ブログ 百六つ義明タイトル
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三浦大介義明という人物をご存知でしょうか?・・・彼は源頼朝が打倒平氏の兵を挙げた時の三浦一族の当主です!
頼朝の挙兵を知り、義明は涙を流して喜んだと伝わります・・・
孫の和田義盛は頼朝と同い年!・・・義明にとっては頼朝は孫の様な存在だったのかも知れません・・・

相模国最強の武闘派集団として知られた三浦一族とは?
非常に奥深い一族なので、とても簡単には説明できませんが、軽く流れだけでも知って置くと、この辺りを散策するのが楽しくなるかも知れませんよ!

桓武天皇 ━ 葛原親王 ━ 高見王 ━ 平高望 ━ 平良文 ━ 忠通 ━ 三浦為通 ━ 為継 ━ 義継 ━ 義明

いわゆる桓武平氏って奴であります・・・初代の三浦平大夫為通が前九年の役で源頼義に従軍して以来、源家に組しています・・・為通は戦功として相模国三浦の地を与えられ、そこに衣笠城を築きました!

2代為継は後三年の役で源義家に従軍しています・・・その際、鎌倉権五郎景政の目に刺さった矢を抜こうとして、靴を履いたままその顔を踏み付けた所、激怒した景政に斬られそうになったっては有名ですね・・・

そして4代義明・・・通称三浦介三浦大介などと呼ばれていましたが、平治の乱で棟梁と仰いでいた源義朝を失い、平家の世となっても源氏に組します・・・根っからの源氏方です!
義朝の長男の悪源太義平は義明の娘との間に出来たって話もあります・・・

その三浦義明の墓と伝わる五輪塔なんですが、鎌倉市材木座にある来迎寺という寺にあります!
来迎寺 来迎寺2
入口には『三浦大介義明公之墓』と刻まれた石標が建っています!
もともとは建久5年(1194)に、頼朝が義明の菩提を弔う為に建てた能蔵寺という真言宗の寺でしたが、建武2年(1335)に音阿上人が時宗に帰依した為に来迎寺と改められたそうです・・・正式には随我山能蔵院来迎寺といいます!

本尊は義明の守り本尊という阿弥陀三尊像(運慶作)・・・
ちなみに鎌倉三十三観音の第十四番札所でもあります!
小さな寺ですがミモザの木が有名で、春先にはその黄色い花が境内に彩りを添えます!
しかし、観光コースからは外れていますので、基本、訪れる人は少ない寺ですね・・・
来迎寺3 来迎寺本堂
ホントに小さな寺です・・・本堂が小さ過ぎるんですよねぇ・・・三浦大介義明の墓はその本堂の右側にあります!
三浦大介義明の墓 大きな五輪塔が2基並んでいます・・・
右側の立札には『三浦大介義明公之墓』
左側の立札には『多々良三郎重春公之墓』
と書かれています・・・
いつ訪れても花が供えられています・・・
死後800年以上経っても忘れられずに弔ってもらえるなんて羨ましいですね・・・
義明がそれだけの人物であったという事でしょう!
多々良三郎重春は義明の孫ですね・・・
頼朝の挙兵に呼応して三浦一族も援軍を出しますが、丸子河(酒匂川)が氾濫して渡る事が出来ませんでした・・・
ウダウダしている間に頼朝は石橋山で敗走・・・三浦一族は仕方なく領地へと引き返しました・・・

しかしその帰り道、由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍と遭遇してしまいます・・・見つからない様に波打ち際を進みやり過ごしますが、血気盛んな和田義盛が名乗りを上げてしまいます!

重忠の母は義明の娘・・・つまり三浦家当主の義明は重忠にとって祖父に当たります・・・
そんな関係もあって無駄な血を流す事もなかろうと和睦が結ばれる事になりました・・・
しかし、知らせを受けて駆け付けた義盛の弟の義茂はそんな事情は知りません!

義盛軍の制止する手を、早く攻めよと勘違いして畠山軍に斬りかかります!
こーなると重忠軍もだまってられません!・・・戦いが始まってします!
これがいわゆる小坪合戦です!・・・携帯電話があれば回避できた戦いですね・・・
確かこの戦闘で多々良三郎重春は死んでたと思います・・・享年17才・・・ナ~ム~・・・

その後、三浦方の援軍を大軍と勘違いした重忠は退却します・・・
畠山軍500騎、三浦軍300騎・・・治承4年(1180)8月24日の出来事でした・・・

26日、重忠は秩父党最大勢力の河越重頼に援軍を頼み再び三浦軍を攻撃しようと画策します・・・
この河越重頼の娘(郷御前)は源義経の正妻です!
頼朝と義経の仲が悪くなり、その煽りを喰らって殺されてしまった哀れな人物でもあります・・・

援軍の話を聞いた三浦軍は本拠衣笠城に籠って戦います・・・義澄達は良く戦いました・・・しかし、矢は尽き、連日の戦いでの疲労もあり、城を捨てて船で安房へ逃げる事にします!
ちょっと【吾妻鏡】でその時の様子を見てみましょう!

治承4年(1180)8月26日 丙午
武蔵国畠山次郎重忠、且つは平氏の重恩に報ぜんが為、且つは由比浦の会稽を雪がんが為、三浦の輩を襲わんと欲す。仍って当国の党々を相具し来会すべきの由、河越太郎重頼に触れ遣わす。これ重頼は秩父家に於いて次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、彼の党等を従うに依って、この儀に及ぶと。江戸太郎重長同じくこれに與す。
今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引き籠もり、各々陣を張る。
東の木戸口(大手)は次郎義澄・十郎義連、西の木戸口は和田太郎義盛・金田大夫頼次、中陣は長江太郎義景・大多和三郎義久等なり。
辰の刻に及び、河越太郎重頼・中山次郎重實・江戸太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。
義澄等相戦うと雖も、昨(由比の戦い)今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。義明を相具せんと欲するに、義明云く、
吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。
義澄以下涕泣度を失うと雖も、命に任せなまじいに以て離散しをはんぬ。

逃げるようにと促された義明が放ったセリフがカッコイイですね!・・・これ超有名な話です!

『自分は累代の源氏の家来として、幸せにも源氏再興の時に居合わせる事が出来た・・・
これを喜ばずにいられようか!80を越え老い先短い命ではあるが頼朝様に捧げ、子孫の手柄としたい!
お前達は早く城から立ち退いて、頼朝様を尋ね仕えなさい・・・自分は1人残って大勢の軍隊がいる様に見せかけて川越重頼と見合ってやろう!』


義明は一族が逃げる間の時間稼ぎを買って出ました!・・・そして皆には頼朝に仕えよと命を下しました!
息子の義澄らは泣く泣くその言葉に従います・・・

同年8月27日 丁未 朝間小雨、申刻以後、風雨殊に甚だし
辰刻、三浦介義明(年八十九)、河越太郎重頼・江戸太郎重長等が為に討ち取らる。齢八旬余。人の扶持無きに依ってなり。義澄等は安房の国に赴く。北條殿・同四郎主・岡崎四郎義實・近藤七国平等、土肥郷岩浦より乗船せしめ、また房州を指し纜を解く。而るに海上に於いて舟船を並べ、三浦の輩に相逢い、互いに心事の伊欝を述ぶると。
この間景親数千騎を率い、三浦に攻め来たると雖も、義澄等渡海の後なり。仍って帰去すと。

翌日の午前8時頃、三浦義明は討ち取られました・・・享年89才・・・ナ~ム~・・・

カッコイイですなぁ・・・89才で戦死って凄いなぁ・・・
さて、この義明の死に様ですが、【平家物語】、【源平盛衰記】などなど・・・諸説あります・・・
まずはカッコイイ方から話させて頂きますね!
三浦大介義明と息子義澄
(画:楊洲周延)
左の画像は頼朝挙兵時の物ですね・・・義明の最期とは全然関係ありません!・・・まだピンピンしてますね(笑)
息子の義澄と一緒に描かれていたのでつい貼ってしまいました・・・すみません(笑)

義明は最期に一族の菩提寺である清雲寺を目指し、愛馬黒雲を走らせます!
しかし、黒雲は1本の松の根元で止まりそこから動こうとしませんでした・・・
今までそんな事は一度としてありません・・・
義明はこれを天の告げと受けとめ、そこを自分の死に場所に決めました・・・
愛馬に何処になりと行けと別れを告げ、その松の根元で腹を切ったそうです・・・
黒雲も舌を噛み切り義明の後を追ったとか、崖から飛び降り死んだとか・・・切ないですなぁ・・・
その場所は『腹切松公園』といって現在もちゃんと残っています・・・凄い直接的な名前ですよね(笑)

次にカッコ悪い方の話です!

義明は1人で城に残る事を望みましたが、無理やり輿に乗せられてしまいます・・・
しかし、輿の担ぎ手達は河越重頼が攻めて来ると義明を放っぽり出して逃げてしまいます・・・
義明は敵の雑兵に身ぐるみ剥がされた上に縛りあげられて河越重頼の前へ(笑)
こんな恥をかくなら城に残り死にたかったと愚痴をこぼし、この上はせめて、孫である重忠の手にかかりその手柄とさせたいと願い出ますが、聞き入れられず処刑・・・
一族の当主が身ぐるみ剥がされるとは・・・この上ない屈辱ですね!
とにかく一族は安房へと落ち延び、頼朝と合流して仲間を増やしつつ鎌倉入りを果たしました!
途中、畠山重忠河越重頼も頼朝傘下となります・・・

その後も三浦一族は頼朝を支えて行きました・・・挙兵当時からの忠臣として幕府でも重用されました・・・

建久3年(1192)7月26日 丙申
勅使廰官肥後介中原景良・同康定等参着す。征夷大将軍の除書を持参する所なり。両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡の廟庭に列び立ち、使者を以て除書を進すべきの由これを申す。三浦義澄を遣わさる。義澄、比企左衛門尉能員・和田三郎宗實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の状を請け取る。景良等名字を問うの処に、介の除書未だ到らざるの間、三浦次郎の由名謁りをはんぬ。則ち帰参す。幕下(御束帯)予め西廊に出御す。
義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。亡父義明命を将軍に献りをはんぬ。その勲功髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せらる。
 
征夷大将軍の辞令書を鶴岡八幡宮まで取りに行き、御所に居る頼朝に渡すという大役を三浦義澄が担当しました!
幾千万の中から義澄が選ばれたのは、頼朝の粋な計らいの様です・・・
義明の恩に報いる為にその息子に名誉を与えたって訳です!

『坂東武士の鏡』と称された畠山重忠が幕府に重用されつつも生涯無官だったのは、頼朝が慕う義明を殺してしまった事に関係があるのではないかとも考えられます・・・考え過ぎか?(笑)
もっとも重忠はわざと逃げ道を作る様に衣笠城を攻めたという説もあります・・・重忠も色々と板挟み状態だったのかも知れませんね・・・

その後、三浦氏は宝治合戦(1247)で滅びます・・・最期は頼朝の法華堂に籠り、一族郎党500余人で集団自決です!
この合戦で一族でありながら幕府方についた義連系佐原氏は、後に三浦家再興を許されています・・・
三浦大介公家来之墓 三浦大介公家来之墓2
来迎寺の本堂裏には『三浦大介公家来之墓』という物もあります!・・・五輪塔いっぱい!
三浦大介公家来之墓3 三浦大介公家来之墓4
名も無き家来たちの墓にもちゃんと花が供えられています・・・こーゆーの見るとなんだかホッコリしますね・・・
誰もいない静かな寺で三浦一族を偲ぶというのも、たまにはいいかも知れません・・・
三浦大介義明
一魁随筆(画:月岡芳年)
さて、『百六つ義明』ですが、何故そー呼ばれているんでしょうか?
答えは簡単、106才まで生きたからです!
え?・・・さっき89才で戦死したって言ったじゃないかって?
ええ確かにそーなんですけど、頼朝がねぇ・・・
言ったらしいんですよ・・・義明の17回忌で・・・

『あなたはまだ自分の中で生きている・・・』的な事を!

そんな訳で17回忌まで生きた事にしようって事になったみたいで・・・89+17=106って訳です・・・
これが『百六つ義明』と呼ばれる由縁であります・・・

左の絵は東方朔、浦島太郎、三浦大介義明の3人が描かれています・・・何故この3人なんでしょうか?

鶴と亀も描かれていますね・・・これは大きなヒントです!
東方朔は前漢の武帝に仕えた人物で、政治家ですが後に神格化されました・・・三浦義明は長寿・・・
浦島太郎がちょっと現代人にはピンと来ないですけど、昔はおめでたい人物として扱われていた様です・・・
最後は鶴になったって話もありますし・・・
つまり、長寿でハッピーな3人組って事ですね!
大変ありがたい1枚です!
『鶴は千年、亀は万年』という言葉は良く耳にすると思います・・・江戸時代の物乞いの風俗には、

『鶴は千年、亀は万年、三浦の大介百六つ』

という言葉があった様です(参照:鎌倉古寺探訪、神奈川県ホームページ)
鶴や亀よりも死して尚、頼朝から禄を頂いている義明の方がめでたいって事ですね!

三浦大介義明の墓は横須賀市にもあります!・・・次回はそちらの方を訪問したいと思います!

おまけ


玉藻前
東絵画夜競 玉藻前(画:楊洲周延)
玉藻前をご存知でしょうか?
九尾狐といった方が分かり易いかな?
妖狐の最終形・・・大妖怪ですね・・・

日蓮乞水のページで少し触れたと思いますが、鳥羽院に仕えていた絶世の美女!

しかし、陰陽師安倍泰成(晴明とも)に化けの皮を剥がされます・・・玉藻前は九尾狐姿で宮中を脱し何処かへと行ってしまいました・・・

その後しばらくして、那須野(現在の栃木県那須郡)で女子供がさらわれる等の事件が宮中へと伝わます・・・
これに対し鳥羽院は討伐軍を編成します・・・

その討伐軍には三浦義明も駆り出されました・・・
そーなんです、彼は妖怪退治に参加しています!(笑)

将軍は三浦介義明千葉介常胤上総介広常・・・
軍師には陰陽師安部泰成
総勢8万の軍勢は那須野へと向かいました!

那須野で九尾狐を発見した討伐軍は攻撃を仕掛けますが、九尾の妖術の前に多くの兵を失い初戦は失敗に終わりました・・・
そこで犬追物などで射撃訓練をし、対策を講じます!
その結果徐々に九尾狐を追い詰める事に成功します!・・・そして遂に、義明の射た矢が九尾を捕えます!
左の画像上部の絵はまさにその瞬間でしょう!・・・首筋に『プスッ!』っと刺さってますね!
弱った所へ上総介広常が斬りつけて九尾狐は命を絶たれましたとさ・・・

めでたしめでたし・・・とは行かず、絶命した九尾狐は巨大な毒石(殺生石)に変化し、近付く人間や動物の命を奪いました・・・九尾の魂を鎮める為にやって来た多くの高僧もその毒気に次々と倒れ、周辺の村々は恐怖のドン底へ・・・

そこへ登場するのが玄翁禅師(心昭空外)です・・・至徳2年(1385)、持っていた杖で殺生石を叩くと、石は砕け散って各地へと飛散したといいます・・・ちなみにこの坊さんは鎌倉の海蔵寺を開いています!
九尾狐はもともとは中国神話に出て来る妖狐です・・・
殷の肘王をたぶらかして国を滅亡させた妲己(だっき)・・・

天竺の耶竭陀(まがだ)国の班足太子(はんぞくたいし)の妃で暴虐の限りを尽くした華陽夫人・・・

そして玉藻前・・・って感じで美女に化けるのが好きな様ですね・・・今も昔も美人ってだけで特をするという方程式は変わらぬ様です(笑)
美人は金持ちや権力に近付き易いし、ある程度は何しても許されるからなぁ・・・
そー考えると、今も昔も変わってないのはエロ親父の方なのかも知れませんね?(笑)

753年、九尾狐は若藻という16、7才の少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂鑑真和尚らが乗る第10回目(9回説あり)の遣唐使船に乗船。嵐に遭遇しながらも来日を果たしたとされる(参照:Wikipedia)

鑑真とか懐かしい名前だなぁ・・・
こないだ友人と飯泉観音に行った時にも遭遇したけど、最近はドコ行っても行基の名前ばっかだったので鑑真は凄い新鮮でした・・・

また中国の各王朝の史書では、九尾狐は吉兆を告げる神獣としてもその名が見えるってばよ!
『影分身の術っ!』(笑)

おしまい
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