今年(2014)は一念発起して、高校時代の同級生と坂東三十三観音霊場の札所巡りを決行する事になりました!
2人とも社寺仏閣巡りが好きなので、共に巡った物件は数多あれど、御朱印を頂きながら一緒に霊場を巡るというのは初めてであります!
今回、霊場巡りをするにあたって一応コンセプトというか、軽い縛りの様な物を設定しました・・・
①、札番通りに巡る!・・・②、意地でも車で巡る!・・・③、とにかく日帰り!
これをなるべく遵守して観音様と結縁するのが当面の目標!
しかし、その目標は初っ端から崩れ去る事になります・・・事の成り行きはコチラを参照・・・
とにかく予定より1日早い1月3日から巡礼を開始する事になりました!
鎌倉は3日まで交通規制があり、車を乗り入れる事は出来ません!・・・となると自転車ですね(笑)
電車やバスなんて選択肢は始めから頭にありません!
ちなみに当初の予定はこんな感じでした・・・相模国の札所を1日で順番通りに制覇する計画!
第一番 杉本寺 8:00 拝観料¥200 駐車場¥200
↓4.4km 15分
第二番 岩殿寺 8:45 拝観料¥100
↓2.6km 11分
第三番 田代寺 9:26 拝観料¥100
↓2.1km 7分
第四番 長谷寺 10:03 拝観料¥300 駐車場¥300
↓38.7km 1時間3分 西湘バイパス¥150
第五番 勝福寺 11:36
↓36.4km 52分 小田原厚木道路¥350
第六番 長谷寺 12:58
↓20.1km 41分
第七番 光明寺 14:09
↓20.6km 37分
第八番 星谷寺 15:16 閉門16:30
総距離124.9km 総額¥4100 内訳【朱印料¥2400(¥300×8) 拝観料¥700 駐車場代¥500 有料道路¥500】
各寺での拝観時間を30分と長めに設定しても15:16には今回の最後の札所である星谷寺に到着できる計算でした!
しかし第四番札所までを自転車で巡る様に計画を変更すると、体力勝負になります!
それでも1日で第八番札所まで巡れる物と、何の根拠もない自信を持っていました(笑)
何時に鎌倉を脱出できるかが全てですね!
てー訳で1月3日の午前7:00に自分の家に集合、何だかんだで7:10頃に出発となりました!
ハイランドの坂はキツイので名越経由で回り込む様に第一番札所の大蔵山観音院杉本寺を目指します!
名越の坂も地味にキツイですけど・・・ |
|
|
7:45に杉本寺に到着!・・・三箇日のこの時間は人通りも無いのでちょっと自転車を停めさせて頂きます・・・
2台とも年季の入ったボロチャリですが、手前の折りたたみチャリが友人の物です!
このあと自分の車に積み込むので折りたたみチャリで来てもらいました!
寺専用の駐車場は無いので車で訪れる場合は近くのコインパーキングを使いましょう!
隣りの魚屋の駐車場も予約すれば使えた様な気がします・・・
開門の8:00まで少し時間があります・・・参道の階段をオッサンがせっせと掃除しています・・・
取り敢えず案内板がありますんで見て置きますか・・・ |
|
はいはい行基さんですねぇ~・・・鎌倉最古といわれるこの寺も行基が開いた事になっています!
8月10日の縁日とは四万六千日の事ですね・・・この日に坂東三十三観音霊場の札所に参ると46.000日お参りしたのと同等の功徳を得られるというスーパーな縁日です!
札所によって日にちはマチマチですが鎌倉の札所は全て8月10日です!
46.000日って事は約126年です・・・一回お参りして置けばもう一生何もしなくて大丈夫ですね(笑)
米一升の数が大体46.000粒であり、一升と一生をかけているなど諸説ありますが、確証は無いようです!
今回の道中記は寺の縁起など細かい事はスルーで、道程と御朱印の報告メインでテキトーに記して行こうと思っていたんですが、一応第一番札所ですし、テキトー過ぎる案内板だけで済ますのも如何な物か?
ちょっとだけ補足して置きましょうか!
創建は天平6年(734)・・・天平3年行基が関東を行脚していた時にココを訪れ、大蔵山からの眺めに何か感じた様で、
『ココに観音像を置こう!』と決意し、自ら十一面観音像を彫ったそうです・・・
そして聖武天皇の后の神功皇后の夢枕に観音様が立ち、
『財宝を寄付し、東国の治安を正し、衆生を救え』と告げたんだそうです・・・
そのお告げ通りに皇后は天平6年にお堂を建てたと伝わります・・・
馬に乗ったまま前を通ると必ず落馬した事から下馬観音とも、大覚禅師(蘭渓道隆)が観音様の顔を自らの袈裟で覆った所、落馬する者がいなくなった事から覆面観音ともいわれたそうです・・・
本尊の木造十一面観音立像は3体あり、
左から行基作(734年:市文)、慈覚大師作(851年:国重文)、恵心僧都作(985年:国重文)と伝わります!
しかし、左から平安末期、鎌倉期、鎌倉期の作との事(笑)
御前立の十一面観音像(運慶作)は源頼朝の寄進による物で、頼朝観音と呼ばれています!
地蔵菩薩(運慶作)、毘沙門天(宅間法眼作)、山門の仁王像(運慶作)などなど仏像も力作揃いです!
観音三十三化身も運慶作といわれています・・・が、
これらの仏像も怪しいです・・・室町期や江戸期の物ばかりの様で・・・
頼朝が寄進とかいってますけど・・・彼は室町時代まで生きてたのかな?(笑)
杉本寺という寺号の由来は、文治5年(1189)の火災の際に、3体の観音像が自力で庭の杉のもとに避難した事にちなんで『杉の本の観音』と呼ぶ様になったとの事です・・・ココまではいいです・・・
しかし、【吾妻鏡】にそう記されています、と紹介しているサイトがえらく多い件に関しては一石を投じたいです!
文治5年11月23日、大蔵観音堂の火事の事は確かに【吾妻鏡】に記されています・・・
しかしその内容は浄台坊という住職が炎の中に飛び込んで観音様を抱きかかえて出てきたという物です!
文治5年11月23日 己卯 冴陰 終日風烈し
夜に入り大倉観音堂回禄す。失火と。別当浄臺房煙火を見て涕泣し、堂の砌に到り悲歎す。則ち本尊を出し奉らんが為焔中に走り入る。彼の薬王菩薩は、師徳に報ぜんが為両臂を焼く。この浄臺聖人は、仏像を扶けんが為五躰を捨つ。
衆人の思う所万死を疑わざるに、忽然これを出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢えて恙無しと。
偏にこれ火もこれを焼くこと能わざるを謂うか。
浄台坊が奇跡的に火傷も負わずに炎の中から観音様を運び出した事しか記されていません!
観音様が自力で杉の根元に移動して光を放ったという話は、【観音霊験記】に記されていますが【吾妻鏡】には見えません!
多分ゴッチャになっちゃったんだと思います・・・それとも文治5年の火事とは別に【吾妻鏡】に記載があるんでしょうか?
自分の知る限りそれは無いと思いますけど・・・
【秘法のある寺鎌倉】(著:小山和)という著書では、この観音自力脱出伝説の火事を文治5年11月と明記しています・・・
やはり同じ火事で違う解釈があるって線が濃厚ですね!
自分は吾妻鏡説を推したいです!・・・だって仏像が自力で移動する訳ないじゃないですか!?
何寝言いってるんですか貴方!もっと浄台坊を褒めましょう!
浄台坊が無傷だったのは観音様のお蔭でしたくらいでいいじゃないですか!
大杉の根元でピカピカ光られてもなぁ・・・(笑) |
|
観音霊験記 相州鎌倉
御詠歌
たのみある しるしなりけり 杉本の
ちかひハ末の 世にもかはらじ
奉額 予三十三所順礼之砌鰐口のひゞく間に一首考て即座に奉額す
世の音を 観るてふこゝに むかしより
すぐに立たる 杉本の寺
北條相模守時頼
当山は元々は二階堂観音院と号し、行基菩薩、慈覚大師、恵心僧都の作である十一面観音の霊像が三躯いらっしゃいます!
その霊験はあらたかで、源頼朝卿は殊に信じられ、香花料として田畑をご寄進されました・・・
昔、近所で起こった火事の折、この御三躯が庭の大杉の根元に飛んで光明を輝やかせられました・・・
この様な不思議な事があったので大蔵山杉本寺と改められました・・・
行基御作の十一面観音は、門前を通行する者を落馬させるという不思議な話があり、北条時頼の命令で大覚禅師(蘭渓道隆)が袈裟で尊像の顔を覆うと、その後は落馬する者がいなくなったとの事です・・・
それ故に覆面観音と尊ばれています! |
てな事が書かれています!・・・杉本寺(さんぼんじ)とルビがふられていますが、どーなんでしょう?
当時はそんな呼ばれ方をしていたんでしょうか?・・・馬に乗っているのは北条時頼の様ですね・・・
もう一人は使用人でしょうか・・・暴れる馬を必死に制しようとしています・・・下馬観音の逸話を表現していますね!
この寺は鎌倉三十三観音の第一番札所、鎌倉二十四地蔵の第四、六番札所でもあります!
そちらの御朱印も近いうちに蒐集したいと考えております! |
|
|
料金所(笑)には誰も居なかったのでスルーで階段を上って行きます・・・本堂の受付で払ってくれとの事でした!
この寺は朝早く来るといつもこのパターンだな・・・人員に乏しいのかな?
友人のいう通り、本堂の周りには足場が組まれ絶賛改修中でした!
この寺は良く改修工事をします・・・平成に入ってからもイロイロとやってます・・・金持ってんなぁ・・・
杉本寺といえば苔生した階段が見所のひとつですが、そちらでも何かやっている様で、まともに見る事は出来ません!
だもんで数年前の様子になってしまいますがムービーを埋め込んで置きました!
ポチッと再生して頂ければ、境内の大体の様子は分かって頂けると思います・・・
友人は山門の仁王像に少し感動していました・・・
『やっぱ第一番札所だけあってカッコイイなぁ・・・』と褒めちぎっていました・・・
この発言を聞いて、自分は古い物だけが人に感動を与える訳ではないんだと実感させられました・・・
こと仏像に関しては古ければ古いだけいい!・・・という考えを持つ自分には非常に新鮮な言葉でした!
この仁王像は江戸期の作と聞いた事があります・・・見る人が見ると分かるのか文化財としての価値は無い様でよく調べられてもいないとの事・・・でも生き生きとしていていい仁王像だと思います!
本堂向かって右側には夥しい数の五輪塔群があります・・・
かつて杉本寺の背後の山には杉本城がありました・・・この城は鎌倉幕府滅亡(1333)後の南北朝初期に、斯波家長が築いたともいわれますが、家長は奥州から南朝救援の為に鎌倉に攻め入った北畠顕家の大軍により攻め落とされています・・・その時の遺構と思しき平場程度の小さな曲輪跡を現在も確認する事が出来ます!
五輪塔群はその時の戦死者を弔った物という説があります・・・
五輪塔群の横には地蔵菩薩が並んでいます・・・一番右側の物は杉本義宗の守り本尊であったという話がありますが、俄かには信じ難い代物です(笑)
杉本義宗は三浦義明の長男でしたが、若くして亡くなったので三浦氏の家督は弟の義澄が継ぎました・・・
義宗の奥さんは義景大明神のページでも紹介しましたが、長江太郎義景の妹です!
2人の間に生まれたのが和田義盛!・・・義盛が一族間でデカイ顔していたのはそーいった経緯があります・・・
さてもうすぐ本堂の扉が開いてもいい時間になって来ました・・・堂内からは掃除機をかけている音が聴こえてきます!
開くと同時に入ります!・・・本日一番乗りです!・・・てーか自分達以外に参拝客はいませんでした!
ココで自分達がしなくてはならないのが巡礼グッズの購入です!・・・納経帳(御朱印帳)ですね!
第一番札所なので結構揃っています!・・・前もって自分の好みの納経帳を購入して置くのも手ですが、今回は初巡礼という事もあり2人ともココで購入する事にしました!・・・自分は一番大きな¥2.100の物を購入!
御朱印を頂く間に本尊を拝むように勧められます・・・といっても間近で拝観出来るのは御前立の頼朝観音と昭和期の観音、毘沙門天、地蔵菩薩くらいで、肝心の本尊はその後ろ側のかなり奥にあり、体は見えるものの、そのご尊顔を拝謁賜る事は出来ません・・・ |
|
こんな感じの並びになっています・・・秘仏で本尊が拝めない札所もあるので是非とも御影は頂いて置きましょう!
行基御作の十一面観音はそれでも尊顔は拝めませんけど(笑)
13日の金曜日パート3でホッケーマスクを被りだす前のジェイソンみたいですね・・・最近の若者は知らないか?
子供の頃のウォーズマン?・・・ありゃ紙袋だったかな?・・・自分と同世代の方々なら分かってくれると思います!
コーホー・・・この像も立ったままKOされてるのかな?
境内のベンチで御朱印の記念撮影!・・・いよいよ巡礼が始まったと実感する瞬間でした・・・ |
|
右側の方が自分の納経帳ですが、何か無駄にデカイだけというか、余白が多くて結局友人の物とあまり変わらない様な気が・・・
ページの下部に札所の説明があり、そこに筆がかからない様に気を使って書いてくれてるんだと思うんですが、ハッキリいってどーでもいい説明なので、そんな事は気にせずにもっとダイナミックにやって欲しかった・・・ |
現在8:15・・・第二番札所の海雲山岩殿寺へ向けて杉本寺を後にします!
先程は敬遠していたハイランドの坂ですが、タイムロスを避ける為に今回は通る事にしました・・・
1分1秒が惜しい状況です・・・とはいいつつも犬懸橋を渡り田楽辻子を通り宅間ヶ谷へ寄り道・・・
昔の人はこの谷戸から尾根道を通り岩殿寺へと向かった様で、現在も巡礼古道として一部が残っています・・・
再び六浦道へ入り朝比奈方面へ自転車を漕ぎ漕ぎします・・・
明王院の門前を通り大慈寺跡の石碑を見て・・・と多少の遊び心も忘れません(笑)
そして明石橋からハイランドさくら道を上って行きます・・・すぐに心が折れて自転車を押して歩きます!
そんなこんなで8:40に岩殿寺に到着!・・・無料駐車場あります!
ちょっと道が狭い上に近くに小学校もあるので、車で行く時は子供を轢かない様に注意しましょう! |
|
|
この寺は逗子を代表する作家である泉鏡花と関わりが深く境内には記念碑が建っています!
山門の所に箱があり、入山料として¥100を納めるシステムになっています!
門を潜って左側には寺務所があり、そこで御朱印を頂きます・・・ |
|
|
手水は感知識で近付くと水が流れてくる仕様でした・・・珍しい!・・・どーでもいいですけど(笑)
結構お年を召された女性に書いていただきました・・・う~ん、いいですねぇ~!
さて、観音堂へは長い階段を上らなければなりません・・・スルーしたい所ですが、さすがにそれではただのスタンプラリーになってしまいます!・・・本末転倒ですね・・・ |
|
|
この後また名越の坂を越えなくてはならない事を考えると、少しでも体力を温存しておきたい・・・
でも意を決して階段を上ります!・・・今一番欲しいのは、階段をエスカレーターに変える事が出来る能力一択です! |
|
|
階段の途中には弘法大師作と伝わる爪堀地蔵尊がいらっしゃいます・・・
『関東百八地蔵 第八九番札所』と書かれた木札が立てられていました・・・色んな霊場があるんですねぇ・・・
階段を上り切ると正面に観音堂があり、右側には熊野大権現があります・・・その手前の池は『鏡花の池』と呼ばれていて、その名の通り泉鏡花が寄進した物だそうです! |
|
|
観音堂の裏側には奥之院があり、岩殿寺の名の由来にもなっています・・・
左側にある道を上って行くと長寿観音があるんですがさすがに今回はスルーです・・・先を急ぎましょう!
岩殿寺は我が逗子市にある寺ですが、鎌倉最古といわれる先程の杉本寺よりも更に古い寺です!
開山は徳道上人と行基・・・またまた行基の登場ですが、この先も彼の名は多々登場します!(笑)
古い物は行基で決まりです!・・・困った時の行基!・・・よく分からない物は行基!
この寺は【吾妻鏡】に何度も登場する有名寺院なので、また別の機会に詳しく紹介させて頂きたいと思っています!
あ、一応観音巡りなんでこれだけは紹介させて下さい! |
|
観音霊験記
坂東順禮第二番 相州三浦 海前山岩殿寺
御詠歌
極楽を こゝに三浦の 岩殿や
なをゆくすゑの たのもしきかな
奉額
たゞたのめ たのむ三浦の ためしにハ
岩にも松の 生ふる岩殿
源頼朝卿
当山の開基は、大和の長谷寺の開山である徳道上人であり、また行基もその功があるといわれています・・・
源頼朝卿が蛭ノ児島にいらっしゃる時に、文覚上人がこの本尊を篤く信心する事を勧めました・・・
すると観音様の御利益があり、石橋山で敗軍した際には、
怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散の妙句の如くにこの本尊が船頭に姿を変えて現れて、頼朝卿を安房国の洲崎へ渡したといいます・・・
そのような霊験があったので、頼朝卿治世の時には、毎月参詣し、すべてをこの観音様に祈願したという事が吾妻鏡に明記されています! |
てな感じの事が書かれています!・・・船に乗っているのは頼朝の様ですね・・・
しかし派手な船ですねぇ~・・・さすがシティーボーイ頼朝!
敗走する時もお洒落に気を使っています!(笑)・・・観音様が変化した船頭が竿竹を持っていますが、何なんでしょう?
もしかしてライン下りとかで船頭が持っているアレなんでしょうか?
海ですよ海っ!・・・どんだけ長いんだ?(笑)・・・それとも何か他のアイテムなんでしょうか?・・・気になります!?
さて、再び名越の坂を越えて次の目的地である第三番札所の祇園山安養院田代寺を目指します!
結構キツイです!・・・さっきも上った同じ坂を再び上るという精神的な苦痛もあります!
なんかの罰ゲームをやらされている気分になって来ます!
何とか気合で登り切り、今度は一気に下ります!・・・すっ飛ばします! |
|
そして9:20に安養院に到着です!・・・が、後ろを振り向くと友人が見当たりません!・・・ドコ行った?
多分JRの踏切につかまったんだと思われます・・・
ココも山門の所でテキトーに¥100を放り込んで入るシステムです!
書いてくれる人が1人の様だったので先に御朱印を頂く事にしました!・・・時間が惜しいです! |
そして友人も到着し続けて御朱印を頂きます・・・2人同時に出すよりは時間短縮になりました!
せいぜい1分くらいの短縮かも知れません・・・
でもこれが大事なんです!・・・小さい積み重ねが後々生きて来るんです!
この寺は小さいですが鎌倉最古の宝篋印塔があったり、北条政子の墓と伝わる物があったりと中々見所が多いです!
寺の成り立ちも結構複雑で興味深い物がありますが細かい所はスルーします(笑)
車で訪れる場合は門前に一応無料駐車場がありますが2、3台分のスペースだけなので使い難いです・・・ |
|
|
コチラも数年前の映像ですが境内の雰囲気を感じたい方はポチッと再生してみて下さい!
右下のYouTubeボタンを押して頂ければ、概要の所に寺についての軽い説明を入れてあります!
頂いた御朱印を並べてみると・・・アレ?・・・何か違うなぁ・・・
自分の頂いた物は『千手大悲殿』と書かれていますが、友人の物は『大悲殿』とあり、その上に千手観音を表すキリークが記されています!・・・良く見ると字体も大分違います・・・
あのオッサン以外にも書いてくれる人いたのかな?・・・それとも一人のオッサンが筆跡も使い分けてるのか?
う~ん・・・何にしろ今回は自分が頂いた御朱印の方がアートな感じがします(笑) |
|
観音霊験記
坂東順礼第三番 相州鎌倉 田代堂
御詠歌
かれ木にも 花咲ちかひ 田代堂
世をのぶつなの あとぞひさしき
奉額
仇草の 根をバたやして 障りなく
秋の田代の ミのり嬉しき
田代冠者信綱
当山の始まりは、天元年中(978~983)、横川の恵心院の源信僧都が愛甲郡都久居(津久井)の里の辻堂に止宿していた時、忽然と白髪の異人が現れて、自分は龍王の使いであり、長い間あなたを待っていた・・・直ちに観音像を彫刻しなさい!その御衣木として、ここから近い川の洲に栴檀木があるというお告げをしました・・・
源信が翌朝、川の洲を訪れると数匹の亀が一木を守っていて、『これこそがその霊木に違いない!』と貴び、自ら五尺四寸の千手観音像を彫って辻堂に安置しました・・・
その霊験はあらたかで、後年田代信綱は殊に信仰し霊験を受けたので、伽藍造営を行い当地に移しました!
今も田代堂といい伝えられる事は、誠に信心の徳であり、末世においても空しいという事はありません! |
てな感じです・・・田代堂は比企ヶ谷にあったそうです・・・
もともとココには善導寺という良弁尊観の開いた寺がありました、そして鎌倉文学館の辺りには北条政子が建てたという祇園山長楽寺がありました・・・
鎌倉幕府の滅亡と共に焼け落ちた両寺は合併します・・・そして再び火事で全焼した際に田代寺の観音堂を移築したとの事です・・・ややこしいですね・・・
しかし恵心僧都作の観音様は杉本寺だけでなく安養院にもあったんですね・・・怪しいなぁ(笑)
御本尊を拝んで早々に立ち去り次の第四番札所である海光山長谷寺へ向かいます!
坂道はありません!・・・自転車でゆっくり行っても10分かからない距離です!
ココで友人が『長谷寺へ参った後にそこで待ってるから車で迎えに来てくれ!』という訳の分からない発言をします!
もちろんそんなナメた行動は許しません!(笑)
一応彼の意向を汲み取り、このまま長谷寺へ行くのはやめて、一度自分の家へ戻り、車で目指す事にしました!
再び今度は逆から名越の坂を上ります!・・・キツイ・・・
何とか家に辿り着き、休む間もなく友人の自転車を積んで長谷寺へと向かいます! |
|
|
やはり駐車場がネックで、クルクル捜し回りながらなんとか由比ヶ浜の1時間¥600の所に入れて長谷寺に到着したのが11:40でした・・・残りの札所を考えると厳しい時間です・・・
ちなみに普段車で訪れるなら、有料ですが門前に大きな駐車場があります!
長谷寺は相変わらずの賑わいっぷりを見せていました!・・・券売機に¥300をぶち込み入山券をゲットして観音堂を目指して階段を上って行きます!
この寺も古い寺で創建は天平8年(736)・・・開山は徳道上人再び登場です!
目玉はやはり何と言っても像高9.18mの巨大な十一面観音です!・・・デカイ!・・・外人さんも大喜びです!
この巨大な十一面観音は、奈良の長谷寺と同じ楠の霊木で造られたと伝わります・・・
その昔、大和国初瀬に楠の巨木が流れ着き徳道上人がその霊木を拝んでいると、稽文会・稽主勲の二人の仏師が現れて3日間で2体の巨大な観音像を造り上げました・・・
この話が文武天皇の耳に入ると藤原房前を勅使とし、導師に行基を迎えて天平5年に開眼供養が行われました・・・
2体あっては衆生がどちらを拝せばいいのか分からなくなってしまうと思った行基は、末木で造られた方を別の場所に移して祀り、テキトーな場所に移ってくれと祈っていたそうです・・・
その後、観音像は洪水で流され、由比ヶ浜に打ち上がったって話です!・・・民衆は鯨かと思ったそうです!(笑)
そして小田原にいた徳道上人の夢枕に観音様が立って『由比ヶ浜に漂着したよぉ~』的な事を告げたので、上人は急いで鎌倉へ向かったとの事です・・・
長井の浜に流れ着いたという話もあり、馬入という話もあり・・・諸説云々・・・
取り敢えず行基さんが絡んでる以上、話の信憑性はかなり乏しいですね(笑) |
|
|
境内の雰囲気が知りたい方はポチッと再生して下さい!
御朱印受付には4人の方がいてせっせと書いておられましたが、それでも多少並んで待たされました!
中々ダイナミックなタッチです・・・一日にどれくらい書くんでしょうか?・・・観光寺は大変そうですね・・・ |
|
観音霊験記
坂東順禮第四番 相州鎌倉 海光山長谷寺
御詠歌
ひとたびハ 誰もあゆみを 長谷寺の
ちかひにふける 由井の浜風
奉額
長谷寺に 登りて見れバ 福聚海
無量の船は 蓮の花びら
朝比奈義秀
当山は、聖武天皇の勅願による徳道上人の建立です!
本尊は天平八年(786)丙子の夏、由比ヶ浜から出現した二丈六尺の尊像です!
霊験あらたかであり、天皇も将軍も深く帰依しました!
義秀は常に千手陀羅尼を懐に入れ、当山を篤く信仰していたので、多くの霊験を受けました・・・
ある夜の事、山鬼に囲まれた時、懐から光明が輝き、その難を逃れたのみならず、ことごとく鬼を退治して姓を褒美として賜った事は、『称観世音菩薩 名者是諸悪鬼 尚不能以悪眼 視之況復加害』の金文によくかなっている! |
てな感じです!
和田義盛の息子である朝比奈三郎義秀は剛の者として知られています・・・その豪勇ぶりは凄まじい物があり、多くの逸話を世に残しています・・・
閻魔大王を手玉に取り極楽浄土まで案内させたなんて話もありますし、左の絵中でも異形の者と戦っていますが、こんなのは朝メシ前でしょう!・・・彼は自分の大好きな武将のひとりであります!
長谷寺にも長居はせずに取り敢えず先を急ぎます!
あ、そーそー鎌倉に寺は沢山ありますが、『〇〇でら』と読むのはココ長谷寺(はせでら)と先程の杉本寺(すぎもとでら)だけです・・・あとは全部『〇〇じ』と読みます・・・プチ情報でした!
長谷寺から出た時に時刻はちょうど12:00でした・・・何か緊張の糸が切れたというか、諦めたというか・・・
残り4時間半で4つの札所を巡るのはちょっと不可能というか・・・
しかし、あからさまに無理だな・・・とはお互い声には出しません・・・士気に関わりますから(笑)
寄り道しながら由比ヶ浜の駐車場へと戻ります・・・ |
|
|
駄菓子屋長谷店に入り、大仏グミを購入してしまいました!(笑)
湘南グミなんてのもあったんですね!?・・・コチラは江ノ電でソーダ味でした!
それぞれ5個ずつ、計10個入って¥200でした・・・おみくじ付きです!
友人は子供のお土産に大仏のべっこう飴を買っていました・・・そーいえば上田城に行った時もお土産に真田十勇士の飴を買ってたなぁ・・・お土産が変な飴ばっかってのはどーなんだ?子供は納得してるのかな?
本人曰く、『凄ぇ~喜んでる』・・・との事だが(笑)
駐車場への帰り道、自分達が子供の頃に発売したコーラアップってゆーグミの話になりました・・・
当時はグミなんて売っていませんでしたから、その食感と味に衝撃を受けたのを覚えています!
プラスチックのコーラ瓶の型にグミが入っていてオブラートで蓋がしてあるんですけど、美味かったなぁ・・・
数年前に復活販売されてましたけど、全くの別物となっていました・・・本物はもっと柔らかかったよ!
友人が『ソーダアップも売ってたよな?』・・・といいましたが、自分にはそんな記憶はありません!
『テキトーな事いうなよ!・・・ったくよぉ・・・』ってな感じでボロクソに否定してやりました!
友人も最終的には自分の勘違いだったと認めて納得してました・・・
少し気になったので家に帰ってからWikipediaでコーラアップを調べていたら、派生商品の所にあるじゃないですか!
ソーダアップの文字がっ!・・・やべぇ・・・ボロクソにいってしまった、マズイなぁ(笑)
友人がこのページに目を通さない事を祈るばかりであります(笑)
でも昔のコーラアップやソーダアップの画像がドコを捜しても見つからないんですよねぇ?
この情報化社会でどーゆーこっちゃ!?・・・そんなマイナーな商品でもないのに・・・
取り敢えず駐車場に着きました・・・停めてからちょうど1時間1分経っていました・・・
大仏グミを買わなければギリギリ1時間分の料金¥600で済んでましたね・・・痛い・・・
そーいえば鎌倉で駐車料金払ったのって初めてだな・・・
次の目的地である第五番札所の飯泉山勝福寺へは40kmくらいあります・・・遠いなぁ・・・
しかし、特に渋滞も無く西湘バイパスに入る事が出来ました・・・料金¥150ですが快適に国府津まで行けました!
そして親木橋の交差点を通過してすぐに左折すれば勝福寺へと続く参道となります!
この道が結構混んでいました・・・でも目的地は目と鼻の先です! |
|
|
13:40・・・到着です・・・デカイ無料駐車場がありました・・・さすが田舎!
車で全部巡る本来の計画ですと11:36に到着予定ですから、2時間以上の遅れです!
でももう焦りの様な物はありません!・・・楽しみながら巡るにシフトチェンジです! |
|
この寺の本尊は、鑑真が来朝した時に孝謙天皇に献上したうちの1体と伝わります・・・
天皇崩御の後、弓削道鏡は失脚して下野の薬師寺に移る事になります・・・天皇から下賜された観音像を有縁の地に安置しようと思って、笈に入れて下向する最中、足柄郡千代の里で重くなったので、この地に祀ったらしいです!
以来、普陀落山弓削寺と称し、弓削氏の氏寺として栄えました・・・【吾妻鏡】にも『弓削寺』と記されています!
天長7年(830)、現在地に移転・・・
または、太田道灌が戦国時代の初めに千代台に城を築いた時に移転したともいわれています・・・
応永25年(1418)には、小田原城の鬼門鎮護として称光天皇から勝福寺の勅号を賜りました!
入り口に建つ朱塗りの仁王門は江戸時代初期の再建との事!
上の案内板にも書いてありますが、富士の裾野で父の仇である工藤祐経を討った曽我兄弟は、ココの仁王尊から力を授かったといわれています・・・
永禄年間(1558~70)には、ダルマ市がおこなわれるようになり千両市と呼ばれるほどの賑わいを見せたそうです!
現在も12月17日と18日に開催してます!
寛政年間(1789~1801)に雷電為右衛門が大岩岩五郎を破った相撲は、ココでの事!
また、文化元年(1804)には、18歳の二宮金次郎が、当寺で旅の僧が『観音経』を訓読するのを聞いて、深く感得したそうです・・・境内には、礼拝している姿の彼の銅像がありました! |
|
|
この寺の鐘はテキトーに撞いてもいい様でした・・・取り敢えず撞きましたが、中々気持ちいいモンですね・・・
鐘を撞く場合は本堂へお参りする前にしましょう!・・・お参り後に撞くのは『戻り鐘』といって良くないそうです!
鐘楼の先では坊さんが不動明王の真言を唱えながら何かを燃やしていました・・・ |
|
|
かながわの名木100選の大イチョウがありました・・・友人はこの名木シリーズがお気に入りの様子です!
樹高30m、胸高周囲7.5m、樹齢約700年(推定)
かつては『乳イチョウ』と呼ばれ、乳の出ない婦人が願をかけたそうです!・・・30mもあるかな?
勝福寺と特に区切りがある訳でもなく、隣には八幡神社があります・・・ちょうど雲が途切れてイイ感じの陽が差してきたのでベンチに座ってマッタリしました・・・最高です! |
|
観音霊験記
坂東順禮第五番 相州足柄郡 飯泉山勝福寺
御詠歌
せめてハと さゝぐるあとの 馬ふねに
数のたからを 湧きてに飯泉
奉額
清らかの 経の巻葉を おしひらき
菩薩をつゝむ 蓮の飯泉
飯泉長者
当山の本尊は、赤栴檀(しゃくせんだん)を用いた毘首羯磨(びしゅかつま)の作です・・・願主は弓削道鏡です・・・
昔は今の地よりも半里余り西の千代村という所にありましたが、天長7年(830)庚戌の夏、仏勅によりこの地に移りました・・・
この時、人々が造営のために金銀を投げ打つ様子を見て一人の貧夫が溜息をつき、『自分は日々の糧もままならないが、施物が無いとはいえ、何もしないのは心苦しい』と、痩馬を三貫文で売り奉納しました・・・
翌朝、かいば桶の中にその銭があるではないですか!
驚いて奉納所へ行って見ると、『さては奉納の銭が戻ったのは、観音様が自分の貧苦を憐れまれたのか?』と信心を更に増しました・・・ |
その銭により馬を買戻してから、財宝が泉の湧く様に増え、終には国一番の長者となったので、人々は彼を三貫長者と呼びましたとさ・・・
御詠歌はこの長者の因縁によるものなので、心かけてみるべきであります・・・
陽気に手を振っているのが飯泉長者でしょうか?・・・隣は奥さん?娘?愛人?
橋の上の勧進僧らしき人物は『本堂建立勝福寺』と書かれた幟を持っています・・・
ドナドナ状態の馬は切ないですね・・・でも買い戻したとありますし良かった良かった!
さて次の目的地ですが、札番通りだと第六番の飯上山長谷寺なんですが、そこへと向かう道のちょうど中間地点に第七番の金目山光明寺があります・・・そして第八番の妙法山星谷寺は第六番の先の方なんです・・・
つまり行ったり来たりで凄い時間のロスになるんです・・・意地悪ですねぇ・・・
坂東三十三観音のバスツアーなどありますが、ココは確実に7番→6番→8番の順に巡っています・・・
札番通りに巡るのはバカって事ですね・・・確かにそうです・・・札所間の距離も結構ありますし、なにより国道246号線近辺なので下手すると渋滞につかまり大変なストレスになるでしょう・・・
坂東三十三観音の公式サイトでは札番にこだわらずテキトーに巡りましょう的な事が書かれていました・・・
この霊場は古来からそーなんだそうです・・・確かにそーすれば楽だよなぁ・・・
友人も結構合理主義な所があるので当初は7番→6番→8番で巡る案を提示していましたが、初めての巡礼だし札番通りに巡りたいと自分が押し切り、1日で相模国の札所を巡れる計画を打ち出して納得してもらった訳です!
まぁ、ちょっと状況が変わってしまいましたけど・・・ココで7番を先に巡れば確実に6番までは巡れるでしょう・・・
札番通りだと6番はいいとして7番は微妙な感じです・・・8番に関してはほぼ絶望的です(笑)
公式サイトがテキトーに回ってもいいっていってんだからいいじゃないか!
確かにそうかも知れませんが、だったらそもそも何の為の番号か!?
番号がふってあったら順番にというのがセオリーです!
本だって一番後ろのページから読んで行く人なんていません!・・・ドラマだって最終話から見てもつまらないです!
札番通りに巡る事にも絶対に意味があると思います・・・ココで7番から巡ってしまうと総崩れで、発心も何も無くなってしまう様な気がしました・・・
てー訳でバカ正直に第六番札所の飯上山長谷寺へ向かいます!
小田原東インターから小田原厚木道路に乗り、厚木西インターで降りて目的地へ向かいます!・・・¥350也!
それ程混んではいませんでした・・・ |
|
|
15:07・・・到着です!・・・無料駐車場ありです!・・・トタン屋根の山門が哀愁を誘いますね・・・
長谷寺(ちょうこくじ)という寺号よりも飯山観音という通称の方が知られていると思います!
友人が以前自分と訪れた事があるといっていましたが、全く記憶に御座いません・・・
どっかの政治家の様なセリフですが、ホントに何も憶えていません(笑)
20年位前に色んな社寺仏閣を連れ回されていたのは記憶にあります・・・恐らくその時に訪れたんでしょう・・・
基本、鎌倉市外はあまり興味がないので、容量の少ない自分の海馬から適用外との判断を受け、デリートされたんだと思います(笑)
友人が『頼朝が秋田城介に堂宇を建てさせたらしいぞ・・・』
と、講釈してくれました・・・確かに自分もそう聞いた事がある様な気がします・・・
秋田城介って安達景盛?、義景?・・・どっちが建てたんでしょ?
まぁ、厳密には秋田城介に任命されたのは頼朝の死後だったと思います・・・
安達家の鎌倉邸は甘縄神明神社の所にあったと伝わっています・・・
境内には足達盛長邸址の石碑が建っていますが、その碑文には、盛長の息子『盛景』という名が刻まれています!
ひっくり返ってますよ!(笑)・・・『景盛』でしょ!・・・盛景なんて息子いないでしょ!
自分には飯山観音の歴史よりも碑文の間違いの方が気になってしょーがありません!
友人のいらん講釈で盛景を思い出してしまい、寺を立ち去るまでずぅーっと頭から離れませんでした・・・
盛景って誰やねんっ!(笑)
昔、この地に飯山権太夫という信心深い武士がいたそうです・・・ある日、旅僧が行基の作にして大和長谷寺の本尊と同木で造られたという観音像を権太夫に授けました・・・
さっそく観音堂を建立して落慶供養をしましたが、旅僧は何処かへ姿を消してしまいました・・・
笈(修験者がよく背負ってるヤツです)の中には五鈷杵のみが残されていたので、旅僧は弘法大師に違いないと悟ったらしいです・・・
何で?・・・弘法大師であるという物的証拠としては弱過ぎると思うんですけど・・・短絡的過ぎでしょ(笑)
また、神亀2年(725)、当地には五色に変化する泉があり、行基が祈願すると泉から金の十一面観音像が現れ、行基の鉄鉢の中に飛び移ったんだそうです!
その後、近くの楠で尊像を刻んで金の十一面観音像を胎内に納め、堂宇を建立したという説もあります!
この寺の創建は神亀2年、開山は行基となっています・・・行基さん、今日ちょっと出過ぎなんとちゃうか?(笑) |
|
|
またまた名木100選シリーズです!・・・友人がテンション上がり気味に写真を撮っていました・・・
樹高17m、胸高周囲2.8m、樹齢400年(伝承)
巡礼者の無事や参拝者の長寿を願って植えられたと伝わるそうです・・・市指定天然記念物!
この寺は高台にあるので眺めがイイです!・・・ちょっと陽が傾きかけていますけど(笑) |
|
ココの鐘も撞く事が出来ました!・・・鐘撞くの気持ちイイです!・・・病み付きになりそう!
この銅鐘は、その昔、僧が時鐘を怠ったので一夜にして雷鳴と共に姿を消してしまったという話があります!
その後、霊夢により土中から掘り出されたそうです・・・その伝説から『飯山の隠れ鐘』と呼ばれているらしいんですが、
案内板はその逸話には触れていませんねぇ・・・
第二十五番筑波山大御堂、第二十九番海上山千葉寺と共に、坂東札所三霊鐘のひとつとされています! |
|
|
凄い雰囲気のイイ場所ですが、若干参拝客が多過ぎるのが残念です・・・マイスポット認定ならず(笑)
若い坊さん?・・・に御朱印を頂きましたが、微妙な感じです・・・
あまり頂いた御朱印にケチを付けるのは良くない事とは思いますが、発展途上な感じで筆に迷いが感じられます!
って何様だ自分?(笑)
後で気が付いたんですが、なんと午歳結縁の判を押し忘れてるじゃないかぁ!
ココは無いのかなぁ?・・・そんな馬鹿な・・・午歳結縁の散華はちゃんと頂いたし、押し忘れとしか考えられません!
あの若造め・・・隣でお守り売ってた小娘とくっちゃべりながら書いてたし、許せん!
今度会ったらフライングクロスチョップを喰らわせてやる!
そして気絶している間に彼奴の額に午歳結縁の判を二度と消えない様、頭蓋骨が陥没するまで押し込んでやろう!
鏡を見る度に思いだし、その後は判の押し忘れは無くなる事でしょう・・・良かった良かった・・・おしまい(笑) |
|
観音霊験記
坂東順禮第六番 相州愛甲郡 飯上山長谷寺
御詠歌
飯山寺 たちそめしより 尽せぬは
入相ひゝく 松風のおと
奉額
い食住 いのれバいとも いちじるき
施無いいやます いやま寺かな
飯山権太夫
当山の本尊は、大和長谷寺の本尊と同じ材木で行基が刻んだ物であります・・・領主の飯山氏が権化より感得して以来、信心篤く遂には伽藍を建立し、この地を飯山という様になりました・・・
昔、この寺に霊鐘がありました・・・これは坂東札所の三鐘のひとつで、他の二つは、筑波と千葉にあります・・・
この寺の鐘は陀羅尼と響く霊器でしたが、住僧が撞くのを怠った夜、雷鳴が轟き、不思議な事に無くなってしまいました・・・
峰の松風が、その鐘の音がするのも、また不思議な事であります・・・近代の住持が法器がなくなったのを悲しみ、本尊に祈り、新しく鐘を鋳造して空楼に入れました・・・ |
そして、霊夢のお告げに従い地を七尺余り掘ってみると、不思議な事に忽然と古い鐘が姿を現しました!
住持は歓喜のあまり新しい鐘楼を建て、それに鐘を架けたので、人々は飯山の隠鐘と敬って呼ぶ様になりました・・・
飯山の隠れ鐘伝説ですね・・・それよりもこの絵の中の時間的、空間的構成に作者の遊び心を感じます!
手前の人物は鐘を掘り起こした近代の住持でしょう・・・そして腰に2本差し、石段で扇を広げているのが飯山権大夫!
桶に桜を差しているのは飯山権大夫の従者かなにかでしょう・・・
石段の2人は鐘を掘り出した住持に注目していますが、彼等の間には時間の隔たりがあります!
そして石段は多少ズレていますが、扁額の中の石段と繋がっています・・・これが空間の繋がり!
従者が持っている桜は一見何の意味も無さそうですが、扁額の中を見て下さい!
桜が満開ですね・・・要するに関連付けです・・・中々面白い1枚です!
さて時刻は15:30・・・どーしたもんでしょう?・・・次の札所へ行くか、それともこの辺りでマッタリするか・・・
確かにこの辺は弘法大師に所縁のある寺などもありますし、飯山観音の裏山はハイキングコースにもなっております!
さすがに午前中に脚を使い切ってしまったので山歩きはキツイですけど、近くの安達盛長の墓へは行って見てもいいかなとも思っていました・・・
当初から相模国を2回に分けて、近隣の物件も含めてゆっくりと巡る計画もありました・・・
行くかやめるか・・・悩んでいる間にも時間はどんどん過ぎて行ってしまいます・・・
結局、第七番札所金目山光明寺を目指す事にしました!
車で向かっている間にふと思います・・・何時に閉門なんだろう?
第八番まで巡る予定でしたし、巡れるという根拠のない自信があったので第七番札所の事は調べていませんでした!
大体は17:00閉門かと思いますが、冬期ですから16:30・・・早い所なら16:00の場合も考えられます・・・
友人が実家の母に借りて来たという坂東三十三観音の公式ガイドブックには載っていない様子!
こんな時にスマホがあればパッと調べられますが、生憎2人とも時代に取り残されたガラケーユーザーです!(笑)
自分はいいとしても友人は弁護士をしていて、自分の事務所も持っています!
起業家ですから色んな管理等で、スマホやタブレットを持ってた方が勝手が良さそうな気もするんですけど・・・
会うと毎回、『スマホにした?』、『いや、まだだ・・・』というやり取りが必ずあります(笑)
この坂東観音道中記も完成までには5、6章にはなると思います・・・その間は彼と行動を共にする訳です・・・
『友人』という代名詞では味気ないので職業に因んで『先生』と呼ばせて貰いましょう!
そんな呼び方した事ないし、これからも呼びません・・・この道中記だけの彼の通り名です!
『先生』って小説家みたいな響きでいいですねぇ(笑)
そしてもうひとつ・・・結願までに先生にスマホを買わせる!・・・これも目標に加えて置きます(笑) |
|
|
光明寺に到着です!・・・駐車場に車を入れた時の時刻は冗談抜きに16:29でした・・・
隣りに停まっていた車の持ち主と先生が何やら話していましたが、急に先生はダッシュでどっかへ行ってしまいました!
何じゃ?・・・まぁ、何となく理由は分かりますけどね・・・
多分ウンコが漏れそうだったんでしょう・・・走ったら漏れちゃうだろうに・・・え?違うだろって?(笑)
自分も車を降りて早歩きで納経所へ向かいます・・・門を潜るとちょうど観音堂の扉を締めている所でした!
え?・・・ドコで御朱印を頂くんだ?
一瞬焦りましたが、右側に目をやると先生の姿がありました・・・どーやらあそこで頂くようです!
先程の駐車場で先生が話していた人物は、やはり寺の関係者だった様で、『もう閉まるから急いだ方がいいよ!』と助言してくれたそうです・・・お陰様で何とか滑り込みで御朱印ゲットです!
閉門は16:30だった様です・・・滑り込みセーフ!
何気に安養院での1分間のアドバンテージが無かったらアウトだったかも知れません!(笑)
しかし、御朱印だけ頂いてすぐに撤退する感じになってしまったのが残念至極であります・・・
境内には案内板が一杯立っていたので、少しゆっくりと見てみたかった・・・何より肝心の観音様が(笑)
見れねぇ~・・・もっともココの観音様は60年に一度寅年に開帳されるだけらしいので、扉が開いていて見れたとしても御前立だけかと思います・・・ |
|
自分達は左上の駐車場に停めたんですが、門の近くにも駐車場あったんですね・・・
佐々木信綱の歌碑もあったのかぁ・・・くそぉ見逃してしまったぜぇ・・・
大宝2年(702)、貧しいが信心深い海女が相模湾に金目川が入る小磯の浜で汐を汲んでいました・・・
ところが、何度汲んでもひとつの桶には汐は入らず、小さな木切れがあるばかりでした・・・
海女にはそれが何なのか分かりませんでしたが、何となく尊い物であると感じ、家に持ち帰って拝んでいました・・・
それを見た行脚僧が『それは聖徳太子御作の聖観音像である!』と告げました!
それを聞いた海女は更に篤く信仰したといいます・・・
海女が没した後、村人達が道儀上人に願い、海女の家を道場として尊像を安置しました・・・
現在この海女は潮司大権現と号し、光明寺の鎮守として祀られています!
天平年間(729~749)、行基が新たに五尺余りの立像を造り、海女が感得した聖観音像をその胎内に納めたと伝わっています・・・それ以来、『腹籠りの観音』と呼ばれ、北条政子は実朝出産の折に安産祈願しており、現在も安産に御利益があるとされています!
金目川沿いに建つ小じんまりとした寺ですが、本堂には明応7年(1498)10月27日の棟札が残っており、平塚市内最古の建築物であります・・・本尊を安置している厨子も同時代の物で国重文です!
本尊の聖観音像は高さ168cmで、平安時代末期の作といわれています・・・前立本尊は68cmの小像で、本堂と同じ明応7年の銘があります・・・
両方とも平塚市の文化財に指定されています・・・その他、イロイロな寺宝がある様です!
さて、本日最後の観音霊験記を見てみましょうか! |
|
観音霊験記
坂東順禮第七番 相州大住郡 金目山光明寺
御詠歌
何事も 祈る願ひの 金目寺
この世後の世 たのもしきかな
奉額
さしまねぐ 御手にあふぎの 金目寺
来り迎へん 蓮の座しきへ
小磯の寡婦(やもめ)
大宝2年(702)、相模国小磯の浜で、独り身の女性の汐汲み桶に不思議にも入っていた霊像が当山の始まりです!
しかし、女性はそれが何の仏かというのも知らずにただ信心をしていました・・・
ある時、行脚僧が訪れたので見せたところ、
『これは聖徳太子が彫った聖観音像に間違いない!』
といわれたので、ますます貴んで香花を供えました・・・
その女性も年老いて、自ら世を去る日を知り、その日に身を清め、潮に濡れた襷を尊像の御手にかけ、
『この苦海から連れ出して、極楽へと導いてください!』
と御名を唱えながら大往生を遂げました・・・ |
当寺の鎮守潮司大権現は、この海女を祀っているとの事です・・・
その後、行基が五尺余りの立像を造立し、海女が感得した小像を胎内に籠めました・・・
今の本尊は、すなわちこれであります!
最後も行基かい!・・・今日はホントに行基大活躍でしたね(笑)
今回の巡礼はココまでです・・・後は先生を家まで送るだけです・・・
時間も時間なので晩飯を食べようという事になりました・・・そういえば朝から何も食べていませんでした!
ガッツリ食べたいよねって事で、湘南台のステーキガストへ行く事になりました!
先生は良く利用するらしいですが自分は初体験です・・・最近はファミレス自体あまり行かなくなりましたから・・・
味はアレですけど、コスパを考えれば全然納得のレベルです・・・ただドリンクバーのコップって何であんなに小さいんでしょうか?・・・自分は結構水分を摂取するので、何往復もするのがメンド臭い・・・500mlくらいのコップが欲しいです!
食べながら反省会・・・やはり一日で詰め込み過ぎるのは良くないという結論に達しました・・・
確かに、時間に追われて観音様の大悲に触れる時間さえも惜しむというのは本末転倒です!
やっつけで巡るのは良くない!・・・心に余裕を持って巡りたいものですね!
今回はちょっと特別なケースになってしまいましたが、次回は果たしてどーなる事やら(笑)
まぁ、のんびりと行ければいいかな・・・くらいに考えています・・・ |
|
今年は午歳です・・・坂東の各札所では、
『坂東三十三所観音巡礼 平成二十六年午歳特別結縁巡礼 奉修記念 第〇番 〇〇寺』
と記された散華を御朱印と共に頂けます・・・表には各札所の御本尊の可愛らしいイラスト入りです!
こーゆーのって何か分からないけど無性に蒐集したくなりますよね(笑)
他の観音霊場はどんな事やってるんでしょうか?・・・少し興味が湧いてきます!
|
おしまい
|