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鎌倉十井 
    
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岩船地蔵堂から小川(扇川)沿いに進み最初の交差を左へ進んだ民家の奥にあります!
そう、個人宅内にあるのがこの扇ノ井です!・・・見えてます!・・・ポンプもあります!
でも個人宅、勝手に写真撮るのも気が引けます・・・かと言ってピンポンして見せて頂くのはもっと気が引けます・・・
家の方がその辺に出ておられれば、ちょっとお声をかけさせて頂いてってパターンもありですが、その気配もないので今回は画像は無しです・・・そのうち撮影の機会があれば載せたいと思います・・・

【新編鎌倉志】の扇谷の項に、

山の根に岩を扇の地紙の形に鑿り、内より清水湧き出づ。【扇井】扇の井と名く。鎌倉十井の一つ也。

と、紹介されています・・・

この井戸の名前の由来は、井戸が扇の形をしているからだとか、静御前が扇を納めたからだとか言われております!
自分は後者の方がロマンがあって好きです・・・

この辺一帯は現在扇ガ谷と呼ばれる地区ですが、その由来は扇ノ井があるから、また、谷戸が扇の様に広がっているからだとか言われています・・・もともとこの地域一帯は亀谷(かめがやつ)と言われており、扇谷とは英勝寺裏の極狭い地域を指したものだったらしいです・・・

その後、この地に住んでいた関東管領の上杉定正が、家宰の太田道真、道灌の活躍もありその名を上げ扇谷殿と呼ばれる様になると亀谷よりも扇谷の方が世に浸透していった様です・・・

現在、『亀』の痕跡は亀ヶ谷坂と寿福寺の山号亀谷山(きこくさん)、長寿寺の山号宝亀山(ほうきさん)くらいでしょうか・・・
鶴岡八幡宮と対で亀谷・・・縁起がいいですね・・・ちなみに我が逗子市には亀ヶ岡八幡宮がありますよ!

八幡社の祭神は主に応神天皇、比売神、神功皇后ですが、神功皇后は新羅との戦いに於いて、すでに身に宿していた応神天皇の出産時期を神の力で遅らせ、軍の指揮にあたり、これを打ち破った後に産んだとゆー話があります・・・
が・・・そもそも実在していたのか?
卑弥呼説とか訳わからない話も出てるけど・・・とにかく何時の時代も女性は強い!
頼朝亡き後も御家人を鼓舞した北条政子、女人救済にあたり尽力した東慶寺の住持達・・・
そんな女性達を鶴岡八幡宮の神功皇后も暖かく見守っていたんでしょうね・・・うんうん・・・
しかし、親子で祀られるなんてキリストとマリアみたいだなぁ・・・ 
扇ノ井1 扇ノ井2
扇ノ井があれなので、前出の岩船地蔵堂なるものをご紹介したいと思います!
このお堂は頼朝の長女の大姫の供養の為に建てられたもので海蔵寺が管理しています・・・
現在のお堂は平成13年に再建されたもので写真の通りキレイです・・・
名前の由来は祀られている石造地蔵菩薩が舟型後背を持っている事にちなみます・・・
扉は閉ざされていますが小さな穴窓があり、そこから中を覗くシステムになってます・・・

大町の辻薬師堂もそうでしたがこの覗くシステムは何か恥ずかしいですよね・・・でも覗きます!(笑)

中には錫杖と金の宝珠を持ち、向かって右に掌善童子、左に掌悪童子を従えた地蔵菩薩がおられます。
地蔵三尊形式とは珍しい!ナ~ム~・・・

二人の童子は地蔵菩薩の足元に居ます・・・愛らしい姿でお出迎えしてくれるので是非見に行って下さい!
ちなみに石造の地蔵はこの後ろにあり拝見することはできません・・・そっちが見たいのにねぇ・・・

この木造地蔵菩薩の胎内には『頼朝の娘の守り本尊であり元禄3年に堂を再建した時に本像を新たに造立した』
と、記された銘札があるそうです・・・

頼朝の長女の大姫は政子との間に出来た初めての子でしたがその人生はあまりにも悲しいものでした・・・
聞くも涙・・・語るも涙・・・


頼朝と対立していた木曾義仲(頼朝の従兄弟)との和睦の証として送られてきた嫡男の義高と婚約します!
当時義高11歳、大姫6歳でありました・・・
しかし、この和睦は長続きせず、義仲を良く思わない後白河法皇の要請をうけた頼朝は自ら上洛し義仲を討つべく鎌倉を出ますが、途中で引き返し代わりに義経を向かわせます・・・

京で失った信用を取り戻すべく平氏打倒に奮戦する義仲でしたが、自分を討ちに義経が大軍を率いて向かって来ていると知り驚愕!・・・宇治川、六条河原で連敗の末に結局粟津の戦いで討ち取られます・・・
後々の禍根を絶つため殺される運命であろう義高でしたが、大姫の手引きで鎌倉を脱出します!

逃走を知った頼朝は激昂し義高を討ち取るべく堀親家らを向かわせます!
5日後、義高は捕まり武蔵国入間河原で殺されてしまいます(享年12歳)。

義高を討った親家の郎党藤内光澄は首を持って意気揚々と鎌倉へ帰着します・・・ご褒美なんだろな?
しかし、義高死亡の事実を知った大姫は嘆きのあまり飲食を断ち病に臥せってしまいます・・・
幼いながらも義高を本当に愛していたんですね・・・たとえ政略的にあてがわれた相手とはいえ・・・

娘の事を不憫に思った政子は『配慮が足りない』として頼朝達を責め立てました!
事態を収拾するため頼朝は光澄を晒し首にします・・・ご褒美これかよ~俺死んだよ~。

その後も大姫は義高を思い続け一条高能との結婚話が出た時は『結婚するくらいなら海に身を投げて死ぬ!』とまで言って頑なに拒みました・・・熱い女です!そこまで言われた高能も不憫ですが(笑)

1195年に頼朝は政子、頼家、大姫と一家そろって東大寺大仏の落慶供養に出席するため鎌倉を出てますが、この時に後鳥羽天皇に大姫入内の働きかけをするも、2年後に大姫は失意のなか亡くなってしまいます(享年20歳)。
最後まで義高を思い続けた人生でした・・・

義高の墓は木曾塚と言われ、市内の常楽寺というお寺の裏山にある公園の松の根元にあります・・・

墓へ行く途中に小さな祠があり『姫宮(北条泰時の娘)の墓』と書かれた立札があります・・・
これが実は大姫の墓ではないかとも言われております・・・何ともいい話じゃぁないか!
無残に引き裂かれた二人が再び寄り添う事ができたんです!、たとえこの世でなくとも!

え?・・・泰時の娘はどうすんだって?・・・知りませんよそんなの(笑)

この常楽寺って寺は北条泰時が妻の母の追善供養の為に建てた粟船御堂(あわふねみどう)が前進と言われています・・・導師は鎌倉五山第五位の浄明寺開山の退耕行勇が務め盛大に執り行われた様ですね・・・

鎌倉五山第一位の建長寺開山の高僧蘭渓道隆が落慶までの間この寺に居たため、当時は教えを乞う僧達で溢れ返ったそうです『常楽は建長の根本なり』という謂れはそれに由来しています・・・

仏殿天井には狩野雪信の雲龍が描かれていますが、何と目が塗りつぶされています!
これは龍が毎晩水を飲みに行く時にガタガタと音がうるさかったので坊主が目を塗りつぶしたんだとか・・・
以来、物音はしなくなったと伝えられています・・・

またココの梵鐘は市内最古の物で建長寺、円覚寺の物と合わせて鎌倉三名鐘と言われています!
でも悲しいかなここだけ国宝指定は受けていません・・・
山号は粟船山(ぞくせんざん)と言います・・・粟船はここ大船の地名の由来の一つでもあります・・・
扇ノ井3 左の写真は信州海野宿です!
高校時代の友人と善光寺参りに行った時に立ち寄った場所であります・・・

何でいきなり長野に飛ぶ?・・・と思われるかもしれませんが、一応理由はあります・・・

木曾義高が和睦の証として鎌倉へ送られた時に海野幸氏と言う少年が同行します・・・

二人は同年代と言う事もあり、とても仲が良かった様で鎌倉では二人で双六をして良く遊んでいたらしいです・・・そして・・・

義高が鎌倉から逃げた時に、義高のふりをして御家人達の目を欺き時間稼ぎをしたのがこの幸氏なんです!
海野宿の資料館には弓の名手、海野小太郎幸氏と紹介されていました・・・内容は、
扇ノ井4
海野氏は東信濃の筆頭とも言われる名族であったがその中でも海野小太郎幸氏は木曾義仲の嫡子義高が源頼朝の人質となって鎌倉へ送られる時、特に選ばれて随行した。
この時、幸氏は十一才の少年であった。それ以後、源頼朝の御家人として重んじられ、特に弓馬の道に卓越した技能を有していたため、鎌倉幕府の弓馬に関する公式行事には射手として選ばれ将軍の前で弓の持ち方や流鏑馬について講義した。この幸氏に続いて海野矢四郎助氏、海野弥六泰信などが活躍している。

との事でした・・・

幸氏
武田信光小笠原長清望月重隆と並び弓馬四天王と称されました・・・
御家人として頼朝から5代将軍頼嗣まで鎌倉幕府に仕えています・・・

ちなみに鶴岡八幡宮の流鏑馬は春の鎌倉まつりは武田流、秋の例大祭では小笠原流が射手を務めていますよ!
そして逗子海岸でも地味~に流鏑馬やってますよ~(笑)

そんなこんなで海野氏は幸氏の代から更に領地を広げて行ったそうです・・・

上田城に寄った時に、いたる所にある六文銭を見て真田も海野の出なんだなぁ・・・
と実感させられました・・・

友人が子供の土産に真田十勇士の飴を買ってましたが・・・他に買うもの無かったのかなぁ?
歴史好きな友人はご満悦の様子でしたが・・・ 
 扇ノ井5 海野宿は凄い胡桃推しでした!
胡桃蕎麦、胡桃餅・・・取り敢えず胡桃餅を頂いてみる事にしました・・・甘く濃厚な感じがなんとも・・・
対比効果なのか付け合せのきゃらぶきこぶ茶が妙に美味しく感じました・・・

最後に海野小太郎ですよ!間違ってもウンコ太郎なんて言わないで下さいね!
以上、扇ノ井でした・・・ 

扇ノ井6 後日・・・パシャリ!
撮ってしまいました・・・
井戸は写ってません・・・ちょうどコンクリートの壁に隠れてしまいました・・・
何とも想像力を掻き立てられる一枚ですね(笑)

ガッツリ妄想してください!
そして現物を見て・・・感動するか?失望するか?
それは貴方しだいであります・・・
まぁ他の十井とは趣が違いますので、一見の価値はあると思います・・・多分・・・
『百聞は一見にしかず!』
 

この井戸が初めて文献に登場するのは沢庵宗彭の【鎌倉巡礼記】で寛永十年(1633)に和尚が訪れた事が記されています・・・【玉舟和尚鎌倉記】には、

岩ノ岸アツテ、ムカイハ円ク岸メグツテ、コナタハ角ヲ入テ井ヲ堀リタル故ニ、井ノ形チ扇ノゴトシ

と記されています・・・
【金兼藁】も扇形であるとし、【相州鎌倉図】や【扇ガ谷村絵図】などにも扇形の絵が描かれるなど、とにかく井戸の形状を最大限にアピールしています!
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