ブログ 鎌倉八十八箇所タイトル
 
 
鎌倉で八十八箇所霊場というと新四国東国八十八箇所霊場の札所がいくつかありますが、かなりマイナーで当然公式HPや案内書といった物は無く、巡礼者自ら札所の所在地などを調べてから巡らなくてはならない状況です・・・
霊場ブームに乗り乱発されたこーいった物件は札所側の受け入れ態勢も微妙な物が多いです・・・
霊場は多くの巡礼者達が築いてきた物・・・巡礼者が少なければインフラ整備が進まないのも当然至極であります・・・

今回、鎌倉八十八箇所と題しましたが、これは多くの霊場の様に仏法に関係する施設を巡るそれではありません・・・
鎌倉市内には鎌倉町青年団などが建てた史跡碑が実に80基以上あります!
この意外と沢山ある石碑にテキトーに他の石碑を足して八十八箇所として、五十音順に巡って行こうというのが今回提案させて頂いた鎌倉八十八箇所です!・・・要は石碑巡りです(笑)

総距離214.43km(Googleルート検索調べ)・・・軽い思いつきで作成しましたが、意外とヘビーな行程に・・・
五十音順ってのがネックです・・・すぐ近くに他の石碑があっても、それを飛び越して順番に巡らなくてはなりません!
永福寺舊蹟矢印義経宿陣之趾矢印理智光寺址なんて泣きが入りますね・・・終盤の山場です(笑)

これらの石碑は、そのほとんどが鎌倉の歴史を知る上で極めて重要な場所に建てられているので、ゆっくりとダイエットがてらにでも巡ってみるとイイかも知れません・・・場所と知識の関連付けには最適かと思います!
もっともちょっと?な位置に建てられている物も見受けられますけど(笑)

碑文は旧字で内容を読み解くのに苦労すると思いますので、原文とテキトーに現代語にした物を載せて置きました!
内容が明らかにおかしい物については自分が知る限り注釈を入れてあります・・・
石碑の場所についてもマップを作成しましたので参考にして下さい・・・それでは良い旅を!

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青砥藤綱舊蹟 第一番 青砥藤綱舊蹟
(あおとふじつなきゅうせき)


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鎌倉十橋(東勝寺橋)
太平記ニ據レバ藤綱ハ北條時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ引付衆ニ列リシ人ナルガ 嘗テ夜ニ入リ出仕ノ際 誤ッテ錢十文ヲ滑川ニ墜シ 五十文ノ續松ヲ購ヒ水中ヲ照ラシテ錢ヲ捜シ竟ニ之ヲ得タリ 時ニ人々小利大損哉ト之ヲ嘲ル 藤綱ハ十文ハ小ナリト雖之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖亦人ニ益ス 旨ヲ訓セシトイフ 即チ其ノ物語ハ此邊ニ於テ演ゼラレシモノナラント傳ヘラル
             
             昭和十三年三月建 鎌倉町青年團
太平記によると、青砥藤綱は北条時宗、貞時の二代に仕え、引付衆をしておりました・・・ある夜出仕の際に誤って銭十文を滑川に落したので、五十文の松明を買って水の中を照らし、ついにその十文を捜し出す事ができました。人々は、小利大損だと笑いました。しかし、藤綱は、
『十文は小銭だが、これを失くすことは天下の銭を無くす事である。自分は五十文を損したが、これは商売での利益を生む』といいました・・・この逸話は、この辺りで起きた話であると伝えられています。
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青砥藤綱邸舊蹟 第二番 青砥藤綱邸舊蹟
(あおとふじつなていきゅうせき)

距離      累計
1.8km     1.8km
鎌倉執権ノ美績ヲ談ズル者概ネ先ズ時頼 時宗ヲ稱ス 盖シ其ノ間兩代ニ歴任セル青砥左衛門尉藤綱ガ補益ノ功ニ負フ所ノモノ亦必ズ少ナカラザルベキナリ 藤綱逸話ニ富ム嘗テ夜行キテ滑川ヲ過ギ誤リテ銭十文ヲ水ニ墜ス 乃チ五十文ヲ以テ炬ヲ買ヒ水ヲ照ラシテ之ヲ捜レリトノ一事 特ニ最モ人口ニ膾炙ス 此ノ地ハ其ノ藤綱ガ居住ノ舊跡ナリト言フ

             大正十年三月建之 鎌倉町青年會
鎌倉執権の善行を談す時、概ね時頼、時宗の名前が挙がります。しかしその間にあり、両執権に仕えた青砥藤綱の業績が、それに大きく貢献した事を忘れてはなりません。藤綱には逸話が沢山あります。ある夜のこと、滑川を渡るとき、誤って銭十文を川に落としてしまいました。そこで藤綱は五十文の松明を買って水中を照らし、それを探したという話は、良く知られた話です。此の場所は、その藤綱の屋敷跡であるといわれています。
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朝夷奈切通 第三番 朝夷奈切通
(あさいなきりどおし)

距離      累計
1.7km     3.5km

鎌倉七口
鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀一九〇〇)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月經營ノ事始アリテ執権北條泰時其所ニ鑑臨シ諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ 此切通ハ即チ其當時ニ於テ開通セシモノト思料セラル
             
             昭和十六年三月建 鎌倉市青年團

鎌倉七口のひとつで、鎌倉から六浦へ通ずる重要な道です。大切通と小切通の二つがあります。言い伝えでは、朝夷奈三郎義秀が一夜の内に切り開いたので、その名が付いたという事ですが、吾妻鑑には仁治元年(1240)11月、鎌倉六浦間の道路開鑿が決まり、翌年の仁治2年4月に工事が始まり執権北條泰時も現場で監督し、多くの人々が集まり、土石を運んだ事が記録されています。よってこの切通は、その時に開通したものと推測されます。
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足利公方邸舊蹟 第四番 足利公方邸舊蹟
(あしかがくぼうていきゅうせき)

距離      累計
1.5km     5.0km
頼朝開府ノ初 足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以來 二百數十年間 子孫相嗣イデ此ノ地ニ住ス 尊氏覇ヲ握リテ京都ニ還ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ 義詮ノ弟基氏 關東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此の邸ニ執ル 而シテ之ヲ子孫ニ傳フ 子孫京都ニ比擬シテ公方ト僭稱ス 享徳四年公方成氏 執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ還ルニ及ビテ遂ニ永ク廢墟トナル
             
             大正九年三月建之 鎌倉町青年會
源頼朝開府の初め、足利義兼が此の地に居住しました。以来、二百数十年間子孫が代々同地に住みました。尊氏が権力を握り京都に移った後に、その子の義詮が二代将軍となり京都の邸を継ぎました。義詮の弟の基氏が関東管領となり、軍の指揮をこの邸で執りました。こうして子孫に引き継がれ、子孫は京都に見習って、公方と名乗りました。享徳四年(1455)、公方成氏が執事の上杉憲忠と仲違いし、下総の古河に移ったことにより、遂に廢墟となりました。 
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足達盛長邸址 第五番 足達盛長邸址
(あだちもりながていあと)

距離      累計
4.2km     9.2km
盛長ハ藤九郎ト稱ス 初メ頼朝ノ蛭カ島ニ在ルヤ克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク 石橋山ノ一戦 源家カ運ノ骰ハ全ク黯タンタル前途ヲ示シヌ 盛長 頼朝ニ尾シ扁舟濤ヲ凌イテ安房ニ逃レ此處ニ散兵ヲ萃メテ挽回ヲ策ス 白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ヒ其ノ舊勳ニ依ッテ頗ル重用セラル 子彌九郎盛景 孫秋田城介義景 邸ヲ襲ク 頼朝以来將軍ノ来臨屡々アリ 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
        
             大正十四年三月建 鎌倉町青年團
盛長は藤九郎と称し、頼朝が蛭が島に居た時、頼朝の計画が上手くいく様に力を貸しました。石橋山の敗戦で源氏の前途が真っ暗となった時も、盛長は頼朝に付き従い小船で安房に逃げ、そこで散兵を集めて軍を建直し、挽回を画策しました。白旗が鎌倉にはためき、天下を風靡する時が来ると、その旧勲に依って、重要な地位に就きました。盛長の子の弥九郎景盛、孫の秋田城介義景が家を継ぎました。頼朝以来、将軍がしばしば訪れています。この場所がその屋敷址であります。

碑文中には盛景とありますが景盛の間違いかと・・・
ちょっと酷過ぎる間違いですね(笑)
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阿佛邸舊蹟 第六番 阿佛邸舊蹟
(あぶつていきゅうせき)

距離      累計
1.5km     10.7km
阿佛ハ藤原定家ノ子爲家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖 為相ノ母ナリ 為相ノ異母兄為氏 為相ニ属スベキ和歌所ノ所領播摩細川庄ヲ横領セルヲ以テ之ヲ執權時宗ニ訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ 建治三年 京ヲ出デテ東ニ下リ居ヲ月影ガ谷ニ卜ス 即チ此ノ地ナリ 其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世ニ知ラル 係争久シキニ彌リテ決セズ 弘安四年遂ニ此ニ歿ス
        
             大正九年三月建之 鎌倉町青年會
 
阿仏尼は藤原定家の息子の為家の妻であり、和歌の師範である冷泉家始祖の為相の母であります。為相の異母兄為氏が、為相の領地の播磨細川庄を奪ったので、これを執権北条時宗に訴え、裁決してもらう為に建治3年(1277)、京都を出発して東に下り、ココ月影ヶ谷に住みました。その時の旅の日記は十六夜日記といい、世に知られています。裁判は長引き、生前中には決着が着かず弘安4年(1281)、阿仏尼はこの地で亡くなりました。
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荒居閻魔堂阯 第七番 荒居閻魔堂阯
(あらいえんまどうあと)

距離      累計
2.6km     13.3km

個人邸内
滑川ノ下流ヲ閻魔川ト稱スルハ往昔此ノ邊ニ閻魔堂アリシタメニ生ゼシ名ナリト言ヒ其ノ堂ハ後 山ノ内ニ移サレ今新居山圓應寺ト唱ヘラルルモ其ノ移轉ノ年代ハ詳ナラズ

             昭和十三年三月建 鎌倉町青年團
滑川の下流を閻魔川と呼ぶのは、その昔この辺りに閻魔堂があった事に因むといわれています。その堂は後に山ノ内に移され、現在は新居山円応寺といわれていますが、その移転の時期は良く分かっておりません。 
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稲瀬川 第八番 稻瀨川
(いなせがわ)

距離      累計
1.3km     14.6km
萬葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年十月 政子鎌倉ニ入ラントシテ夾リ日並ノ都合ヨリ數日ノ間此ノ河邊ノ民家ニ逗留セル事アリ 頼朝ガ元暦九年 範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年 義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ 共ニ此ノ川邊ナリ 元弘三年 新田義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
            
             大正十二年三月 鎌倉町青年團建
 
万葉集に鎌倉の美奈能瀬河とあるのはこの川のことです。治承4年(1180)10月、政子が鎌倉入りの時、日柄の調整で、数日間この川辺の民家に逗留しました。また頼朝が 元暦9年(1184)、範頼の出陣を見送ったり、 正治元年(1185)義朝の遺骨を出迎へたのも、共にこの川辺でありました。元弘3年(1333)、新田義貞軍の濱手の大将大舘宗氏がこの川辺に於て討死した事は余りにも有名です。川の流れは細くと も、当地に関わる物語りは沢山有ります。 
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稲村崎 第九番 稻村崎
(いなむらがさき)

距離      累計
1.7km     16.3km
今ヲ距ル五百八十四年ノ昔 元弘三年五月二十一日 新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノ處ナリ

             大正六年三月建之 鎌倉町青年會  
今から584年前の昔、元弘3年(1333)5月21日、新田義貞がこの岬を廻って、鎌倉に攻め込む事を考えました。
黄金造りの刀を海に投じ奉り、潮を退けて貰おうと海神に祈ったと伝えられているのは、この場所であります。
次へ 4.6km
今宮 第十番 今宮
(いまみや)

距離      累計
4.6km     20.9km
四條天皇延應元年 鎌倉中處々喧嘩闘諍ノ事アリ 特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ 茲日 後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ 由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月 大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊靈ヲ勧請シ奉リ 順徳院及ビ護持僧長賢ヲ合祀セラル 長賢ハ承久ノ役 官軍ニ屬シテ奮戦 後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ 今宮ハ又新宮ト書ス

              昭和四年十一月 鎌倉町青年團
四條天皇延應元年(1239)に、鎌倉の至る所で喧嘩や争い事があり、特に5月22日には大騒動が起きました。この日には隠岐で後鳥羽上皇が亡くなったので、騒ぎは上皇の怨念が原因だろうという事で、 宝治元年(1247)4月、大臣山の西麓に今宮を建て、上皇の霊を祀り、順徳上皇と長賢の霊も合祀しました。長賢という僧は承久の乱の時、上皇方について奮戦しましたが、後に捕らわれて陸奥に流された人物です。今宮は新宮とも記します。
次へ 2.0km
上杉朝宗及氏憲邸阯 第十一番 上杉朝宗及氏憲邸阯
(うえすぎともむねおよびうじのりていあと)

距離      累計
2.0km     22.9km
朝宗ハ足利氏満 満兼ニ歴任シ 入道シテ禅助ト號ス 人稱シテ犬懸ノ管領トイフ 其子氏憲嗣テ持氏ノ執事トナリ 入道シテ禅秀ト號ス 然ルニ後持氏ト隙アリ 應永廿三年 氏憲ハ持氏ノ叔父満隆ト謀リ満仲ヲ奉ジテ兵ヲ起セシモ遂ニ敗レ 翌年正月 一味ト共ニ雪ノ下ノ鶴岡別当坊ニ自盡ス 此所ハ即チ其邸ナリ

              昭和十年三月 鎌倉町青年團建

上杉朝宗は足利氏満、満兼に歴任し、入道してからは禅助と号しました。人々は彼の事を犬懸の管領といいました。其の子の氏憲が後を継ぎ、足利持氏の執事となり、入道して禅秀と号しました。後に持氏と不仲となり、應永23年(1416)、氏憲は持氏の叔父満隆と謀り、満仲を奉じて兵を挙げましたが敗れ、翌年正月、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害しました。
ココは、その犬懸上杉氏の屋敷跡です。 
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歌之橋 第十二番 歌之橋
(うたのはし)

距離       累計
0.43km     23.33km

鎌倉十橋
鎌倉十橋ノ一ニシテ建保元年(皇紀一八七三)二月 澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄天神ニ奉献セシニ 翌朝 將軍實朝傳聞セラレ御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 以テ神徳ヲ謝シタリト傳ヘラレ此ノ名アリ

            昭和十二年三月建 鎌倉町青年團
 
鎌倉十橋のひとつであり、建保元年(1213)2月、渋川刑部六郎兼守が謀叛の罪により処刑されそうになった時、無実である思いを和歌十首に込めて荏柄天神に奉納しました。翌朝、将軍実朝がその歌を聞いて感心し、兼守の罪を許しました。兼守は神のご加護により救われたと感謝し、その礼として此の場所に橋を造立し納めました。
この橋の名はその逸話に因むそうです。
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宇津宮辻幕府舊蹟 第十三番 宇津宮辻幕府舊蹟
(うつのみやつじばくふきゅうせき)

距離      累計
1.2km     24.53km
鎌倉幕府ハ初メ大蔵ニ在リシガ嘉禄元年 政子薨ジテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ議起リ及チ時房 泰時等巡検評議ノ末 同年十一月此ノ地ニ造営 十二月 将軍藤原頼経此ニ移リ住ス 爾後嘉禎二年 頼経再ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ天下ノ政令ノ此ニ出ヅルモノ凡ソ十二年ナリ

             大正十年三月建之 鎌倉町青年会
鎌倉幕府は初め大蔵にありましたが、嘉禄元年(1225)に政子が亡くなって幕府の地を他に変えようとの意見が起こり、北条時房、泰時等が巡検評議の結果、同年11月にこの場所に造営する事に決定しました。12月には将軍藤原頼経が移り住む事になりました。その後、嘉禎2年(1236)に頼経が再び幕府を若宮大路に移すまでの12年間、ココが政治の中心地でありました。
次へ 1.2km
荏柄天神 第十四番 荏柄天神
(えがらてんじん)

距離      累計
1.2km     25.73km
倭名鈔 當郡ニ荏草ト記セル郷名アリ 今其名ヲ失スレドモ當社附近ノ舊称ナリシガ如シ 草ニかやノ古訓アレバ 江がらハ江がやノ転訛ナルヲ後文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ 社前ノ松並木ヲ古来馬場ト稱ス 本社ハ元中央ニ菅公束帯ノ坐像 右方ニ天拜山祈誓ノ立像 左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ安置セシモ勸請ノ年代ヲ傳ヘズ 頼朝公初メテ大蔵ノ地ニ幕府ヲ設ケシ時 當社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トナス  爾来歴代将軍ノ尊奉セシ所 天文年間 北條氏康社前ニ關ヲ置キ關銭ヲ取リテ社料ニ共セシメシ事アリ 徳川氏ノ世ニハ鶴岡八幡宮造營ノ節毎ニ其ノ餘材残木ヲ受ケテ本社修造ニ抵ツルヲ例トセシト云フ

              昭和四年十二月 鎌倉町青年團
倭名類聚抄に柄草と記せる郷名があり、今はその名はありませんが、この神社附近の旧称の様です。草の字にカヤの古訓があるので、江ガラは江ガヤの転化となり、後に今の様に文字を当てハメた物と思われます。昔は社前の松並木を馬場といいました。本社は、元中央に菅原公束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置しておりますが、勧請の年代は分かっていません。頼朝公が初めて大蔵の地に幕府を設けた時、当社を鬼門の鎮守と指定しています。 以後、歴代の将軍も尊奉しま した。天文年間に北条氏康が社前に関を置き、関銭を取って修繕費用にしました。
江戸時代には、鶴岡八幡宮造営の工事がある毎に、その余材で本社を修造する事が通例となっていました。 
次へ 1.4km
夷堂橋 第十五番 夷堂橋
(えびすどうばし)

距離       累計
1.4km     27.13km

鎌倉十橋
鎌倉十橋ノ一ニシテ此辺ハ往昔夷堂アリシトイフ 此川ハ上流ニテ胡桃川ト云ヒ浄明寺門前ニ至リ滑川ノ名アリ 文覚屋敷ト伝ヘラルヽ辺ハ坐禅川ト唱ヘ 此辺ハ夷堂川ト呼ビ 延命寺ノ傍ヨリすみうり川ト名ツケ 閻魔堂址ノ辺ニテハ閻魔川トイフ

              昭和七年三月建 鎌倉町青年団
この橋は鎌倉十橋のひとつで、このあたりには昔、夷堂があったといわれています。この川は、上流では胡桃川といい、浄明寺の門前では滑川と呼ばれ、文覚上人屋敷跡の辺りでは坐禅川と唱え、この辺りでは夷堂川と呼び、延命寺の傍らからは、すみうり川と名付けられ、閻魔堂跡の辺りでは閻魔川といいます。
次へ 1.1km
扇谷上杉管領屋敷迹 第十六番 扇谷上杉管領屋敷迹
(おうぎがやつうえすぎかんれいやしきあと)

距離       累計
1.1km     28.23km
内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ 宗尊親王ニ從ヒテ鎌倉ニ下リ食邑ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ始メテ上杉氏ヲ稱セルカ 其ノ曽孫憲顯 管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム 門葉數家 重房五世ノ孫 顯定 扇谷家ヲ創ム 文明ノ交 扇谷家六代ノ主 定正 賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ 世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領ト稱ス 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ

            大正十一年三月建 鎌倉町青年團
 
内大臣藤原高藤から13代の子孫に重房という人がおり、宗尊親王に従って鎌倉に下りました。禄地を丹波国上杉荘に賜って、始めて上杉氏を名乗りました。その曾孫の憲顕は、管領基氏の執事となり、一族の勢力は関東一円に拡がりました。重房から5世の顕定は、扇谷家を起こしました。文明の頃、扇谷家6代目の定正は、賢臣太田道灌を用ひて、家名を更に上げました。人々は山内家と共に、両上杉または両管領といいました。
この場所がその扇谷上杉氏の屋敷跡です。
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大江広元邸址 第十七番 大江廣元邸址
(おおえのひろもとていあと)

距離       累計
2.9km     31.13km
大江氏 奕世學匠トシテ顕ル 嘗テ匡房兵法ヲ以テ義家ニ授ク 廣元ハ其ノ匡房ノ曾孫ナリ 頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ來リ常ニ帷幄ニ侍シ機密ニ参畫ス 幕制創定ノ功 廣元ノ力輿リテ多キニ居リ相模毛利荘ヲ食ム 子孫依リテ毛利ヲ氏トス 而シテ因縁奇シクモ此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ王政復古ニ倡首タリ 此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫ノ邸址ナリ

             大正十四年三月建 鎌倉町青年團
大江氏は代々学門の家柄であります。かつて大江匡房は源義家に兵法を教えました。廣元は其の匡房の曾孫であります。広元は、頼朝に招かれて鎌倉に来てからは、常に政治の中心におり、幕府創定の功績は広元の力による所が大きいといわれています。相模毛利荘に領地をもらい、子孫は毛利氏を名乗りました。しかし皮肉にも、この鎌倉幕府創業の元勲の末裔は、700年後の明治維新の時、王政復古運動に活躍しました。 この場所はその毛利氏の祖の大膳大夫の屋敷跡であります。
次へ 1.9km
大蔵幕府舊蹟 第十八番 大藏幕府舊蹟
(おおくらばくふきゅうせき)

距離       累計
1.9km     33.03km
今ヲ距ル七百三十七年ノ昔 治承四年 源頼朝邸ヲ此ノ地ニ營ミ後覇権ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此邸中ニ聴ク 所謂大蔵幕府是ナリ 爾来 頼家 實朝ヲ経テ嘉禄元年 政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ニ還レルマデ此ノ地ガ幕府ノ中心タリシコト 實ニ四十六年間ナリ

             大正六年三月建之 鎌倉町青年會
今をへだたる事737年前の治承4年(1180)に、源頼朝がココに屋敷を建て、権力を握るようになってからは、政治を此の屋敷内で執り行いました。世に言う大蔵幕府であります。以来、頼家、実朝と続き、嘉禄元年(1225)に頼朝の妻の政子が亡くなり、幕府が宇津宮辻に遷されるまでの46年間、ココは政治の中心地となっていました。
次へ 1.3km
太田道灌邸舊蹟 第十九番 太田道灌邸舊蹟
(おおたどうかんていきゅうせき)

距離       累計
1.3km     34.33km
此ノ地ハ武略文藻兼ネ備へ恭クモ 武藏野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ叡感ニサヘ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ 寛永十一年今ノ英勝寺トナル 其ノ創立者 水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ 道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ 孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク 少女為ニ遺ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ 道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ

             大正十年三月建之 鎌倉町青年會
ココは、軍略・文才を兼ね備え、『武蔵野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな』と詠み、時の天皇に感心され、誉められる程の人物であった太田道灌が、江戸城を築く前に住んでいた屋敷の跡です。寛永11年(1634)に現在の英勝寺となりました。英勝寺の創立者水戸藩祖頼房の乳母の英勝院は、道灌の子孫である太田康資の娘で、晩年に将軍家光よりこの地を授り受け住居としました。太田道灌が雨の中一人で馬に乗り、茅葺の粗末な家で蓑を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出したという詩趣ある逸話は、道灌が壮年期にココに住んでいた頃の在りし日の出来事です。
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木曽冠者義高之塚 第二十番 木曽冠者義高之塚
(きそのかじゃよしたかのはか)

距離       累計
3.5km     37.83km
義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ將ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル爾来 頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ元此地ノ西南約二町木曽免トイフ田間ニ在リシヲ延寶年中此ニ移ストイフ 旭將軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ餘韻ヲ傳ヘテ數奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ處ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ

              大正十五年一月 鎌倉同人會建
木曽義高は義仲の長男です。義仲が頼朝の恨みを買い、戦になろうとした時、義高を人質として鎌倉に送り、ようやく和解する事ができました。それ以後、義高は頼朝に養われる身となり、頼朝の娘を妻に迎えました。そして義仲が粟津で殺害されると義高は鎌倉を脱出しましたが、入間川で捕えられ斬られました。義高の塚は、ココから西南に約200メートルの所の木曽免という田の中にあった物を、 延宝年間にココに移したといいます。旭将軍といわれた義仲は、烈しく豪快な短い人生を送り、不運で薄命であったその息子の首はこの場所に葬られ永遠の眠りについております。
次へ 3.7km
鉄井 第二十一番 鐵井
(くろがねのい)

距離       累計
3.7km     41.53km

鎌倉十井
鎌倉十井ノ一ナリ 水質清冽甘美ニシテ盛夏ト雖涸ルルコトナシ 往昔此井中ヨリ高サ五尺餘ノ首許リナル鐵観音ヲ掘出シタルニヨリ鐵井ト名付クトイフ 正嘉二年(皇紀一九一八)正月十七日丑ノ尅 秋田城介泰盛ガ甘縄ノ宅ヨリ失火シ折柄ノ南風ニ煽ラレ火ハ薬師堂ノ後山ヲ越エ壽福寺ニ到リ 廓内一宇ヲモ残サズ焼失セシメ 餘焔ハ更ニ新清水寺 窟堂 若宮寶臧 同別當坊等ヲ焼亡セシメタルコト東鑑ニ見エタリ 此観音ハ其ノ火災ニカカリ土中ニ埋モレシヲ掘出シタルモノナラン 尊像ハ新清水寺ノ観音ト傳ヘ 後此井ノ西方ナル観音堂ニ安置セラレシモ明治初年東京ニ移セリトイフ

             昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
鎌倉十井のひとつで水は清んでいて甘味があり、盛夏でも枯れる事がない。昔この井戸から高さが1.5m余りの鉄観音像の首部分が掘出された事より鉄井と名付けられました。正嘉2年(1258)1月17日の午前2時頃、秋田城介康盛の甘縄の屋敷より失火し、折からの南風に煽られ、火は薬師堂の後ろ山を越えて寿福寺にまで及び、一堂も残さず全て焼けてしまいました。火は更に新清水寺、窟堂、若宮宝蔵、別当坊を焼き尽くした事が東鑑に記されています。此の観音像はその火災の時に土中に埋まったものを後に掘り出したものです。鉄観音は新清水寺のものと伝えられ、後にこの井戸の西方の観音堂に安置されましたが、明治初年に、東京に移されたと伝わります。
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桑ヶ谷療養所跡 第二十二番 桑ヶ谷療養所跡
(くわがやつりょうようじょ)

距離       累計
2.6km     44.13km
今を遡る七百年の昔 永仁年間鎌倉幕府執権北條時宗公が極楽寺僧良観房忍性上人に命じ貧民救済の目的を以て療養所を設けたるのはこの桑ヶ谷戸なりと云う。又文永年間大旱魃による飢饉の際施粥の炊き出しをなしたるもこの地なりと伝えらる、爾来 年去り人逝きて幾度変転今は当時を語る跡形もなし。只この里に立ちて静かに偉人の善業を回顧すれば 松韻風と共に来り我等に訓うるものあらん。茲に桑ヶ谷の歴史を伝え往時を偲ぶよすがとせんとす。極楽寺縁起に曰く、『或凶年則集飢人於深沢谷而施粥救餓』と、また曰く『爰元帥平時宗朝臣、請上人一朝設斎筵問訊答話之因、乃上人談干元帥公曰、治養病人者、八福田之随一而仏菩薩之最行也、公聞之丕感歎焉、故新構療病所於桑谷、以集闔国之病者而施治養』と。以てこれが証とすることを得べし。

           昭和三十七年三月 長谷上町文化会
今から700年前の昔、永仁年間、鎌倉幕府の執権北条時宗公が, 極楽寺の僧の良観忍性上人に命じて、貧民救済の目的で療養所を設けたのは、この桑が谷戸といわれています。又、文永年間に大干ばつによる飢餓の際、粥の炊き出しをしたりしたのも、この場所だといわれています。現在、当時を語る物は何ひとつ残っていません。今は只、この里に立って、静かに偉人の善業を回顧すれば、その教訓を得る事ができましょう・・・
桑ヶ谷の歴史を伝え、往時を偲びたいものであります。
極楽寺縁起に曰く、『凶年には飢えた人を深沢谷に集めて粥を施し餓を救う』と、また曰く『北條時宗、上人を招き問答せし時、上人曰く病人の治療せし事最善の行為也と、時宗之を聞き感歎し、新に桑谷に療養所を設け、全国より病者を集め、治療を施せり』と。以てこれが証とする事を得るべし。
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飢渇畠 第二十三番 饑渇畠
(けかちばたけ)

距離       累計
1.2km     45.33km
此處は昔時の刑場なり 後 里人六地蔵を祀り又供養塔 芭蕉句碑等を建つ 今石柵を繞らして此を整理す

                大正七年十二月 鎌倉同人会
その昔、ココは刑場でした。後に里人が、六地蔵を置いて霊を祀りました。又供養塔や松尾芭蕉の句碑等を建て、石柵めぐらして、整理しました。
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下馬 第二十四番 下馬
(げば)

距離       累計
0.35km     45.68km
往昔鶴岡社参ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ 今ニ地名トシテ存ス 此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ 尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日 日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上 鶴岡ニ向ヒ八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顕ハシタマヘト大音聲ニテ祈請アリシハ下馬橋附近ナリト傳ヘラル

             昭和十二年三月建 鎌倉町青年團

その昔、鶴岡八幡宮に参る武人は、この辺りで馬から降りて歩いて詣でた事から下馬の名がつきました。今でもその名が、地名として残っています。ココは鎌倉の重要な地点であり、しばしば戦場になったことが古書に記されています。尚、文永8年(1271)9月12日、日蓮聖人が名越の小庵から龍口ノ刑場に送られる際、鶴岡八幡宮に向い、『八幡大菩薩よ、神ならば仏法の為に霊験を現し給え』、と大声で祈請したのは、この下馬橋付近であると言い伝えられています。
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化粧坂 第二十五番 假粧坂
(けわいざか)

距離       累計
1.9km     47.58km


鎌倉七口
氣生坂又ハ形勢坂ニ作ル 此名稱ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ假粧シテ實檢ニ備ヘシニ據リ起ルト言ヒ 又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ據リ此名ヲ負フト相傳フルモ東鑑ニハ其名見エズ 此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ當リ元弘三年(皇紀一九九三)五月 新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戰場トナレル所ナリ

             昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
気生坂、又は形勢坂と漢字を当てハメています。この名前は昔平家の大将を討取り、首実験の際、その顔に化粧をした事によるとの説があります。また一説には、昔この坂の麓に遊里があったのでその名があるとの伝えがありますが、吾妻鑑にはその名称は出てきません。この坂はいわゆる鎌倉七口のひとつで、鎌倉攻防の重要な場所であり、元弘3年(1333)に新田義貞軍が鎌倉に攻め入って以来、しばしば戦場となった所です。
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源氏山 第二十六番 源氏山
(げんじやま)

距離       累計
0.85km     48.43km
源氏山ハ初メ武庫山ト云ヒ龜ヶ谷ノ中央ニアル形勝ノ地ナルヲ以テ又龜谷山トモ稱セリ 源頼義 義家父子奥州征伐ノ時 此山ニ旗ヲ立テタルヨリ 或ハ旗立山ト名付ク 山ノ麓壽福寺境内附近ハ爾来源氏世々ノ邸宅タリシ地ナリト云フ 源氏山ノ名称ハ之ニ起因セルカ 旗竿ヲ建テシト云フ故趾ハ今尚ホアリ

             昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
源氏山は以前は武庫山といい、亀ヶ谷の中央にあって、形勝の地であるので亀谷山ともいっておりました。源頼義、義家父子が奥州征伐に赴く時、この山に旗を立てた事に因み旗立山とも名付けられていました。山の麓の寿福寺境内付近は以後、源氏代々の邸宅であったと伝わります。源氏山の名称はその事に起因するものだと思われます。旗竿を建てたと伝わる旧跡は現存しています。
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源平池 第二十七番 源平池
(げんぺいいけ)

距離       累計
0.5km     48.93km
壽永元年(紀元千八百四十二年)四月 源頼朝ノ命ニヨリ 専光坊並ニ大庭平太景義等奉行シテ境内ニ池ヲ掘リシコト東鑑ニ見ユ 一説ニ夫人政子 源家ノ興隆ヲ祈請シテ此ノ池ヲ營作セシメ 東池ニ白蓮 西池ニ紅蓮ヲ植エ源平ノ旗色ヲ表ハシタリト傳ヘラレ源平池ノ名アリ

             昭和十二年三月建 鎌倉町青年団

壽永元年(1182)年4月に、源頼朝の命により専光坊や大庭景義らが八幡宮境内に池を掘った事が吾妻鑑に記されています。一説には、頼朝夫人の政子が源家が栄えることを願いこの池を造らせ、東の池に白蓮を、西の池には紅蓮を植え源平の旗の色を表わしたと伝わります。
それに因んで源平池という名が付いたという事です。 
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極楽寺坂 第二十八番 極樂寺坂
(ごくらくじざか)

距離       累計
2.9km     51.83km

鎌倉七口
此所往古疊山ナリシヲ極樂寺開山忍性菩薩 疏鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ 即チ極樂寺切通ト唱フルハ是ナリ 元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ 大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ将トシテ此所ヲ堅メ相戰フ

              昭和七年三月建  鎌倉町青年團
ココは昔、山々が重なっていた所でしたが、極楽寺開山の忍性が一本の路を切り開いたと伝えられています。所謂、極楽寺切通というのはコレの事です。元弘3年(1333)、新田軍の大将の大館次郎宗氏と江田三郎行義がこの道を進軍しました。対して鎌倉軍の大将大仏陸奥守貞直は、この道の坂を堅め相戦った場所であります。
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佐竹屋敷跡 第二十九番 佐竹屋敷跡
(さたけやしきあと)

距離       累計
2.7km     54.53km
此所ハ佐竹四郎秀義以降代々ノ屋鋪蹟ト云フ 昔當所ニ佐竹氏ノ靈社アリシガ後年村内天王社ニ合祀ス 後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ 其ノ形 扇ノ地紙ニ似テ中ニ三本ノ疇アリ 左右ヲ合テ五本骨ノ如シ

              昭和七年三月建 鎌倉町青年團
ココは佐竹四郎秀義以降代々の屋敷跡と伝えられています。昔、ココに佐竹氏の霊社がありましたが、後年に村内の天王社に合祀されました。背後の山を佐竹山と呼び、その形は扇の地紙に似ており、中央に三本の畦道があり、左右を合わせて五本骨の扇の様です。
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十一人塚 第三十番 十一人塚
(じゅういちにんづか)

距離       累計
3.8km     58.33km
元弘三年五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ 極樂寺口ニ攻入ラントセシニ敵中 本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本陣ニ切込ミ為ニ 宗氏主従十一人戰死セリ 即遺骸ヲ茲ニ埋メ 十一面觀音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人冢ト稱セシト云フ

                昭和六年三月 鎌倉町青年團
元弘3年(1333)5月19日、新田勢が大館又次郎宗氏を大将として極楽寺口に攻め入ろうとした時、鎌倉側の武将である本間山城左衛門が手兵を率いて大館の本陣に切込みました。その為、宗氏主従十一人は戦死しました。
その亡骸をココに埋め、十一面観音の像を建ててその英魂を弔いました。それでココを十一人塚というと伝えられています。
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主馬盛久之頸坐 第三十一番 主馬盛久之頸坐
(しゅめもりひさのくびのざ)

距離       累計
2.2km     60.53km
盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累代ノ家人ナリ 然ルニ平家滅亡ノ後 京都ニ潜ミ年來ノ宿願トテ清水寺ニ參詣ノ歸途 北條時政 人ヲシテ召捕ヘシメ鎌倉ニ護送シ文治二年六月 此地ニ於テ斬罪ニ處セラレントセシニ奇瑞アリ 宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシト言フ

              昭和十年三月 鎌倉町青年團建
盛久は主馬入道盛国の子で平家累代の家人であります。平家滅亡後は京都に隠れ、年来の宿願として清水寺に参詣した帰途、北条時政に捕えられ鎌倉に送られました。
文治2年(1186)6月、この地で斬罪に処せられる時に、光と共に刀が折れ散る等の奇跡が起こりました。そして、頼朝は盛久に所帯安堵の下文を与え、許したという事です。
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松谷寺及佐介文庫阯 第三十二番 松谷寺及佐介文庫阯
(しょうこくじおよびさすけぶんこあと)

距離       累計
1.2km     61.73km
昭和五年 金澤文庫傳存ニカカル佛書ノ奥書ヨリ發見サレ漸ク世ニ知ラルルニ至リシ佐介文庫ハ 松谷文庫又ハ佐介松谷文庫トモ稱ヘ金澤文庫ト同時代頃ノ創立ト推察セラルルモ 其創立者 所在位置 規模 存續期間等祥ナラズ 然レ共北條氏ノ一族タル佐介氏其邸内ニ寺院ト文庫トヲ創建シ其地名ヲ寺號ト文庫名トニ充テシモノナラン 此地今ニ松ケ枝 又ハ 松ヶ谷ノ傳唱アルヲ以テ 松谷寺及佐介文庫ハ共ニ此附近ニ所在セシモノト推定スル所以ナリ

             昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
昭和5年(1930)、金沢文庫に伝わる仏書の由緒書より発見され初めて世に知られるに至った佐介文庫は、松谷文庫又は佐介松谷文庫ともいわれ、金沢文庫と同時代頃の創立と推察されますが、その創立者、所在位置、規模、存続期間などの詳細は分かっていません。
しかし、北条氏の一族である佐介氏がその屋敷内に寺院と文庫を建て、その地名を寺号と文庫名とに当てた物と思われます。ココの地名が現在、松ヶ枝または松ヶ谷と伝わっている為、松谷寺および佐介文庫は共にこの付近に在ったと推定されています。
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勝長壽院旧蹟 第三十三番 勝長壽院舊蹟
(しょうちょうじゅいんきゅうせき)

距離       累計
2.5km     64.23km
院ハ文治元年 源頼朝ノ先考義朝ヲ祀ランガ爲ニ草創スル所 一ニ南御堂又大御堂ト言フ 此ノ地ヲ大御堂ケ谷ト言フハ是ガ爲ナリ 實朝及ビ政子モ亦此ノ地二葬ラレタリト傳ヘラルレドモ其墓今ハ扇ケ谷壽福寺ニ在リ

             大正六年三月建之 鎌倉町青年會
勝長寿院は文治元年(1185)、頼朝の父の義朝を祀る為に建てられた寺であります。別称として南御堂とも大御堂ともいいます。この地を大御堂ヶ谷と言うのはこの為であります。実朝と政子もまたこの地に埋葬されたと伝わりますが、現在二人の墓は扇ヶ谷の寿福寺にあります。 
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聖福寺趾 第三十四番 聖福寺址
(しょうふくじあと)

距離       累計
6.0km     70.23km
聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年)四月 関東ノ長久並ニ北條時頼ノ息時輔(幼名聖寿丸) 時宗(幼名福寿丸)ノ息災延命ノ爲建立セシモノニシテ其ノ寺号ハ兩息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルルモ廃寺ノ年代詳ナラズ 此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ

              昭和九年三月 鎌倉町青年團建 
聖福寺は建長6年(1254)4月に、関東の武運長久と、北条時頼の二人の息子、時輔(幼名聖寿丸)、時宗(幼名福寿丸)の息災延命を願い建立された寺です。
寺の寺号は、両子息の名に因むものと伝えられていますが、廃寺の年代は良く分かっていません。
この谷は聖福寺谷と呼ばれています。
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洲崎古戦場 第三十五番 洲崎古戦場
(すさきこせんじょう)

距離       累計
3.6km     73.83km
此ノ辺リ古ノ洲崎郷ニ属ス 元弘三年五月新田義貞鎌倉攻ノ折 ソノ部将堀口三郎貞満 大島讃岐守守之 洲崎口ヨリ攻ム 鎌倉方ハ赤橋相模守守時ヲ将トシテ邀撃シ戦闘六十数度 遂ニ敗レ守時以下九十余人自刃シタル古戦場ナリ

             昭和三十一年三月建 鎌倉友青会
その昔、この辺りは洲崎郷でした。元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めの折、その武将の堀口三郎貞満と大島讃岐守守之は洲崎口より攻め込みました。鎌倉方は赤崎相模守守時を大将として迎撃し、戦闘60数度に及ぶもついに敗れてしまいます。ココは守時以下90余人が自刃したと伝わる古戦場です。
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筋替橋 第三十六番 筋替橋
(すじかえばし)

距離       累計
4.7km     78.53km

鎌倉十橋
鎌倉十橋ノ一ナリ 寶治元年(皇紀一九〇七)六月 三浦泰村一族ノ叛亂ニ際シ北條時頼ノ外祖タル足達景盛ハ其ノ一族ト共ニ兵ヲ率ヰ此ノ橋ノ北邉ヨリ泰村ノ第ヲ攻メシコト東鑑ニ見エタリ 又文平二年(皇紀一九二五)三月 鎌倉ニ於ケル商家ノ營業地域ヲ數ケ所ニ限定セル触書中ニ『一所須地賀江橋』トアルハ即チ此附近ノ事ナリ

             昭和十四年三月建 鎌倉町青年團
鎌倉十橋のひとつです。宝治元年(1247)6月、三浦泰村一族の乱(宝治合戦)の時、安達景盛はその一族と共に兵を率いてこの橋の北辺から泰村の屋敷を攻めた事が吾妻鑑に記されています。また文永2年(1265)3月、鎌倉に於ける商家の営業地域を数ヶ所に限定するという触書が出され、その中に『一所は須地賀江橋』と記されていますが、それはこの辺りの事であります。

碑文にある文平は文永の間違いかと思います・・・
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関取場跡 第三十七番 關取場跡
(せきとりばあと)

距離       累計
0.4km     78.93km
當所ヲ里俗せきばト稱ス 往時ハ關取場ト稱セル由 天文十七年 北條氏関ヲ此ノ處ニ設ケ関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造榮ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書今ニ藏セラレテ荏柄天神社ニ在リ

              昭和六年三月建 鎌倉町青年團
この場所をジモティーは『せきば』と呼んでいます。昔は『関取場』と呼んでいました。天文17年(1548)、北条氏がココに関所を設けて通行税を取り、荏柄天神の修繕費に充てさせた所です。その掟書の文書は現在も荏柄天神社に所蔵されています。
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相馬次郎師常之墓 第三十八番 相馬次郎師常之墓
(そうまじろうもろつねのはか)

距離       累計
1.5km     80.43km
師常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ相馬氏ヲ嗣ギ巽荒神ノ邊ニ邸ヲ有セシガ元久二年十一月十五日 歳六十七ヲ以テ端坐合掌ノ裡ニ决定往生ヲ遂ゲ 其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ 窟中ノ寶篋印塔ハ即チ師常ノ墓ナリ

              昭和七年三月建 鎌倉町青年團
帥常は千葉介常胤の次男です。相馬氏を継ぎ巽神社の辺りに屋敷を構えていましたが、元久2年(1205)11月15日に67歳で端坐合掌したままで往生を遂げました。
その縁にあやかりたいと、僧俗の人々が、帥常の姿を拝みに集ったという事です。
窟の中の宝篋印塔は、帥常の墓であります。
次へ 2.1km
染屋太郎大夫時忠邸阯 第三十九番 染屋太郎大夫時忠邸阯
(そめやたろうたいふときただていあと)

距離       累計
2.1km     82.53km
染屋太郎時忠ハ藤原鎌足ノ玄孫ニ當リ南都東大寺良辨僧正ノ父ニシテ文武天皇ノ御宇(皇紀一三五七~一三六二)ヨリ聖武天皇ノ神亀年中(皇紀一三八四~一三八九)ニ至ル間鎌倉ニ居住シ東八箇國ノ総追捕使トナリ 東夷ヲ鎮メ一ニ由井長者ノ稱アリト傳ヘラルヽモ其事蹟詳ナラス 此處ノ南方ニ長者久保ノ遺名アルハ彼ノ邸阯ト唱ヘラル 尚甘縄神明宮ノ別当甘縄院ハ時忠ノ開基ナリシト云フ

             昭和十四年三月建 鎌倉町青年團
染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の4代目の子孫であり、南都東大寺良弁僧正の父であります。文武天皇の時代(697~707)より聖武天皇の神亀年中(724~728)の間、鎌倉に住み、関東八箇国の総追捕使でありました。そして東の夷敵を鎮め、由比の長者と呼ばれていたと伝わりますが、詳しい事は知られていません。
ココの南の方に、長者久保という遺名がありますが、彼の邸址であるといわれています。
尚、甘縄神明宮の別当甘縄院は、時忠の開基と伝わります。
次へ 4.4km
大慈寺跡 第四十番 大慈寺跡
(だいじじあと)

距離       累計
4.4km     86.93km
大慈寺ハ建暦二年 源實朝ノ創建ニカゝリ新御堂ト號ス 建保二年七月二十七日 大供養ヲ行ナハレ尼御臺政子及ヒ將軍實朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ 後正嘉元年 征夷大将軍宗尊親王ノ時 本堂 丈六堂 新阿彌陀堂 釋迦堂 三重ノ塔 鐘樓等悉く修理ヲ加ヘラレ荘嚴ノ美殆ント古跡ニ軼タリト東鑑ニ見ヘタリ 當時ノ盛観以テ思フベシ 爾來星霜七百年 布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メス桑滄ノ變歎スヘキ哉

             昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
大慈寺は建暦2年(1212)に源実朝が創建した寺で、新御堂ともいいます。建保2年(1214)7月27日に大供養が行なわれ、尼御台政子及び将軍実朝が格式張って参列しました。後、正嘉元年(1257)に征夷大将軍宗尊親王の時、本堂丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重ノ塔、鐘楼等、ことごとく修理が加えられ、その荘厳美は以前の建物以上である、と吾妻鑑に記されています。当時の盛観さが目に浮かびます。
700年が過ぎた現在、一片の礎石をも見付ける事が出来ません。時代の変化には本当に驚かされます。
次へ 2.3km
大平寺跡 第四十一番 大平寺跡
(たいへいじ)

距離       累計
2.3km     89.23km
太平寺ハ比丘寺ニシテ相傳フ 頼朝 池禅尼ノ舊恩ニ報イン爲 其ノ姪女ノ所望ニ聴キ姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナリト 足利ノ代 管領基氏ノ族裔 清渓尼ノ中興スル所トナレルガ天文中 里見氏鎌倉ヲ鹵掠セル時 住持青岳尼ヲ奪ヒテ房州ニ去リテヨリ遂ニ頽破セリ 今ノ高松寺ハ寛永中 紀州徳川家ノ家老水野氏ガ其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ

             昭和六年三月建之 鎌倉町青年團
太平寺は尼寺であり、源頼朝が池禅尼の恩義に報いる為、その姪を開山として建立したと伝わっています。足利時代、管領基氏の子孫である清渓尼が、中興しましたが、天文の時(1532~1555)、里見氏が鎌倉を攻め、住持の青岳尼を房州に連れ去った事により廃寺となりました。その後、寛永年間(1624~1644)に紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺の遺構を改修し高松寺を建立しました。 
次へ 5.4km
玉縄首塚 第四十二番 玉縄首塚(怨親平等)
(たまなわくびづか(おんしんびょうどう))

距離       累計
5.4km     94.63km
今を距る四百四十餘歳 大永六年(1526)十一月十二日 南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち府内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北条氏時(早雲の孫)豪士大船甘糟 渡内福原両氏と倶に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀撃し合戦数合えを潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戦に於て甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その数を知らず 于戈収て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関死守の霊を慰め怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 経云我観一切普皆平等

        昭和四十二年八月 玉縄史蹟顯彰會建之
             篆額富岡周吉郎 文並書光峰林石
今から440余年前の大永6年(1526)11月12日、南総の武将里見義弘が鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮に火を放ち鎌倉府内に乱入しました。これを知った当時の玉縄城主の北條氏時は、大船の豪士である甘糟と渡内の福原両氏と供に里見の軍勢をこの戸部川畔にて迎撃し、合戦する事数回にして敵を打ち破り鎌倉を兵火から守りました。この合戦に於て甘糟氏以下30有5人は戦禍の華と散り、福原氏は傷を負い、里見勢の死者はその数が分からない程でした。戦闘の後、城主の氏時は敵と味方の首を互いに交換し、これらを葬り塚を築いて塔を建てました。そして郷里死守の霊を慰めると共に、敵味方皆平等の先例としました。これを玉縄首塚と呼んでいます。経の教えでは、敵味方なく全ての人は皆平等であると説いています。 
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 玉縄城趾 第四十三番 玉縄城趾
(たまなわじょうあと)

距離       累計
1.9km     96.53km

清泉女学院敷地内
城ハ永正九年 北條早雲ノ築ク所ニ係リ其ノ同族之ニ居ス 天文中 綱成 代リ入ル綱成 實ハ駿州今川氏ノ宗徒福島氏ノ孤子タリ 早雲ノ長子氏綱ニ養ハレテ其氏北條ヲ冒シ 又 其女ヲ得テ之ヲ妻トシ且此城ヲ與ヘラレ 爾夾子孫 氏繁 氏勝之ヲ相嗣ク 小田原北條氏滅亡ノ後漸ク廃城トナル 此ノ地鎌倉 藤澤ノ際ニ在ッテ高丘ニ居リ 驛路ニ當リ四方通塞ノ要地タリ 而シテ勇武絶倫ノ将之ニ據ル 其ノ當年 四隣ヲ風靡セシ彼ノ黄八幡ノ旗風モ偲バルルニアラズヤ

             大正十五年一月 鎌倉同人會建之
玉縄城は永正9年(1512)に北條早雲が築き、その子孫がこの城に住みました。天文中(1532~1555)に綱成が城主になりました。綱成は駿州の今川氏の宗徒福島氏の子でしたが、早雲の長男である氏綱の養子になりました。そして北條を名乗り、またその娘を妻とし、この城を与えられました。小田原北条氏の滅亡の後、廃城となりました。
ココの地形は鎌倉と藤沢の境界の高台にあり、宿駅のある街道筋で、四方の路が交差する交通の要所になっています。この地に勇武絶倫の武将が城を構えたのです。
当時、四方をなびき従わせた、あの有名な黄八幡の旗風の音が聞こえて来るようです。
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玉縄城址 第四十四番 玉縄城址
(たまなわじょうし)

距離       累計
1.4km     97.93km
玉縄城ハ永正九年十月 北条早雲ノ築クトコロタリ 大永 享禄ノ頃ハ北条氏時之ニ居リ天文初年ヨリ一族北条綱成居城ス 天正十八年小田原北条滅亡ノ際城主氏勝降伏シ後城ハ徳川氏ノ有トナリ程ナク廃城トナリシモノナリ

             昭和三十一年三月建 鎌倉友青会
玉縄城は永正9年(1512)10月に北條早雲が築きました。大永・享禄の頃は北條氏時がこの城主であり、天文初年からは、北條綱成が居城しました。天文18年(1590)に小田原の北條氏が滅亡した際、城主の氏勝は降伏し、この城は徳川氏の物となりましたが、程なく廃城となりました。
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段葛 第四十五番 段葛
(だんかずら)

距離       累計
6.3km     104.13km
段葛一ニ置石ト称ス 寿永元年三月 頼朝其ノ夫人政子ノ平産祈祷ノ為メ鶴岡社頭ヨリ由比海浜大鳥居辺ニ亘リテ之ヲ築ク 其ノ土石ハ北條時政ヲ始メ源家ノ諸将ノ是ガ運搬ニ従ヘル所ノモノナリ 明治ノ初年ニ至リ二ノ鳥居以南其ノ形ヲ失ヘリ

             大正七年三月建之 鎌倉町青年会
段葛は別称を置石といいます。寿永元年(1182)3月、頼朝は夫人の政子の安産祈祷の為、鶴岡八幡宮の社頭より由比ヶ浜の大鳥居に渡り、この段葛の参道を築きました。北条時政を始め、源家の諸将達が土石運びました。
明治の初めに二ノ鳥居から南方のそれは、その姿を失ってしまいました。 
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長楽寺跡 第四十六番 長樂寺跡
(ちょうらくじあと)

距離        累計
1.8km     105.93km
嘉禄元年三月 二位ノ禪尼政子 頼朝追福ノ為笹目谷邊ニ於テ方八町ノ地ヲトシ 七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト號ス 元弘三年五月北條執権滅亡ノ際 兵燹ニ罹リテ焼失セリト此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ベリ

             昭和六年三月建之 鎌倉町青年團
嘉禄元年(1225)3月、二位の禅尼政子は頼朝の追福の為に笹目が谷辺りで、八町四方の土地を選び七堂伽藍を建てて長楽寺としました。
元弘3年(1333)5月、北条執権滅亡の際、戦火で焼けてしまいました。ココがその遺址で、現在、長楽寺という小字で呼ばれています。
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東勝寺舊蹟 第四十七番 東勝寺舊蹟
(とうしょうじきゅうせき)

距離        累計
2.6km     108.53km
元弘三年五月 新田義貞 鎌倉ニ乱入スルヤ 高時 小町ノ邸ヲ後ニ父祖累世ノ墓所東勝寺ニ籠リ百五十年來殷賑ヲ極メシ府下邸第肆纏ノ今ヤ一面二焔煙ノ漲ル所トナルヲ望見シツゝ一族門葉八百七十餘人ト共ニ自刃ス 其ノ北條執権史終局ノ惨憺タル一齣ハ實ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ

             大正七年三月建之 鎌倉町青年會
元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉に攻め入ると、北条高時は小町の屋敷を出て、父祖累世の墓がある東勝寺に立て籠もりました。150年もの間、賑やかに栄えた鎌倉の町屋敷が、炎と煙に包まれている様を遠く眺めながら、一族総勢870余人が共に自害し果てました。北条執権政治の終局となる悲惨な場面は、実にこの場所で行われたのです。
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塔之辻 第四十八番 塔之辻
(とうのつじ)

距離        累計
2.0km     110.53km
佐々目ケ谷ノ東南ニ方リ路傍二所ニ古キ石塔建テリ 辻ニ塔アル故ニ塔之辻ト言フラン傳ヘ云 昔由比ノ長者太郎大夫時忠ノ愛兒三歳ノ時 鷲ニ攫ハレ追求スレトモ得ス 父母ノ悲痛措ク處ヲ知ラス 散見セル片骨塊肉ヲ居ルカマゝニ 是レヤ吾兒ノ骨 彼レヤ吾兒ノ肉カト思ヒツゝ所在ニ塔ヲ建テゝ之ヲ供養シ以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉諸處ニ塔ノ辻ト言フ處アリ 此處モ其ノ一ナリト 或ハ言フ 往時ノ道標ナラント 未タ其ノ何レカ眞ナルヲ知ラス

                昭和四年三月 鎌倉町青年團
佐々目ヶ谷の東南の路傍に古い石塔が建っています。
辻に塔があるので、塔之辻と言うと伝えられています。
昔、由比の長者太郎太夫時忠の愛児が三歳の時、鷲にさらわれ、追いはしたが捕えられず、父母の悲しみは量り知れない物でした。散見している骨や肉片などを見つけると、これは我が子の骨ではなかろうか、あれは我が子の肉ではなかろうかと思い、その都度塔を建て、菩提を祈り供養しました。それで、鎌倉のあちこちに塔の辻と言う所があり、ココもそのひとつであろうといわれています。
或る人は昔の道標だと言います。
どちらが真実なのかは、未だに分かりません。
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土佐坊昌俊邸址 第四十九番 土佐坊昌俊邸址
(とさのぼうまさとしていあと)

距離        累計
1.7km     112.23km
堀河館ニ義經ヲ夜襲シ利アラズシテ死セシ者 是土佐坊昌俊ナリ 東鑑文治元年十月ノ條ニ此ノ追討ノ事人々ニ多ク以テ辭退ノ氣アルノ處 昌俊進ンデ領状申スノ間殊ニ御感ヲ蒙ル 己ニ進發ノ期ニ及ンデ御前ニ參リ老母竝ニ嬰兒等下野ノ国ニ有リ憐愍ヲ加ヘシメ給フベキノ由之ヲ申ス云々トアリ 其ノ一度去ッテ又還ラザル悲壯ノ覺悟ヲ以テ門出ナシケン此ノ壯士ガ邸ハ即チ此ノ地ニ在リタルナリ

             大正十四年三月建 鎌倉町青年團
土佐坊昌利は堀川館の源義経に夜襲をかけましたが、逆に殺されてしまいました。吾妻鑑によると文治元年(1185)10月に義経を討つ者を募った時、皆は辞退したい気持ちでしたが、昌俊が進んで引き受けると申し上げると、頼朝は大変喜びました。昌俊は出発の時に頼朝に参じ、下野の国に年老いた母や小さい子供達がいるので、情けを掛けて欲しいと述べたと記されています。
一度出れば帰る事はないという悲壮な覚悟で門出した昌俊の屋敷が在ったのはココであります。
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俊基朝臣墓所 第五十番 俊基朝臣墓所
(としもとあそんぼしょ)

距離        累計
2.1km     114.33km
藤原俊基朝臣ノ朝權ノ恢復ヲ圖リテ成ラズ 元弘二年六月三日 北條高時ノ害ニ遭ヒ 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に殘るらん ト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ處ナリ
        
             大正六年三月建之 鎌倉町青年會
藤原俊基朝臣は朝権の回復を図ろうとしましたが、成功しませんでした。元弘二年(1332)六月三日、北条高時の命令により、この場所で処刑されました。 
『秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に残るらん』と辞世の句を詠み、深い恨みを残した場所はココであります。
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西御門 第五十一番 西御門
(にしみかど)

距離        累計
2.4km     116.73km
西御門ハ法華堂西方ノ地ヲ謂フ 大藏幕府西門ノ前面ニ當レルヲ以テ此名アリ 報恩寺 保壽院 高松寺 来迎寺等此地ニ在リ 今 高松 来迎ノ二寺ヲ存ス

             大正十五年三月建 鎌倉町青年團
西御門は法華堂の西方の地をいいます。大蔵幕府の西門の前面に当たる為にこの名が付いています。
この地域には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等がありましたが、現在は高松寺と来迎寺の二寺が存在しています。
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二十五坊舊蹟 第五十二番 二十五坊舊蹟
(にじゅうごぼうきゅうせき)

距離        累計
1.3km     118.03km
此ノ地ハ頼朝時代以来 八幡宮供僧ノ僧舎二十五坊及ビ別當坊ノ置カレシ處ナリ 彼ノ別當公暁ガ実朝ノ首ヲ手ニシテ潜ミタル 後見 備中阿闍梨ノ宅モ亦此ノ地ニ在リタルナリ應永中 院宜ニヨリ坊ノ稱ヲ院ト改ム 戦國ノ世ニ至リ 鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ癈絶シ天正ノ末ニ於テハ僅ニ七院ヲ存セルノミ 文禄中 徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ明治維新後遂ニ全ク廢墟トナレリ

             大正七年三月建之 鎌倉町青年會
この地には源頼朝の時代から八幡宮に仕える僧侶が住む二十五坊と、別当坊がありました。将軍実朝の首を手にした公暁が潜んだという、彼の後見人備中阿闍利の住居もまたこの地にありました。 応永年中、院宣により坊の呼び名を院に変えました。戦国時代に入り、鎌倉管領の衰えと共に各院とも廃絶し、天正年中には僅か7院だけになりました。文禄年中に徳川家康が5院を再興し12院になりましたが、明治維新の後は遂に全て無くなりました。
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日蓮上人祈雨旧跡 第五十三番 日蓮上人祈雨旧跡
(にちれんしょうにんきうきゅうせき)

距離        累計
6.3km     124.33km
古称金洗沢ハ此ノ池辺ナリ 文永八年六月 天大イニ旱ス 幕府 良観房忍性ニ命ジテ雨請ノ修法ヲナサシム顕ナシ時ニ日蓮此ノ池畔ニ雨ヲ祈ル 忽チ甘雨地ヲ霑オストイウ 世ニ伝ヘテ日蓮上人祈雨ノ霊跡トナスハ此ノ処ナリ

             昭和三十一年三月建 鎌倉友青会
古い呼名の金洗沢とはこの池の辺りです。文永8年(1271)6月、大干ばつに見舞われ、幕府は良観房忍性に命じて雨乞いを行わせましたが効果はありませんでした。その時、日蓮がこの池のほとりで雨乞いすると、たちまち雨が降り出し、大地を潤したと世に伝えられています。
その日蓮上人祈雨の霊跡はココであります。
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日蓮上人草庵阯 第五十四番 日蓮上人草菴阯
(にちれんしょうにんそうあんあと)

距離        累計
5.7km     130.03km
建長五年(皇紀一九一三)日蓮上人房州小湊ヨリ來リ此地ニ小菴ヲ榮ミ始メテ法華經ノ首題ヲ唱ヘ正嘉元年(皇紀一九一七)ヨリ文應元年(皇紀一九二〇)ニ及ビ岩窟内ニ籠リ立正安國論一巻ヲ編述セシハ即チ此所ナリト云フ

             昭和十四年三月建 鎌倉町青年團
建長5年(1253)、日蓮上人が房州小湊より来て、ココに小庵を建ててて居住し、法華経の首題を唱へました。
正嘉元年(1257)より文応元年(1260)までの3年間、岩窟内に籠って立正安国論一巻を編んだのはココであると伝わります。
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日蓮聖人辻説法之阯 第五十五番 日蓮聖人辻説法之阯
(にちれんしょうにんつじせっぽうのあと)

距離        累計
1.1km     131.13km
此邊ハ往時ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地點ニ位シ幕府ニ近キコトトテ殷賑ヲ極メシ所ナリ 建長五年五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ松葉ケ谷ニ草庵ヲ結ビ日ニ日ニ此邊リノ路傍ニ立チ弘通ノ為メ民衆ニ對シ獅子吼ヲ續ケシ阯ナリトテ世ニ辻説法ノ舊蹟ト傳ヘラル

             昭和十一年三月建 鎌倉町青年團
この辺りは屋敷町と商家町との境界に位置する場所で、幕府に近い事から活気に溢れ賑わっていた場所です。
建長5年(1253)5月、日蓮聖人が房州から鎌倉に来て、松葉ヶ谷に居住し、民衆教化の為に毎日の様にこの辺りの路傍に立ち布教活動をしていた場所で、辻説法の旧跡といい伝えられています。
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畠山重忠邸址 第五十六番 畠山重忠邸址
(はたけやましげただていあと)

距離        累計
0.65km     131.78km
正治元年五月 頼朝ノ女三幡姫疾ミ之ヲ治センガ爲 當世ノ名醫丹波時長京都ヨリ來レル事アリ 東鑑ニ曰ク 七日 時長掃部頭親能ガ龜ガ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス 是近々ニ侯ゼシメ姫君ノ御病腦ヲ療治シ奉ランガ爲ナリト 此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ

             大正十二年三月 鎌倉町青年團建
正治元年(1199)5月、源頼朝の娘が病気になり、これを治療する為に、当時一番の名医と言われた丹波時長を京都から鎌倉に呼び寄せました。吾妻鑑によると、7日に時長が親能の亀ヶ谷の屋敷から南御門にある畠山重忠の屋敷に移動したと記されておりますが、これは近々姫君に治療を施す為でしょう。
ココがその南御門の屋敷跡であります。
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畠山重保邸阯 第五十七番 畠山重保邸阯
(はたけやましげやすていあと)


距離        累計
1.6km     133.38km
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ嘗テ北條時政ノ婿 平賀朝雅ノ忿争ス 朝雅其ノ餘怨ヲ蓄ヘ重保父子ヲ時政ニ讒ス 時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ 頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ 事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス 乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム 重保奮闘之ニ死ス 時ニ元久二年六月二十二日 此ノ地即チ其ノ邸阯ナリ 其ノ翌 重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス
        
              大正十一年三月 鎌倉町青年團
畠山重保は重忠の長男です。かつて北条時政の婿の平賀朝雅と口論になった事があり、朝雅はその時の事を恨み続け重保父子の事を時政に讒言しました。時政も重忠が頼朝の遺言に従い頼家を保護するのを疎んでいた為、事に依っては重忠を殺してしまおうと思っていた所でした。そこで将軍実朝に命令を出させて兵を出し、重保の屋敷を囲みました。重保は奮闘しましたが殺されてしまいます。時は元久2年(1205)6月22日で、この場所はその屋敷跡です。翌日、重忠も策謀に嵌り武蔵の国の二俣川で討たれました。
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針磨橋 第五十八番 針磨橋
(はりすりばし)

距離        累計
2.4km     135.78km

鎌倉十橋
鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ

             昭和十三年三月建 鎌倉町青年團
鎌倉十橋のひとつで、昔この付近に針を研磨する事を生業としている職人が住んでいたので、この名が付いたといいます。
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東御門 第五十九番 東御門
(ひがしみかど)

距離        累計
4.4km     140.18km
大蔵幕府ニ四門アリ 方位ヲ以テ名ヅク 其東ニアルモノヲ東御門ト謂フ 今転ジテ地名トナル 法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ

           大正十五年三月建   鎌倉町青年團
大蔵幕府には四つの門があったが、門の方角によって名が付けられていました。その東にあるものを東御門と呼びました。
今では転じて法華堂の東一帯を、東御門と称しています。
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比企能員邸址 第六十番 比企能員邸址
(ひきよしかずていあと)

距離        累計
1.5km     141.68km
能員ハ頼朝ノ乳母比企禪尼ノ養子ナルガ 禪尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地比企ケ谷ノ名アルモ之ニ基ク 能員ノ女 頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト稱シ子一幡ヲ生ム 建仁三年頼家疾ムヤ母政子關西ノ地頭職ヲ分チテ頼家ノ弟千幡ニ授ケントス 能員之ヲ憤リ密ニ北條氏ヲ除カント謀ル 謀泄レテ郤ツテ北條氏ノ爲一族此ノ地ニ於テ滅サル

             大正十二年三月 鎌倉町青年團建
比企能員は源頼朝の乳母であった比企禅尼の養子となり、禅尼と共にココに住んでいました。ココが比企ヶ谷というのはこれに因みます。能員の娘は頼家の寵愛をうけ妻となり若狭局と呼ばれ、一幡という息子を生みました。
建仁3年(1203)、頼家が病で倒れると、政子が頼家の関西の地頭職をニ分し頼家の弟の千幡に渡そうとしました。
これに能員が怒り、密かに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、計画は北条方に漏れ、逆に比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。
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藤谷黄門遺蹟 第六十一番 藤谷黄門遺蹟
(ふじたにこうもんいせき)

距離        累計
1.4km     143.08km
冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 從二位中納言トナル 和歌所ノ事ニ由リ兄為氏ト争論ノ末 ソノ母阿佛尼ト共ニ鎌倉ニ来リ幕府ニ訴フ 遂ニ藤谷ニ寓シ藤谷殿ト稱セラル 藤谷百首 ト呼ビ世ニ傳誦セラルゝ和歌ハ此地ニテ詠出セラレシ者ナリ 網引地蔵ハ其ノ建立ニ係ルト云フ 卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ 五輪塔ニシテ月巖寺殿玄國昌久ノ八字ヲ刻セシト謂フモ今ハ漫滅シテ字體ヲ辨ゼズ

               昭和四年三月 鎌倉町青年團 
冷泉為相卿は為家の子供で従二位中納言となりました。土地の相続で兄の為氏と争論となり、母の阿仏尼と共に鎌倉に来て幕府に訴えました。藤ヶ谷に住したので、藤谷殿と呼ばれました。藤谷百首といわれる和歌集は、ココで詠まれた物です。
網引地蔵の建立に関係していると伝えられています。
為相の墓はその背後の山頂にあり、五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれているらしいですが、現在は摩滅していて良く読めません。 
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藤原仲能之墓 第六十二番 藤原仲能之墓
(ふじわらなかよしのはか)

距離        累計
1.3km     144.38km
此所ハ道智塚或ハ阿古耶尼ノ塚ト傳ヘラレシモ海蔵寺傳ニ據リ藤原仲能ノ墓所ト考察セラル 仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆タリシガ 後年 海蔵寺中興ノ大壇越トナリ 建長八年十二月九日寂シ道智禪師ト稱ヘラレシモノノ如ク其位牌同寺ニ現存ス

             昭和十一年三月建 鎌倉町青年團
ここは道智塚、或いは阿古耶尼の塚と伝へられていますが、海蔵寺伝に拠ると藤原仲能の墓所と推察されます。仲能は従五位下、前能州大守であり、鎌倉幕府の評定衆でしたが、後に海蔵寺中興の大壇越となり、
建長8年(1256)12月9日に亡くなりました。
道智禅師と呼ばれ、その位牌は海蔵寺に現存します。
次へ 3.8km
偏界一覧亭舊跡 第六十三番 徧界一覧亭舊跡
(へんかいいちらんていきゅうせき)

距離        累計
3.8km     148.18km
亭ハ嘉暦三年 夢窓國師ノ建立ニシテ五山ノ僧徒屡々詞會ヲ催セシ所ナリ 然ルニ其後頽癈セシヲ徳川光圀一堂ヲ建テ其傍ニ寮ヲ設ケ一覧亭集詩板ヲ懸ケシトイフモ堂寮共ニ今ナク礎石ヲ存スルノミ
前毛またかさなる山のいほりにて梢につヽく庭の白雲
ハ 夢窓國師ノ此亭ニテ詠メルモノナリト傳ヘラル

              昭和十年三月 鎌倉町青年團建
偏界一覧亭は嘉暦3年(1328)に夢想国師が建立し、鎌倉五山の僧達が度々詩会を催した所です。その後荒れ果てていましたが、徳川光圀が堂を建て、傍らに寮を設けて一覧亭集詩板を懸けたといいますが、堂も寮も今は無く基礎の石が残っているだけです。
『前もまた 重なる山の 庵にて 梢に続く 庭の白雲』
この歌は夢想国師がココで詠んだ物と伝えられています。
次へ 4.1km
弁谷 第六十四番 辨谷
(べんがやつ)

距離        累計
4.1km     152.28km
元亨元年 相模守北條高時ノ創建セシ金剛山崇壽寺ハコノ地域ニ在リシナリ 道興准后ノ迴國雑記ニ記セシ紅谷ト 田代系圖ニ據リ千葉介ノ敷地トスル別谷トハ共ニ辨谷ニ同ジトスル説アルモ詳ナラズ

              昭和七年三月建 鎌倉町青年團
元亨元年(1321)に相模守北条高時が創建した金剛山崇寿寺はこの地域に在りました。道興准后の廻国雑記に記されている紅谷と、田代系図に記されている千葉介の敷地である別谷は共に弁谷と同じとする説がありますが、詳しい事は分かっていません。
次へ 2.2km
北条執権邸舊蹟 第六十五番 北條執權邸舊跡
(ほうじょうしっけんていきゅうせき)

距離        累計
2.2km     154.48km
往時此ノ地ニ北條氏ノ小町亭在リ 義時以降累代ノ執權概ネ皆之ニ住セリ 彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴筵ヲ張リ 時ニ田楽法師ニ對シ列坐ノ宗族巨室ト倶ニ直垂大口ヲ爭ヒ解キテ纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ 元弘三年 新田義貞亂入ノ際 灰燼ニ歸ス 今ノ寶戒寺ハ建武二年 足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂弔祭ノ為 北條氏ノ菩提寺東勝寺ヲ此ノ亭ノ故址ニ再興シ以テ其ノ號ヲ改メシモノナリ
     
             大正七年三月建之 鎌倉町青年會
昔、ココに北条氏の小町亭があった。義時以後代々の執権は概ね皆ココに住みました。北条高時が朝夕に宴会をして、時には田楽法師に対し、列席している重臣と共に直垂や袴を与え、褒美の山を築いたという場所であります。元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉に攻め入った際、灰燼に帰しました。今の宝戒寺は建武2年(1335)に足利尊氏が高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の菩提寺であった東勝寺をこの屋敷跡に再興し、寺号を改めたものであります。
次へ 3.0km
星月井 第六十六番 星月井
(ほしつきのい)

距離        累計
3.0km     157.48km

鎌倉十井
星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ言フ 鎌倉十井ノ一ナリ 坂ノ下ニ屬ス 往時此附近ノ地老樹蓊欝トシテ昼尚暗シ 故ニ稱シテ星月谷ト曰フ 後轉ジテ星月夜トナル 井名蓋シ此ニ基ク里老言フ 古昔此井中昼モ星ノ影見ユ 故ニ此名アリ 近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以夾星影復タ見エザルニ至ルト 此説最モ里人ノ爲メニ信ゼラルルガ如シ 慶長五年六月 徳川家康京師ヨリノ歸途 鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ 以テ其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ 水質清冽 最モ口ニ可ナリ

              昭和二年三月建 鎌倉町青年團
星月夜の井、又は星の井ともいうこの井戸は、鎌倉十井のひとつです。ココは坂の下に属します。昔この付近は古木が鬱蒼としていて、昼でも暗かったので星月谷といわれました、後に転じて星月夜となります。井戸の名称は、恐らくそれに因む物です。里の老人がいうには、昔は昼間でもこの井戸の中に星の影が見えたので、この名前が付けられていたが、近所の召使が誤って包丁を落してからは、星影がみえなくなったという事です。慶長5年(1600)6月、徳川家康が京都より帰る途中、鎌倉を通りこの井戸を見た事がありました。それ以来、世に広く知られるようになりました。水質は清く、飲料水として最適です。
次へ 3.6km
法華堂跡 第六十七番 法華堂跡
(ほっけどうあと)

距離        累計
3.6km     161.08km
堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保五年五月 和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時 将軍実朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日 三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ満庭朱殷ニ染メシ處トス

            大正十三年三月建 鎌倉町青年團
 
法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祀っていましたが、頼朝の死後は廟所になりました。建保5年(1217)5月に、和田義盛が反乱を起こし、幕府に火を放った際、将軍実朝が避難したのがココであります。寶治元年(1247)6月5日に三浦泰村がココに籠り、北条軍を迎え撃ちましたが、刀折れ矢尽きて一族郎等500余人と供に自害し、庭一面を朱色に染めた場所であります。

石碑の通りに訳しましたがちょっとおかしいですね・・・
和田合戦は建保5年ではなく建暦3年(1213)です!
この合戦で義盛は討ち取られています!
建保元年なら分かりますが5年って(笑)
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町屋阯 第六十八番 町屋阯
(まちやあと)

距離        累計
1.7km     162.78km
此邊ハ往昔ニ於ケル鎌倉繁營當時ノ賣區ニシテ其中央ノ通衢ヲ大町大路ト呼ビ其他 米町 辻町 魚町 名越等ノ區分アリ 夫々町屋ノ在リシ所トオボシク其稱ハ屡々東鑑ニ見エ今ニ其名ヲ存ス

             昭和十一年三月建 鎌倉町青年團
この辺りは昔の鎌倉繁栄当時の商業地区で、その中央の大通りを大町大路と呼び、その他米町、辻町、魚町、名越等の区分がありました。それぞれ町屋のあった所と思われる箇所があり、しばしば吾妻鑑にその名が記されています。現在でもその名が幾つか残っています。
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万葉集研究遺蹟 第六十九番 万葉集研究遺蹟
(まんようしゅうけんきゅういせき)

距離        累計
0.6km     163.38km
此地ハ比企谷新釋迦堂 即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル権律師仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 令夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適二堂ノ須弥壇ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉シクハ萬葉集新考附録 萬葉雑攷ニ言ヘリ

  昭和五年二月 宮中顧問官  井上通泰撰 菅 虎雄書
                      鎌倉町青年團建碑
ココは比企谷の新釈迦堂があった場所であります。将軍頼家の娘で、将軍頼経の妻でもあった竹御所夫人の廟所があった所です。この堂の供僧である権律師仙覚が万葉集研究の偉業を遂げたのは、まさにこの堂に於いてでありました。夫人の墓標として大石が置いてある所は須弥檀の直下に当ります。堂は恐らくは南に面し、僧坊は西に面していたと思われます。西方の崖下の巌谷は、仙覚等の代々の供僧の骨を埋めた所と思われます。詳しい事は、
『万葉集新考 附録 万葉集雑考』に記されています。
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乱橋 第七十番 亂橋
(みだればし)

距離        累計
1.1km     164.48km

鎌倉十橋
乱橋又濫橋ト作リ 一石橋ノ名ナリ 橋ノ南方ニ連理木アリテ名高シ 東鑑ノ寶治二年六月ノ條ニ十八日寅刻 濫橋ノ邊一町許以南 雪降リ其ノ邊霜ノ如シナトアリ 辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ鎌倉十橋ノ一ナリ

                昭和四年三月 鎌倉町青年團
この橋は乱橋又は濫橋と記す一石橋です。この橋の南方に連理木があって有名でした。
吾妻鑑によると、宝治2年(1248)6月の条に、18日の午前4時頃に濫橋の辺りに雪が降り、そのあたり一面は霜のように白くなった、と記されています。辻町と材木座との境として、細流に架かる逆川橋と共に鎌倉十橋のひとつであります。
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元八幡 第七十一番 元八幡
(もとはちまん)

距離        累計
0.35km     164.83km
鶴ケ岡八幡宮ハ東鑑ニ本社ハ伊豫守源頼義 勅ヲ奉シテ安倍貞任征伐ノ時 丹祈ノ旨有テ 康平六年秋八月 潜ニ石清水八幡ヲ勧請シ瑞垣ヲ當國由比ノ郷ニ建ツ 永保元年二月 陸奥守義家修復ヲ加フトアルハ即此處ニシテ鶴ケ岡トハ昔時此地ヲ呼ヒタルナラム 其後治承四年十月十二日 源頼朝祖宗ヲ崇メンタメ小林ノ郷北ノ山ヲ点シテ宮ノ廟ヲ構ヘ由比ノ宮ヲ此處ニ遷シ奉ル 之レ現時ノ八幡宮ニテ東鑑ニ 治承四年十月七日 頼朝先ツ遙ニ鶴ケ岡八幡宮ヲ拝シ奉ルトアルハ由比ケ濱ノ宮ナリ 遷宮ノ後モ鶴ケ岡八幡宮ト云ヒシハ舊称ニ従ヘルナリ 爾來此處ヲ元八幡ト稱ス

             昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
鶴岡八幡宮は、吾妻鑑に『本社は伊予守源頼義が勅を奉して安部貞任征伐に向かう時、康平6年(1063)8月に石清水八幡を勧請し、瑞垣で囲み鎌倉由比郷に建てた。
その後、永保元年(1081)2月に陸奥守源義家が修復を加えた。』と記されています。昔はココら辺を鶴ヶ丘と呼んだ様です。その後、治承4年(1180)10月12日に源頼朝が先祖を祀るために、小林郷の北の山に由比の宮を遷座した物が現在の鶴岡八幡宮であります。
吾妻鑑に『治承4年10月7日に、頼朝先ず遥に鶴が丘八幡宮を拝し奉る』と記されているのは、ココ由比ヶ浜の宮であります。遷宮後も鶴岡八幡宮という名称なのは、旧称に従がっているからです。
以後ココは元八幡と呼ばれています。 
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盛久頸座 第七十二番 盛久頸座
(もりひさくびのざ)

距離        累計
1.3km     166.13km
平家物語に文治二年六月廿八日 幕府命じて平家の家人主馬八郎左衛門盛久を由比が浜に斬らしめんとせしに 不思議の示現ありて之を赦したまふ とあるは此地なりと云ふ

                 大正八年六月 鎌倉同人會
平家物語によると文治2年(1186)6月28日、幕府の命により、平家の家人であった主馬八郎左衛門盛久を由比が浜で処刑しようとした時、不思議な現象が起きた為にその罪を許した、と記してあるのはココの事であります。
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文覚上人屋敷迹 第七十三番 文覺上人屋敷迹
(もんがくしょうにんやしきあと)

距離        累計
2.0km     168.13km
文覺俗稱ヲ遠藤盛遠ト言ヒモト院ノ武者所タリシガ 年十八想ヲ左衛門尉源渡ノ妻袈裟御前ニ懸ケ卻テ誤ツテ之ヲ殺シ愴恨ノ餘僧ト為ル 其ノ練行甚ダ勇猛ニ祁寒盛暑林叢ニ露臥シ飛瀑ニ凝立シ屡々死ニ瀕ス 養和二年四月 頼朝ノ本願トシテ辨財天ヲ江島ニ勧請シ之ニ参籠スル事三七箇日食ヲ斷ツテ祈願ヲ凝ラセリト 此ノ地即チ其ノ當時文覺ガ居住ノ舊迹ナリ

             大正十一年三月建 鎌倉町青年團
文覚上人の俗名は遠藤盛遠といい、元は院の警護をしていましたが18歳の時に、源渡の妻の袈裟御前に惚れ込み渡を殺そうとして、誤って袈裟御前を殺してしまいます。
これを深く後悔して僧となり、その練行は勇ましく、凍える様な日も、真夏の暑い日も叢で寝起きし、滝に打たれ、何度も死にそうになりました。養和2年(1182)4月、源頼朝の願いで江ノ島に弁財天を勧請し、そこで三十七日間、断食して祈り続けたと伝わります。
ココがその当時文覚が住んでいた屋敷跡です。
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問注所舊蹟 第七十四番 問注所舊蹟
(もんちゅうじょきゅうせき)

距離        累計
1.9km     170.03km
元暦元年 源頼朝幕府東西ノ廂ヲ以テ訴訟裁斷ノ所ト為ス之ヲ問注所ト稱ス 其ノ諸人群集シ時ニ喧噪ニ渉ルコトアルヲ厭ヒテ 正治元年 頼家之ヲ邸外ニ遷ス 此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ

             大正六年三月建之 鎌倉町青年會
元暦元年(1184)、源頼朝は幕府東西の建物を訴訟裁断の所とし、これを問注所と呼びました。そこには、いろいろな人々が大勢集まり、時には喧嘩になることもありましたので、これを嫌い源頼家は正治元年(1199)、この問注所を屋敷の外に移しました。ココがその遺蹟であります。
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宿屋光則屋敷跡 第七十五番 宿谷光則屋敷跡
(やどやみつのりやしきあと)

距離        累計
1.7km     171.73km
宿谷左衛門尉光則ハ北條時頼ノ近臣ナリ 文應元年七月十六日 日蓮聖人 立正安國論ヲ時頼ニ上ラント欲シ光則ヲ長谷ノ邸ニ訪ヒ縷々其ノ趣旨ヲ説キ之ヲ手交ス 聖人龍口法難ノ時 最愛ノ弟子日朗ノ囚ヘラレタルハ邸後山腹ノ土牢ニシテ億萬斯年師考ノ哀話ヲ刻ス 光則深ク聖人ニ服シ遂ニ邸ヲ寄セテ寺ヲ創ム 實ニ此ノ光則寺ナリ 過グル人其レ襟ヲ正シテ當時ヲ追懐セヨヤ

             昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
 
宿谷左衛門尉光則は北条時頼の近臣でした。
文応元年(1260)7月16日、日蓮聖人は立正安国論を時頼に渡して貰おうと思い長谷の光則邸を訪ねました。そしてその趣旨を詳細に説明し光則に手渡しました。日蓮聖人が龍ノ口の際、最愛の弟子である日朗も捕らえられ、この屋敷の裏山にある土牢に入れられました。そして億萬斯年師考の哀話を書き記しました。光則は深く日連聖人に帰依し、自分の屋敷を寄進して寺を建立しました。
それがこの光則寺であります。
襟を正し、当時の事を偲んでみましょう。
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柳原 第七十六番 柳原
(やなぎはら)

距離        累計
3.0km     174.73km
此ノ邊ハ往昔柳ノ名所ニテ柳原ト唱ヘシ由 口碑ニ
年經たる 鶴岡邊の 柳原 青みにけりな 春のしるしに
ノ古歌傳ヘラル 其ノ作者詳ナラザレドモ一説ニハ北條泰時ノ歌トモイフ 現存ノ柳ハ即チ往昔ノ名残ナラン

              昭和九年三月 鎌倉町青年團建
この辺りは昔、柳の名所で柳原と呼んでいた様です。
『年経たる 鶴が岡べの 柳原 青みにけりな 春のしるしに』
という古歌が伝えられています。
その作者は分かっておりませんが、一説には北条泰時の歌ではないかといわれています。
現在ある柳は当時の名残りでしょうか。
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永安寺址 第七十七番 永安寺址
(ようあんじあと)

距離        累計
1.75km     176.48km


個人邸内
永安寺ハ二階堂谷ニ屬ス 關東管領足利氏満ノ開基ニシテ其開山ハ曇芳和尚ナリ 和尚名ハ周應 夢想國師ノ法嗣ニシテ建長寺瑞林庵ノ始祖タリ 氏満 應永五年十一月四日ヲ以テ卒ス 其法號ヲ永安寺壁山全公ト稱ス 寺號此ニ基ク 氏満ノ孫持氏 時ノ將軍義教ト隙アリ 兵敗レ勢窮リ此寺ニ籠居シテ自殺ス 時ニ永亨十一年二月十日ナリ 此日寺観亦兵火ニ罹リテ廢滅ニ歸ス 此所ハ實ニ其址ナリ

             大正十五年三月建 鎌倉町青年團
永安寺は二階堂谷にあります。開基は関東管領足利氏満であります。開山は曇芳和尚です、名を周應といいました。夢想国師の法を受け継ぎ、建長寺瑞林庵の始祖となりました。氏満は応永5年(1398)11月4日に亡くなり、その法号は永安寺壁山全公といいます、寺号はその戒名に因みます。氏満の孫の持氏は時の将軍義教との戦に敗れ、勢い窮まって此の寺に籠居して自害しました。
時に永亨11年(1439)2月10日の事でありました。
此の日、寺は兵火により全焼してしまいました。
ココはその永安寺跡です。 
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永福寺舊蹟 第七十八番 永福寺舊蹟
(ようふくじきゅうせき)

距離        累計
0.35km     176.83km
永福寺世ニ二階堂ト稱ス 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ 文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス 輪奐壮嚴洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ 享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス

             大正九年三月建之 鎌倉町青年會
当時永福寺は二階堂と呼ばれていました。現在この辺りの地名が二階堂なのはこれに起因します。
文治5年(1189)、頼朝が奥州より凱旋すると、奥州で見た大長壽院の二階堂を模して永福寺を建てました。
その建物の立派なことは、荘厳無双の大伽藍であったと伝わります。享徳年間(1452~1455)に関東管領が歿落する頃より後、全く廃れてしまいました。
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義経宿陣之趾 第七十九番 義経宿陣之趾
(よしつねしゅくじんのあと)

距離        累計
8.2km     185.03km
文治元年(皇紀一八四五)五月 源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ頼朝ノ不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ腰越ノ驛ニ滞在シ欝憤ノ餘因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ歎状ヲ呈セシコト東鑑ニ見ユ 世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ其ノ下書ト傳ヘラルルモノ滿福寺ニ存ス

             昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
文治元年(1185)5月、源義経は朝敵の平家と戦ってこれを平らげ、降将の前内府平宗盛を捕虜にして凱旋しましたが、頼朝の不審を買い鎌倉に入る事を許されず腰越に留まりました。ココで一通の嘆願書を書きしたため、因幡前司大江広元に送った事が吾妻鑑に記されています。
世にいう腰越状とはこれの事で、その下書きと伝わる物がココ満福寺にあります。
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理智光寺址 第八十番 理智光寺址
(りちこうじあと)

距離        累計
8.3km     193.33km
此所ハ願行上人ヲ開山トセシ五峰山理智光寺ノ址ナリ 建武二年 淵邉伊賀守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ護良親王ヲ弑シ奉リシガ 其御死相ニ怖レ御首ヲ傍ラナル藪中ニ捨テ去リシヲ當寺ノ住僧拾ヒ取リ山上ニ埋葬シ奉リシトイフ

              昭和七年三月建 鎌倉町青年團
ココは願行上人を開山とする五峰山理智光寺の跡であります。建武2年(1335)、淵辺伊賀守義博は足利直義の命令で護良親王を殺しましたが、その親王の死に顔に怖れをなし、その首を傍らの藪の中に捨てて逃げ去りました。理智光寺の僧がその首を拾い上げ、山上に埋葬したと伝わります。
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蓮華寺阯 第八十一番 蓮華寺阯
(れんげじあと)

距離        累計
2.8km     196.13km
蓮華寺ハ仁治元年(紀元一九〇〇)北條経時ノ創立ニカゝリ僧良忠ヲ開山トセシガ 寛元元年(紀元一九〇三)之ヲ材木坐ニ遷シ寺號ヲ光明寺ト改メシ由傳ヘラル 又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為 建長三年(紀元一九一一)北條時頼之ヲ建立シ後弘安二年(紀元一九三九)ノ頃 武州ヘ遷セリトモイフ 此谷ヲ佐介ケ谷ト唱フ

              昭和九年三月 鎌倉町青年團建
蓮華寺は仁治元年(1240)に僧侶の良忠を開山として北条経時が建立しました。寛元元年(1243)に寺を材木座に移し、寺号を光明寺と改めたと伝わります。また一説に、蓮華寺は経時の菩提の為、建長3年(1251)に北条時頼が建立し、弘安2年(1279)の頃に武州へ移したともいわれています。
この谷を佐介ヶ谷といいます。
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和賀江嶋 第八十二番 和賀江嶋
(わがえじま)

距離        累計
2.7km     198.83km
和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ此ノ地往昔筏木運湊ノ港タリシヨリヤガテ今ノ名ヲ負フニ至レルナリ 和賀江嶋ハ其ノ和賀ノ港口ヲ扼スル築堤ヲ言ヒ今ヲ距ル六百九十餘年ノ昔 貞永元年 勧進聖人往阿彌陀佛カ申請ニ任セ 平盛綱 之ヲ督シテ七月十五日起工 八月九日竣功セルモノナリ

             大正十三年三月建 鎌倉町青年團
和賀とは現在の材木座の昔の名前であります。この地はその昔、木材を運送する港であったので、やがて今の名前が付くようになりました。和賀江嶋はその和賀の港口を保持する築堤の事をいい、今から凡そ690余年前の貞永元年(1232)、勧進僧往阿弥陀仏が申請し、平盛綱が督促して7月15日に起工し、8月9日竣功した物であります。
次へ 2.6km
若宮大路幕府舊蹟 第八十三番 若宮大路幕府舊蹟
(わかみやおおじばくふきゅうせき)

距離        累計
2.6km     201.43km
鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシガ嘉禄元年 政子ノ薨ズルト共ニ將軍藤原頼経之ヲ宇津宮辻ニ還シ後十一年ニシテ嘉禎二年 再ビ此ノ地ニ還ス 爾来九十八年 頼経以後六代ノ将軍相継ギテ政ヲ此ニ聴ケリ 元弘三年 新田義貞ノ鎌倉ニ亂入スルニ及ビテ癈絶セリ

             大正七年三月建之 鎌倉町青年會
鎌倉幕府は初め大蔵にありましたが、嘉禄元年(1225)に政子が亡くなると、将軍藤原頼経は幕府を宇津宮辻に移し、11年後の嘉禎2年(1236)には、再びこの場所に移させました。それ以来98年間、頼経以後6代の将軍が相継いでココで政治を執り行いました。
元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉に攻め入った事により廃絶しました。
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高浜虚子庵趾・句碑 第八十四番 高浜虚子庵趾・句碑
(たかはまきょしいおりあと・くひ)

距離        累計
1.7km     203.13km
文学案内板 高浜虚子庵趾・句碑
〇虚子庵
高浜虚子の住居は虚子庵とよばれており、ここで句会がしばしば開かれました。高浜年尾は随筆『虚子と家』のなかで次のように記しています。なお文中『原の台』とはこの場所のことです。
父は自分の家ということに対して執着の少ない人であった。大体借家住いで過ぎて居り、鎌倉へ明治四十三年十二月二日に引越して来た時も、小林米珂(帰化英国人)の借家に入ったのであった。そこから三度住み変わったが、結局はじめて入った家が、現在の原の台のあの場所に小林米珂の手で移されたものを、無理に父が買わされたのが、はじめて自分のものとなった家なのであった。

〇碑文
波音の 由井ヶ濱より 発電車          虚子
虚子庵趾
右側面『明治四十三年 至昭和三十四年 発起 鎌倉文学史話会 星野立子 高木晴子 上野章子 昭和五十七年四月建之』
東京に住んでいた虚子(37歳)は明治43年、雑誌『ホトトギス』の立て直しを計る為の気分転換に鎌倉の由比ガ浜に移り住み、昭和34年に85歳で亡くなるまで50年近く鎌倉で過ごしました。

波音の 由井ヶ浜より 発電車

これは元旦にココで虚子が詠んだとされる句ですが、電車とは江ノ電の事で、まさにこの石碑は小さな踏切の遮断機の横に建てられています・・・
当時は今より静かだったでしょうし由比ヶ浜の波音も聞こえたかも知れません・・・現在は車の排気音しか聞こえません・・・

自分の調べた限り引越しは2回(大正2年、同6年)で、ごく近く、線路を往復しただけな感じです・・・大家のベッカーに無理やり買わされたってのがウケますね(笑)

ちなみに星野立子は四Tと称される有名な俳人で虚子の娘さんです・・・
次へ 2.4km
ローベルト・コッホ碑 第八十五番 ローベルト・コッホ碑
(ろーべると・こっほひ)

距離        累計
2.4km     205.53km
ローベルト・コッホ碑
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元年(1912年)9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58年(1983年)10月、鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。
コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。明治35年(1905年)「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。
碑文の大意(原文は漢文表記で非常に難読です)
明治42年(41年の誤り)7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌倉に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れのすばらしさを見て堪能された。
帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である村田氏らと相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ヶ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。
               
                大正元年9月 長坂周記弁書
次へ 3.3km
鎌倉山記 第八十六番 鎌倉山記
(かまくらやまき)

距離        累計
3.3km     208.83km
天慶ノ亂ニ平貞盛ガ將門ヲ夷滅シテヨリ平氏ノ威勢漸ヤク東國張リ其孫直方鎌倉郡ニ在リテ幾多ノ荘園ヲ領有ス、後冷泉天皇ノ世、源頼義相模守ニ任ゼラレテ鎌倉郡ニ入ルヤ直方ノ婿トナリ源氏ノ根據ヲ東國ニ植ユ、當時京都奈良ニ於ケル山門ノ豪僧ガ朝廷ニ迫ルヤ頼義、直方等源平二氏相連引シテ朝廷ヲ守護ス、後頼義、義家ノ前九年、後三年ノ役ニ従事シタル將士ハ實ニ此地方ノ荘園ヨリ抬頭シタルモノナリ、當時鎌倉郡ヲ周匝シタル群峰ヲ概稱シテ鎌倉山ト言フ、是等ノ丘岳ハ文献ニ記録セラレタル以外ニ豪族闘争ノ古戦場ナリシコトハ親不知ノ嶮、戦道ガ峯等ノ地名ガ今猶ホ存スルヲ見テ之ヲ知ルヲ得ベシ、治承四年源頼朝ガ兵ヲ相模ニ起シ一勝一敗ノ後、漸ヤク房總ノ地ニ勢ヲ張ルヤ安達平九郎盛長ノ説ニ従ツテ府ヲ鎌倉ニ開キ、之ヨリ荊棘地變ジテ大都トナル、昭和三年七月廿七日菅原通濟君同志ト協力シテ鎌倉山ヲ開キ道路ヲ通ジテ住宅地トナス、鎌倉ガ義貞ノ爲ニ壊滅シタル後六百年ニシテ嶮峯ノ上ニ彩瓦ノ新屋起リ戦道變シテ自動車道トナリ朽創ヲ裏ム苔土ニ吉士ノ笑語ヲ聞キ釵玉ノ埋レタル短草ニ妙婦ノ衣裙翻ヘリ昇平ノ氣蒸々トシテ山谷ノ間ヨリ湧ク、昭和十年七月余此地ニ遊ビ菅原君ト共ニ風物ノ變化ヲ語リ歩シテ鎌倉山神社ノ石磴ニ昇レバ富士山、箱根連峰、天城山等ノ遠岫交モ濃淡ノ色ヲ示シ斜陽影裡ニ來往スル船影ノ彼方ニ大島ヲ見天地双碧人ト家、皆ナ書中ノモノタルヲ覺ユ、嗚呼、曽テ鎌倉ノ大都ガ鬱然トシテ荊棘ノ中ヨリ湧キ出デシコトヲ回想スレバ百年ノ後鎌倉山ノ形勢ソレ如何ゾヤ之ヲ思フテ感慨限リナシ乃チ茲ニ此事ヲ録シテ以テ後世ノ語リ草トナス

昭和十年七月  竹越興三郎 撰   菅原通濟 題
                     東京青山 石勝 刻
いやぁ疲れましたぁ~(笑)
デッカイ石碑にビッシリと碑文が刻まれているモンで・・・

壮大な歴史が刻まれていますが、他の石碑に比べて意味は把握しやすいと思います・・・読んだままの意味です!

あと20年もすればその100年後となりますが、鎌倉山はどんな感じになるんでしょうかねぇ?
自分が家建てて住めるくらいに地価が下がってくれると助かるんですけどねぇ(笑) 
次へ 4.5km
松岩寺石碑 第八十七番 松岩寺石碑
(しょうがんじせきひ)

距離        累計
4.5km     213.33km
??? 松厳寺の文字は確認出来ましたが、経年劣化による摩耗が激しく判別は厳しいです・・・
この石碑はもとは近くの山腹のやぐらにあった物をココへ移したんだそうです・・・
次へ 1.1km
源頼朝公銅像 第八十八番 源頼朝公銅像
(みなもとのよりともこうどうぞう)

温泉マーク結願       累計
1.1km     214.43km
この銅像は治承四年(1180年)十月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証しとして有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです この像が中世日本の政治経済文化の中心として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願うものです

   昭和五十五年十月 源頼朝公銅像建立実行委員会
今回紹介した石碑の中で唯一自分より若い物件です!

ココで今回の長い石碑遍路もめでたく結願となります!
隣りにいる源頼朝と共に心ゆくまで鎌倉回顧して下さい!

ココまで辿り着いた人は余程の暇人かと思われます(笑)

お疲れ様ぁ~!







 結願 本当にお疲れ様でした・・・実際にこの順番で巡った事はありませんけど、確実に5kgは減りそうですね!

単に石碑といってもその形態は様々でそれぞれに個性があります!
今回の石碑遍路でお気に入りの物は見つかったでしょうか?
別に無い?・・・それもアリです!
それでも今猶、石碑は歴史を語り続けます・・・
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