鎌倉市二階堂には、その昔、荏柄山天満宮とも称された荏柄天神社があります!
天神様ですから学問の神とされる菅原道真を祀っています・・・受験シーズンなどには願掛けに来る若者達で境内が賑やかになります・・・鎌倉で儲かっている数少ない神社だと思います!
日本三天神というのがありまして、この荏柄天神社もそのひとつに数えられる場合がある様です!
北野天満宮と大宰府天満宮の2社は不動ですが、残りの1社に防府天満宮、大阪天満宮、小平潟天満宮などが数えられているみたいなんですが、そこに荏柄天神社が加わる場合があるとか・・・結構アバウトなんですね(笑)
ココが三天神に含まれるのかどーかは置いといて、この荏柄天神の本殿は正和5年(1316)に建てられた鶴岡八幡宮の若宮を、寛永元年(1624)に移築した物であります・・・
修復はされていますが、鎌倉に残る数少ない中世建築を今に伝える物です!
恐らく鎌倉最古の建造物という事になるんではないでしょうか?
他には文和3年(1354)に足利尊氏が再建した覚園寺の薬師堂があります・・・改築はされていますが、当時の部材も残っています!・・・古い!といえるのはこれくらいでしょうか?
中世の建築物はホントに貴重です!
ちなみに鎌倉の建造物で唯一国宝指定を受けている円覚寺舎利殿は室町期の物です・・・ |
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ちゃんとこの鳥居からお参りしましょう!・・・岐れ路交差点から荏柄天神参道をぶった切る様に鎌倉宮参道があるので、
ほとんどの観光客はそこからショートカットしてお参りするんではないでしょうか?
でもアスファルトの参道よりもコチラの方が趣がありますよ!・・・こ~こはど~この細道じゃ~♪ |
より大きな地図で 荏柄天神社参道 を表示 |
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バス停天神下を過ぎると、2つ目の鳥居が現れます!・・・鳥居の手前で左折すると頼朝の墓方面へ行けます!
鶴岡八幡宮まで繋がる裏道ですが、観光客も地元民も良く利用する道なので意外と混んでいます・・・
自転車の際は、お爺ちゃんや子供を轢き殺さない様に細心の注意を払いましょう!(笑) |
鳥居の所に荏柄天神の史跡碑があります!
意外と見落としがちな場所に建っています・・・
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倭名鈔 當郡ニ荏草ト記セル郷名アリ 今其名ヲ失スレドモ當社附近ノ舊称ナリシガ如シ 草ニかやノ古訓アレバ 江がらハ江がやノ転訛ナルヲ後文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ
社前ノ松並木ヲ古来馬場ト稱ス 本社ハ元中央ニ菅公束帯ノ坐像 右方ニ天拜山祈誓ノ立像 左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ安置セシモ勸請ノ年代ヲ傳ヘズ
頼朝公初メテ大蔵ノ地ニ幕府ヲ設ケシ時 當社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トナス 爾来歴代将軍ノ尊奉セシ所 天文年間 北條氏康社前ニ關ヲ置キ關銭ヲ取リテ社料ニ共セシメシ事アリ
徳川氏ノ世ニハ鶴岡八幡宮造營ノ節毎ニ其ノ餘材残木ヲ受ケテ本社修造ニ抵ツルヲ例トセシト云フ
昭和四年十二月 鎌倉町青年團
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【倭名類聚抄】に『柄草』と記せる郷名があり、今はその名はありませんが、この神社附近の旧称の様です・・・
草の字にカヤの古訓があるので、江ガラは江ガヤの転化となり、後に今の様に文字を当てハメた物と思われます・・・
昔は社前の松並木を馬場といいました・・・
本社は、中央に菅原公束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置しておりますが、勧請の年代は分かっていません・・・
頼朝公が初めて大蔵の地に幕府を設けた時、当社を鬼門の鎮守と指定しています・・・
以後、歴代の将軍も尊奉しま した・・・天文年間に北条氏康が社前に関を置き、関銭を取って修繕費用にしました!
江戸時代には、鶴岡八幡宮造営の工事がある毎に、その余材で本社を修造する事が通例となっていました!
だそーです!・・・【倭名類聚抄】ってのは平安時代の百科事典みたいな物です! |
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まだ朝早いので荏柄天神社の門は閉まっていました・・・つー訳で、碑文にも出て来た関取場跡を紹介します!
何か土俵をイメージしてしまうのは自分だけでしょうか?(笑)
昔バイト先で凄い太った女の子がいて、関取ってあだ名だったなぁ・・・ヒドイ話です・・・
當所ヲ里俗せきばト稱ス 往時ハ關取場ト稱セル由 天文十七年 北條氏関ヲ此ノ處ニ設ケ関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造榮ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書今ニ藏セラレテ荏柄天神社ニ在リ
昭和六年三月建 鎌倉町青年團
この場所をジモティーは『せきば』と呼んでいます・・・昔は『関取場』と呼んでいました・・・
天文17年(1548)、北条氏がココに関所を設けて通行税を取り、荏柄天神の修繕費に充てさせた所です・・・
その掟書の文書は現在も荏柄天神社に所蔵されています・・・だってさ・・・
関料は、商人は3文、馬などでお参りに来る輩は10文、ジモティーは無料だったそうです・・・
清泉小学校の生徒による説明が、石碑横の掲示板に貼り付けられていました・・・良く調べた!偉いねェ・・・
すぐ近くに関所橋という橋がありますが、現在の姿からは当時を伺い知る事は出来ません・・・ |
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この関取場から永福寺方面へと続く道を二階堂大路といいます・・・自分は結構好きな道で、バス通り(鎌倉宮参道)は通らずにコチラを良く利用しています!・・・鎌倉らしい道のひとつだと思います・・・ |
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たまに車も来ますんで、川に落ちない様に気を付けましょう!・・・恥ずかしいですからね(笑)
昔と多少道筋は違う様ですが、ココが大路と呼ばれるのは、近くに鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺という頼朝三大寺があり、幕府も近い、大倉辻は交通の要所・・・結構重要な道だったんでしょう・・・
永福寺から先の道はどれくらい機能していたんでしょうかねぇ・・・気になる所ではあります・・・ |
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日を改めて再び訪問!・・・鳥居の先には天満亭という食事処があります・・・良い佇まいですね・・・
フランクフルト¥110、おでん¥420・・・おでん食べたいけど自分はコンビニで十分かな・・・
コンビニのおでんって結構バカにできないっすよ!・・・これでもかってくらい煮詰まってる時がありますけど、そーゆー時はアタリですね!・・・超美味いっす! |
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案内板がありますが、神社庁のHPに結構詳しく説明があったのでそちらを見た方が良さそうです!
荏柄天神社は、古くは荏柄山天満宮とも称され、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ三天神の一つに数えられる古来の名社で、愛知県に二社、広島県に一社、茨城の古河市を中心に千葉、埼玉の各県にわたって数社の分祠がある。
荏柄の社号は、奈良時代の天平七年(735)の『相模国封戸租交易帳』(『正倉院文書』)や『倭名類聚抄』の相模国鎌倉郡にみえる「荏草郷」の「エガヤ」がのちに転じて「エガラ」となり、「荏柄」と表記されたものと考えられる。
創祀については、社蔵の『相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によると、平安末期の長治元年(1104)8月25日に、一天俄かにかきくもり、雷雨と共に黒袍の束帯すがたの天神画像が天降り、里人がこの神験をおそれ降臨の地に社殿を建ててその画像を納め崇拝し、銀杏の木を植え神木としたとある。境内には今も銀杏の大木が高くそびえている。
治承4年(1180)鎌倉へ入った源頼朝は、大蔵の地に居館を営み幕府を開くが当社を鬼門の守護神と仰いだという。歴代の将軍家を始め幕府の崇敬社であった。『吾妻鏡』にはしばしば当社の記事がみえる。
建仁2年(1202)9月11日、将軍頼家は当社の祭に大江広元を奉幣使として派遣しているが、この祭典は御祭神菅原道真公の御神忌三百年祭であった。
また、建保元年(1213)2月25日、渋河兼守が冤罪を訴えて当社に献じた和歌十首が源實朝の知るところとなって、罪を許された話は有名で、「兼守虚名を愁へ篇什を奉りて、すでに天神の利生に預り、また将軍の恩化を蒙る。およそ鬼神を感ぜしむる、ただ和歌にあるものか。」と評しており、天神信仰の一端を示し和歌の徳を語るものである。
『鎌倉年中行事』によると、室町期には鎌倉公方は毎年正月23日、25日に参詣し、千句の催しがあったこと、また2月23日より25日まで参籠するのを慣例としていた。
康正元年(1455)6月16日、今川範忠は公方足利成氏を攻めて鎌倉へ入り、社壇は破られ神体は駿河国へ持ち去られたが、その後に神体は自ら当社へ戻られたという。『鎌倉大日記』はこの神体を天神自筆の画像と伝える。
天文17年(1548)、小田原城主北条氏康は、社殿造営のため金沢道に関所を設け通行の人馬から関銭を徴収してこれに充てた。今もその地に「関取場跡」がある。『小田原衆所領役帳』に荏柄天神領「廿一貫百文鎌倉社地之内」とみえる。
天正18年(1590)4月に、豊臣秀吉より二階堂郷中の六ケ所の一つとして禁制をうけ、同19年、徳川家康は「小坂郡鎌倉之内」より十九貫二百文の地を寄進し近世に至った。
平成17年7月14日に境内は国指定史跡に、本殿は国指定重要文化財に指定されており、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し、若宮の社殿(鎌倉時代末の建築)を当社へ移築したのが、現在の本殿と考えられている。以来鶴岡八幡宮の造営の際に、その古材、残材をもって当社を修営することが慣例となった。明治維新の神仏分離まで別当一乗院(古義真言宗)が当社を管掌し社地下の参道東側の地にあったが、現在は住宅地に変わっている。
明治6年に二階堂村の鎮守として村内の熊野社を合祀し、村社に加列。社宝として、弘長元年(1261)銘の木造天神坐像及び木造天神立像(重文)ほか多数存するが、世に知られている「荏柄天神縁起」や「庖丁正宗」も、もと当社に伝来したものであった。境内には、漫画家の清水崑氏が、鎌倉在住以来の神縁を感謝し、自ら愛用した絵筆を納めた「かっぱ筆塚」がある。表には清水崑氏の河童の絵、裏には川端康成氏の『かっぱ筆塚』の題字が刻されている。また、漫画家の横山隆一氏が中心となり、漫画家154名のかっぱ絵をレリーフした、筆型で高さ3メートル20センチ、直径1メートル、重さ800キログラムの青銅製「絵筆塚」が、かっぱ筆塚の後方にある。毎年10月中旬には、絵筆供養のための「絵筆塚祭」が漫画家多数参列のもと執り行われ、参道に掲揚されるプロの漫画家渾亳の漫画絵行灯や、同じく漫画家による似顔絵コーナーなど参拝者の賑わいが絶えない。
結構内容濃いですね・・・案内板も外国語表記とかいらないから、その分内容を充実させて欲しい物です・・・
ちなみに建保元年(1213)2月25日の渋川兼守の話ですが、罪を許された兼守がそのお礼にと造ったのが歌ノ橋であり、鎌倉十橋のひとつとして現在も二階堂川に架かっています・・・当時の面影はありませんけど・・・
情報は十分手に入りましたが、一応【新編鎌倉志】も見て置きましょう! |
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【荏柄天神】(附和田平太胤長屋敷)
荏柄の天神は大倉村の東、海道の北なり。當社は頼朝卿の時より有なり。しかれども祝融の災ひ度々にて記録不傳、文献徴とすべきなし。【東鑑】に正治三年九月十一日、荏柄社祭なりとあり。又、建暦三年二月二十五日、渋河刑部の六郎兼守、十首の詠歌を荏柄の聖廟に進ずとあり。今十九貫二百文の御朱印あり。別當を一乗院と云ふ。真言宗、洛の東寺の末寺なり。本社に菅丞相束帯の像を安す。
作者不知。足・膝焼ふすぶりてあり。 五臓六腑を作り入れ、内に鈴を掛て舌とし、頭内に十一面観音を作りこむと云ふ。又、門前に関取場と云所ろあり。今は畠とす。
相ひ傳ふ、北條氏直より宮の前に関をすへ関銭を取、宮造営の為に寄附せられし所ろなりと。其の関札板に書付今にあり。
鶴が岡の一の鳥居より當社馬場前なで六町計あり。
菅原道真束帯像は結構凝った造りだったんですね・・・
関所を設けたのは後北条5代氏直だといっています!
3代氏康じゃなかったの?・・・どっちなんだい? |
ココは元鎌倉国宝館館長の三浦勝男氏がその著書の中で氏康としているのでそれを採用したいと思います!
でも関所橋の事を関取橋っていってるしなぁ・・・もう誰も信用出来なくなってきました(笑)
荏柄天神社所蔵の掟書を見れば解決なんでしょうけど・・・
別当の一乗院は京都の東寺(教王護国寺)末だったんですね・・・上の絵図によると参道の右側にあった様です・・・
そして反対側には和田平太胤長の屋敷があった様です・・・胤長は和田義盛の甥で泉親衡の乱に関与していたとして捕まった人物ですね・・・その後、胤長の屋敷が北条義時に没収された事で遂に義盛がキレ、和田合戦へと繋がって行ったって話は【歌ノ橋】のページで書かせて頂いたと思います・・・
歌ノ橋を建てた渋川兼守も泉親衡の乱に関与していた疑いをかけられて捕まった人物です!
上の絵図の下部に歌ノ橋がちゃんと描かれていますね・・・それと当時は鳥居はひとつだけだったみたいですね・・・ |
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さぁ、階段登ってお参りしましょう!・・・傍らには『菅公一千年祭記念碑』と刻まれた大きな石碑が建っています・・・
いろんな天神さんで良く見かける代物です・・・ |
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境内で何やらやっていますね・・・訪れたのは1月25日、初天神祭(筆供養)です!
日頃使ってボロボロになった筆をお焚きあげする日であります!
実は自分も趣味のお絵描きでボロボロになった筆を納めにやって参りました・・・
今まで有り難う!もっと絵が上手くなります様に!(笑)
2月8日には、裁縫の上達を祈願して古くなった針を豆腐に刺して感謝する針供養も行われます!
豆腐が結構デカクて美味そうなんすよねぇ・・・来年はワサビと醤油持参かな?(笑) |
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門を潜って右側には市指定天然記念物の大イチョウがあります・・・鶴岡八幡宮の隠れイチョウがポッキリと折れてしまった現在、このイチョウが鎌倉で一番大きなイチョウとなりました・・・太いなぁ・・・
このイチョウが立っている場所が天神画像が降ってきた場所だといわれています・・・画像が降ってきた場所を踏まない様にイチョウを植えたんだとか・・・樹齢900年だそうです!
縁起によると画像が降って来たのは1104年との事ですから、逆算すると大体それくらいになりますね・・・
荏柄天神社草創期に植えられたって話も信憑性が上ります!
樹齢1000年、高さ25m、幹回り10mだった鶴岡八幡宮の物とほぼ同じ大きさだとか・・・長生きしてるなぁ・・・ |
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天神様といったら梅ですよねぇ・・・
社も梅マークがいっぱい・・・すっぱそう・・・
別に梅干しではないですけど(笑)
こちらは拝殿で、貴重な中世建築とされる本殿はこの後側にあります!
拝殿に向かって左側には古代青軸、右側には寒紅梅が植えられているんですけど、大体針供養前後が見頃かと思います・・・ |
今回はまだちょっと早かったみたいです・・・自分は鎌倉では東慶寺の梅が好きです!
梅、ミツマタ、桜とシーズンは混みますけど、東慶寺の梅は雰囲気いいんですよねぇ・・・
それと雪の日の東慶寺はかなりいいです!・・・観光客も少ないし、幽玄の世界を楽しむ事が出来ます! |
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神輿庫もオープンしていました・・・海の日の前日に行われる神輿渡御ではチンピラ風な方々がコレを担いで練り歩きます・・・横の小さい子供神輿は2人用なんでしょうか?・・・1人でも余裕で持てそうだけど・・・ |
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修学旅行生でしょうか?・・・こんな季節に?・・・単に受験祈願に来た学生達でしょうか?・・・頑張れ!
昭和46年に漫画家清水崑が、愛用した絵筆を納めるために建設したかっぱ筆塚という物があるんですけど、写真を撮り忘れてしまいました(笑)・・・ちょうど右上の画像の一番右側に写っているオッサンの背中ら辺にチラ見えしているのがそれであります・・・
大きな石には筆を担いだ河童の絵が彫られていて、裏側には川端康成が揮毫した『かっぱ筆塚』の文字があります!
清水崑なんていわれても最近の人はピンと来ないかもしれませんね・・・
自分も漫画は知りません・・・ただ黄桜のイメージキャラクターを描いていた人だという認識だけです・・・
『かっぱっぱーるんぱっぱー♪かーぱ黄桜かっぱっぱー♪』ってCMは印象深いです・・・
自分と同年代で知らない人はいないんではないでしょうか?・・・耳に残るCMでした・・・
黄桜のHP覗いてみたらかっぱ家族の自己紹介というページがありまして、どーやら5人家族の様でした・・・
そして名前が・・・全員かっぱでした(笑)・・・家族全員同じ名前って大変そうですね・・・
そしてかっぱ筆塚の奥の高台にあるのが絵筆塚です! |
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横山隆一はフクちゃんという漫画を書いていた人です・・・自分が子供の頃にアニメ化もしていましたが、イマイチ人気がありませんでした・・・絵描き歌もあった様な気がします・・・
横山氏の邸宅は現在スターバックスコーヒー鎌倉御成町店になっています・・・
氏の邸宅跡地を生かして一風変わった店舗となってますよぉ~! |
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先程の神社庁の説明だと、高さ3m20cm、直径1m、重さ800kgあるみたいです・・・パッと見、筆には見えないですよね?
玉ネギが乗っかってるみたいです・・・もしくはポルテ? |
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こんな感じで漫画家による河童モチーフのレリーフが154枚も貼り付けられています・・・
自分の知らない漫画家ばっかです・・・う~ん・・・知らん・・・もちろんメジャーな漫画家の作品もありますよ! |
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これは河童アトムですね・・・
やはりキャラクターのある作者は強いですなぁ・・・
ゴルゴ13の作者のレリーフもありましたが、河童ゴルゴではありませんでした・・・
キャラが崩壊するからやめたのかな?
河童ゴルゴ見たかったなぁ(笑)
しかし、こんだけレリーフがあると、墨塗って、紙あてて、
バランでゴシゴシしたくなりません? |
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おっ、アンクルトリスだ!・・・作者は知らないけどサントリートリスのキャラクター!(笑)
そしてドラえもんは一番目立つ場所に配置されていました!・・・その他大勢とは違うぜっていうアピールでしょうか?
ドラえもんの右上には、サインだけ見えてますけどアンパンマンの作者の作品もありました!
サントリーホワイトのCMカッコ良かったなぁ・・・ハービーハンコックがソロでウォーターメロンマン弾いてるヤツ!
YouTubeで探したら見つかりましたんで貼って置きますね!・・・渋いなぁ・・・ |
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最後は鍵盤にショットグラス置いて『ストレート!』って言っちゃってるし・・・渋過ぎです!
ロンカーターとトニーウィリアムスのトリオで処女航海演ってるバージョンもありました・・・
こちらは最後に『ハービーハイボール!』とか意味不明な事まで言わされちゃって(笑) 多分小学生の頃だったと思いますが、アレで自分はJazzに目覚めたのかも知れません・・・ |
サミーデイビスJr.とかレイチャールズとか、ホワイトのCMのJazzマンシリーズは良かったなぁ・・・懐かしい・・・
でもハンコックが創価学会だっていう事実は自分的にはちょっと残念かな(笑)
南無妙法蓮華経という題目も外人からすると侍や忍者と同じなのかも知れませんね・・・ |
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絵筆塚の所からは本殿が良く見えます・・・
う~ん・・・まぁ、こんなモンですよ・・・
貴重な物である事は確かです!
無料で見れるだけでも儲けモンと思わなくては・・・
赤白が梅の季節になるとより一層映えるんですよねぇ・・・
何か色合いがおせち料理っぽいですけど、カマボコか?
まぁ、めでたいって事で良しとしましょう! |
そーいえばカマボコの赤い部分はサボテンなどに寄生するコチニールカイガラムシから抽出した色素を使うらしい!
赤い物は大体このムシが使われているんではないでしょうか?・・・メスには羽が生えてるみたいです(Wikipedia参照)
特に体に害は無いみたいですけど、ムシってのが微妙ですよね・・・知らない内に食ってんだろうなぁ・・・? |
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絵筆塚の向かい側には熊野権現社があります・・・穴が右奥に続いている感じなんですが、立入禁止なので確認する事は出来ません・・・毎度の事ながらメッチャ気になるなぁ・・・
【鎌倉の花小辞典】という本に、蜂飼耳という自分と同年代の文人のエッセイが載っています・・・
『天神様の銀杏をはさむ』と題されたそれには、
天神様は私にとって、子どものころからの遊び場のひとつだった。社殿の右手に洞窟がある。いまは入口に賽銭箱が置かれ、はっきりと結界が示されていて足を踏みいれることはできないが、以前はなにもなかった。岩にあいた小さなトンネルだった。そろりそろりと伝っていって、抜けるのに十秒とかからない。それでも、子どもたちにとって、そこは肝試しの場だった。このまま行ったらどこかちがう世界に吸いこまれてしまう。心の底では、いっそ吸いこまれたいと思っていたのかもしれない。薄暗がりの奥の奥、その気配にひかれて背後で空気がぞぞんと波立った。
抜けるのに十秒とかからないトンネルであるといっています・・・貫通していたんですね!・・・吸い込まれてぇ~(笑)
また、彼女の祖母の話では、当時は門も無く、まだ暗いうちからバケツ持ってギンナンを拾いに行ったとの事です・・・ |
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今度は反対側から本殿を激写!・・・近くで良く見れないのがとても残念です・・・
覚園寺の薬師堂も黒地蔵縁日の時以外は坊さんの案内付きじゃないと見れないし、鎌倉で中世建築を心行くまで堪能する事は不可能の様ですね・・・
でもあの茅葺の薬師堂を見ていると、何故か心が洗われます・・・隣で坊さんが一生懸命説明してくれます・・・
よく喋る坊さんだなぁ・・・少し黙っててくれ!
・・・なんて言えません(笑) |
禅宗様ですが内部は石敷きではなく土間になっています・・・ちなみに撮影不可です!
覚園寺の前身は北条義時が建てた大倉薬師堂ですが、どんな感じの建物だったんでしょう?
今となっては知る術もありません・・・
あ・・・本殿の案内板あったので一応貼って置きますね・・・ |
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何だか知らない間にトイレがパワーアップしていました!・・・暖房便座ですよ!・・・スゲー!
人が多かったのでさすがに写真は撮りませんでしたけど(笑)
トイレの手前に尾崎迷堂の句碑がありました! |
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表面
荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣実朝の忌なりけり |
裏面
大慈咲き 大悲さきたる さくらかな |
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尾崎迷堂は寺の住職を勤めながら俳人としても知られた人物の様です・・・ちなみに自分は知りませんでした・・・
杉本寺と慶覚院の時代がよく知られていると書いてあります・・・
慶覚院は国道1号を西に進み、花水川を越えた所にある寺であります!
通り沿いから高来神社(たかくじんじゃ)の鳥居が見えるのですぐ分かると思います!
高麗山(こまやま)の麓にある慶覚院は、慶長18年(1613)創建!・・・高麗寺の末寺でした!
明治の神仏分離によって高麗寺が廃寺となり、千手観音や仁王像などがこの寺に移されています・・・
この千手観音は高来神社の御船祭の由来にもなっているらしいです・・・
高来神社の始まりは、神宮皇后が三韓征伐(新羅、百済、高句麗)の後に、神皇産霊尊と高麗権現を祀った物で、
後に瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后が祀られた様です・・・
養老元年(717)には、行基が高来寺を創建・・・千手観音を本地仏と定め、神仏習合の聖地となります!
鎌倉時代には高麗寺(こまじ)と呼ばれる様になったそうです・・・
建久3年(1192)8月9日、頼朝は妻政子の安産加持祈祷をしましたが、その祈願所のひとつとして選ばれています!
以下は【吾妻鏡】の記述です・・・
建久3年8月9日 己酉 天晴、風静まる
早旦以後に御台所御産の気あり。御加持は宮の法眼、験者は義慶房、大学房等。鶴岡、相模国の神社、仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。所謂、
福田寺(酒匂) 平等寺(豊田) 範隆寺(平塚)
宗元寺(三浦) 常蘇寺(城所) 王福寺(坂下)
新楽寺(小磯) 高麗寺(大磯) 国分寺(一宮下)
弥勒寺(波多野) 五大寺(八幡、大會御堂と号す) 寺務寺
観音寺(金目) 大山寺 霊山寺(日向)
大箱根 惣社(柳田) 一の宮(佐河大明神)
二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神) 四の宮(前祖大明神)
八幡宮 天満宮 五頭宮
黒部宮(平塚) 賀茂(柳下) 新日吉(柳田)
そして実朝は無事に生まれましたとさ・・・
こーして見てみると、横須賀の宗元寺と逗子の寺務寺(神武寺)以外は平塚、伊勢原、大磯の物件ばかりですね・・・
その後、神仏分離で高麗寺が廃され高麗神社となり、更に明治30年(1897)に高来神社に改称されたそうです・・・
さて、天智7年(668)、新羅により高句麗が滅ぼされると、高麗国の王族である若光は大磯に渡って来たといいます!
高麗山にも若光の伝説が残っているとの事です・・・ |
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伊勢原の白髯神社の祭神は、その若光であります!
自分は関東では白髭神社、関西では白髯神社だと思っていたので、この額を見た時に少し違和感を感じました・・・
額も大理石みたいな感じで珍しいですね!
鳥居の額にも白髯神社とありました・・・
しらひげ神社の総本社は滋賀県で、こちらは鬚・・・
基本猿田彦を祀っている神社ですが、字の違いに法則性はあるんでしょうか?・・・ハッキリして欲しいなぁ・・・ |
髭、鬚、髯・・・どーやら、くちひげ(髭)、あごひげ(鬚)、ほおひげ(髯)と漢字を使い分けるらしい(Wikipedia参照)
ちょっとだけスッキリ・・・
白髯神社のすぐ近くにある日向薬師(宝城坊)は霊亀2年(716)、行基によって開かれた霊山寺がその前身であるとされています・・・薬師如来を彫りたいが良材が見つからなくて困っていた行基に、若光が数尺の香木を与えたという言い伝えが伊勢原には残っているそうです・・・
ココも政子の安産祈願所のひとつとして選ばれていますね!・・・つ~かまたまた行基かよ(笑)
頼朝は長女大姫の病気平癒祈願にもココへ参詣し大太鼓を納めたそうです・・・
現在は宝城坊が残るのみです・・・
若光は大磯から日向、更に武蔵国日高に移り住みました・・・どんどん北上して行ったんですね(笑)
現在の埼玉県日高市は旧高麗郡の中にあり、市内には高麗川が流れ、高麗山聖天院勝楽寺、高麗神社があり若光伝説も多く残されています・・・
高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務めていて、現宮司は60代目だそうです! |
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聖天院は日本の寺とはちょっと雰囲気が違います・・・
アチラの香りが境内に充満しています!
結構新鮮かも知れません・・・
ココには若光の墓があり、石像もあります!
ココで若光のヒゲを検証をしてみましょう!
ちょっと北大路欣也に似てるな(笑)
くちひげOK、あごひげOK・・・ほおひげはありませんね・・・
ん~・・・髯は無いぞっ! |
若光を祀るなら白髭神社か白鬚神社の方がいいんじゃないですかね?・・・髯は無いんだから・・・
アチラの王族ですから鬚を伸ばすのは分かりますが、あまり髯を伸ばしてるイメージは無いですよね?
何で白髯神社なんでしょうか?・・・識者の教えを乞いたい所です・・・それか北大路神社にしましょう!(笑) |
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ちなみに高麗山と日向薬師はかながわの景勝50選に指定されています・・・
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おまけ
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今年の初めに友人と三権現巡りをしようという事になり、訪れた伊豆山神社・・・
雷電社の前には腰掛けるのにちょうど良さそうな石がありますが、これは光石といわれている物です!
何でも大磯の高麗山から道祖神の猿田彦大神と天宇受売命とともに来た神様が降り立った石だそうな!
座ったり、触ったりすると御利益があるそうです・・・
境内案内図には神様が描かれていました・・・瓊瓊杵尊だと思われますが絵がテキトー過ぎて逆にイイです! |
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天宇受売命はココでもパイオツとアソコを丸出しにしたんでしょうか?(笑)
頼朝と政子に因んで縁結びの御利益がある伊豆山神社ですが、その社務所の破風板は何とハート型にくり抜かれています・・・訪れた際は是非見てみて下さい!・・・いい御縁に巡りあえるかも知れませんよ!?
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おしまい |