向かい、第二十番の導地蔵(極楽寺)へと戻って来るという鎌倉二十四地蔵巡り最大の難所ですね!
往復の道程は40km弱にもなります・・・つーかもぅ鎌倉じゃねぇーし(笑)
日金地蔵は松源寺の火災で焼失したらしいので、現在の物は新たに造られた物です!
そーいえば松源寺の近くにある鉄ノ井の史跡碑に、甘縄の安達泰盛邸から出た火が南風に煽られて大火事となり、窟堂も燃えたという記述があったと思います!
確か下馬の辺りで地が裂け青い炎が噴き上がったという正嘉の大地震(1257)の翌年の出来事だったと記憶していますが、若宮宝蔵や別当坊も焼き尽くされた様ですから、当然松源寺も燃えたでしょうね・・・
このカオス期に日金地蔵も焼失したんでしょうか?・・・調べていないのであくまで自分の推論ですけどね(笑)
日金地蔵は頼朝が打倒平家の挙兵時に伊豆の日金山の地蔵菩薩に戦勝祈願し、その成就後にそれを模して造った物と伝わります・・・
『右大将家、豆州謫居の頃より御誓願有て爰に移し給ふといふ。』・・・というフレーズがそれを物語りますね!
きっと日金山で、祈願成就の際には必ず鎌倉に勧請しますって約束したんでしょうね!
日金山東光寺の延命地蔵も頼朝が造立したと伝わっています・・・
日金山は石橋山で敗走する頼朝が隠れたというしとどの窟の少し南西に位置しています・・・
鎌倉の窟堂と日金地蔵・・・しとどの窟と日金山・・・繋がりを感じさせますが全てが捏造に見えてしまう自分です(笑)
松源寺も調べてみましょう!日金地蔵に関する情報もあるかも知れません!・・・以下は【新編鎌倉志】から・・・
【松源寺】
松源寺は日金山と號す。鉄観音の西、巖窟堂の山の中壇にあり。本尊は地蔵、運慶が作。相傳ふ、頼朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金に祈つて我世に出でば必ず地蔵を勧請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。
あまり目立った情報はありませんね・・・【鎌倉廃寺事典】も見てみましょう!
松源寺 しょうげんんじ 宗旨未詳。雪ノ下
日金山弥勒院松源寺と号する。日金地蔵堂の別当という(『攬勝考』)。『鎌倉志』に「鉄観音ノ西、巌窟堂ノ山ノ中壇ニアリ、本尊ハ地蔵、運慶ガ作」といい、頼朝の勧請という伝(「縁起」『風土記稿』所説)をのせている。
『史料編』1ノ77・106には「岩井堂日金」、或いは「社家御菩提所日金」とみえる。
『風土記稿』のいう如く、『吾妻鏡』弘長三年(1263)四月七日条の地蔵堂は恐らく松源寺の前身であろう。
『風土記稿』は「真言宗、開山貞節、正治二年五月廿四日死す」といい、また、当寺は鶴岡社僧であるので、社領のうち永一貫文の配当あり、とのべている。
『神仏分離史料』下の420項には松源院に頼朝帰依の地蔵菩薩があり、長谷寺に移されたが、のち三浦武山に移されたとみえている。横須賀市武の東漸寺である。・・・以下省略・・・
日金地蔵は東漸寺に移される前に長谷寺に移されていた様ですね・・・へぇ~・・・新たな情報ゲットです!(笑)
やっぱ【鎌倉廃寺事典】は使えるなぁ・・・出典を明記してくれるのは非常に助かります!
不動茶屋(窟堂)から徐々に話がズレて来たのでココらで戻りましょう! |
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社の右側に重軽石(おもがるいし)という物がありました・・・
この石は、願い事を占う石と云われています。石を持ち上げて重く感じれば、身の丈以上の願い事で叶わず、軽く感じるようならば、叶う願い事だと云われております。どうぞ、試して見て下さい。
ひざまづいて手を合わせたのち
「重軽石さま、重軽石さま、わたくし〇〇市〇〇にすまう〇〇と申します。わたくしに、神仏の御威光(おちから)をお示し下さい。先ず持ち上がらないほどに重くなって下さい。」
(ここで、両手を添えて持ち上げる。気線が通じていれば、どんなに力を込めても持ち上がらない。)
「ありがとうございます。それでは持ちあがるほどに軽くなってください。」
(両手を添えて持ち上げる。重いなりに持ち上がる。)
「ありがとうございます。それでは、あらためて。お願いを申し上げます。」
(ここでお願いを申し上げたのち、石を持ち上げる。)
どちらの結果でも、お礼を申し上げる。つづいて願いがあれば申し上げ、
「本日はありがとうございました。」と締めくくる。
合掌し、一礼する。
願い事が叶うのではなくて、叶うかどーかを占うんですね(笑)
意外と手順がメンド臭いですが誰もいなかったので、今後自分が宇宙飛行士になれるのか占ってみました!
手順通りに進め取り敢えず持ち上げてみます・・・軽々と上がりました・・・ココで上がっちゃダメなんだってばよ!(笑)
どーやら気線とやらが通じてなかった様ですね・・・恥ずかしいから小声でやってたからかな?
それにしてもこの石・・・ドコからかっぱらって来たんでしょう?(笑)
そんな訳ないか・・・弘法大師に所縁のある石なのかも知れませんね?・・・そんな訳もないか(笑)
そんな感じで色々と満喫した自分は不動茶屋を離れたのでした・・・
最後にもう一度、【鎌倉廃寺事典】を見て置きましょう!
窟堂 いわやどう 宗旨未詳。雪ノ下、岩谷堂
今、鉄井戸から寿福寺前に出る道路の北側に窟不動としてのこっている。
文治四年(1188)1月1日、佐野太郎基綱の窟堂下にある宅が焼けた。10月10日、窟堂の八十四歳になる聖阿弥陀仏坊が勝長寿院に参詣した帰り途で頓死した。この人は堂守りであろうから、窟堂が頼朝入府以前から存在したと考えてもよいのではないかと思う。
建久三年(1192)5月8日、後白河法皇四十九日仏事百僧供に窟堂一口とある。
建保元年(1213)5月3日、土屋大学助義清、窟堂前路次を経て旅御所(法華堂)に行こうとして、赤橋の所で流矢に当たる。
承久二年(1220)1月29日、窟堂辺焼亡。3月9日、付近民家火災。
貞応二年(1223)【海道記】に「石屋堂の山の梢遙かに眺めて」とある。
寛喜元年(1229)12月25日、窟堂下辺焼亡とみえる。
建長四年(1252)5月5日、窟堂後の山の上に登って方違の方角をたしかめた。
正嘉二年(1258)1月17日、炎上。
弘長三年(1263)3月7日、夜、窟堂辺騒動。群盗が地蔵堂にかくれていたからという。
永仁四年(1296)4月16日未の刻、岩屋堂から出火し、北方へ焼けた(『随聞私記』)。
これらの記事によって窟堂の辺に人家が多かった事が察せられる。
なお、「神田孝平氏所蔵文書」に石堂寺とみえるが(応永九年)、よくわからない。
応永三十三年(1426)7月17日、「鶴岡別当尊運避状」に、岩井堂日金事とみえ、等覚院の快季がここに卵塔を立てるので、敷地を与えられている(『史料編』1ノ77)。
永正の初年(1510以前)頃、鶴岡別当の「空然書状」にも、岩井堂日金事は証文に任せ等覚院が支配すべきことを認めている(『鎌倉志』四、『社寺編』鶴岡八幡宮、54項参照)。
天文十六年(1547)10月19日、鎌倉代官大道寺盛昌は、鶴岡社家御菩提所日金、すなわち松源寺に一貫文の地を寄進として渡している。(『史料編』1ノ107)。この文書と応永の文書の2通は『相州文書』には松源寺の所蔵となっているから、窟堂は松源寺の管理するところであったと考えられる。『鎌倉志』には巌窟堂、いまは教円坊という僧の持分なりとみえている。『風土記稿』には、「鶴岡社人山口栄存持」とある。
亀田「鎌倉」3ノ1(8)30項に天保三年(1832)の扇ヶ谷の図の話があり、岩谷不動(窟に格子をはめ、前に門あり)とみえる。
まぁ・・・よく焼けてますねぇ(笑)・・・窟堂からも火を出していたとは知りませんでした!
【窟不動図】(英勝寺蔵)も掲載されていました・・・気になる方はチェックしてみましょう(笑)
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おまけ
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帰り道に大町にある上行寺に寄ってみました・・・最近山門が新しくなったのでちょっと様子見です! |
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この寺には『瘡守稲荷(かさもりいなり)』というのがあるんですが、とにかく寺の外観が怪しさMAXなんですよねぇ・・・
向かいにある安養院とは違い、観光で訪れる方はほとんどいないでしょう・・・ |
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噂の瘡守稲荷は門を潜って右側にあるんですが、ベタベタと色々貼られていて何か凄いでしょ?
手書きで字もヘタクソ・・・この素人っぽさが怪しさを一層引き立てているんだと思います!
田舎とか行くと、よくこーゆーのを目にします・・・村の変わり者が何かやってます的な(笑)
どーでもいいけど樹脂製のトタン板はやめてぇ~!・・・なんかビンボー臭いよぉ~・・・ |
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こんな貼紙もありました・・・ホントなの?
聞いた事ないけどなぁ・・・そーゆー事実を記した文献名とかを書いといてくれると助かるんですけどねぇ(笑)
しかし微妙な字だなぁ・・・ヘタというか、漢字という物を知らない外人が見よう見まねで書いてみましたって感じがするんですけど・・・バランスとゆーか、なんとゆーか・・・
一言でゆーと気持ち悪い(笑)
これは住職が書いてるんでしょうか? |
御朱印を頂く場合、この字体で書いてくれるんでしょうか?・・・それはちょっとやだなぁ(笑)
もしかしたらわざとやっているんでしょうか?・・・笑う事は健康にいいなんて話も聞きますし、病気なんか笑い飛ばしてしまおうよ的な?・・・でもこれは失笑かな(笑) |
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堂内には先客が4人いて、1人が堂守らしき人から説明を受けていて、他は順番待ちなのか堂内を物色してました!
つーか『土足禁止』多過ぎ!
さすがにこれには失笑ではなく、思わず吹き出してしまいました!・・・どこから土足禁止なんだよぉ(笑)
くそぉ~、中々やるじゃないか、住職のヤツめ!
それにしても参詣に来る人、意外と多いんですねぇ・・・ |
たまたまなのかな?・・・まぁ、癌を患っている人からすればねぇ・・・
藁にもすがりたいって気持ちがあるのかも知れません・・・自分も癌になったら本気で訪れてみよう!
父母共に癌で亡くなっているので、自分の発癌率は高めです・・・もしかしたら数年後にはココで拝み倒している自分がいる可能性も無きにしも非ずです!・・・まぁ、そん時はそん時ですよね!
病は気からといいます・・・やはりこの瘡守稲荷の怪しい雰囲気と微妙な字体は、病に悩みココを訪れた人の心を、少しでも明るい方向に導こうと努力しようとした住職の優しい心遣いの産物なのかも知れません!
そーゆー事にして置きましょう!(笑)
この寺は正和2年(1313)に日範が創建したと伝わります・・・彼は日朗の高弟である九老僧のひとりですから、日蓮の孫弟子って事になりますね・・・まぁ、この界隈は日蓮宗の寺が密集している地域ですね!
それよりも頼朝の祈願所って話はどーなるんでしょう?・・・頼朝は創建の100年以上前に死んでますけど(笑)
寺は無くとも当時から信仰の場的な所だったんでしょうか?
気になりますねぇ・・・でも、なんだか調べてはいけない様な気(可哀想)がするのでスルーしときましょう(笑)
本堂は明治19年(1886)に妙法寺(大町)の法華堂を移築した物で、江戸後期、肥後大名の細川家が造ったとされています・・・表欄間の龍の彫り物がカッコいいです!
で、この寺なんですが、なんと日光東照宮の眠り猫で高名な左甚五郎作の龍があります!
山門の裏側にあるんですけど、今回門が修繕されてどーなったのか気になったので寄ってみたって訳です! |
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ありました、コレです!・・・どーやら捨てられてはいなかった様です(笑)・・・どーですか左甚五郎の龍は?
自分は初めてこの寺を訪れた時は、本堂の表欄間の龍がそれだとばかり思っていました!
そして帰り際に門の所でふと上を見上げるとこの龍がいたって訳です・・・
しかし、以前と様子が少し違います・・・龍の彫り物に変化は無いんですが、別の場所が・・・
自分が数年前に撮った写真と見比べて見ましょう! |
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分かりますよね?(笑)・・・そー、案内板です!
何故か文字が消されています!
左甚五郎作の龍
数度の火災にも焼失を免れた龍 當山の寺宝です
と書かれていました・・・何故消したんでしょうか?
書き直すのかな?・・・それとも左甚五郎作ではないという事を認めて自粛モードに入ったんでしょうか?(笑) |
経緯はよく分かりません・・・まぁ、100%本物ではないと思いますけど、この案内板も住職のユーモアの一部として受け入れつつ見れば、嘘でも許せるレベルです!・・・本物だったら速攻で盗まれますよ!(笑)
当然ですが、この寺に左甚五郎作の龍があると紹介しているガイドブック等に遭遇した事はありません・・・
当時、友人から情報を聞き、ワクワクしながらこの寺を訪れた自分が懐かしいです(笑)
五爪の龍が無駄にカッコいい・・・ |
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本堂横の墓域には広木松之助の墓があります!
安政7年(1860)3月3日には桜田門外の変がありました!
歴史の授業でやりましたねぇ・・・
大老井伊直弼、懐かしいですねぇ・・・
自分は幕末はあまり好きではないんで詳しい事は知りませんし調べる気にもなれませんが、この広木松之助って奴は直弼を襲撃した水戸浪士のひとりらしいです!
ほぉ~・・・聞いた事も無い名前だわい・・・って感じです・・・ |
何でも事件後、僧の恰好をして加賀に逃亡し、更に鎌倉へ来て上行寺に匿われていたんだそうです!
そして事件から2年後の3月3日に切腹して果てたんだそうな・・・
大正5年(1916)に建てられた墓碑には、『贈正五位 廣木松之助之墓 男爵上村彦之丞謹書 』
と、刻まれていました・・・自分が訪れた今日の日付も3月3日・・・何とも奇妙な偶然ですね・・・
これもひとえに上行寺の住職の・・・って、違いますよね(笑)
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おしまい |