ブログ 筋違橋1
   鎌倉十橋 
    
歌ノ橋 夷堂橋 勝ノ橋 裁許橋 逆川橋
十王堂橋 筋違橋 針磨橋 琵琶橋 乱橋

鎌倉名数マップはこちら!

筋違橋2 筋違橋3
宝戒寺を出て右に曲がり、最初の信号付近!
【新編相模国風土記稿】によると石橋だった様ですね・・・
昭和28年の道路拡張工事に伴い現在は完全な暗渠と化しその面影もありません・・・

すじかえはし、すじがえはしとも読みます・・・また筋替橋、須地賀江橋とも書きます・・・
筋違とは要するに『道が斜めに交わっている所』という意味だそうです・・・

ここは元々は真っ直ぐな道だったと思われますが、頼朝が鶴岡八幡宮を建てた事により不自然に曲がってしまったんじゃないでしょうか・・・
最近行ってみたら工事の真っ最中で、石碑が少し宝戒寺寄りに移動していました・・・
何が建つんでしょうか?

写真左の建物は旭屋本店という和菓子屋さんで、ココのロール状の豆大福は大変美味であります!
ちなみに豆大福以外は食べた事ないんで良く知りません・・・今度挑戦してみます!

【吾妻鏡】に宝治合戦(1247)の際、筑後知定が岩崎兵衛尉を筋替橋で捕まえたとの記載がありますが、これが文献に見るこの橋の初登場であります・・・
同書の建保元年(1213)の項に違橋の記載がありますが、これを筋違橋とみる説もあります・・・

何にしてもふくらはぎが痛くなりそうな名前の橋ですね(笑)
史跡碑があるので見てみましょう・・・

筋替橋
鎌倉十橋ノ一ナリ 宝治元年(皇紀1907)6月 三浦泰村一族ノ叛乱ニ際シ 北条時頼ノ外祖タル安達景盛ハ 其ノ一族ト共ニ兵ヲ率イ 此ノ橋ノ北辺ヨリ泰村ノ第ヲ攻メシコト東鑑ニ見エタリ 又 文平二年(皇紀1925)3月鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地域ヲ数カ所ニ限定セル触書中ニ『一所須地賀江橋』トアルハ即チ此附近ノ事ナリ

宝治合戦(1247)の事が書かれてます・・・安達一族の軍がこの橋の北辺から泰村の屋敷を攻めた・・・
あと、鎌倉の町屋として許可された数ヶ所の内の一つに須地賀江橋も入っていた・・・

数ヶ所とは七ヶ所(大町、小町、魚町、穀町、武蔵大路下、須地賀江橋、大倉辻)あります(【吾妻鏡】 文永2年3月5日の項目参照)。

石碑には文平二年とありますが文永二年の間違いかと思います・・・

宝治合戦で先陣を務めたのは底脱ノ井で触れた安達泰盛(景盛の孫)です・・・ 三浦泰村は穏健派であり戦いは避けたかった様です・・・一方弟の三浦光村は北条氏に対してかなりの反感を抱いていた様ですね・・・

そんなこんなで攻め込まれ、泰村は法華堂へ、光村は永福寺へと逃げ込みます・・・
血気盛んな光村は永福寺で合流して軍を立て直すよう兄へ伝令を出しますが、当の泰村はもう諦めて死ぬ気満々・・・
『これまでか・・・』と光村は兄のいる法華堂へ向かいます・・・
そして頼朝の墓前で一族郎党500人ことごとく自刃するのでした・・・

大江広元の四男に季光(すえみつ)という人物がいますが、相模国毛利荘を所領していたので毛利季光と名乗っています・・・戦国武将の毛利氏の祖とされている人物です!

そんな彼の嫁は泰村の妹でした・・・始めは北条方に組しようとするのですが、嫁に『(義理の)兄を裏切るのは武士のする事ではない!』と説得され、三浦方に付き、結果彼も自刃して果てます・・・ 
筋違橋4 筋違橋5
その毛利季光は法華堂跡の東側、山の中腹に父大江広元、島津忠久と共に眠っています・・・
島津忠久(島津氏の祖、頼朝の庶子であるとの説もあるがかなり微妙)の墓は安永8年(1779年)に子孫の島津重豪(しげひで)によって造られました・・・その時に頼朝の墓も造って参道も整備したようです・・・

頼朝の墓の東側に『元祖島津豊後守忠久石塔道』と刻まれた石柱があり、尾根道を通り3人の墓まで行けますが、入り口がご覧の状態なので無理はしないで下さい・・・
滑って転んで打ち所が悪くそのまま彼等と一緒に眠る事に・・・なんて事になったらシャレになりません!
死なないまでも滑るだけでかっこ悪過ぎますしね・・・
別にココを通らなくても下にちゃんとした参道がありますし、ちゃんとした階段で上まで行けます・・・

大江広元の墓は文政6年(1823)に長州藩士の村田清風が整備に来たようです・・・
参道入り口近くに清風の句碑があります・・・

この時長州藩は、胡桃山にあった村人達に伝わる広元の墓を発見できず(村人も教えなかったらしい)近くにあった名も知れぬそれを広元の墓としたんだそうです・・・
つまり、現在広元の墓とされている物は実際、誰の墓か分からないって事ですね・・・
筋違橋6 筋違橋7
多くの人が訪れるこの大江広元墓ですが地元の人はこちらは当然観光用と考えています・・・

鎌倉のはずれに明王院という寺があり、その東側の脇道は天園ハイキングコースへと繋がっています!
みんなだいたい瑞泉寺を出入り口とするので、あまり使われない道ですが、胡桃山をトボトボ登って行くとボロボロの鳥居の奥に初弁天(はじめべんてん)と言われている小さな祠があります・・・

祠の左側の道を通り、分れ道を山頂に向かい少し急な勾配を登り切ると、いかにも古い五層塔があり、これこそが村人が隠し通した伝大江広元墓だと言われています・・・
落ち葉が積もる中にひっそりと建っており趣があります・・・
写真がどっか行ってしまったので今度久しぶりに行って来ようと思います!

観光用の墓から階段を降ると平場になっており、右側にやぐらがあります・・・中には墓石らしき物と共に、
『三浦若狭守泰村外一統五百余人』と書かれた卒塔婆が立っておりました。三浦一族の末裔が現在に至るまで供養し続けているんですかねぇ・・・ナ~ム~・・・。 
筋違橋8 筋違橋9
右の写真は広元達の墓から平場へ降りて振り返った所です・・・
鳥居がある方が大江側、もう一本は島津側参道・・・
まぁどーせ最後は一緒なんですけどね・・・この平場からもう一段下るんですけど島津側は草がボーボーでとても通る気になれませんでした・・・下には村田清風の句碑があります・・・


こないだ明治40年出版の【歴史地理大観・かまくら】(古書店で五千円前後で買えます、自分は貧乏なので図書館にて閲覧)に付属している地図を見ていたら鶯谷山、志一稲荷の南側にデカデカと大江季光墓と書かれていました・・・
え?・・・そこにあったのは知ってるけど・・・文政6年に移動したんじゃないの?
移動後もなんかしらの遺構として残ってたの?まさかこの付属の地図が文政6年以前の物なの?
それとも単なる間違い?

そ~いえば故正四位下陸奥守大江公碑(広元)、故蔵人従五位下大江公碑(季光)の両石碑に文政6年とあったから、勝手に広元の墓と同時期に移されたんだとばかり思い込んでたなぁ・・・実際は明治40年以降に現在の地に移動したのかなぁ?・・・ちょっと史料読まないとわかりませんねこれは・・・

今まで全然気にも留めなかったけど、何か気になってきた・・・毛利季光墓跡が見たい!
移動後に埋めたりしてなければ何かしら痕跡が残ってる可能性も高いし!
これは超気になってきた・・・是非お目にかかりたい物件です!
付近の駐車場奥の斜面も怪しいなぁ・・・
でも、もし遺構があるとして、民家裏のやぐらとかでない限り、藪漕ぎコースになりそうだなぁ・・・
この季節はもうムシムシパラダイスでマムシ『シャー!』だし、しばらく見送りですね・・・

調べるのも止めとこう・・・すぐに答えが出てしまいそう・・・このワクワクとモヤモヤを楽しみながら今、晩飯のカレーを作っている自分・・・

一応、【新編鎌倉志】も見て置きましょう!

【筋替橋】(附畠山重忠屋敷 鎌倉の十橋)
筋替(或作須地賀江(或は須地賀江に作る))橋は、雪下より大倉村へ出る道の橋なり。
【鎌倉十橋】鎌倉の十橋と云は、琶琵橋・筋替橋・歌橋・勝橋・裁許橋・針磨橋・夷堂橋・逆川橋・亂橋・十王堂橋なり。
【重忠屋舗】筋替橋の西北を、畠山重忠が屋敷の跡と云。
【東鑑】に、正治元年五月七日、醫師時長、昨日京都より参著す。今日掃部の頭が龜谷の家より、畠山次郎重忠が、南御門の宅に移り住す。是近々に候ぜしめ、姫君の御病惱を療治し奉らんが為なりとあり。

姫君とは頼朝の次女乙姫の事ですね・・・彼女の治療の為に幕府は名医であった丹波時長に鎌倉へ下向する様にいいましたが時長はこれに従いませんでした・・・しかし、その後に院宣が出て、結局鎌倉へ来る事になりました!

後日、図書館で【図説鎌倉回顧】を見ていたら往時の筋違橋の写真が載っていました!
太鼓橋とまでは言わないけど少し丸みのある橋でした・・・ 
ダム 上へ      HOME