ブログ 主馬盛久之頸坐タイトル
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主馬盛久之頸坐1 主馬盛久之頸坐2
由比ヶ浜通りを歩いていると、欅の根元に石碑やら庚申塔が並んでいる場所が有ります・・・
石碑には『主馬盛久之頸坐』と刻まれています・・・源平合戦に詳しくない人は主馬盛久なんて聞きなれない名前だと思いますし、何だろう?くらいで通り過ぎるパターンが殆んどだと思います・・・旧字体の石碑なんて読むのもメンド臭い!

主馬盛久とは平盛久の事で『主馬八郎左衛門盛久』といいます・・・要は平家の落武者ですね・・・
平正盛┳正衡━正盛━忠盛━清盛
       ┗季衡━(盛康)━盛国━盛久
伊勢守盛国の八男に生まれ、主馬判官と呼ばれた盛国に因んで主馬八郎左衛門といわれました・・・
系図にするとこんな感じの流れになります・・・
平清盛は側近であった盛国の家で亡くなりました・・・以下【吾妻鏡】の記述です!

治承5年(1181)閏2月4日庚戌
戌尅、入道平相國薨ず(九條河原口盛國の家)。去月廿五日自り病惱すと云々。遺言に云はく三ケ日以後に葬之儀有る可し。遺骨に於て者、幡磨國山田法花堂に納め、七日毎に形の如き佛事を修す可し。毎日之を修す不可。
亦、京都に於て追善を成す不可。子孫偏に東國歸往之計を營む可し者り。

壇ノ浦で平氏が滅んだ後、平宗盛は敗軍の将として源義経に連れられて鎌倉に下向しますが、その時に盛国も同行しています・・・

元暦2年(1185)5月16日戊戌
忠清法師六條河原に於いて梟首すと。今日、前内府鎌倉に入る。観る者垣墻の如し。内府は輿を用い、金吾は乗馬す。家人則清、盛国入道、季貞(以上前廷尉)、盛澄、経景、信康、家村等同じく騎馬これに相従う。若宮大路を経て横大路に至り、暫く輿を留む。宗親先ず参入し、事の由を申し入る。則ち営中に招き入るべきの旨仰せ被る。
仍って西の対を以て彼の父子の居所と為す。夜に入り因州仰せを奉り膳を羞むと雖も、内府敢えてこれを用いず。
ただ愁涙に溺れるの外他に無しと。この下向の事、並びに同父子及び残党の罪條々の事、二品経房卿に属き奏聞せらるの処、その沙汰有り。招き下すべし。また死罪に行わるべきの旨、勅許すでにをはんぬ。但し時忠の事に於いては、死罪一等を宥めらるべきの由と。これ内侍所無為の御帰坐は、彼の卿の功に依るが故なりと。

大江広元が晩飯を進めても、宗盛は食べずにただ泣いてばかりいた様ですね・・・
文頭で忠清法師なる人物が京の六条河原で晒し首になったとの記述がありますが、
この上総介忠清なる人物は悪七兵衛景清の父であります・・・

元暦2年(1185)6月7日戊午
前内府近日帰洛すべし。面謁すべきかの由、因幡前司に仰せ合わさる。これ本三位中将下向の時対面し給うが故なり。而るに廣元申して云く、今度の儀、以前の例に似るべからず。君は海内の濫刑を鎮め、その品すでに二品に叙し給う。彼は過て朝敵と為り、無位の囚人なり。御対面の條、還って軽骨の謗りを招くべしと。仍ってその儀を止められ、簾中に於いてその躰を覧る。諸人群参す。頃之前内府(浄衣を着し、立烏帽子)西侍障子の上に出る。武蔵守、北條殿、駿河守、足利冠者、因幡前司、筑後権守、足立馬允等その砌に候す。二品比企四郎能員を以て仰せられて云く、御一族に於いて、指せる宿意を存ぜずと雖も、勅定を奉るに依って、追討使を発するの処、輙く辺土に招引し奉る。且つは恐れ思い給うと雖も、尤も弓馬の眉目に備えんと欲すてえり。能員内府の前に蹲踞し、子細を述べるの処、内府座を動かし、頻りに諂諛の気有り。報じ申せらるの趣また分明ならず。ただ露命を救わしめ給わば、出家を遂げ仏道を求むの由と。これ将軍四代の孫として、武勇の家を稟く。相国第二の息として、官禄任意たり。然れば武威に憚るべからず。官位に恐るべからず。何ぞ能員に対し礼節有るべきや。死罪更に礼に優ぜらるべきに非ざるか。視る者弾指すと。

頼朝平重衡の時の様に宗盛に面会したいといいましたが、大江広元に諌められ御簾越しに宗盛を眺め比企能員を通してやりとりをした様ですね・・・
死罪が決まっているにも関わらず助命嘆願する宗盛の卑屈な態度に、その場にいた者達はガッカリしてます・・・
南都焼き討ちで鎌倉へ下向した平重衡の潔い態度と比べてしまったんでしょうねぇ・・・
【平家物語】など、宗盛は暗愚として描かれる場合が多いです・・・

さて盛国の息子の主馬盛久ですが、取り敢えず碑文を見てみましょうか・・・
主馬盛久之頸坐3
盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累代ノ家人ナリ 然ルニ平家滅亡ノ後 京都ニ潜ミ年來ノ宿願トテ清水寺ニ參詣ノ歸途 北條時政 人ヲシテ召捕ヘシメ鎌倉ニ護送シ文治二年六月 此地ニ於テ斬罪ニ處セラレントセシニ奇瑞アリ 宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシト言フ        昭和十年三月 鎌倉町青年團建
灯台もと暗し・・・まさか都に潜んでいようとは・・・
鎌倉に連行され、斬首の際に奇跡が起こり罪を許されたとあります・・・
鎌倉同人会が建てた石碑もありますのでチェックしましょう!
盛久頸座
平家物語に文治二年六月廿八日 幕府命じて平家の家人主馬八郎左衛門盛久を由比が浜に斬らしめんとせしに 不思議の示現ありて之を赦したまふ とあるは此地なりと云ふ        大正八年六月 鎌倉同人會
鎌倉町青年団が建てた物よりも内容は薄いですね・・・
でも同じ所に2つも要らないんじゃないかな?
ココに限らず石碑が複数建っている場所はいくつかありますけど・・・数より内容を濃くして欲しいですよね・・・
単に【平家物語】といっていますが、十二巻本などには盛久のこの話は無いです・・・
長門本の第二十巻のみに収蔵されている話です・・・

謡曲史跡保存会が建てた立札もありました!
謡曲盛久案内板
能の【盛久】では、罪を許された盛久が頼朝の前で舞を披露するシーンが見せ場の様です・・・

取り敢えず【長門本平家物語】の第ニ十巻の盛久のシーンを紹介させて頂きます!
ちょっと長いですが滅多に見る機会は無いと思います・・・図書館でも置いてない所が多いんじゃないでしょうか?
十二巻本はドコにでもあると思いますけど・・・我が逗子市の図書館も長門本は置いてありませんでした・・・
逗子市の図書館キレイなんですけどホント使えないんですよねぇ~・・・

主馬入道盛国が末子に主馬八郎左衛門盛久、京都に隠れ居けるが年来の宿願にて等身の千手観音を造立し奉りて、清水寺の本尊の右わきに居奉りけり、盛久ふるにも照にもはだしにて清水寺へ千日毎日参詣すべき心ざし深くしてあゆみをはこび年月を経るに人是を知らず平家の侍打もらされたる越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清、主馬八郎左衛門盛久、是等は宗徒のもの共なり、尋出すべき由、兵衛佐殿、北条四郎時政に被仰含けり、主馬八郎左衛門盛久は京都に隠れ居たる由聞えけれど、北条京中を尋もとめけれども更に尋得ず、ある時下女来りて、誠にや主馬八郎左衛門を御尋さふらふなるか、かの人は清水寺へ夜ごとに詣給ふなりとぞ申ける、北条悦ていか成ありさまにて詣ずるぞととふ、
白直垂き給て、ものもはき給はず、はだしにて詣づる人にて候なりと申ければ、清水寺辺に人を置き、うかがひ見するに、ある時、白直垂のしほれたるに、はだしにて盛久詣けるを召捕て兵衛佐殿へ奉る、盛久まだしらぬ東路に千行の泪を拭ひ、暁月に袂をうるほして我清水寺の霊場に千日参詣の志を運、多年本尊に祈奉る、信心の真をこらしつるに、日詣むなしく成ぬ、あはれ西国の戦場に軍破れて人々海に入給ひし時、同じく底の水屑とも成たりせば、今日かかるうきめにはあはじものをと、おもはぬ事もなく思ひつづけて歎き暮し、あしたの露に命をかけ日数も漸く重れば鎌倉にも下着しぬ

梶原平三景時、兵衛佐殿の仰をうけて盛久を召す、心中の所願を尋ね申に仔細をのべず盛久、平家重代相伝の家人、重恩厚徳の者なり、はやく斬刑に従ふべしとて土屋三郎宗遠に仰て首を刎らるべしとて、
文治二年六月廿八日に盛久を由井が浜に引すへて盛久西に向て念仏十遍計申けるが、いかが思ひけん、みなみに向て又念仏二三十遍計申けるを宗遠太刀をぬき頸をうつ、その太刀中より打をりぬ、又打太刀も目ぬきよりをれにけり、不思議の思ひをなすに富士のすそより光り二すぢ盛久が身に差あてたりとぞ見えける、宗遠使者を立て、此由を兵衛佐殿に申す、また兵衛佐殿の室家の夢に、すみ染の衣きたる老僧一人出来て盛久斬首の罪にあてられ候が、まげて宥め候べきよし申す、室家夢の中に誰人にておはするぞ、僧申けるは我清水辺に候小僧なりと申すとおほじて夢覚て、兵衛佐殿に、かかる不思議の夢をこそ見たれと宣ひければ、さる事候、平家の侍に主馬入道盛国が子に主馬八郎左衛門盛久と申者、京都に隠れて候つるを尋取りて、只今宗遠に仰て由井が浜にて首をはねよとて遣て候、此事清水寺の観音の盛久が身にかからせ給たりけるにや首をはね候なるに一番の太刀は中より三に折れて、また次のたちは目ぬきより折て、盛久が頸はきれず候よし申て候とて盛久を召返されたり、

兵衛佐殿、信伏の首をかたぶけ手を洗ひ口をすすぎ御直垂めして盛久に抑、いかなる宿願ありて清水寺へは参り給けるぞ、奇特瑞相をあらはす不審なりと仰らるに殊なる宿願候はず等身の千手観音を造立し奉て清水寺の観音に並べ参らせて内陣の右の脇に立奉て千日、毎日参詣をとぐべき由、宿願候て既に八百余日参詣し今二百余日を残して召捕られ候とぞ申ける、右兵衛佐殿、所帯はなきかと問給へば、紀伊国に候しかども君の御領に罷成て候と申す、さぞ候らんと仰られて、件の所帯は、ながく相違有べからずと安堵の御下文たびて、もとのごとく還補すべきよし仰られて是を返さるる上、龍蹄一疋に鞍置て是を給はる、北条四郎時政に仰て越前国池田の庄をもて、法住寺仙洞を造進せらるる其奉行せしむべきよし、かさねて御下文をたまはる、これは文治二年丙午六月廿八日の事なり、盛久頸をつなぐのみならず本領を返給ふうへ越前国池田庄を賜るも、これひとへに清水寺観音の御利生なり、

盛久同七月下旬のころ帰洛して宿所へは落つかず、先清水寺に参詣して本尊を拝し奉て御利生の忝につけて泪かきあへず、当寺の師匠の良観阿闍梨に、由井が浜にて頸きられんとしける事を、なくなく語り申に、良観も泪をながし去六月廿八日午の刻に御辺の安置し奉り給たりし本尊、俄に倒れおはしまして御手二つに折れぬ、一寺奇特の思ひをなしつるに、さては遼遠の道を分て信敬の人を資給つる御志、誠に上代にも超たり、新造の観音の御利益、古仏身にすぐれたりと仰がぬ貴賎上下はなかりけり

盛久は千手観音を造立し、清水寺の本尊の右脇に安置して、白直垂に裸足で千日参りをしていた所、下女が密告し、北条時政により捕えられた様です・・・鎌倉に連行され梶原景時の取り調べを受けていますね・・・
そして土屋三郎宗遠が首を刎ねる事になります!
観音霊験記 清水寺 左の画像は【観音霊験記】という物で、西国、坂東、秩父の観音霊場を錦絵で紹介した当時のガイドブックみたいな物ですね・・・それぞれ境内図と逸話が描かれています!
『西国三十三観音 第十六番 清水寺!』
修学旅行で行ったなぁ・・・懐かしい!
アホみたいに混んでいた思い出しかありませんけど・・・
現在はもっと混んでますし行きたくない寺ランキングの上位に位置している寺です!(笑)

由比ヶ浜でまさに首が切られようとしたその瞬間、
振り上げた刀が3つに折れ、次の太刀は目貫から折れ、
富士の裾野から盛久に2筋の光が差すという不思議な現象が起こります・・・
宗遠は処刑を中断し頼朝に事の顛末を告げます・・・
ちょうど妻の政子から、清水寺のあたりに住む墨染の衣を着た老僧が夢に現れ、盛久の斬罪を枉げて宥すよう頼んだという話を聞かされた頼朝は、盛久を召して詳しい事情を聞いてみる事にします!

盛久は清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた事を話します・・・
頼朝はまた所領の事を訊ねたので、盛久は紀伊国に荘園を所領していたが、平家没官領として頼朝の手に帰している由を述べました・・・
頼朝は盛久の旧領の荘園を返還する事を約束し、所領安堵の下文を与え、都に帰るための馬1匹を贈りました・・・
更に頼朝は、後白河法皇の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡の池田荘を盛久に与え、その収益で法皇の御所を造営させるよう北条時政に命じました・・・

都に戻った盛久は、宿所に行くより先に清水寺に参詣し、涙を流しながら本尊を拝み、良観阿闍梨に事の次第を話して聞かせました・・・良観も涙を流しながら語ります・・・
去る6月28日の午の刻、盛久が安置した千手観音像が急に倒れその手が2つに折れたので、寺では大変不思議に思っていましたが、遥か鎌倉の地にあった盛久を救う為であった事が分かったと!
都の人々はこの話を聞き、新造の千手観音の御利益は古くからの仏に勝っていると、この新仏を尊んだとの事です!

上の錦絵では刀が3つどころか5つに折れていますね(笑)
何にせよ盛久の命が救われたのは事実であります・・・ついでに【新編鎌倉志】も見てみましょうかね・・・

【盛久頸座】
盛久が頸の座は、塔の辻の道より南、畠の端に芝野六七尺四方取り残して有。【長門本平家物語】巻に、主馬の入道盛國が末子に、主馬の八郎左衛門盛久、京都に隠れ居けるが、年来の宿願にて等身の千手観音を造立して、清水寺の本尊の右の脇に奉置、千日参詣す。右兵衛の佐殿、北條の四郎時政に仰られ、盛久京都に隠れ居たる由聞へければ、北條京中を尋ね求めけれども、更に尋ね不得。或る時下女来て、誠にや盛久は、清水寺へ夜ごとに詣で給ふなりとぞ申したる。北條悦んで、清水寺の邊に人を置き、窺ひ見せ、盛久を召し取つて、右兵衛の佐殿へ奉る。

盛久已に鎌倉に下著す。梶原景時、仰を承つて、心中の所願を尋ね申すに、子細を不述。盛久は平家重代相傳の家人、重恩厚徳の者也。早く斬刑に隨ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰せて、首を刎らるべしとて、文治二年六月二十八日に、盛久を由比濱に引すゆ。盛久西に向て念佛十邊許申しけるが、如何思ひけん、南に向て又、念佛二三十遍許申けるを、宗遠大刀を拔き頸を打つ。其の太刀中より打ち折れぬ、又打太刀目貫より折れにけり。不思議の思ひをなすに、富士のすそより光り二筋、盛久が身に當りたるとぞ見へける。宗遠使者を立て、此由を右兵衛の佐殿に申す。

又、右兵衛の佐殿の北方の夢に老僧一人出で来て、盛久斬首の罪に當てられ候が、枉げて宥免候ふべき由申す。
北方、誰人に御座するぞ。僧申されけるは、我は清水邊に候ふ僧なりと申すと覚へて夢さめて、右兵衛の佐殿に此の 由申さる。此に因つて盛久を召し返へされたり。右兵衛の佐殿、所帯はなきかと問ひ給へば、紀伊の國に候ひしかども、君の御領にまかり成て候ふと申す。安堵の御下文を給るとあり。又【東鑑】に、大夫の尉伊勢の守平の盛國入道、去年召し下され、文治二年七月二十五日、断食して死す。是下総の守季衡が七男、平家の氏族也とあり。此盛國は、盛久が父にはあらず。盛久が父の盛國が為には叔父なり。盛久父子の事は、【東鑑】に不見。

頑張って紹介していますねぇ~長門本を引用してるだけですけど(笑)
最後の方に、断食して果てた盛国盛久の父ではなく叔父である、と記してますがどーゆー事なんでしょうか?
【吾妻鏡】も見てみましょう!

文治2年(1186)7月25日 庚子
大夫尉(伊勢守)平盛国入道去年召し下され、岡崎平四郎義實(三浦の介義明舎弟)に預けらるるの処、日夜無言、常に法華経に向かう。而るにこの間断食、今日遂に以て帰泉す。二品これを聞こしめ給い、心中尤も恥ずべきの由仰せらると。これ下総守季衡七男、平家の氏族なり。去る承安二年十月十九日出家を遂ぐ。今年七十四と云々。

経を唱え断食して果てた盛国・・・それを聞いた頼朝は、そんな人物を預かり囚人などにしていた事を恥じています・・・
この盛国が世間一般的に盛久の父とされているんですが、【新編鎌倉志】の記述は謎であります!?
養子なんて話も無いですし・・・まぁいいか・・・調べるのもメンド臭いし(笑)
主馬盛久之頸坐4 主馬盛久之頸坐5
庚申供養塔 文化六年巳年九月吉日(1809) 庚申塚 文化十四年(1817)
主馬盛久之頸坐6 主馬盛久之頸坐7
庚申供養塔 嘉永四年亥二月(1851) 念仏講供養塔 享保五子年九月十五日(1720)
石碑の周りには庚申塔や念仏講供養塔などが並んでいます・・・これらの石塔は現在歩道より一段上に安置されていますが、以前は歩道に置いてあり、足で踏んだりすると祟りがあるといわれていたそうです・・・
確かに『盛久頸坐』なんていわれると何か雰囲気ありますよね・・・
でもココに首が埋まっている訳ではなく、むしろ命拾いした奇跡の地なんですけどねぇ・・・
碑文を読まなければ首塚だと思ってしまいますよね?・・・そーゆー方、結構いるんじゃないでしょうか?(笑)
主馬盛久之頸坐の看板 古い道案内の看板も建っています・・・
中々味のある古看板です!
正宗稲荷の所にも同じのがあった様な?
でもコレ・・・ちょっと位置関係がおかしいですね?
確かに雰囲気はいいんですけど、機能してない看板は撤去した方がいいのでは・・・
由比ヶ浜通りに平行に建てられているんですけど、コレはおかしいなぁ・・・反時計回りに90度回転させれば問題ないんですけど・・・
マップを作成!・・・長楽寺ヶ谷甘縄神明神社の東隣りの谷戸で長楽寺のあった所ですから主馬盛久之頸坐からだとちょうど北側になるんですよね・・・だもんでこの看板には違和感を感じてしまいます・・・
ちなみに看板の通りに進むと300m地点は塔之辻500m地点は長谷観音前交差点を過ぎたあたりでした・・・
海岸なんてねーぞっ!騙したなコノヤロー!(笑)・・・長谷寺の放生池で泳いでやるっ!

微妙な看板にやられてしまいましたが、気を取り直して!
盛久を救ったという清水寺に祀られた千手観音ですが、現在はドコにあると思いますか?
中古倭風俗旧幕大藩の姫君上野清水御花見之図
上の画像は歌川国貞による【中古倭風俗旧幕大藩の姫君上野清水御花見之図】であります・・・
華やかですなぁ・・・そう、上野の寛永寺、清水観音堂です!
奥には不忍池も描かれています・・・この清水観音堂は奇跡的に戦禍を逃れ当時の様相を保っております!
現在もコレと同じ風流な風景を楽しむ事が可能です!・・・本家を意識した造りですねぇ・・・

そして盛久の千手観音は現在はココの本尊であり秘仏となっております・・・

この盛久受難身代わり観音は初午厄除大祈祷会が執り行われる時だけ御開帳となります!・・・堂内撮影禁止です!
恵心僧都の作だそうです・・・【平家物語】では盛久が造立した様な感じになってますけど?
その辺はどーなの?・・・恵心僧都が作った物であるなら、盛久が生まれる前から観音はあった事になりますね・・・
どーも細かい所が気になってしまいます・・・でも調べるのメンド臭い・・・放置!(笑)

さてさて盛久は都でその生涯を終えたんでしょうか?・・・調べているととんでもない情報が・・・
盛久は南に下り、硫黄島から屋久島に渡る途中、船中で病により亡くなり、歌江川尻(春田浜)に流れ着いた・・・
先着していた一族に葬られたが、その後、神のお告げによって現在の牧野に移し戦の守り神として長く住民の崇拝するところとなったとの事・・・

なんと、当地には盛久権現社なる物がある様です!・・・マジっすかぁ?(笑)
確かにあるみたいです・・・けど屋久島まではちょっと行けないなぁ・・・盛久よ!何故都にとどまらんかった?

屋久島も世界遺産登録となってからは大変らしいですね・・・大勢の観光客が押し寄せてゴミやトイレ問題、山道の破壊などなど・・・別に日本に自然遺産はいらないでしょ?・・・土地狭いんだしさぁ・・・
ホントに自然を愛す人だけが知ってるヒミツの場所的な立ち位置がいいんじゃないかな・・・ねぇ?・・・
わざわざ屋久島まで行かなくても、もののけ姫の森レベルなら近場で似たような所結構ありますよ・・・

それにしても戦の守り神とは・・・盛久は源平争乱に於いても特に目だった武功とかは無いんですけどね・・・

おまけ


由比ヶ浜で盛久の首を斬ろうとした土屋三郎宗遠なる人物は中村宗平の息子で、現在の平塚市土屋の地に館を構えた人物です!・・・土屋は丹沢方面へ遊びに行った帰り道に、気分転換でたま~に通ります(笑)
土屋の館跡と一族の墓
謡曲の【七騎落】などでも有名な人物です・・・
頼朝が石橋山の敗戦後に小舟で安房に逃れる際に最後までお供した7人のひとりです!

土肥実平・遠平親子、岡崎四郎義実、新開次郎忠氏、安達藤九郎盛長、
土屋三郎宗遠、田代冠者信綱
頼朝を入れて合計8人ですね!
ココで頼朝は祖父為義が九州へ落ちた時も8騎であり、父義朝が近江へ敗走した時も8騎であったことを思い出し、不吉な数だから誰か1人を降ろすように命じます・・・

リーダーの実平は最年長の岡崎義実に降りる様にいいますが義実は承知しません!
『自分は石橋山で息子の佐奈田与一義忠を失ったばかりだぞ!お前には息子が2人もいるではないか!』
とちょっと理不尽気味に反論し、実平も何故か納得して自分の息子の遠平を降ろす事にします・・・
義実ワガママだなぁ・・・黙って降りろよぉ・・・(笑)
一族を逃がす為に独り衣笠城に残った兄である三浦大介義明とは大違いですね・・・
まぁ、こちらも老齢で足手まといの義明を一族が見放したって見解もありますけどね・・・

真鶴から船を出し陸を見ると、平家の軍勢が多数見えました・・・実平は息子の命もこれまでかと悲嘆します・・・
まぁ、翌日海上で遭遇した和田義盛が何故か遠平を救い出していたんですけどね・・・

謡曲【七騎落】では、安達盛長の代わりに当時人気の高かった土佐坊昌俊が加わる場合が多いみたいですね!
まぁ、ガッツリと見た事はないんで詳しい内容は分かりませんけど(笑)
謡曲とか何言ってるのか分かんないからなぁ・・・友人にも好きな奴いるけどホントに理解出来てんのかな?

外人が何も分からずに取り敢えず侍、忍者、芸者が好きなのと同じなんじゃないのかなぁ?(笑)

おしまい
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