ブログ 夷堂橋1
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夷堂橋2 夷堂橋3
本覚寺の門前、滑川に架かる橋です。
滑川はその流域によって別の呼称がありますがここら辺は夷堂にちなんで夷堂川と呼ばれています。

十橋の内で唯一木製の欄干を持っています・・・と見せかけて実は鉄製です・・・最近見に行ったら朱色に塗り直している最中でした・・・だもんで上の写真とは少し雰囲気が変わっていると思います・・・

袂にある史跡碑には、

鎌倉十橋ノ一ニシテ此辺ハ往昔夷堂アリシトイフ  此川ハ上流ニテ胡桃川ト云ヒ 浄明寺門前ニ至リ滑川ノ名アリ
文覚屋敷ト伝ヘラルヽ辺ハ坐禅川ト唱ヘ 此辺ハ夷堂川ト呼ビ 延命寺ノ傍ヨリすみうり川ト名ツケ 閻魔堂址ノ辺ニテハ閻魔川トイフ                    
                                 昭和七年三月建 鎌倉町青年団

と書かれています・・・説明の通り、滑川はその流域によって呼称が変わります!

【新編鎌倉志】も見てみましょう!

【夷堂橋】
夷堂橋は小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此の辺に夷三郎の社ありしとなり、今はなし。

座禅川というのも滑川の部分的別称で、文覚上人屋敷跡辺りの流れの事を言います・・・
ところで夷三郎ノ社ってなんでしょう?昔あったという夷堂の事?ドコ行ったんでしょう?

本覚寺は江の島・鎌倉七福神のえびす様が居るお寺です・・・
宝戒寺方面に少し歩いて行くと蛭子(ひるこ)神社もあります・・・
ひるこ・・・エビスとも読みますよね・・・何か怪しい!

取り敢えず蛭子神社から調べてみる事にしました・・・
夷堂橋4 夷堂橋5
手元にある【鎌倉の神社小辞典】という本には

小町の鎮守。その昔、現在の夷堂橋付近に『夷三郎社』という神社があった。社は永享年間(1429~1441)の本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となり、里人の信仰を集めていた。それが明治の神仏分離で現在地に移り、もともと同地に祀られていた『七面大明神』、宝戒寺の境内の『山王大権現』とともに合祀されて蛭子神社となった。

明治6年(1873)小町区の鎮守として村社に列格された。本殿は明治7年(1874)鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したもの。関東大震災で大破し、昭和9年(1934)に改築されたが、本殿内部は今宮の社殿をそのまま内臓した。夷堂は昭和56年(1981)本覚寺で再建された。


蛭子神社~異郷より漂着した客神~

蛭子神とは異郷より漂着、来臨する客神(まれひとがみ)。エビスとも読み、夷、戎、恵比寿とも表記され、その起源は山幸彦で知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)とも大国主命の長子・事代主命とも言われるが、信仰の中心地である兵庫県西宮神社では夷三郎大明神(蛭子命(ひるこのみこと)) を祭神としている。
神話によれば伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)二尊の子・蛭子の命は3歳になっても足が立たなかったため海へと流されたが、摂津国西の浦に漂着。かの地で育てられ夷三郎大明神となった。

鮫や鯨、イルカや水死体をエビスと呼ぶ地方もあることから、初めは漁業の神だったとみえるが、その後商業の守護神、農民の神となった。
室町以降、七福神に加えられてからはエビス大黒とも呼ばれ、鯛を小脇に抱えた福神として定着した。

とありました・・・夷三郎社は本覚寺の夷堂になり、明治の神仏分離で蛭子神社に合祀され、その後また本覚寺に再建されて現在に至っていたんですね・・・なんかスッキリしました!
それに水死体をエビスって言うなんて知りませんでした・・・今までドザエモン一択(笑)

本覚寺の起源も少し調べてみると、
永享8年(1436)に日出によって創建された、もともとここには天台宗系の夷堂があったが、日出はこれを日蓮宗に改めて本覚寺とした・・・とありました・・・

お寺の案内板にはこの夷堂は幕府の裏鬼門に当たるとして源頼朝が建てたとありました・・・
また日蓮上人が伊豆から戻った時に、ココに滞在したとも書いてありました・・・

すぐ近くに日蓮上人辻説法跡がありますが、ココで寝てあそこで説法して・・・と想像が膨らみます・・・
この辻説法跡は明治時代に田中智学って宗教研究家が整備した物のようです。通りの反対側にあった物を現在地に移したそうです・・・。

本覚寺2代目住持の日朝は、後に身延山久遠寺の住持になり、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨します・・・これが本覚寺が東身延と呼ばれる所以です。 
夷堂橋6 夷堂橋7
寺には暴れん坊将軍こと8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信筆の東身延の額も伝わります。
ここの夷様は半跏で合掌してますが、何より真っ黒なのが印象的です・・・マットブラックですね。
シュッとしてます・・・提灯に描かれている愛嬌たっぷりなそれとは全くの別物ですね・・・

【皇国地誌】によると夷堂橋は明治9年(1876)の修繕に伴い大町橋と改称したらしいが、この新名称は浸透せず、結局もとの夷堂橋となり現在に至っています・・・
夷堂橋8 夷堂橋9
亀ヶ谷坂の入り口にある田中智学師子王文庫趾の石柱碑です・・・昔ここに田中智学の別荘があったそうです。

その後香風園って言う風情のある温泉旅館になってましたが・・・
現在は扇ガ谷鎌倉コートハウスと言うマンションになってしまいました・・・
入り口のアーチ状の門だけが当時を物語ります。
仕方のない事なのかもしれませんが古き良き時代の物がどんどん消滅して行きます・・・

頼朝の隠し湯・・・入りたかったなぁ・・・
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