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金沢街道を朝比奈方面へ進み、荏柄天神社の参道を過ぎてすぐの所にあります!
橋は二階堂川に架かっています・・・車の往来の多い道に架かる橋ですので情緒もへったくれもないですが、当時はどんな感じだったんでしょうね?
金沢街道は歩道も車道も狭く、自転車だと歩道は通行人の邪魔、車道は車の邪魔・・・と何処を走っていいのか見極めに気を使う箇所の多い道で、いつも気疲れしてしまいます・・・
歌ノ橋と言うだけあって歌にちなんだ由来があります・・・傍らにある石碑にこうあります、
鎌倉十橋ノ一ニシテ建保元年(皇紀一八七三)二月 渋川刑部六郎兼守 謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁イノ余リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄天神ニ奉献セシニ 翌朝将軍実朝伝聞セラレ御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦レシニヨリ 其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 似テ神徳ヲ謝シタリト伝ヘラレ此ノ名アリ
建保元年渋川刑部六郎兼守は謀反の罪で死罪になる所、思いのたけを十首の歌に込め荏柄天神に奉納した。次の朝、3代将軍実朝はその歌を見て感心し罪を許した・・・
その恩に報いる為に兼守はココに橋を建て神の加護に感謝した・・・的な事ですね。
建保元年(1213)信濃国に泉親衡と言う人物がいて、彼が2代将軍頼家の遺児栄実を将軍にして執権北条義時を討つ計画を立てていましたが、鎌倉に送り込んでいたスパイが捕まり計画がバレてしまいます・・・
この計画の首謀者は130人以上、一味は200人に及んだと言われています・・・
その中に兼守も加わっていたので捕まったんですね・・・実朝が和歌好きでラッキーでしたねぇ・・・
この謀反計画には侍所別当の和田義盛の息子の義直、義重に加え甥の胤長も関与してたらしく逮捕されますが、義盛の嘆願により息子二人は許されます・・・しかし胤長は首謀者として許されませんでした・・・
一族総出で嘆願する中、胤長は縄で縛られた恥ずかしい姿で二階堂行村に引き渡され後、陸奥国岩瀬郡に流されてしまいます・・・
没収された胤長の屋敷は義盛の訴えで戻ってきましたが、しばらくして義時が『やっぱ没収~』って家に居た者を追い出してしまいます・・・
大勢の前で甥を縄で縛られる恥辱、挙句にこの嫌がらせ・・・脳ミソ筋肉の義盛はこれに耐えられず北条を討つべく挙兵するしかありませんでした(同年5月2日)。
しかし義盛が一番頼りにしていた従兄弟の三浦義村の裏切りもあり、最初こそ押していましたが翌日、由比ヶ浜で敗死します・・・息子の義直が討たれ『今は戦う甲斐もなし』と大泣きしていた所を討ち取られると言う悲しい最後でした・・・
いわゆる和田合戦ですね・・・この合戦の後に義時は執権職に加え侍所別当も兼任する事になります!
泉親衡の謀反計画に関わった者達も和田一族以外は釈放となります・・・
北条氏の和田一族排除計画にまんまとハマってしまった感じになりますかね・・・
この和田合戦で大活躍したのが和田義盛の三男である 朝夷奈三郎義秀であります!
彼は一夜にして朝夷奈切通を切り開いたとの伝説の持ち主でもあります!
しかし吾妻鏡によると切通は、仁治元年(1240)に3代執権北条泰時が自ら現地に臨み、中野時景を奉行とし御家人に工事区間を割り当てたが、この年は地の神に障りがあるとして延期、翌年の完成となっています・・・
伝説は伝説として取って置きましょう・・・ |
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写真は切通の入り口にある小さい滝で三郎の滝と呼ばれています・・・ショボ過ぎる・・・
和田義盛の8人の息子の中で唯一生き残った義秀は、玄界灘を渡って高麗に逃げたという伝説があります!
凄いなぁ・・・釜山には彼の神社があるらしいです・・・
一族の墓である和田塚は鎌倉駅から江ノ電に乗り、次の駅の改札を出て右に少し行くとあります・・・
和田塚はズバリ駅名になってます! |
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そうそう和田塚といえば、駅のホーム向かい側にある無心庵って甘味処・・・
ここの豆かんはホントに美味しいのでお勧めです!
自分はあまり甘い物は得意ではないんですが、この店はお気に入りです・・・純和風な佇まいもいい感じです・・・
小さいけどお持ち帰りもできます!・・・お店HP貼って置きます!
店の注意書きにもありますが、上の写真の様に江ノ電の線路脇を通って行くのでくれぐれも電車には気を付けて下さいまし!・・・でも危険を冒してでも食べに行く価値はありますよ(笑)
話を歌の橋に戻して・・・【新編鎌倉志】にこうあります、
【歌橋】
荏柄の天神の馬場さきより少し東の道にあり。鎌倉十橋の一つなり。歌の橋と號する事、其いはれ不知。
何で歌ノ橋と呼ばれているのか、その由来は分からない・・・と言ってますね・・・テキトーだなぁ・・・ |