近い将来に水資源をめぐって世界規模の戦争が起きるだろうって言う学者もいますが・・・
鎌倉は昔から水の恵みが少ない地で江戸時代の水不足には相当悩まされていたらしいです・・・
そんな中で良質な水が取れる井戸は大変貴重なものでした・・・
特に水質が良く、謂れなどが残る十の井戸を鎌倉十井と言ったそうです!
鎌倉公方の足利成氏が下総の古河に移ったり、里見義弘が暴れまわったりと幕府滅亡からすっかりサビれてしまった鎌倉でしたが江戸時代には江の島詣でや八幡様から朝夷奈切通し、六浦の境ノ地蔵を経て称名寺へ等々・・・鎌倉遊覧が盛んになり観光都市として賑わいを取り戻していた様です・・・
鎌倉名数は観光スポットとしての位置づけも大きく(暇な人は数字が付いてると巡りたくなるらしいです・・・定年後、やる事ないし取り敢えずお遍路でもしてみるかな的な・・・)印籠で有名な黄門様こと徳川光圀が鎌倉に滞在した時のことを記した【鎌倉日記】をもとに著した【新編鎌倉志】に紹介されています・・・
助さん、角さんの代わりに吉弘元常や河合友水を同行させ代筆、編纂させ1685年刊行・・・
鎌倉滞在時の拠点は扇ガ谷の英勝寺でした・・・
英勝寺は扇ケ谷上杉氏に仕え江戸城も築いた太田道灌の屋敷跡にあります・・・
道灌から四代の康資の娘にお勝ちの方ってのがいて徳川家康の側室になり寵愛をうけますが、程なくして家臣の松平正綱に下げ渡された所、懐妊が発覚して家康の側室にカムバック!
生まれた市姫は伊達正宗の息子と婚約しましたが4歳で没・・・
悲嘆に暮れる勝さんに家康は、後に初代水戸藩主となる徳川頼房の養母を務めるよう命じました・・・
家康没後は落飾して英勝院と称し、三代将軍家光に父祖伝来の地である扇ケ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました!
その際、頼房の娘の小良姫を玉峯清因とし、これを開山としました。
その後代々水戸家の姫が住持を務め水戸御殿と呼ばれる格式高い尼寺となりましたが住持は人前に出る事はほとんど無く、法要などは光明寺の僧等が務めていたらしいです・・・
現在三葉葵の紋が威厳を伝える総門が開くのは英勝院の命日だけだそうです・・・
水戸家と関わりの深い英勝寺・・・黄門様が逗留するのも納得です・・・
寺領として源氏山と池子村も与えられました・・・逗子市在住の自分は池子が水戸家の預かり地だった事実に驚き!
当時は近隣の村人はやり難かったでしょうねぇ~・・・
新編相模国風土記稿にも水戸家に気を使ったのか池子村の名前があがるだけで詳しい記載は無い・・・
明治維新後しばらくは水戸県に属していたらしいです・・・
池子と言えば六社大明神(現在は池子神明社に合祀)建立の由来として七頭の大蛇を退治した池子村の六勇者の話がありますが、村の勇者ってのがいいですね!・・・鍬とか竹ヤリで倒したんでしょうか?(笑)
今度町誌で調べて機会があったらアップします!
・・・て・・・あれ!?・・・何の話だコレ?・・・鎌倉十井でしたね・・・失礼・・・ |
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