大町四ツ角の交差点から南下して左折するとあります!
鎌倉十橋の石標がありますが、えらい傾いています・・・車にでもぶつけられたんでしょうかね?
その内に石標も逆さになってしまうんじゃないでしょうか(笑)
さかがわばし、さかさがわばしともいいます・・・
逆川が内陸部に大きく蛇行する所に架かる橋です・・・ この流域は海とは逆方向に川が流れているので、何か不思議な感じがします・・・川はこの後、滑川に合流します。
コンクリート製の何処にでもある味気ない橋ですが、川沿いに進む道は結構好きです・・・
特に安養院からローソンまでの道と並行して一本海側に通る道は中々に情緒があって鎌倉というより京都的な何かを感じさせられてしまう・・・大袈裟かな?・・・大袈裟だな(笑)
グングン上流に向かって行けば面白い事があるかもしれない・・・これはまたの機会に紹介したいと思います!
【逆川】
逆川は名越坂より流れて西北に行く。故に逆川と云。大町と辻町の間へ流れ出て、閻魔川と合ふて入海、大町と辻町との間に橋あり、逆川橋と云ふ。鎌倉十橋の一つなり。
と、【新編鎌倉志】にあります・・・当時は夷堂橋から逆川橋までを大町、逆川橋から乱橋までを辻町、大町四ツ角から西方は米町と呼ばれていたとも記されてます・・・
閻魔川と合流して海へと至る・・・閻魔川とは要は滑川の事で、昔近くに閻魔堂があった事から、この辺りの流域は閻魔川と呼ばれていました・・・滑川はその流域によって呼び方が変わります・・・
新居閲魔は由比の濵大鳥居の東南にあり。新居山と号す。堂に圓應寺と額ありリ。開山は知学禅師、建長寺の末寺なり。寺領は建長寺領の内にて三貫文を附す。
そう現在、建長寺の向かい側にある荒居山圓應寺は当時は海の近くにありました・・・
その前は大仏の東側の山にあったようです・・・現在の位置に移ったのは元禄の大地震(1703)で壊滅的な被害を受けての事だそうです・・・
圓應寺の仏像はどれも迫力があり圧倒されます・・・
鎌倉国宝館にも当寺より寄託された仏像が多数あるので見に行かれるのもいいかもしれません・・・
木造初江王坐像のあの迫力と躍動感は生で見るとまた一段と増します!
圓應寺の本尊木造閻魔王座像は笑い閻魔とも言われています・・・
仏師運慶は病気で瀕死の状態になり閻魔様の前に引き出され時に
『現世に戻してやるから俺の彫刻を造って人々にみせてやれ!』
と、言われました・・・息を吹き返した運慶は笑いながら閻魔像を彫ったため、像も笑っているように見える・・・というのがそう呼ばれる所以だそうです・・・
またこの時に余った木材で造ったとされるのが、延命寺にある木あまりの像と呼ばれる木造阿弥陀如来像です・・・予定より早く出来上がった事から日あまりの像とも言われています・・・
由比ヶ浜に圓應寺があった頃のお話があるので紹介したいと思います!
その昔、閻魔様は瘧(おこり)を治す御利益があると言われ、多くの人が閻魔堂に参拝に訪れていた。
ある日、瘧にかかった子供を連れた父親がやってきた。父親は閻魔様に病気平癒を願い、おとなしくお籠りしているようにと子に言い聞かせ、後で迎えに来ると言って帰ってしまった。
ところが、夕方にあちこち探せど見つからず、堂に戻って閻魔様を見ると、大きく開けた口から見覚えのある帯の端がのぞいている。閻魔様が子供を呑んでしまった・・・という話であります・・・
父親が願いを『聞こし召し下さい(お聞き入れ下さい)』と手をあわせた言葉を、閻魔様は『この子を召し上がって下さい』という意味にとった・・・というもので、江戸時代、正保年間に鎌倉を訪れた僧が地元の僧から聞いた話として伝わっている。(参考:かまくらむかしばなし)
閻魔様素直過ぎ・・・子供食べちゃダメでしょ・・・
『だって父親がいいって言ったんだモン』by閻魔
閻魔様は地蔵菩薩の化身とも言われています・・・恐い顔してますが実は慈悲深いんですよ。
でも一般的に閻魔王は恐い地獄の裁判官・・・てイメージが強いですよね・・・
仏教には、死んだ人間は忌日ごとに十の王に裁きを受ける十王信仰なるものがありますが、閻魔様もこの裁判官の一員であります! |