ブログ 塔之辻タイトル
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寸松堂 由比ヶ浜通りのランドマーク的存在である寸松堂
鎌倉彫の店舗ですが、寺院建築を彷彿とさせるそれは立ち並ぶ商店の中でも一際異彩を放っています・・・

当然、景観重要建築物の指定を受けています!
その向かい側、三叉路の角に塔之辻といわれる物があります!
辻に建てられているので塔之辻です・・・いや、塔の建っている辻だから塔之辻なのかな?・・・まぁいいや(笑)
とにかくそこに塔之辻があるんです!(笑)
良く見てないと普通に見逃してしまいますが、塔之辻は【吾妻鏡】にも度々出て来る歴史ある代物です!  
塔之辻 塔之辻2
五輪塔の残骸を掻き集めたような感じの石塔です・・・石の材質が違うのでテキトーに集めた感は否めません・・・
塔之辻の史跡碑があるんですが、道路渡って寸松堂の脇道を入った先なんで少し離れています!
この脇道は一直線に銭洗弁財天まで続いている道なんで結構使えるんですけど、何故かあまり利用する人がいない様な気がします・・・何もないし観光には向いてないのは確かですけど・・・色んな道と繋がっているので結構利用価値の高い道だと思います・・・

さて、塔之辻ですが・・・横に石碑が建ってればまだ分かり易いと思われますが・・・こんなんだけ見せられても全く意味が分かりませんよね?・・・ずっと見てると腹が立って来ますよ!(笑)

佐々目ガ谷ノ東南ニ方リ路傍二所ニ古キ石塔建テリ 辻ニ塔アル故ニ塔之辻ト言フラン 傳ヘ云 昔由比ノ長者太郎太夫時忠ノ愛兒三歳ノ時鷲ニ攫ハレ追求スレドモ得ス 父母ノ悲痛措ク処ヲ知ラズ 散見セル片骨塊肉ヲ得ルガママニ是レヤ吾児ノ骨彼レヤ吾児ノ肉カト思ヒツツ所在ニ塔ヲ建テテ之ヲ供養シ以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉諸処ニ塔ノ辻ト言フ処アリ 此処モ其ノ一ナリト 或ハ言フ往時ノ道標ナラント 未タ其ノ何レカ真ナルカヲ知ラス
                                             昭和四年三月 鎌倉町青年團

辻に塔があるから塔之辻・・・らしいですね!・・・スッキリしました!
由比の長者染屋時忠が出て来ました・・・三歳になる時忠の子が鷲にさらわれ、悲痛に暮れる両親は道端にある骨片や肉塊を見るにつけ、我が子の物ではなかろうかと思いつつ塔を建てて供養した・・・有名な話ですね!
塔之辻が鎌倉のいたる所にある由縁はコレである、または単なる道標ともいわれているが、どれが真実かは分からないといっています・・・
二箇所に建っていたとありますが、石碑が建てられた昭和の始めにはあったんでしょうか?
現在、塔之辻は唯一コレだけであります!

【新編鎌倉志】も見てみましょう!・・・第五巻です!
【塔辻】
塔辻は、佐佐目谷の東南道端に、二所に石塔有り。鎌倉に此の類の塔多し。辻にあれば塔辻と云。
建長寺・圓覚寺の前、又、雪下鉄觀音の前、又、小町口にもあり。【東鑑】等の古記に塔の辻と指すは皆小町口を云なり。里俗の云、由井の長者太郎大夫時忠と云ふ者、三歳の兒を鷲につかまれ、方々を尋ね求めて、道路に棄てたる骨肉のある所ごとに、是や我が子の骨肉ならんかとて、菩提の為に立たる石塔也。是故に所々に塔の辻と云所ろ多しと。今按ずるに【詞林採草抄】に、大織冠の玄孫に、染屋の太郎大夫時忠、南都良辨の父也。文武天皇の御宇より、聖武天皇の御宇に至るまで鎌倉に居住し、東八箇國の総追捕使となりて、東夷を鎮むとあり。是ならんか。然れども未詳。良辨の父とはいへども、【元亨釋書】にも不載。【釋書】に、良辨は近州志賀の里人、或は相州の人とも云ふと有。又、鷲につかまれし事もあれば、相ひ似るにや。

そして同第七巻にも記されています!
【塔辻】
塔の辻は、寶戒寺の南の方、路の傍に石塔あり。卑俗、北條屋敷の下馬なりと云傳ふ。按ずるに【太平紀】に、高時滅亡の時、安東左衛門入道聖秀、いざや人々とても死せんずる命を、御屋形の焼け跡にて心閒に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がんとて、討ち残されたる郎等餘騎を相ひ従へて、小町口へ打ち莅む。先々出仕の如く、塔の辻にて馬より下ると有。寶戒寺は北條屋敷なれば、此邊下馬と見へたり。此の外に鎌倉中に塔の辻と云所多し。
第五巻にも出でたり。然れども【東鑑】、【太平記】、【鎌倉九代記】等に塔辻と指すは此所ばかりなり。

やっぱり二箇所にあったといっていますね・・・建長寺や円覚寺などにもあったといってます!
古い文献では塔之辻というと小町口を指すともいってます・・・確かに塔之辻は宝戒寺の前あたりにも在った様で、【吾妻鏡】等では宝戒寺辺りを塔之辻と表記する事が多いです!

そして鷲にさらわれた時忠の子の話・・・
時忠はココに書いてある通り藤原鎌足の玄孫で関東八箇国の総追捕使だったとされています・・・

そして・・・良弁(ろうべん)が出て来ましたね・・・良弁といえば奈良の大仏で有名な東大寺の開山として知られる人物です・・・また、良弁は金鷲行者ともいわれています!
最後の鷲につかまったという話は沙石集などに見られる良弁の話かと思われます・・・
弁が二歳の頃、母が目を離した隙に鷲に攫われ奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっている所を義淵に助けられて僧となり、三十年後に観音菩薩の結縁により母子が再会したという話です・・・

こんな話もあります!
ある日時忠が息子を庭で遊ばせていると、突然金色の鷲が飛んで来てその子をつかんで飛び去ってしまった・・・
時忠は悲しんで息子を捜したが、とうとう見つからなかった・・・

その頃、奈良に覚明という僧がいました・・・
覚明は立派な寺を建てようと良い土地を求め山中を歩き回っていました・・・山中で、覚明がふと上を見上げると、1本の楠に、金色の鷲が子を咥えてとまっていました・・・何とかして助けたいと思いましが、鷲を驚かせば遠くへ飛んで行ってしまうかもしれないし、鷲が子を放せば地に落ちて死んでしまう・・・悩んだ覚明は寺へ戻って一心に祈りました!

七日後、ドコからともなく1匹の猿が現れ、子を無事に木の上から下ろしてくれました・・・
覚明はこの子を金鷲童子と名付けて育てました・・・

長い年月が経ちましたが時忠夫婦は我が子を諦め切れず、その後も手を尽くして捜し続けていました・・・
そんな時、奈良東大寺の別当
良弁僧正は幼い時鷲に育てられたという噂を耳にします!

時忠夫婦は東大寺を尋ねます・・・そして良弁僧正に取り次いでくれる様に頼みましたが、ドコの誰かも知れぬ物に会わせる訳にはいかないと断られてしまいます・・・
そこへ良弁が通りかかりました・・・すると突然五色の光が差します!

良弁が驚いて光の差す方を見ると、そこには時忠夫婦がいました!
良弁は夫婦に言葉を掛けます・・・ 話を聞くうちに良弁は夫婦が自分の両親であることを悟ります・・・

こうして親子は、何十年という年月を経て再会を果たしたのでした!

って話です・・・鎌倉中にあんだけ塔を建てて置いて、実は死んでなかったなんて何の供養になったのかな?(笑)
鷲に関連してのこじつけ感がありますね・・・でも年代を考慮すると良弁の父が時忠ではないとは言い切れません!
親子が再会できて良かったねで終わるのもホッコリしててイイかも知れません・・・

塔之辻から長谷方面へ進み、文学館入口の交差点を由比ヶ浜駅方面へ曲がり少し行った所に石碑があります!
染谷太郎大夫時忠邸阯
染屋太郎大夫時忠邸阯
染屋太郎大夫時忠ハ藤原鎌足ノ玄孫ニ當リ南都東大寺良辨僧正ノ父ニシテ文武天皇の御宇(皇紀一三五七~一三六二)ヨリ聖武天皇ノ神龜年中(皇紀一三八四~一三八八)ニ至ル間鎌倉ニ居住シ東八箇國ノ総追捕使トナリ東夷ヲ鎮メ一ニ由井長者ノ稱アリト傳ヘラルルモ其事蹟詳ナラズ此処ノ南方ニ長者久保ノ遺名アルハ彼ノ邸址ト唱ヘラル尚甘縄神明宮ノ別當甘縄院ハ時忠ノ開基ナリシト云フ
           昭和十四年三月建 鎌倉町青年團
天照大神を祀る甘縄神明神社は社殿によると和銅3年(710)、行基が草創し、染屋時忠が建立したと伝わる鎌倉で最も古いとされている神社です・・・山頂に神明社、麓に円徳寺が建立されたそうです!

現在の住居表示からは消滅していますが、甘縄という地名は【吾妻鏡】には度々出現します・・・
その範囲は東は笹目、北は佐助、無量寺ヶ谷あたりまで・・・近世には甘縄の一部と深沢の一部が長谷村となります!
源頼義が祈願して八幡太郎義家を授かった事に因んで、甘縄神明神社は源氏と深い関わりのある神社として将軍家も度々訪れた記録がある事から、いかにこの地を重要視していたかという事が伺えます・・・
【吾妻鏡】で『甘縄之家』といえば安達家の館の事です!
辻薬師堂 辻薬師堂2
上の写真は大町にある辻薬師堂です・・・別につながりで紹介した訳ではありませんよ!(笑)
元々は医王山長善寺という寺の薬師堂でした・・・
長善寺は始め現在の名越のトンネル付近にあった様ですがココへ移転、更に横須賀線の開通に伴い本堂は取り壊され現在の辻薬師堂だけが残ったという経緯があります!(参照:鎌倉廃寺事典)
写真もちょうど横須賀線が通過していますね(笑)・・・あの線路上に本堂があったって事ですね・・・

堂内には薬師三尊十二神将2躯、不動明王がいらっしゃいます・・・誰だか知りませんがオッサンの像もあります!
左下の穴から賽銭を投げ込むと、しばらくの間ライトが点いて鑑賞する事が出来ます!
賽銭入れようと手を突っ込んだだけでライトが点きました(笑)
でも、現在ある像は複製品で本物は鎌倉国宝館に寄託されています・・・平安時代の作といわれる薬師如来・・・
それに十二神将像は鎌倉最古といわれています!・・・こんなトコに置いといたら速攻で盗まれますね!(笑)

ちなみに有名な覚園寺の十二神将像はココのを真似て造られたといわれています・・・

扉に説明書きが貼ってあるんですけど、
当薬師堂の本尊である薬師如来(訳詞瑠璃光如来または大医王仏とも言う)立像は、鎌倉に現存する数少ない平安仏の1体で『行基』の作と伝えられている。

行基また出て来たよぉ・・・今度は薬師如来彫ったんですか?・・・へぇ~凄いですねぇ・・・
それより行基(668~749)はモロに奈良時代の人物なんですけど・・・平安仏って(笑)

胎内名札研究の結果、この薬師如来は元々は二階堂にあった東光寺の本尊であった事が判明していると記されていました・・・
医王山東光寺といえば二階堂の永福寺の傍らにあった薬師堂が前身ではないか?・・・との説があります・・・
護良親王淵辺義博に殺害された所で、現在、跡地には鎌倉宮が建っていますね!
確かに医王という山号からその可能性は高いかも知れません・・・あそこの本尊だったのか・・・へぇ~・・・

さてこの名越の長善寺ですが、染屋時忠が鷲にさらわれた我が子の遺品(衣類の切れ端)が見つかった場所に建立したと伝わります・・・
時忠の鷲伝説にまつわる場所は鎌倉に数多くあります!
来迎寺 来迎寺2
メジャーな所では西御門の来迎寺でしょうか・・・如意輪観音像で有名な寺ですが、まさにその如意輪観音像の胎内に時忠の子の骨が収められていたという話があります・・・
足利家の子の骨だとする説もありますが、現在もその骨は寺が管理保管しているそうです・・・
如意輪観音像は南北朝期の作の様で、光福寺頼朝法華堂を経て来迎寺に安置されたと伝わります・・・

骨があるという事は当然死んでますから、この説を採ると時忠と良弁の話は成立しなくなりますね!
そもそも鷲にさらわれたのは時忠の娘って話だし(笑)

他にも多聞院の岡野観音、妙法寺の鷲宮(関東大震災で全壊)、六国見山の稚児墓などなど・・・
魔の淵地蔵 そして『岐れ路』の交差点から鎌倉宮まで続く道沿いにあるこの地蔵菩薩・・・魔の淵地蔵と呼ばれています!
横を流れる川はその昔、魔の淵と呼ばれ青黒い水が流れ、多くの人がココに棲む魔物に襲われたため、杉本寺の住職がココにお地蔵さまを安置したという話です・・・

また一説には、染屋時忠の子が鷲にさらわれた時にその血がしたたり落ちていた場所ともいわれています・・・
魔の淵なんて怖いネーミングですねぇ・・・
結構好きな道なんで良く通るんですけど、魔物に襲われたらどーしましょ!?・・・取り敢えず殴るけどさぁ(笑)

塔之辻ですが江戸時代の古絵図によると、市内7ヶ所に点在していた様です・・・
建長寺、円覚寺、浄智寺、鉄観音堂鉄ノ井、宝戒寺、下馬、笹目・・・

【鎌倉攬勝考】を見てみましょう!
【塔ノ辻】
鎌倉中所々の路端に有。古く大ひなる石の塔、其形は全からねは知ざれども二重の塔の如きもの歟。當所の山より切出せる柔石なれば皆剝落せり。其在所は小町の北堺に一ケ所あり。古えは大倉辻と唱え、町免除の事は前篇に記せり。其以来は塔の辻と唱ふ。又、建長寺、圓覚寺の門前と浄智寺の前にもあり。其餘雪の下又、鉄觀音の前と佐々目谷の東南の路端に二つあり。今見る處七八所なり。土人等が他所の者の舊跡を遊覽するを郷導して此石の塔の事を語るを聞に、むかし由比の長者といふもの三歳なる兒を鷲にさらはれ所所を尋求しに道路に骨肉の落てありし毎に菩提の為とて建たる石塔なりといふも妄説の記取にたらず。

(下馬塔ノ説)
又、一説には當所の寺社等に門制札といふものなきゆへ此塔は下馬塔なりといふ。是も用ひがたし。
又いふ、土人等が小町口の塔は御所幷執権館舍の下馬塔なりといふと、少敷其據あるは【太平記】に元弘三年五月廿二日、安東左街門入道聖秀いざや迚も死すべき命なれば、御屋形の焼跡にて心閑に自害して鎌倉殿の御恥をすすがんとて討残されたる郎徒百餘騎を従へて小町口へ打望み、是迄出仕の如く塔の辻にて下馬すとあり。あれば常に此塔の邊にて下馬せし事なる由、夫ゆへ下馬塔ともいひけるにや。

【太平記】の『安東入道自害の事』・・・稲村ヶ崎で敗れ、北条屋敷へ帰参した時には既に屋敷は焼け落ち、一族は東勝寺に逃げ落ちていた・・・安藤聖秀は屋敷では誰一人として自害した者はいないと聞き口惜しがります・・・その直後に新田義貞の妻から投降を勧める使者が来ましたが、聖秀は恥辱である降伏を拒否し、自害する事を選びます・・・

『一度は恨み一度は怒り彼の使の見る前にて其の文を刀に拳り加へ、腹掻切りてぞ失せ給ひける』とあります・・・

武士ですなぁ・・・安東聖秀は義貞の妻の伯父にあたる人物です!


先程の【新編鎌倉志】にもありましたが、『下馬塔説』が出て来ましたね・・・
下馬塔は格式の高い寺院の門前などに置かれていました・・・貴賤問わず、これより先は馬を下りよというサインです!
鎌倉では五山に置かれていました・・・現在でも残っています!・・・見て行きましょう!
建長寺下馬塔 建長寺下馬塔2
取り敢えず第一位 巨福山建長興国禅寺から・・・ってアレ?・・・ないぞっ!
西外門(天下門)の所にあったと記憶してますが?
移動されたのか撤去されたのか?・・・多分境内のどっかにあるとは思いますが・・・
つ~わけでかつての建長寺下馬塔を現在の写真へ合成してみました・・・間違い探しみたいになっちゃったな(笑)
こんな感じの配置で更に後ろには文学案内板か何かが建っていたと思います!

以前は地面が土だったし・・・多分アスファルト舗装された時にどっかへ移されたんでしょう・・・
そーいえば建長寺って自分はおよそ訪れる機会の無い寺だなぁ・・・知らない内に色々と変わって行くんですねぇ・・・
観光客多いし、無駄に広くて疲れるし・・・
ちょっと敬遠してましたが、宝物風入れも近いし今度久し振りに行って見ようかな?
円覚寺下馬塔 円覚寺下馬塔2
次に第二位 瑞鹿山円覚興聖禅寺です・・・これは合成じゃないですからね(笑)
白鷺池の畔、参道沿いに建っています・・・中々風格を感じさせる代物ですね・・・
この物言わぬ塔が数多の歴史を見て来た事実は疑う余地も無さそうです!・・・微妙に斜めってるけど大丈夫かな?
寿福寺下馬塔 寿福寺下馬塔2
続いて第三位 亀谷山寿福金剛禅寺です・・・自分はこの寺の参道が鎌倉で一番好きです!
総門、中門、仏殿と一直線に繋がっていますが、残念ながら中門から先は非公開となっております・・・
鎌倉五山で唯一入山料が無料な寺で、気軽に訪れる事が出来るのも貧乏人には嬉しい!(笑)
確か正月とGWは仏殿も公開してたかな?・・・まぁ人多いし行かないですけどね・・・
ちなみに神仏分離で鶴岡八幡宮にあった仁王像はココへ移され保管されています!

しかしこの寿福寺下馬塔・・・何か形が卑猥ですね(笑)・・・総門潜る前に煩悩を植え付けられそうです・・・
海蔵寺下馬塔 海蔵寺下馬塔2
そして第四位 金宝山浄智寺・・・ですが、浄智寺には現在下馬塔はありません!
江戸期には大分衰退していたという話も聞きますが古絵図にはちゃんと下馬塔が描かれていました・・・
でも道の反対側だったのでもしかしたら明月院の物って可能性は?

そんな感じなので代わりに山ひとつ向こうの扇谷山海蔵寺の下馬塔をお送りします!(笑)
61年毎に胎内仏が開帳される児護薬師が有名な寺ですが、その薬師堂は浄智寺から移築された物です!
そん時ついでにこの下馬塔も持って来たって事はないですかね?・・・ないか・・・

扇ヶ谷の最奥部に位置していますが、見所が多いので観光客の脚が絶えない寺です!

浄智寺から海蔵寺へは直線距離だと500m位ですが、実際行くとなると亀ヶ谷坂を越えて来るか、裏山のハイキングコースを通り源氏山から仮粧坂を下りて来るかの2択になると思います・・・どちらもかなり大回りです・・・
でも浄智寺裏山からそのまま扇ヶ谷へ下りる道もあるんですよぉ~!
結構険しい道なので年配の方にはキツイかもしれませんが、かなりの時間短縮になります!
ゆったりと巡るのが一番だとは思いますけどね・・・
浄妙寺下馬塔 浄妙寺下馬塔2
最後に第五位 稲荷山浄妙寺です・・・ココの下馬塔は他の物とは少し形状が違いますね・・・
他のもそうですが、いわゆる鎌倉石で造られているので風化が激しいです・・・

鎌倉の下馬塔を紹介させて頂きましたが・・・どーでしたか?
普段は大きな門に目が行ってしまいその存在にすら気付かない、または気付いても記憶に薄いという代物かも知れませんが、下馬塔はココで敬意を払えというサインです!
その事を認識し、訪れた寺院では門を潜る前に一度敬意を払うのが本道かと思います!

これが染屋時忠が我が子の供養の為に建てた塔であるという説は、俄かには信じ難いですがロマンを感じますね・・・

おまけ


足利貞氏墓 足利貞氏墓2
浄妙寺の墓地の一画には足利貞氏の墓と伝わる宝篋印塔があります・・・
浄妙寺は文治4年(1188)に足利義兼が退耕行勇を開山として建立した極楽寺という密教系寺院が始まりで、後に月峯了然が住持になった際に臨済宗に改宗され浄妙寺と改号されたそうです・・・
貞氏は中興開基した人物です・・・いまいちマイナーな人物ですが、報国寺を建てた足利家時の息子であり、足利尊氏の父であります・・・

宝篋印塔の基礎部には磨滅していてほとんど読めませんが、
奉造立 石宝篋印 塔一基 右志趣者 預□当 来苦報 逆修滅 後善根 御願一既 霊地□ 現無辺 
罪滅悉 陰□□ □□□ 種智都 也 明徳三 □□申 二月廿四日 預修一□ 結諦□

と刻まれているそうです・・・つまり、明徳3年(1392)2月24日に建てられた逆修塔であるという事が分かります!
逆修塔とは【瓶ノ井】のページでも述べた様に生前に建てる供養塔です!
という事は、この宝篋印塔の願主は明徳3年2月24日の時点で存命していないと意味がありません・・・
しかし貞氏の没年は元徳3年/元弘元年(1331)・・・60年以上前に亡くなっています!

おかしいですねぇ・・・これらの事実だけから考えるとこの宝篋印塔が貞氏の墓である可能性は0%ですよね?
場所柄から足利氏関連の物件である可能性はかなり高いとは思いますけど貞氏の墓といわれると・・・?・・・

『足利貞氏公の墓』と書かれた札が堂々と立っています・・・
石造宝篋印塔(明徳三年銘 伝足利貞氏墓)一基、と市の文化財である事を示す柱も建っています・・・
こちらはが付いていますね(笑)

【新編相模国風土記稿】には『元弘元年(1331)九月五日讃岐守貞氏卒しければ荼毘して当寺に塔を建つ』との記述が見えます・・・貞氏の墓が建てられたのは確かな様です・・・

考えられるのはこの宝篋印塔が寄せ集めで形成されているのではないか?・・・という事ですね!
良く見ると部分ごとに石の質感が明らかに違います!・・・年代もバラバラでしょう・・・
そー考えれば銘の刻まれた基礎は違うとしても、他の部分のどれかは貞氏の墓の一部であった可能性が出て来ます!

立札を見て、足利貞氏の墓かぁ・・・へぇ~そーなんだぁ!』・・・で終わりでもいいと思います、でも調べてみれば墓ひとつにしてもこれだけの隠れた事実が詰まっているんです・・・奥が深いですね!

おしまい
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