御成小学校前から六地蔵に向かって行くと佐助川が交差しますが、そこに架かっている橋です!
橋の名は近くに問注所があった事に由来します・・・別名西行橋(さいぎょうばし) とも言います・・・
問注所旧蹟の石碑は御成小学校前という交差点の角に建っています・・・
問注所とは今でいう裁判所で、元暦元年(1184)10月20日に開設されました・・・
頼朝の乳母の妹の子といわれる三善康信が初代長官を務めています!
石造りの欄干がいい感じだ・・・と言ってみる・・・が・・・何か・・・味気ないなぁ・・・。
【裁許橋】
裁許橋は佐助谷より流れ出る川に渡せる橋なり。天狗堂の東にあり。里俗の云、頼朝の時此所に屋敷有て訴訟を決断す。故に名くと。今按ずるに、【東鑑】に、正治元年四月一日、頼家将軍の時、問注所を外に建てらる。是頼朝卿の時は、營中と一所に就て、訴論の人を召し決せらるゝの間だ、諸人羣集して鼓騒をなし、無禮をあらはすの條、頗る狼藉の基たり。故に他所に於て此儀を行はる。熊谷直實、久下直光と境論對決の日、直實、西侍に於て、鬢髮をはらふの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信が家を以て其所とす。今又別を新造せらるとあり。又同き二年五月十二日、念佛名の僧等を禁断し給ふ。比企の彌四郎、仰せを奉はり、これを相ひ具し、政所の橋の辺に行き向ひ、袈裟を剥ぎ取て焼くとあり。又和田合戦の時、御所の西南政所の前にて戦ふとあれば、此の所、頼朝屋敷よりは西南なれば、政所ありけるか。又、朝夷名の三郎義秀、足利の三郎義氏と、政所の前の橋の傍に於て相ひ逢ふと有。
問注所・政所の跡ならん歟。頼朝の時に限るべからず。その後のことにてもあらん。
と【新編鎌倉志】にあります・・・また西行橋については、
或人の云、西行橋とも云ふ。西行、鎌倉に来り此の橋に踟厨する故に名くとなり。何れを是としがたし。按ずるに【東鑑】に、西行、鎌倉に来る事、文治二年(1186)八月十五日、頼朝、鶴岡参詣の時、鳥居の辺に徘徊する老僧あり。
名を問はしめ給へば佐藤兵衛尉憲清法師也とあり。此橋鶴岡の二の鳥居へ近し。西行橋と云ふも縁なきにあらず。
徘徊する老僧ってフレーズが妙に気に入ってしまいました・・・佐藤憲清は西行の俗名です・・・
二ノ鳥居からここまでって近いかな?・・・近いといえば近いけどねぇ・・・
吾妻鏡には同日、頼朝が西行を御所に招き入れて色んな話をし、次の日の退出にあたっては銀作りの猫を贈った事・・・しかし、西行はこれを近所で遊んでいた子供にあげてしまった事などが記されています・・・
何て無欲な!
西行は東大寺の再建費用を勧進するため奥州へ赴く途中だったらしいです・・・
徘徊する老僧に出逢ってみたいもんです!・・・取り敢えずウチに招いて帰る時にキン消しでもあげよう!
また【新編鎌倉志】には西行見返松と言う記載もあります・・・
【西行見返松】
西行が見返まつは片瀬村へ行く路辺の右にあり。枚葉西方へ指す。西行、此の所に来て西の方を見返り、此の松の枝を都の方へねぢたりと也。故に戻松とも云ふ。
都が恋しくなっちゃったんでしょうね・・・湘南モノレールの湘南江の島駅で降り、江ノ島とは逆方向へ進み八百屋を超えた右側に、説明板と共に小さい松があります・・・
普通に見逃してしまいますがここにその松があったとされています・・・
現在の松は当然、後年植え替えられた物ですけどね・・・ |