江ノ電極楽寺駅改札を出て右に曲がり少し歩いて行くと見えてきます!
『はりすりばし』と読みます・・・橋下を流れる川は極楽寺川です・・・そのまま江ノ電の線路沿いを海まで辿れば稲村ヶ崎へ到着です!
この道、結構好きです・・・なんかゆる~い時間が流れています・・・
とても昔激戦が繰り広げられた場所とは思えません・・・
針磨橋の交差点を右に曲がり、江ノ電の踏切を超えてすぐ左側に阿仏邸旧蹟の碑が建っています・・・
実際はもっと谷戸の奥に住んでいたようです・・・この谷戸は月影ヶ谷と言います・・・
稲村ケ崎小学校から笛田方面へと繋がる道の途中に月影地蔵堂があるので、あの谷戸を月影ヶ谷だと勘違いされている方が多いですが、あそこは西ガ谷と言います・・・
地蔵堂はもともと月影ヶ谷にあったものが移動したものです・・・まぎらわしいですね・・・
橋の近くに石碑があるので見てみましょう!
鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ
橋名の由来は、その昔針を作る職人が近くに住んでたから・・・これだけかいっ!
【新編鎌倉志】にこうあります、
【針摺橋】
針摺橋は極楽寺に南、七里濱へ出る路の小橋なり。唐の李白が老嫗の杵を磨するに逢ひ、又、江州磨針峠の故事などの例か。鎌倉十橋の一つなり。
李白の話を出してきましたね・・・ちょっと解説します・・・
李白は山寺での勉学に飽きて、そこを立ち去ろうとしました。山を下ってゆく途中、小さな川を渡ろうとした所、一人の老婆がぶっ太い鉄の棒を一生懸命に磨いているのに出逢いました・・・
李白が『何のためにそんな棒を磨っているのか?』と尋ねます・・・
老婆は『針を作っている!』と答えました・・・
李白はそれを聞き、自分の怠慢を恥じて山に戻って勉学に励んだって話です・・・
もう一つ磨針峠ノ故事とありますが、これは滋賀県彦根市の摺針峠の話ですね・・・
自分はダム巡りの際にちょこっと寄りました・・・ひこにゃんはまだ健在なんでしょうか?
摺針峠へは、鳥居本から中山道を少し北上し右へ入ると到着です!
普通に車で行けます・・・摺針大明神があるだけですけどね・・・
その昔、ある青年僧が諸国行脚の修行に行き詰まっていた所、峠にさしかかりました・・・
するとそこで白髪の老婆が大きな石に斧をあてて懸命に磨っているではありませんか・・・
明らかに刃を研いでいる様子ではありません・・・
青年僧が『何のために斧を削っているのか?』と尋ねると・・・
老婆は『大事な針を失くしてしまったので、斧を削って針にする。』と答えました・・・
青年僧はそれを聞くに、この苦労に比べれば自分の修行はマダマダだと更に修行に励んだって話です・・・
この青年僧・・・実は若き日の弘法大師です!
その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植えて、
『道はなほ学ぶることの難からむ斧を針とせし人もこそあれ』と詠んだそうです・・・
それ以来峠は摺針峠(磨針峠)と呼ばれるようになったそうです・・・
江戸時代には茶店があり、大師から受け継いだ名物すりはりもちを食べる事ができた様です・・・
どちらも似た話ですが、昔の人は老婆が何かを磨っていると己の未熟さを知るようですね(笑)
針磨橋にも、針金を磨って針を作る老婆がいた・・・という言い伝えがあります・・・
また針を作る技術を持った我入道という僧が近くに住んでいたので別名我入道橋とも言われています・・・
【新編鎌倉志】の七里濱の項に砂鉄が採れたとの記述があるので、単なる伝説ではなく実際に針を作る事を生業としていた人達がこの辺りに住んでいたのかもしれないですね・・・
又、花貝とてうつくしき貝あり。兒女(女子供)拾ふて作り花にする也。櫻貝とも云ふ。櫻色なる故なり。
ともあります・・・サクラ貝・・・子供の頃よく拾いました、懐かしい・・・
なかなか綺麗なのがないんですよ、欠けてたりして・・・今貝拾いなんかしたら一発で腰をやられますね!
300年以上前の子供達も同じ事をしていたとは・・・
でも最近は昔に比べて外で遊ぶ子供の数が減ったように思います・・・
一概にそれが悪い事とは言い切れませんが・・・
ちなみに由比ヶ浜にはさくら貝の歌の歌碑があります・・・デカイです・・・不朽の名作と彫られていますが、時代的に自分のお祖父ちゃん世代が聞いていた感じですかね・・・自分は知りません・・・
昭和14年に作曲家の八州秀章が由比ヶ浜のさくら貝に魅せられて短歌を詠んだんですって・・・
何でも当時の由比ヶ浜はさくら貝の絨毯といわれるくらい綺麗だったとか・・・
『わが恋の 如く悲しや さくら貝 かたひらのみの さみしくありて』
この歌を基に曲を作ったんだそうです・・・石碑の反対側には説明と共に刻まれていました・・・
何か切なすぎますねぇ・・・コロコロバーガー奢ってあげるから元気出しなよぉ~! |