ブログ 警鐘3タイトル
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かながわの景勝50選・・・最後は『稲村ヶ崎』です・・・有名ですね・・・場所的に観光客で溢れ返る様な事はありませんが、いつ訪れても誰かしらがいる・・・地元民にとっても大切な憩いの場となっています・・・
『剣投ぜし古戦場・・・』で歴史的にも知名度の高いスポットですね・・・自分も何百回と訪れている場所です!
稲村ヶ崎1 稲村ヶ崎2
坂ノ下側から見た稲村ヶ崎です・・・海に飛び出した岬になっています・・・天辺にイイ感じの松が風に揺れています・・・
今回はあの松の所まで行ってみようかと!・・・登山道とかは無かったと思いますので、手探り状態で登る事になるでしょうが距離は短いし落ちないように気を付けてれば大丈夫でしょう!
道路開鑿記念碑 磯づたいのみちから国道134号へ出る階段を登ると、
道路開鑿記念之碑が建っています・・・が、重要な所が剥離しています・・・残念・・・
何て書いてあるんでしょうか?・・・気になりますねぇ・・・

この稲村ヶ崎と霊山ヶ崎をぶった切る134号が出来る前は、極楽寺切通が旧国道として活躍しておりました・・・
それ以前は稲村路がありました・・・稲村路は【吾妻鏡】や【海道記】などにもその名が見えます・・・
134号を走っていると、プールや鎌倉パークホテルの裏の崖にガードレールの道が見えると思いますが、昔の稲村路はこの辺ではないか・・・という人もいます・・・でも待ってください・・・文献によると、

【海道記】・・・さかしき岩のかさなり臥せる浜をつたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くにちりかかる・・・
【太平記】・・・南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て・・・
【梅松論】
・・・稲村崎の波打ち際。石高く道細くして軍勢の通路難儀の所・・・

いずれも通るのに難儀する道だといっています・・・波しぶきが掛かり、高い岩場も通る・・・
当時の海岸線は今より入組んでいましたが何かしっくり来ません・・・
やはり、あのガードレールの道よりもう少し海岸線寄りに稲村路はあったんではないでしょうか?・・・海岸線を磯づたいに通る道もあったと思いますが、そんな高い場所を通るとは考え難いので稲村路とは言えないでしょう・・・

新田義貞が剣を海中に投じた所、二十余町(2.5km)も潮が引き、大軍が通過する事ができたというガセネタがありますが、確かに少数の工作部隊はココを通ったかもしれません・・・でも大軍はやはり霊山を越えて行ったんでしょう・・・
そもそも義貞が奇跡を起こす前に既に大舘宗氏の軍は前浜に侵入して稲瀬川で討たれた事実があり、その後、北条軍は霊山に陣を置いてますから・・・行軍できる道はあります・・・
通るたびに剣を海に投げ入れなきゃならんなんてメンド臭いでしょ(笑)
霊山には仏法寺跡五合枡遺蹟など紹介したいスポットもありますが長くなりそうなのでやめて置きます・・・ 
公園1 石碑群
さぁ、公園内に入ります!・・・すぐ左側に石碑群があります・・・鎌倉町青年會の建てた例の史跡碑があります・・・

稻村崎
今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ 廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ禱レリト言フハ此ノ処ナリ              大正六年三月建之 鎌倉町青年會

やはり新田義貞の奇跡の話が刻まれていました・・・このタイプの史跡碑は市内に80基以上ありますが、大正6年建立は一番古い物です・・・同年に建てられた物は他に、
稲瀬川、大蔵幕府旧蹟、勝長寿院旧蹟、俊基朝臣墓所、問注所旧蹟があります・・・
稲村が崎石碑 関東の富士見百景石碑
かながわの景勝50選の石碑があります・・・関東の富士見百景の石碑も建っています!
『鎌倉市からの富士』だそうです・・・他の99箇所はドコにあるんでしょうかね・・・平成17年11月建立!
確か日本の渚百選てのにも選ばれていたと思います・・・ 
公園からの眺め あいにく今日は富士山は見えませんでした・・・
天気が良く空気の澄んだ日は素晴らしい景色を臨む事が出来ます!
特に夕暮れ時の眺めは格別の物があります!
公園の駐車場がないので有料駐車場を使うかバイクで行きましょう!

お弁当持参で景色を堪能しながら昼飯ってのも気持ちのいいもんです・・・ゴミは持ち帰りましょうね!
ボート遭難碑 ボート遭難碑の銅像が建っています・・・
明治43年(1910)1月23日、みぞれ混じりの氷雨が降る中、七里ヶ浜沖でボート箱根号に乗った逗子開成中学の生徒12人が遭難しました・・・
発見された遺体が友が友をかばい兄は弟を抱えたままの姿だったんだそうです・・・
その友愛と犠牲の精神は行きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか?・・・と石碑に刻まれていました・・・
なんで悪天候の中出航したんでしょうかね?
友愛と犠牲の精神よりその勇気を称えたいです・・・
公園2段目 公園2段目からの眺め
公園は3段構成になっています・・・2段目からの眺めです・・・ベンチは占領されていました・・・チッ・・・
公園3段目 ローベルト・コッホ碑
3段目は東屋があります!雨の日も安心ですね(笑)・・・ローベルト・コッホ碑があります、丁寧に石碑についての案内板があります・・・素晴らしいですね!ほかの石碑にもぜひ設置して欲しいです!
古い石碑は一般ピープルが正確に読み解くにはハードルが高いですからね・・・

ローベルト・コッホ碑(解説)
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元(1912)年9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58年(1983)年10月、鎌倉市医師会によりこの地に移設された。
コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という分野を開拓した人である。
明治35年(1905)「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風細菌の純粋培養に成功、さらにその毒素に対する免疫体を発見、それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。


碑文の大意
明治42年(41の誤り)7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌倉に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れのすばらしさを見て堪能された。帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である田村氏と相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ガ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきであると考える。
                       
                        大正元年9月 永坂周期弁書

石碑はもともと霊山にあった公園内に設置してあった事も記されています・・・
前に見た時は文字は白塗りされてなかったと思いますがちゃんと維持管理されてるんですねぇ・・・感心感心!

さて、上へ登る場所がないかウロウロしていると・・・ありました・・・予想外でした、道っぽい物があるじゃないですか!
山登り1 道と言えるほどの物ではないですが明らかに人が通った痕跡があります!

完全サバイバルなクライムになると思っていたのでちょっと拍子抜けしてしまいましたが、まぁ、楽なのに越した事はないのでココから登る事にします!

足元は土が柔らかく落ち葉も積もっていて結構滑ります・・・注意しながら行かないと危険です・・・
山登り2 山登り3
道はすぐに無くなりました・・・この急勾配・・・木の根と蔦で三点確保で慎重に進みます・・・頂上部分は思ったよりスッキリしていました・・・もっと草が生えているのではと思いましたが、写真の様な感じです・・・松はドコ?
行き止まり1 行き止まり2
う~ん・・・危なっ!・・・この先は断崖絶壁ですよ!・・・足場が微妙ですし、これ以上は危険ですね・・・
明日の新聞に載るのは勘弁です・・・自己責任で登ってます、判断は誤らない様にしなくては・・・

【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【稻村】(附稻村が崎 横手原)
稻村は、極楽寺の南なり。海道の東の方に、稻を積みたる如くの山あり。故に稻村と名づく。
昔し源の満兼の舍弟満直、此の村に居す。故に稻村殿と云。又里見義豊をも稻村殿と称す。是は房州の稻村なり。
南の海濱を稻村崎と云ふ。【東鑑】に、建久二年九月廿一日、頼朝卿、海濱を歴覧し給はん為に、稻村が崎の邊に出御、小笠懸の勝負ありと有。

此海濱を横手原と云ふ。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へ打ち臨み、明け行く月に、敵の陣を見給へば、北は切通(極楽寺也。)まで、山高く 路嶮しきに、木戸を構へ、垣楯を掻いて、數萬の兵陣を雙べて並居たりけり。南は稻村崎まで、沙頭路狹きに、浪打涯まで逆木をしげく引懸て、沖四五町が程に、大船共を並べて矢倉をかき、横矢射させんと構へたり。
誠にも此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞馬より下り給ひ、海上を遙々と伏し拝み、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更に干る事もなかりける稻村が崎、俄に二十餘町干上つて、平沙渺々たり。横矢射んと構へたる數千の兵船も、落ち行く潮にさそはれて、遙かの沖に漂へりと有は此所なり。故に横手原とは名くるなり。

ふぃ~漢文嫌い・・・読み下すだけで一苦労ですね・・・稲村ヶ崎の名の由来に触れています・・・
稲の束を積み上げた物を稲むらといいます・・・岬の東側は岩肌がむき出しで確かに稲っぽい感じの色合いを見せていますね・・・何故横手原といわれるのか、太平記を引用して詳しく説明しています・・・

源満兼は3代目鎌倉公方の足利満兼の事ですね・・・
弟の満直は永享の乱、又は結城合戦で自害したと伝わります・・・
里見義豊は安房里見家当主、天文二年(1533)、稲村城に叔父の里見実堯と正木通綱を討ちました、これに対して実堯の子義堯と通綱の子時茂は後北条氏と組みして反攻、里見家を二分する内乱(天文の乱)となりました・・・
翌年、義豊は討死にしています・・・

建久2年(1191)の小笠懸についての【吾妻鏡】の記述です、
9月21日 丁卯
海浜を歴覧せんが為、稲村崎の辺に出で給う。小笠懸の勝負有り。
射手
幕下             下河邊庄司
和田左衛門尉      榛谷四郎
藤澤次郎         愛甲三郎
山田太郎         笠原十郎

上手負け訖。各々一種一瓶を相具す。浜に於いてこれを献ず。仍って上下興を 催す。秉燭の程歸ら令め給ふ之間、雑色澤重与盛時の所従と喧嘩有り。各々疵を被る。義盛の郎従等これを搦め進す。殊に御勘発有り。則ち此の所自り伊豆の国に流し遣わ被る。而るに科の軽重を究めらるべきか。楚忽の御沙汰たるの由、盛時義盛に属き頻りにこれを愁い申す。所犯に於いては相互遁れ難きの旨、直に御覧し訖。他所に非ず、正に御興遊の砌に於いて忽ち奇怪を現す。糺断の篇、何ぞ後日を期せんか。汝公事に接しながら、非拠を申し行わんと欲す。
不當の由御気色再三に及ぶ。盛時閉口し逐電すと。

頼朝軍と下河辺庄司行平軍で勝負した様ですね・・・山田太郎ってシンプルな名前だなぁ・・・山田太郎重澄の事です!
いつの時代にも酒の場での喧嘩ってあるんですね・・・しかしその場で伊豆流し決定って・・・和田義盛、小笠懸で負けてイライラしてたんですかねぇ・・・喧嘩で島流しってキツイなぁ・・・

【新編鎌倉志】です・・・
【霊山崎】
霊山崎は稻村東南の出崎也。昔は極楽寺の境内なり。極楽寺を霊山と號す。故に此崎をも名く。
亦此處に佛法寺とて忍性住せし寺ありしとなり。忍性御教書を承て雨を祈りしも此の所也。日蓮も此所にて雨を祈る。法華の経文を板に書て流す。今其板往々に蔵す者ありと云ふ。

仏法寺は極楽寺の支院で霊山にあったとされています・・・極楽寺絵図を見てみると仏法寺には請雨池という物があった様です・・・発掘調査の結果、ココからは大量の杮経(こけらきょう)が書かれた木簡が発見されています・・・
どうやら忍性日蓮の雨乞い対決に関連した遺構であるとされています・・・
ちなみに日蓮の雨乞いの遺構は霊光寺にあります・・・でも日蓮も霊山崎で雨を祈ったって書いてありますね?
詳しい経緯は知りませんがココにも来たんでしょうか?
しかし、極楽寺の境内ですよ・・・日蓮来ますかねぇ?・・・仲悪いからなぁ(笑)
まぁ、でも、田辺ヶ池(霊光寺)も当時は極楽寺の境内か・・・

今では考えられないくらいアホらしい事ですが、当時は幕府から雨乞い祈祷の命令が度々出されていました・・・
とにかく霊山は神聖な場所であったという事ですね・・・

さてこの仏法寺跡・・・眺望が素晴らしいです!・・・自分は鎌倉では一番の眺めだと確信しています、ローベルト・コッホが気に入ったというのも頷けます・・・
残念な結果に終わりましたが『武家の古都・鎌倉』世界遺産登録候補地のひとつでもありました!
極楽寺の構成資産という立ち位置です・・・

仏法寺跡は大正時代は公園となっていたようですが、関東大震災で地形が崩れてからはそのまま放置されていた様です・・・ローベルト・コッホの石碑はココから稲村ヶ崎に移されたとありましたが、小さい石碑がまだ霊山に残っています!
請雨池跡の周りには古い五輪塔が並び、仏法寺跡の平場からの眺めは重ねて素晴らしい!

何箇所か登山道はありますが、当然整備された物ではないので自己責任で・・・自信の無い方はやめた方がよろしいと思います・・・針磨橋の所から入る道は道とはよべず、藪の中を手探りで進むような感じなのでお勧めしません!
比較的行き易いのは極楽寺駅の正面の階段を登り、墓地を過ぎ、五合枡遺蹟を経由して行くコースです・・・
それでも急勾配で道も分かり難いので注意が必要です・・・
平場から無理やり崖を降りて柵を越え白いガードレールの道に出る事も可能ですが危ないですよ!

ホントに最高の眺めなので今度紹介させて頂きたいと思っています・・・ちょっと今は季節的にキビシイです・・・
草の繁茂で踏み跡も消され道が分からなくなってるだろうし、平場も草ボーボーで入れないだろうし、何より虫やマムシがメンド臭いです!・・・行くなら冬場がいいですね・・・空気が澄んで眺めも一層ビビッドになりますし・・・

五合枡に立つとココが戦略上大変重要な場所であった事を確信できます・・・義貞軍も仏法寺を落したから安全に眼下の稲村路から攻め込めたんでしょうね・・・ココ霊山の攻防がその後の両軍の運命を決したのは確かでしょう・・・

おしまい 
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