寿福寺の門前左手前に石碑や石柱が乱立している所がありますが、それに混じって鎌倉十橋の標柱も建っています!
現在、橋は暗渠となっており、標柱と、横にその敷石が残るのみとなっております・・・
この勝ノ橋ですが、隣にある英勝寺という寺を創建した英勝院尼(勝の局)が架けた事から、そう呼ばれているそうです・・・
江戸時代に造られたんですね・・・他の十橋に比べると歴史の浅い橋という事になります!
明治の末期までは、この石橋は残っていたと聞きます・・・
どんな橋だったんでしょうか・・・何故無くなったんでしょうか・・・地震?横須賀線?まぁいいや・・・
今度【新編相模国風土記稿】でも見てみよう・・・【新編鎌倉志】には、
【勝の橋】
寿福寺のノ前に石橋あり。勝橋と云。鎌倉十橋の一つなり。此より南を今小路と云ふ。巽荒神の辺より南、長谷までの間は長谷小路と云なり。
とあります・・・
【鎌倉攬勝考】には『寿福寺前の石橋をいふ』とだけあります・・・
今小路という通り名が出てきました・・・勝ノ橋から巽荒神までの道を言い、そこから先は長谷小路だと記しています・・・現在今小路っていうと飢渇畠の六地蔵までの道を言うんじゃないでしょうか?
そこからは由比ヶ浜通りに繋がっていますよね・・・昔は随分と短い区間の事を言っていたんですね・・・
今小路を歩いていたら市制70周年を記念して鎌倉商工会議所青年部が建てた説明書きを見つけました!
今小路通りとは・・・
『新編鎌倉志』では寿福寺門前にある鎌倉十橋の一つ『勝ノ橋』から南行し、東側の巽荒神社前までの通りを指しています。『大日本地名辞書』には、『扇ケ谷の谷口から南に馳せ裁許橋に到る旧街の名で、今は寿福寺の門前の南をいう』とあります。若宮大路の西側に平行するこの通りは、正式な通り名ではないものの、古くから『今小路』と呼ばれ、地元の人々に親しまれてきました。
鎌倉商工会議所青年部では、平成20(2008)年度に、私たちが考える鎌倉の将来像を『暮らす人にとっても、訪れる人にとっても、居心地のよい鎌倉』という『鎌倉ビジョン』としてまとめ、それを実現するための方策を提言書に取りまとめました。この通り名板は提言の中にある、案内しやすい観光地としての鎌倉を目指す『古の通り名復活プロジェクト』の一環として製作されたものです。
プロジェクトって・・・気合入ってますね・・・古の寺も復活させて欲しいモンです!
勝ノ橋の由来になっているお勝の方ですが、鎌倉十井のページで少し触れたので説明は省略させて頂いて、その祖先の太田道灌にまつわる話をひとつ・・・
ある日の事、山中で鷹狩りをしていた道灌は突然の雨にあってしまい、これはたまらん、と近くにあったボロ家に駆け込みました・・・
『急な雨にあってしまった。蓑を一つ貸してもらえぬか。』と声をかけると、奥から年端もいかぬ少女が出てきました・・・
そしてその少女が黙って差し出したのは蓑ではなく山吹の花一輪でした・・・
差し出された花の意味がわからない道灌は、話も通じんのか・・・と憮然として雨の中を帰って行きました・・・
その夜、道灌がこの出来事を語ると、近臣の一人が後拾遺和歌集に兼明親王が詠んだ、
七重八重 花は咲けども 山吹の
みの一つだに 無きぞ悲しき
という歌があり、その娘は、蓑一つない貧しい生活をしています・・・という事を、山吹に例えたのではなかろうか?
と言いました・・・
これを聞き驚いた道灌は、歌に関する己の不明を恥じ、和歌の道にも精進するようになったといいます・・・
メンド臭い少女ですね・・・いや風情があると言って置きましょう・・・
兼明親王がこの歌を詠んだ時のエピソードもあります!
親王が別荘にいた時に蓑を借りにきた人がいました、親王は蓑ではなく山吹の枝を一つ渡しました・・・
翌日、なぜ蓑でなく山吹の枝を渡されたのか意味が分からなかったその人は、親王に理由を尋ねます・・・
その時の返答に先程の歌を詠んだんだそうです!
『七重咲き八重咲き、山吹の花が綺麗に咲いているお屋敷だけど、山吹に実が一つも成らないように、ココには蓑は一つも無いんだよ・・・』・・・と・・・
同じ蓑が無くてもこっちは金持ち臭がプンプンしますね・・・
なんにせよこの太田道灌の伝説でこの歌は更に世に浸透して行ったようです!
この伝説の地は山吹の里として色んな場所にありますが、埼玉県入間郡越生町西和田にある山吹の里歴史公園が一番力を入れてアピールしている感じです・・・ |