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紫陽花寺として有名な北鎌倉にある明月院の開山堂の横にあります・・・別名『甕ノ井』とも言います!
左の写真が開山堂、右が瓶ノ井です・・・
岩盤を垂直に堀り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがある事から『瓶ノ井』と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。
と案内板にあります・・・
単に二つの瓶(つるべ)を使って水を汲む事から瓶ノ井と呼ばれているとも聞きます・・・
【新編鎌倉志】には『瓶の井 院の後ろにあり。鎌倉十井の一つなり。』・・・とあるだけです・・・ |
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向かい側には上杉憲方の墓と伝わる明月院やぐらがあります・・・このやぐらは間口約7メートル、高さ3メートル、奥行き6メートルと、現存するやぐらの中では鎌倉最大のものであります・・・
残念ながら入れませんけどね・・・
十分住めそうな広さです・・・壁面には基壇が設置され、釈迦如来、多宝如来が浮き彫りにされてます!
また、十六羅漢像も彫られている事から、別名『羅漢堂』とも呼ばれています・・・
中央に宝篋印塔が祀られていて、これが上杉憲方の物だといわれています・・・ |
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左の絵図は【新編鎌倉志】における明月院の図です!
赤い円で囲った部分・・・山をくり抜いたトンネルみたいな中に何かありますね?
画質が悪くて読めないと思いますが、
『上杉道合石塔』と書いてあります・・・
道合は憲方の法名であります・・・右には明月院、下には禅興寺が描かれていますね・・・ |
何百年も前の物が、現在も同じ場所に残り、かたや禅興寺は無くなり今は塔頭の明月院を残すのみ・・・
古地図などを見ていると、時の流れ、時代の分れ道、盛者必衰・・・何か大げさになって来たな・・・
とにかく面白いです!
そんな上杉憲方ですが、鎌倉にはもう一つ彼の墓と伝わる石塔があります・・・是非行ってみましょう!
星ノ井から極楽寺坂をぐんぐん登ります・・・ この坂は昔はもっと急な坂だったらしく、荷車を押して上るのを手伝い小遣いを稼ぐ子供達がいたと聞きます・・・
確かに押してくれるなら金払うかな?・・・しかし昔の子供達はたくましいですね・・・
何かの本で読んだ記憶がありますが詳しくは忘れました失礼・・・
現在も十分急な極楽寺坂ですが、頑張って登りきると分れ道になっています・・・
真っ直ぐ行くと稲村ケ崎、右には江ノ電の線路上に架かる桜橋があり、渡って左には極楽寺があります!
桜橋からは最近景観重要建築物に指定された極楽洞が見えます・・・要は江ノ電のトンネルです・・・ |
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この極楽洞は江ノ電が鎌倉駅方面へ路線を延ばす際の一番の難所だった様です・・・
一番の難所と言われてますけど、他に難所があったんでしょうか?
トンネルはココだけだし他の工事は楽そうだけど?・・・何にせよ1907年、無事に極楽洞は開通しました! |
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極楽洞を満喫したら右を向いて下さい・・・左の写真のアパートが見えると思います・・・
そう!、ここが墓への入り口です!・・・何てトコにあるんだい!?
一応、大正15年4月に鎌倉同人会の建てた『上杉憲方墓』と刻まれた石柱が階段左脇にありますが、完全に背景と同化してますよね?・・・凄腕のスナイパー並みのステルス能力です! |
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階段を登りアパートを横目に細い通路を進み突き当りで左を向けばご対面です・・・
山とアパートに囲まれた極狭いスペースに石造の七層塔と五層塔があり、他にも小さい石塔がいくつか配置されています!
ジメジメしてます・・・
何か凄い息苦しい場所です・・・ |
アパートはいつ頃建ったんでしょうか?・・・建つ前は切通からも見えていた事でしょう・・・
しかし、こうなってしまっては訪れる人も滅多にいないんではないでしょうか?
てゆーか気付きませんよね?
まぁ、別にわざわざ見るほどの物件でもないけど・・・
廃道にある埋もれたモノ達に比べれば扱いはマシな方かな?
石塔の横に神奈川県教育委員会の立てた説明版がありますので内容を載せておきます・・・
伝上杉憲方墓 昭和2年4月8日文部省指定
上杉憲方は憲顕の子である。天授五年(1379年)美濃の土岐頼康の叛乱を討つため出陣したが、三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を補佐する関東管領に任ぜられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。
応永元年(1394年)十月六十才で亡くなり、法名は『明月院殿天樹道合』という。
墓地には上杉憲方墓と伝えられる安山岩製の七層塔のほか、疑灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製の五輪塔多数がある。七層塔は鎌倉末期の作と推定される。塔身には仏像を刻み、基台には枠をめぐらし格挟間を刻んでおり、すぐれたものである。
とあります・・・七層塔が憲方の墓だと言ってますね・・・
ちなみに説明にはありませんが五層塔は奥さんの物と言われてます・・・
また、極楽寺切通を挟んだ向かい側には、奥さんが憲方の為に建てたと言われる逆修塔(生前に建てる供養塔)がありますが、個人宅内で公開はされておりません・・・
説明文は憲方が関東管領になり山内上杉氏の祖となったと記しています・・・
ちょっと簡単過ぎる説明なのでもう少し補足しつつザックリと・・・
歴史の授業でやった康暦の政変ですね・・・
康暦元年(1379年)、室町幕府3代将軍足利義満の時に管領の細川頼之と斯波義将が所領を巡り仲が悪くなって、頼之が管領を辞めちゃうってヤツです・・・
で、その混乱に乗じて2代目鎌倉公方足利氏満が軍事行動を起こそうと考えるわけです・・・
でも当時の関東管領の上杉憲春(憲方の兄)は、バカな事は止めてくだされって諭します・・・
終には切腹してまで氏満を制止するんです・・・で、死んだ憲春の代わりにまんまと弟の憲方が関東管領になるわけです・・・
当然氏満は問責を受ける事になりましたが、古先印元を派遣して許しを請い赦免を受けています!
しかし、翌年3月には氏満幼少からの師である義堂周信を義満が強引に京都に召し出します・・・
義満と通じていた憲方は氏満と周信を脅し、これを受け入れさせました・・・
これ以降、氏満は将軍や関東管領に対抗するために自らの勢力を拡大し、永享の乱(1439)、享徳の乱(1455~)まで続く鎌倉(古河)公方と足利将軍家、関東管領上杉氏との対立の発端となりました!
同じ1379年で年号が違うのは当時皇室が南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)に分かれ、それぞれが天皇をたて独自に年号を使っていたからです・・・
説明文にある天授は南朝の長慶天皇在位の時に使われた年号の一つです・・・
ホントややこしい事してくれますねぇ・・・
このややこしさは1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡す事で一応解消!
ふぅ~・・・
室町期の鎌倉は上杉四家、鎌倉公方、幕府将軍入り乱れて争いグチャグチャになってます・・・
【新編鎌倉志】の上杉道合石塔の項にこうあります・・・
【上杉道合ノ石塔】
方丈の西北に岩窟をほり、其の中にあり。十六羅漢ヲ窟中ノ両方ニ切付たり。中央は釈迦多宝なり。
『鎌倉九代記』には、上杉安房の守入道道合は応永元年十月廿四日、朝の霜と諸共に消行ける。屍をば極楽寺に送りて、草根一堆の墳の主となすとあり。然らば此には石塔ばかり有るか。
ちなみに明月院やぐらの方の説明ですんで混同なき様に!
亡くなった時の表現がかっこいいなぁ・・・朝の霜と諸共に消え行きける・・・かっこいい!
明月院は、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊通の息子山内経俊が父を弔うために建てた明月庵を起源としていると伝わります・・・
その後、北条時頼が最明寺を建て、それを前身に息子の時宗が禅興寺を創建します・・・
そして時代は室町へと流れ上杉憲方は氏満から禅興寺中興の命令を受け、頑張ります!
境内地の拡大、塔頭も増やします・・・その流れで明月庵は明月院と名を改め、塔頭の筆頭に位置付けられたと伝わっています・・・
禅興寺は足利義満の時代に関東十刹一位にランク付けされてます!・・・どんな寺だったんでしょう?
しかし、忌まわしい明治のアレの流れで廃寺となります・・・そして現在は明月院だけが往時を偲ばせます!
明月院方丈奥の庭園は6月と12月だけ公開されます・・・
ことに紫陽花の季節は観光客がここぞとばかりに殺到します!
通常の拝観料¥300に加え、庭園へ入るには更に¥500だったかな?(込々で¥500だったかも)
合計¥800円?
ちょっと取り過ぎな気もしないでもないんですが観光客達は盲目的に金を落としてグングン進んで行きます!
やっぱり期間限定って響きに弱いですよね・・・マックのグラコロバーガーしかり!
『紫陽花で 金が貯まるよ 明月院』
こんな事言ったら怒られるか・・・多分庭の維持に物凄い金が掛かるんでしょう・・・
以上瓶ノ井でした・・・ |