若宮大路の下馬交差点から海の方へ歩いてすぐ・・・橋の西側は完全な暗渠になっています・・・
橋名の由来は若宮大路のこの辺りを琵琶小路といった事にちなむそうです!
昭和の中頃までは朱塗りの橋だったようですが、その後コンクリートに変わり、現在の御影石製の橋が再建されたのは1992年の事です・・・このような形になっても、橋として残そうとしている鎌倉市の姿勢には共感できる・・・が、鎌倉十橋である事を示す標柱は、植え込みの中に埋もれています・・・
もっと鎌倉十橋のひとつである事をアピールすればいいのに・・・残念・・・
橋の横に説明版があります、内容は以下の通りです・・・
若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間は琵琶小路とよばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。
昭和30年頃までは擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。琵琶小路の由来は道筋に弁財天をまつる祠がありこのため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。なお、祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。琵琶橋は若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。また和田合戦の舞台の一つになったという伝承から軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。
鎌倉十橋のひとつだと言う事実には一言も触れていない・・・何でだろ?どーでもいいのかな?
確かにどーでもいいけどさ・・・橋なんかさー・・・別にどーだっていいんじゃないすかね・・・
【琵琶小路】
二、三の鳥居の間の路古は外の方へ曲りて琵琶の形の如シ。故に琵琶小路と云。此間に橋アリ。琵琶橋と云。
或る記に云、昔し和田合戦の時、宍戸左衛門家政、琵琶橋に於て朝夷奈義秀と戦ふて討ると、大鳥居より波打際まで五町あり。
上記は【新編鎌倉志】の琵琶小路についての記述です・・・
どうやら説明版にある和田合戦の舞台の一つとは宍戸左衛門家政(八田知家の四男)が朝夷奈三郎義秀(和田義盛の三男)に討たれたって事の様ですね・・・
二ノ鳥居と三ノ鳥居の間に琵琶小路があるといってますが、現在とは鳥居の呼称が違います・・・
一の鳥居より大鳥居までを若宮大路とあり・・・赤橋の前の鳥居より間だ四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云。二鳥居より間だ六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也、是を大鳥居と云ふ。
と、若宮大路を紹介していますから鶴岡八幡宮から海に向かって一、二、三としていますね・・・
現在と逆です、紛らわしいなぁ・・・ニノ鳥居だけは変わりませんけどね・・・
ちなみに赤橋とは太鼓橋の事です・・・最後の執権赤橋守時を出した赤橋流北条氏はこの橋の前に住んでたんでそう名乗る様になったんだそうです・・・近くにスマートな名前の橋があって良かったですね・・・
もし十橋だったら・・・乱橋とか逆川橋は頭悪そうだし、針磨橋はなんか内職っぽいしなぁ・・・
筋違橋はしょっちゅうこむら返り起こしてそう・・・イマイチ締まらないですね・・・ |