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妙長寺から向福寺へ向かって歩き、最初の駐車禁止の標識の所にあります・・・が・・・橋かこれ?
往時はどんな橋が架かっていたのだろう・・・現在は・・・ほぼドブ板状態ですね・・・
乱橋の標柱が・・・淋しい・・・ある意味心は乱されましたけど・・・
あまり突っこむと可哀想なので止めておきます。
道路向かいに石碑があります・・・
乱橋又濫橋ト作リ 一石橋ノ名ナリ 橋ノ南方ニ連理木アリテ名高シ 東鑑ノ宝治二年六月ノ条ニ 十八日寅刻 濫橋ノ辺一許町以南 雪降リ其ノ辺霜ノ如シナヨアリ 辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ鎌倉十橋ノ一ナリ。
乱橋また濫橋とも書き一石橋という名もある・・・橋の南方に連理木があって有名・・・
と言ってますね・・・連理木って二本の木が一つになっちゃってるアレですね、現在はありませんよ・・・
吾妻鏡の宝治二年(1248)6月18日条には、朝4時頃、濫橋の辺り一町ばかりの南に雪が降って、その辺りは霜がおりたようだ・・・と記されています・・・これが文献上この橋名の初見です!
旧暦の6月ですから現在の夏休み前くらいに雪が降ったって事ですね・・・
夏に雪なんて羨ましい限りです・・・脱温暖化!
ちなみに、この前後は、鎌倉で様々な異変が起きた事が記されていました。
乱橋の橋名の由来に、新田義貞と戦った北条軍がこの橋の辺りから崩れ始めたから・・・という説もありますが、吾妻鏡のこの記事を見るに、それ以前からみだればしと呼称されていたと思われますね・・・ |
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一石橋という別名ですが、もし現在と川幅が同じくらいだったなら、一枚岩がポンと置いておかれただけの橋だったのではないか?
とも想像できます・・・あくまで想像ですが・・・
左の写真は長野の善光寺の駒返橋です!
一枚岩じゃぁないですが、もしかしたらこんな感じだったのではなかろうか?とも考えられます・・・イメージとして・・・ |
結構ショボイ橋だったのかもしれませんね・・・名前は凄そうだけど・・・
乱橋は地名としても定着し土地の住人は乱橋材木座と呼びました・・・橋が村の中心にあり、乱橋地区と材木座地区を分けていたようです。
【新編相模国風土記稿】によると、元禄年間(1688~1704)以前は乱橋材木座村と呼ばれていたが、以後2地区に分かれたといいます・・・また寛文年中(1661~1673)に農業中心の乱橋(岡方)と漁業中心の材木座(浜方)の利害関係から争いになり、ついに分村に至ったという記録もあります(鎌倉近世史料)。
どうやら村の中も乱れてたようですね(笑)
元禄郷帳によれば、乱橋村の石高は52石余・永74貫文余・・・
材木座村の石高は32石余・永高10貫文とあります・・・ちなみに乱橋材木座は明治22年(1889)~昭和32年(1957)までちゃっかり大字として復活しています(参照:鎌倉の地名由来辞典) |
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コイツ等は善光寺の境内に居ました・・・
大きい方が善子さん小さいのが光子さん
とありますが・・・
ネーミングセンスはさて置き、ホルスタインかよっ!
どっかの公園から拾ってきたんでしょうか?
妙に哀愁を感じさせます・・・せめて色くらい塗り直せばいいのに・・・
逆にこの方がシュールで良いという考えなんでしょうか? 牛に引かれて乳搾りになってしまいますね・・・ |
幻牛伝説(ゆめでんせつ)という物があります。
『牛に引かれて善光寺参り』そんな布引伝説は古くから云い伝えられ訪れる人々に夢とロマンを与えてきました。
この伝説は、布引山釈尊寺に伝わる縁起書にあるように、信心を持たないおばあさんが牛に姿を変えた観音様に導かれ、善光寺までたどり着き今までの欲張りで意地悪な心を悔い改めた・・・
と言う心温まる昔話の伝説であります。この幻牛伝説を通じて、人間愛、郷土愛を育み心のよりどころとして、幻牛(ゆめ)街道を多くの人々が訪れ、世に言い伝えていけば、きっと現代の布引伝説が生まれ、伝説のおばあさんと牛に姿を変えた布引観音様の御加護があることでしょう。
布引山 釈尊寺
と釈尊寺の説明板にありましたが、描かれていたのは黒い牛でホルスタインではありませんでした・・・ |
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釈尊寺の観音堂です・・・ここに布引観音がいらっしゃいます・・・
ここまで登って来るのが結構大変でした・・・いいかげん足腰弱ってるなぁ・・・
観音堂は断崖絶壁に建っています・・・崖を穿ったトンネルをくぐると到着でありま~す!
手すりが妙に低いので腰が引けてしまいますが眺めは最高!
まぁ、そんなこんなで善光寺はウシ推しなんですね・・・山門に掛かる善光寺の額筆も良く見るとウシをフィーチャーしたものです・・・ |
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材木座の五所神社には今でも乱橋の手摺石が残っています・・・立札には、
1.右の石は馬繋ぎ石
2.左二本の石 乱橋手摺石
とあります・・・わざわざ番号ふらなくてもいいのに、律儀な人が書いたんでしょうね・・・ |
この神社が五所神社と呼ばれる様になったのは明治41年(1908)の事です・・・
先程も少し書きましたが乱橋材木座は乱橋村と材木座村に分かれました・・・その後明治時代に東鎌倉村に編入されて大字乱橋材木座として復活します・・・
乱橋村には三島社、八雲社、金毘羅社があり、材木座村には諏訪社、視女八坂社がありました・・・
で、明治6年(1873)に三島社が村社に列格され、その後に他の4社も合祀される事になり五所神社と名称を変える事にした様です・・・
五ヶ所にあった神社が合祀されて五所神社なんですね・・・何てベタなネーミングなんでしょ・・・
この神社は材木座の外れにあるので観光客とかはあまり訪れませんが、結構見所ありますよ!
疱瘡老婆(ホーソーバー)さんの石の横にある不動種子板碑は弘長二年(1262)の銘があり、国の重要美術品認定を受けていて、感應寺(材木座公会堂辺り)が廃寺になった際にココヘ移されたとの事・・・
不動明王の種子カンの梵字が刻まれた見事な物である・・・等々長々と案内板に書かれていました・・・
拝観料思し召しって(笑)
後ろに市指定有形文化財建造物・・・の柱が建っています・・・要は文化財保護法施行の時に重要美術品から重要文化財に繰り上げ登録されなかったって事ですね・・・
光明寺にも似たような板碑があったような気が・・・経時、良忠の墓の道標のトコに・・・ |
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あ~これこれ・・・デザインが同じですね・・・
だから何だって話ですが・・・何となく思い出してしまったもので・・・
場所も近いですし元々は同じ所にあった可能性もあるんではないでしょうか・・・
ところで光明寺のは何なんでしょうか?
今度聞いてみよう・・・
それまでは取り敢えず『ホーソージイサン』とでもしておく事にしますか(笑)
五所神社の稲荷社の前に寄せ集められた庚申塔群の中に摩利支天がいます・・・
多分この神社に足を運ぶ方達はこれを見に来ているんだと思います・・・丸彫りの3D感がイイ感じです・・・
ちゃんと可愛いイノシシに乗っていますよ・・・
3頭身なのが惜しい・・・
白雪姫に出て来る小人達じゃないかこれ!?
そう思うってしまうと、もうそれにしか見えません! |
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摩利支天は鎌倉では絶滅危惧種です!
禅居院には開山の清拙正澄(大鑑禅師)が皇帝に託されたという摩利支天坐像があるけど秘仏だしなぁ・・・
というか寺自体が一般公開されてないし、門閉まってて観光客は入れないや・・・
覚賢塔の山道から墓地に忍び込んで敵(住職)にフライングクロスチョップを喰らわせて、怯んでる隙に盗み見るってのはどうだろうか?・・・やめときますか・・・
他は・・・大太刀稲荷の所にあったかなぁ?・・・あっちは線彫りだけど、あれはあれで風流・・・
24時間見れる所って他にあるのかなぁ?
最後に新編鎌倉志を見て置きましょう!
亂橋(附連理木)
亂(或作濫)。橋は辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。鎌倉十橋の内なり。【東鑑】に寶治二年六月十八日、寅の尅に濫橋の邊、一許町以下南に雪降る。如霜とあり。橋の南に連理木あり。
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