ブログ 底脱ノ井1
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底脱ノ井2 底脱ノ井3
扇ガ谷の最奥にある海蔵寺の門前にあります・・・『そこぬけのい』と読みます・・・
名前の由来は室町期に扇谷上杉家の尼が水を汲んだ時に桶の底が抜けて悟りが開けちゃって、

『賤の女がいだく桶の底抜けてひた身にかかる有明の月』と言う唄を読んだからとも

鎌倉時代中期に安達泰盛の娘がやはり水を汲んだ時に桶の底が抜けて、

『千代能がいただく桶の底抜けて水もたまらねば月もやどらじ』と詠んだ事にちなむとも言われています!

桶の底が抜けちゃって何か全てのわだかまりも消えてなくなったって言う意味の唄らしいです・・・
 底脱ノ井4 左の絵は月岡芳年て言う明治期の画家の作品で、題は『千代能』というみたいです・・・まさに抜けちゃってますね~決定的瞬間ですね~!

千代能は旦那が失脚してから無学祖元に教えをこい出家するんですが、剃髪してないですね・・・底が抜けたのは出家後のはずだが?
平安スタイルの尼削ってやつなんでしょうか?
詳しくないので良くわかりません・・・
まぁ、ツルっとしてたらお月さんとかぶってまうしね(笑)

井戸に立っている板碑には千代能の方の唄が彫られています・・・
説明書きも千代能の唄にしか触れていません・・・
すっぽり抜けて悟りを得たと書いてあります・・・
『すっぽり』
ってのが何か間抜けでいいです!(笑)
千代能の旦那さんは、金沢文庫を創った北条実時の息子の北条顕家です!
顕家との間に釈迦堂殿と言う娘が出来ますが、彼女が足利貞氏の正室になり嫡男の高義を生みますが早くに亡くなってしまったので異母弟の高氏が家督を継ぎます・・・あの足利尊氏ですね!

幕府軍の頃は北条高時からの偏諱(へんき:名前の一字を戴く事)で高氏でしたが、寝返ってからは後醍醐天皇の尊治から尊氏に変えます・・・この偏諱って・・・何とかならんもんか・・・?
戦国武将の系譜とか見ていると同じ字ばっかで頭が痛くなります・・・北条氏なんかばっかでりで・・・
いったい今何時なんだい!?・・・サザンの勝手にシンドバットが流れだします・・・

日本史で習った天正遣欧使節ってありますよね伊東マンショとか・・・
あの四人は絶対忘れないですよね・・・名前にインパクトがあって覚えやすい!
ついでにジョン万次郎も使節団に入れちゃいましょうか!

北条マイケルとかの方が分かり易いですよね?
でも結局偏諱でマイコー北条とかになってしまうんでしょうか?
ボブ武田とかいいなぁ、強そう・・・凄くいい!
かく言う自分も父親から一字もらっているので、あまり言えた義理ではありませんが・・・
千代能の姉には覚山志道尼がいます・・・

姉と言っても生まれてすぐ父義景が亡くなり、兄である泰盛が猶子にしたので、実際は叔母と言う事になりますが、彼女は8代執権北条時宗の正室になり東慶寺を開く有名人です!

夫婦そろって無学祖元に深く帰依していた様です!
千代能の父であり覚山尼の兄である超有力御家人安達泰盛・・・
霜月騒動で平頼綱に一族もろとも滅ぼされてしまいましたが、そんな彼つながりで・・・ 
底脱ノ井5 左の写真は見た事ありますよね?
日本人なら教科書等で一度は目にしてると思われますが・・・【蒙古襲来絵詞】ですね!

知ってるけどだからどーしたって?
出てくるんですよ、安達泰盛さんが、バッチリと!
この絵巻物は主人公の竹崎季長が元寇に於いての自分の活躍を描かせたもので上、下巻の2巻セットで文永、弘安の役を描いたものです・・・
左側ののモンゴル兵3人は後世に書き足された物だといわれてますね・・・ 
意外とストーリー知らない人もいると思います・・・始まりは文永の役からです!

主人公の竹崎季長は肥後国竹崎郷出身ですが同族に土地を奪われて超ドビンボー御家人でした・・・
1274年、元の第一次侵攻である文永の役では、少弐景資の軍に参陣して、わずか5名の仲間とともに、武士の名誉とされた一番駆けの武功を狙い、矢飛び交う中モンゴル軍に突っ込みます!

上図がまさにその時の様子です!『てつはう』も炸裂しています!
季長も必死です・・・なんせビンボーですから後がありません・・・頑張ります!
その結果、手傷を負いながらも何とか一番駆けに成功します!、やったぜ!

その後モンゴル軍は、暴風雨の影響とか単に撤退しただけとか言われてますが、一夜にして博多湾から立ち去り、そのまま戦は終結します・・・母ちゃん俺がんばったとよ!

しかし、待てど暮らせど幕府からの恩賞の話は全く届きませんでした・・・

あんなに頑張ったのに・・・どーしてもビンボーから抜け出したい季長は、自ら幕府へ不服申し立てする事を決意し、身の周りの物を売り払い鎌倉までの旅費としました・・・もう後戻りできません!

鎌倉に着いた季長は、やっとの事で当時御恩奉行であった安達泰盛との面会を果たし、恩賞として肥後国海東郷の地頭職を獲得するのでした!

ついにビンボー脱出!やったぜ!・・・と、ここまでが上巻のストーリーです・・・
底脱ノ井6 底脱ノ井7
ついに出てきましたね~ラスボス安達泰盛!!・・・左が泰盛で右が季長です・・・
身を乗り出してます、自分の働きをモーレツにアピールしているんでしょう・・・

この出来事は他の御家人の励みにもなりました・・・頑張れば報われると言う事実が証明されたんですから!
季長は嫡子でも何でもない無足の御家人ですからね・・・
その後、季長は領地で善政を行った様です・・・ビンボー人の気持ちが分かるんですかね・・・
領民が無事に年を越せる様にと、米を配給したりしたそうです・・・

ところで泰盛のとっつぁん鼻血出てんじゃないすか?
実は季長が暴力に訴えて無理やり恩賞を出させたとか・・・!?

上巻最後に泰盛から馬を拝領するシーンが描かれてますが、何と季長は鎌倉まで歩いて来たらしいです・・・

下巻は出世して金持ちになった季長が弘安の役で活躍する場面が描かれています・・・
海戦です!・・・敵船に乗り込みモンゴル兵を相手に暴れまくります・・・てな感じで終わりです・・・

この【蒙古襲来絵詞】は、季長が恩人である安達泰盛への礼と鎮魂の為に作成したとも言われています・・・
霜月騒動で泰盛が没してから8年後の完成であります・・・

勝ったと言うか、追い払ったと言うか、勝手に帰ったと言うか・・・とにかく元寇は終わりました・・・
しかし敵から奪い取った領土があるわけでもなく、得られる恩賞もあるかないか・・・
そんな感じで御家人の幕府に対する不満は募って行くのでした・・・

幕府は御家人救済の為に永仁の徳政令を定めましたが、返って御家人の首を絞める事になりました・・・
そりゃ誰だって返ってくるか分からない奴に金は貸したくないですよね・・・


ちなみに元寇の間に起った主な出来事は、杜世忠ら元の使者5人が服従を求めて来日しますが龍ノ口で処刑されています・・・これで弘安の役は確定です・・・

みんな大好き阿仏尼さんが息子たちの訴訟問題で鎌倉に来ます・・・

無学祖元
が来日して取り敢えず建長寺の住職になってみたみたいな・・・

あと、弘安の役の翌年には一遍が来ます!
巨福呂坂
から鎌倉入りしようとしますが、時宗に見つかり追い出されてしまいます・・・
でもめげません!念仏ダンシングで布教は大成功です!
どの時代でも諦めない人は結果を出すんですね~・・・

話は戻って底脱ノ井ですが、【新編鎌倉志】の海蔵寺図では総門に向かって右側に描かれていますが、寛政3年(1791)の海蔵寺境内絵図では左側に描かれています・・・
海蔵寺文書によると安政3年(1774)の境内整備の際に移動したらしいです・・・
現在はまた右側に戻っています(笑)

【底脱井】
総門の外、右手の方にあり。相傳ふ、昔し上杉家の尼、参禅して、此井の水を汲むで投機す。歌あり。
「賤の女が、戴く桶の、底ぬけて、ひた身にかゝる有明の月」。此因縁に依て底脱井と云傳ふとなり(按ずるに、城の陸奧の守平の泰盛が女、金澤越後の守平顯時が室となる。後に比丘尼となり、無着と號す。法名如大と云。佛光禅師に参して悟徹す。投機の和歌あり。
「ちよのうが、いたゞくをけの、そこぬけて、水たまらねば、月もやどらず」と云云。ちよのうは無着がをさな名也。
此底脱井の事、無着が事をあやまりて傳へたるか。上杉の尼、何人と云事しらず。)。
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