ブログ 義景大明神1
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鎌倉には御霊神社と呼ばれるものが2つあります・・・祭神はどちらも鎌倉権五郎景政です・・・
ひとつは坂ノ下の景政邸跡に建てられたという物で、もうひとつは梶原にあります・・・
梶原氏は景政の子孫ですし隣の深沢小学校には梶原一族の墓と伝わる物もあり、どちらも土地に根ざした神社として地元の人々の篤い信仰を集めています・・・

ちなみに坂ノ下の方は『ごりょうじんじゃ』、梶原の方は『ごれいじんじゃ』・・・と読みが違うようです・・・
全国に御霊神社と呼ばれる物は数多くあり、大抵は『ごりょうじんじゃ』と読むと思うんですが・・・この辺りは往時勢力を誇った関東五平氏(鎌倉、梶原、村岡、大庭、長尾)の五霊を祀った物が多いと聞きます・・・
その後頼朝が鎌倉入りし廃れていく過程で景政のみを祭神に・・・

実際詳しい事は専門外なんで良く分かりません・・・識者の文献を覗いてみれば何か分かるかもしれませんね・・・
自分の専門はダムなもんで失礼(笑)
義景大明神2 義景大明神3
梶原の御霊神社の狛犬・・・角もなく子獅子を連れていますね、尾も横に流れてます・・・完全な唐獅子スタイルです・・・
このタイプだと古くても江戸末期以降って所でしょうか・・・風化の度合いからここのはもっと新しそう・・・
現在よく見る典型的な狛犬ですね・・・

古いものは角が生えてたり、付随物もなくシンプルです、それに顔は体と同じ方向を向いている物がほとんどですね・・・
なにより形がかなり簡素というかデフォルメされてる物が多く、愛嬌たっぷりで自分は結構好きであります!
ここの神社の狛犬は大胆に牡丹を咥えていますね・・・
唐獅子牡丹・・・何か任侠っぽいですが、獅子に牡丹って意匠の組み合わせはメジャーです・・・

獅子鍋の事を牡丹鍋っていうし・・・ありゃイノシシか・・・『牡丹といえば蝶だろ!』って人は花札のやり過ぎですよ!
あれだと獅子は萩との組み合わせになっちゃいますしね・・・
絵画などでも獅子と牡丹の組み合わせはよく使われています・・・百獣の王と百花の王の取り合わせで相乗効果を得る手法の様です・・・
仏教との関わりも深く、釈迦如来の脇侍としてお馴染みの文殊菩薩は獅子に乗っている姿で表現されてます・・・
反対側の普賢菩薩は白象に乗っていますね・・・非常に分かりやすいです!

阿弥陀三尊の観音菩薩と勢至菩薩はよく見ないと違いが分かりません・・・自分目が悪いので(笑)
また獅子は牡丹を食べるともいわれてますので、組み合わせの根拠としては納得ですね・・・

狛犬はこれくらいにして話を先に進めましょう!
義景大明神4 義景大明神5
自宅の南方、山ひとつ越えた所は葉山町の長柄と呼ばれる地区です・・・何で葉山かって?
何だか鎌倉に行くのがメンド臭くて・・・誰にでもそういう日ってありますよね?(笑)
でも何の脈絡もなくって訳ではありません・・・ここにも御霊神社がありますから!

祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と御霊命(みたまのみこと)です・・・額には『御霊神社』と書かれています・・・
社の中を覗くとそこにも額が掲げられており『五霊大権現』と書かれていました・・・
ここも元々は関東五平氏か五柱神が祀られてたのかな?

境内には大砲の弾に『忠烈 東郷平八郎書』と書かれた記念塔があります・・・横には由緒が記されておりなんでも日露戦役25周年記念と書かれていました・・・遠くから見た時は焼却炉か何かだと思ってました(笑)
義景大明神6 義景大明神7
拝殿の脇から裏山へ続く道があり、神社の左後方の丘が平場になっていました・・・かつてはここにも何か建っていたんでしょか?・・・そこから上へと続く道もありましたが、かなり荒れていて今回の装備では通行不可でした・・・まぁ登って行った所で団地があるだけですけど・・・

それよりも立札が気になります・・・真ん中のスペースが・・・穴埋め問題でしょうか?(笑)
支柱にクギを打ち付ける所だから意図的に開けたんでしょうか?
別にそこにクギを打たなくても作る方法はいくらでもあるのに・・・
そもそも『参詣者以外の立入りを禁ず』でOKじゃないですかね?・・・『者の』ってなによ?
こんな不自然なスペースを開けてまで入れる必要が分からんです・・・作った人物に是非聞いてみたいです!

この神社に関しては事前の知識が少なくて、自分が知ってたのは今回の主人公長江太郎義景が三浦大介義明の命で祖父鎌倉権五郎景政を祀る為に藤沢の五霊社から勧請して建立した事くらいでした・・・
長江義景って誰?って方の為にちょっと説明をさせて頂きますね・・・
取り敢えず系譜から・・・

桓武天皇→葛原親王→高見王→高望王→平良文→平忠通→平景通→平景成→平景政→平景継→平義景

父を平景明とする説もありますが、いわゆる桓武平氏ってヤツです・・・大倉に居を構えてからは鎌倉氏を名乗り始めますんで鎌倉氏直系の子孫って事になりますね・・・景政の時に八幡太郎義家に大倉の館を譲って、新しく由比に居を構え『甘縄』と呼んだらしいです、そこが現在の坂ノ下御霊神社辺りって事ですね・・・

義景は三浦義明の娘と結婚しております・・・妹も義明の息子、杉本義宗と結婚して、後の侍所初代別当和田義盛を産んでいます・・・
長江氏を名乗った経緯ですが・・・Wikipediaによると『長江村に館を構えてから長江氏を名乗ったらしい』とありますが、自分が前に読んだ郷土資料には、

父の仕事の関係で義景は関西の長江庄に住んで長江氏を名乗っていた。義景が当地に来た時は大山とあるだけで、まだ長江という地名はなかった・・・したがって地名をとったのなら大山氏でなければおかしい!

と、記されていたのを覚えています・・・例のごとく先に地名があったパターンかと思いきや逆だったので強く記憶に残っているんですけど、どっちが本当なんでしょうか?
まぁどっちでもいいんですけど今回の主人公ですし後者を採って長柄の歴史は義景から始まったとしておきましょう!

長江・・・まさか森戸川を中国の長江(揚子江)に例えたんでしょうか?・・・な訳ないか(笑)
ちなみに勧請した藤沢の五霊社ってのは村岡の御霊神社の事でしょうか?
逗子の図書館には資料がありません・・・

ちょうど藤沢へ用事があったので、ついでに文書館(もんじょかん)へ・・・ここは資料のカメラ撮影も基本OKなのでかなり使えます!
ありました・・・やっぱり村岡御霊神社の様ですね・・・なんと坂ノ下御霊神社も景継がここから勧請しただと!?
梶原の御霊神社からって話はどうなるんだ?・・・う~ん・・・でも何か少し見えてきた気がします・・・

村岡御霊神社は現在、崇道天皇、鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王の五霊を祀っていますがもともとは崇道天皇を祀る京の五霊社を平良文(村岡五郎)が勧請したのが始まりとされています・・・
この平良文の子孫は敵味方含め頼朝の鎌倉入りに関わる人物が多いので要チェックです!

幕府が開かれると義景は頼朝に仕え神宝奉行に任命され伊勢神宮に将軍の代参をしたりしています・・・
また長子の八郎師景、次子の四郎明義のいずれも頼朝、実朝に仕え重任されました・・・
長江一族は鎌倉幕府樹立以来、幕府の重臣として華々しく活躍しました。(参照:ながえ今昔、吾妻鏡)

さて説明が長くなりそうなので、この辺にして先に進みます・・・
義景大明神8 義景大明神9
うおっ・・・朝陽が眩しいぜっ!・・・先程の御霊神社から県道311号を越えた向かい側に福厳寺があります・・・
義景が草創にあたり菩提寺にしたと言われています・・・境内には義景の奥さん(みわ御前)の墓と伝わるやぐら(奥藪)があるらしいのですが、墓地の方にあるらしく、檀信徒以外立入禁止の警告札が建っていました・・・
見学の旨を伝えれば入れそうですが、まだ7時過ぎだしちょっと迷惑かなと思い今回は諦めました・・・

正式名称は殿谷山福厳禅寺といいます・・・
殿ヶ谷は隣谷戸で義景の長江館があった所・・・本日の目的地であります!

ちょっと記憶が曖昧なんですが福厳寺は建長寺塔頭龍峰院の末寺である。鎌倉尼五山の隠居寺の様な性質も持っていたのでそれなりに格式の高いお寺である・・・と葉山のペラペラな郷土資料で読んだ気がする・・・

龍峰院っていえば鎌倉三十三観音の札所で唯一写経を納めないと御朱印が貰えない寺・・・
鎌倉の霊場巡りなんて殆んどの人がスタンプラリー感覚だと思うけど、中々気概の感じられるお寺ですね・・・
『写経なんてしなかったよ。』って話も聞きますが・・・坊さんの気分次第なんかな?(笑)

坂東も鎌倉も一番札所は杉本寺ですが、何も言わないと100%坂東の方の御朱印を頂くハメになると思うので注意した方がいいです・・・
一番札所だけあって朱印帳も数多く取り揃えておりましたが鎌倉霊場専用の物はなかった様に思います・・・
御朱印はそれぞれの寺に個性があって面白いです・・・書いてくれる人の個性も反映されます・・・
美しさ、大胆さ、丁寧さ、中には明らかに下手クソなのも(笑)
個性ですからね・・・それもありだと思います・・・としておきましょう・・・

そろそろ最終目的地へ向かいましょう!・・・福厳寺のすぐ近くに『川久保』という交差点があります!
すぐ先には最近できたセブンイレブンがありますが帰りに寄るとして、交差点を右折、すぐに右に入る道があるので曲がります、そのまま橋を越えたら三叉路を右へ・・・後は道なりに進むだけです!
義景大明神10 義景大明神11
すると画像の様な場所に到着します・・・ガードレールの先は舗装路ではありません・・・所々ぬかるんでいる箇所がありますので汚れてもいい靴で訪れる事をお勧めします・・・

ガシガシ進みましょう!なんかやばくないかここ?・・・自転車で突入したんですが悪路で道幅も狭く右側には小川が・・・
まぁ落ちても死ぬ事はないだろうけど恥ずかしいしなぁ・・・誰もいないけど、それがまた恥ずかしい・・・
ひそかに事故ってる感が(^-^ゞ

一度舗装路まで戻り再び徒歩で潜入!右側の竹藪がかなりプレッシャーをかけてくるが、左側は長閑な田園風景が広がっています・・・しばらく進むと視界左前方にチラチラ何か見えてる・・・
直視はしません・・・どうせなら正面からご対面してやろう!
視界の隅に入れつつ、それと思われる物が左真横に来た時!左へ90度旋回!
義景大明神12 これは・・・田んぼの畦道が参道になってるぞ!
画期的なシステムだなぁ・・・しかし凄いトコに建ってるな・・・ほとんど山と同化してる・・・

ラスボス義景大明神との決戦です!
まさに隠れ里の鎮守って感じです・・・小さな社ですがその独特の空気感に少し圧倒されてしまう・・・
こんな近場にこんな大物が隠れていようとは・・・
畦道を進み近づいて行くと・・・中ボスがいました!
義景大明神13 ラスボスへの道をさえぎるかの様に・・・崩壊しかけた階段が・・・これ自分が乗っても大丈夫かな?
明らかに崩壊した階段の上から基礎も造り直さずにそのままコンクリートで塗り固めたもの・・・

これじゃぁダメだよぉ~・・・強度不足・・・
農作業の合間にジイちゃんがやっつけ仕事で施行したんだろうか?
なんにしても再び補修が必要なのは確かです!
周りの石垣は当時のものでしょうか?・・・そうでないとしても凄い歴史を感じさせます!
義景大明神14 義景大明神15
そ~っと階段を登るとトライフォース・・・じゃなくて北条三つ鱗を発見!
横には『昭和十年一月吉日』、『葉山町スハ町 石工 藤田幸次郎』と彫られてます・・・スハとは小字の諏訪の事だと思います・・・頂部には鯱らしき物が・・・シッポが壊れちゃってますが、物凄く愛嬌のある顔をしています・・・
【新編相模国風土記稿】にこうあります、

山の裾の洞あり洞中の五輪塔三基列す二基は高さ三尺五寸一基は小なり皆四面に梵字を彫るのみ其餘文字なし長江氏の墓なるべし 。
義景大明神16 義景大明神17
やぐらはドコざましょ?・・・取り敢えず鈴をガラガラ・・・あっありました・・・社の格子越に見えてしまいました・・・
社背部も格子戸になっておりその後ろにあるやぐらが見える親切設計・・・五輪塔は三基以上あるけど、奥の三基の事を言っているんでしょう・・・卒塔婆には

殿谷院殿福厳義景大禅定門、長江氏先祖代々請精霊位

と書かれていました義景の戒名ですかね・・・去年の施餓鬼会の物の様です・・・
現在義景大明神は福厳寺が管理しているそうです・・・
この五輪塔は左から義景、明義、義重の墓といわれています・・・三代仲良く、ちゃんと供養されてる様で安心しました。

ココに義景の居館長江館があったと言われてます!

小名殿ヶ谷東南の山間なり 水田とす 東は山を負い西に堀跡あり 俚俗伝へて長江太郎義景の館跡なるべしと云う

田んぼあるし・・・西の掘跡ってもしかしてあの小川の事?だとしたらスゲー土地狭いぞ?
でも山城としては十分機能するか・・・う~ん・・・まぁ専門家がココだって言ってんだからココなんでしょう・・・

より大きな地図で 義景大明神周辺 を表示
殿ヶ谷東南・・・阿部倉山を背負い森戸川を掘とした方が自分的にはしっくり来るんだけどなぁ・・・
あの湾曲した川に囲まれた畑部分が怪しいなぁ・・・こっちの方がいいですよね?
コンビニはちょっと遠くなるけどさぁ(笑)
義景大明神18 義景大明神19
義景社全景・・・カメラの腕もさる事ながら、木が邪魔で・・・しかしホントに長閑な所です、東屋もありますし梅が綺麗に咲いていました・・・
棚田っていいですね・・・上から撮った方がイイ感じかとも思ったんですが、道がぬかるんでいて断念しました・・・
そ~いえば社に照明の様な物が付いてたんですが、ライトアップとかするんでしょうか?(笑)
怖すぎますよ~ココ絶対に異形の者が現れますって!泥田坊とか小豆とぎとか・・・

宝治合戦(1247)で三浦氏に組した事で長江館は取り壊されたそうです・・・
その後一族が領地を受け継ぎ、師景、景秀、頼秀と続いて行きます・・・
後醍醐天皇に付き鎌倉幕府を滅ぼし建武新政下での勢力拡大が期待されますが、天皇と足利尊氏の不和・・・
観応の擾乱では足利直義に付いてまたも尊氏に敗北、領地没収となったそうな・・・

近くには大山林道があります・・・森戸川を遡って行く道です、徒歩でしか進入出来ませんが原生林に囲まれて、川のせせらぎに耳を傾け、かなり自然を満喫できます・・・道も平坦で家族連れ等も多いです・・・各ハイキングコースとも繋がっていますので体力と相談しながら三浦アルプスを踏破して行くのも楽しいと思います!

林道入り口から30分くらい歩くと砂防ダム(確か自分が生まれた年に竣工)がありその上流側が少し開けたスペースになっています・・・小学校の遠足で、田浦の梅林からここへ来てお弁当を食べました・・・懐かしい!
水辺にいたヤマカガシを捕まえて遊んだり・・・当時はハブの何倍もの毒を持つ蛇とは広く認識されてなかったので、無毒のおとなしい蛇・・・と皆が信じてました・・・無知って怖いですね・・・

義景は弓馬の術に長けていた様で、文治3年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会で初めて流鏑馬が行われた際の一番射手を務めています(参照:吾妻鏡)
これにちなんで長柄の御霊神社では、1月7日、その年小学校に上がる子供達による弓射り御奉射祭(おびしゃ)が行われるそーです・・・
例大祭は8月の第4土日に執り行われるようですね・・・神輿、囃子、演芸大会とかいてあります・・・
演芸大会?・・・何やるんでしょうか?・・・凄ぇ気になるなぁ・・・

長柄の文献上もっとも古い記載は慶長三年(1598)神武寺薬師堂棟札の茅献納帳に『長柄20駄』と記されているようです(参照:ながえ今昔)。

長柄に今現在も伝わる興味深い風習等々・・・長くなりそうなので今回はやめて置きます・・・
帰りはセブンイレブンで肉まんをゲットしました・・・ここが出来てから反対側のローソンには全く行かなくなってしまいました・・・こっちのが駐車場広いし使いやすいです!

《追記》


後日知りましたが、梶原の御霊神社の狛犬は日露戦争の凱旋記念に奉納された物の様です・・・
そりゃ新しいわけですなぁ(笑)

おしまい
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