今回は悲劇の皇子、護良親王の墓が鎌倉にあるので紹介させて頂きたいと思います!
もりよししんのう、もりながしんのう、大塔宮(東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)の辺りに門室を置いた事から)とも言います・・・、彼は日本史の授業でも必ず出て来る有名人なので、ご存知の方も多いとは思いますが例の如くザックリと説明させて頂きたいと思います・・・知ってるよって方はスルーして頂いて差し支えない話です・・・
護良親王は後醍醐天皇の第一皇子、母は源親子・・・若くして亡くなりましたが激動の時代を歩んだ人生でした・・・
1324年、幕府の援助のもと後伏見上皇が一方的に量仁親王の立太子を企てたました・・・これにキレた後醍醐天皇は幕府からの政権奪取を計ります・・・いわゆる正中の変です・・・
後醍醐天皇は側近の日野資朝、日野俊基らと共に倒幕を画策しますがこれを知った土岐頼員が六波羅の斎藤利幸に密告した事により計画が露見してしまいます・・・天皇は釈明の為、万里小路宣房を鎌倉に派遣します・・・
結果、日野資朝が全ての罪を被り、首謀者として佐渡に流されています・・・
難を逃れた後醍醐天皇は虎視眈々と次の機会をうかがいます・・・11歳で比叡山延暦寺に入山した護良親王を20歳で天台座主に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力としました・・・
1331年、天皇は日野俊基らと再び討幕計画を企てますが、吉田定房が六波羅へ密告した事により、またしても計画が露見してしまいます・・・天皇は追っ手を逃れ比叡山へ行くと見せかけて笠置山へ行き挙兵しました!元弘の変の始まりです!
北条高時は量仁親王を光厳天皇として擁立させます(北朝の始まり)・・・ちなみに同年、高時は目の上のタンコブ長崎高資の討伐も図っていますが失敗に終わっています・・・
幕府は、後醍醐天皇討伐の為に足利高氏、新田義貞、大仏貞直、金沢貞冬らの大軍を差し向けました!
笠置山陥落、次いで護良親王の吉野山、金峯山寺も陥落・・・護良親王は逃亡、楠木正成も下赤坂城に火を放ち自害と見せかけ逃亡・・・
後醍醐天皇は隠岐に流され、日野俊基は鎌倉の葛原岡で処刑、佐渡に流されていた日野資朝も処刑されました・・・
こうして2度目の倒幕計画も失敗に終わりました・・・
後醍醐天皇の流刑中に、千早城で挙兵した楠木正成は赤坂城を奪回し、六波羅勢を撃破!
尊雲法親王(護良親王)も還俗し、吉野で挙兵!幕府は再び大軍を差し向け鎮圧に乗り出します・・・
赤坂城陥落、護良親王も敗走・・・
続けて幕府方は千早城の攻略を始めますが、正成の守りは固く手こずっている間に幕府の権威が落ち、各地に倒幕の機運が広がって行きました・・・
これを好機と見た後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐を脱出し、船上山に入り倒幕の綸旨を発しました!
幕府は後醍醐天皇を討伐軍として足利高氏らを送り込むが、高氏は丹波国篠村八幡宮で反旗を翻し六波羅を攻め落とし京都を制圧しました・・・
坂東では幕府に所領を没収された新田義貞が生品神社で倒幕の旗を揚げます!
挙兵した新田軍は足利高氏の嫡子、千寿王と合流し、その数は【太平記】、【梅松論】ともに20万騎以上に膨れ上がったと記しています・・・
小手指ヶ原、分倍河原で幕府軍に勝利し、鎌倉へと攻め上がります!・・・有名な稲村ヶ崎の奇跡(笑)で背後を突かれた幕府軍は形勢を立て直す事かなわず・・・高時以下北条一族は東勝寺で集団自決・・・幕府は滅亡しました・・・
尊氏の嫡子千寿王(義詮)が幼少で頼りない事から、足利直義が4歳の成良親王を奉じて鎌倉に下向します・・・
後醍醐天皇による建武新政下で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛します!
しかし、後醍醐天皇と反目し、征夷大将軍を解任され、1334年、足利尊氏、阿野廉子の讒言により皇位簒奪(さんだつ:継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること)を企てたとして、名和長年、結城親光らに捕らえられ、鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府(成良親王を長とし尊氏の弟の直義がこれを補佐)の足利直義の監視下に置かれる事になります・・・
1335年7月、北条高時の遺児,、時行が信濃の諏訪頼重らに擁立されて反乱を起こし、女影原、小手指原、府中で足利軍を破り、同月25日、一時的に鎌倉を取り戻します(中先代の乱)
これより先の22日に足利直義は、成良親王、足利義詮とともに鎌倉を脱出し、西へ敗走します・・・
この時、時行と護良親王が結びつくのを恐れた直義は、家臣の淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました!・・・
23日深夜の事です、親王享年28歳でした
足利尊氏は後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と征夷大将軍と総追捕使の役職を要請します・・・
しかし、これを認めると武家政権が成立し、天皇親政が崩壊してしまうので後醍醐天皇はその要請を拒否します・・・
尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は追って尊氏に征東将軍の称号を与えています・・・
直義と合流した尊氏は鎌倉を取り戻します!・・・その後の上洛命令も無視!
後醍醐天皇の建武の親政は、護良親王に仕えていた赤松則祐と父赤松則村の反乱・・・そして1336年に足利尊氏が、赤松則村と連携した事により崩れ始めます・・・
後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞、楠木正成などの奮闘もあり、尊氏を九州方面まで敗走させましたが、赤松則村が白旗城に篭って抵抗している間に形勢を建て直した尊氏により京を追い出されました・・・ここに建武の親政は完全に崩壊し南北朝の時代が始まります・・・
以上が倒幕から建武の親政崩壊までのザックリ系あらすじです・・・後醍醐天皇の失脚は公家を重用しすぎて武士の反感を買ってしまった事が大きな原因かと思われます・・・ |
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鎌倉宮です・・・東光寺跡に建つ建武中興十五社のひとつです・・・創建は明治2年(1869)、祭神は当然大塔宮護良親王・・・獅子頭推しなのは護良親王が兜に獅子頭を付けていたことに縁ります・・・
しかし・・・上の写真の獅子頭・・・鼻フックされてる芸人の様でなんか微妙です・・・口を開けて迫力を出したかったのは分かるんですが、鼻フック以外に方法はなかったのか?
東光寺は鎌倉に連行された護良親王が監禁、殺害された場所で、現在の鎌倉宮には復元された土牢が残ります・・・
鎌倉宮に関してはまた別の機会に詳しく紹介させて頂くとして、もともとココにあった東光寺ですが、臨済宗の寺で創建は建久4年(1193)に源頼朝が建てた薬師堂が前身という説と、承元3年(1209)に二階堂行光が創建したという説があります・・・鎌倉宮には東光寺に関する文献は残っていない様で、廃寺の時期もよく分かっていません・・・
【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【大塔宮土籠】
大塔宮の土籠は、覚園寺の東南、二階堂村の山の麓に有り。二段の石窟なり。内は八畳敷ばかりもあり。
【太平記】に、建武元年五月三日、大塔の宮を足利直義うけ取り、鎌倉へ下し奉て、二階堂が谷に土籠を塗りてぞ置参せける。後に乱起るに及て直義、淵邊伊賀の守義博に命じて云く、始終讎とならせらるべきは、兵部卿親王也。
御邊は急ぎ薬師堂が谷へ馳歸て、宮を刺し殺し進せよと下知せられければ、義博畏て承候とて、建武二年七月二十三日に殺し奉る。御首をば藪の中へ投げ入たりしを、理致光院の長老、葬禮の事営むとあり。則ち此の所ろなり。
石塔は理智光寺の山上にあり。
按ずるに、【通鑑】に、北齋王高洋、其の弟永安王浚、上黨王渙を收皆な盛るに鉄籠を以てし、地牢に置く。飲食溲穢幷に一所に在。又高湛、祖珽をとらへて、桎梏して、地牢の中に置く。夜蕪菁を燭とす。眼為に熏べらる。是に因て明を失ふとあり。所謂地牢は、土の籠なるべし。異域にも有る事也。然れども洋や湛は、君とし兄として、其の弟其の臣を囚ふ。直義は、臣下として、親王を殺せり。滔天の罪惡、誅戮のがるべきにあらず。
藪に捨てられた護良親王の首は理智光寺の住職が供養し、その石塔は理智光寺の山上にあるといってます・・・
また、足利直義を痛烈に批判していますね(笑)・・・
【東光寺舊跡】
東光寺の舊跡は、大塔の宮の土籠の前の畠也。醫王山と號す。開山未考。
【鎌倉大日記】に、建武二年七月二十三日、兵部卿の宮、直義が為に、東光寺に於て生害せらるとあり。
【竺仙録】に、貞和三年七月二十三日、日本國、相模州、鎌倉縣、東光禪寺住持比丘友桂、國朝の為に寶塔を建立すとあり。【空華集】に、義堂、東光寺にて大塔の宮を弔ふの詩あり。
東光弔大塔兵部卿親王 義堂
塔影稜々半入雲 王孫曾此洒啼痕 獄中劒気衝天起 門外兵塵蔽日昏
山鳥乍驚龍鳳質 野童那識帝王尊 興亡不上禅僧眼 只見霊光歸獨存
東光寺の山号は医王山といったんですね・・・ウチの近くの神武寺と同じだ・・・貞和三年は1347年です・・・
塔影稜々として半ば雲に入る・・・カッコイイですねぇ・・・
義堂周信は夢窓疎石のお弟子さんです、初代鎌倉公方の足利基氏に招かれ下向し、鎌倉とは非常に関わりの深い人物です・・・京に帰った後は建仁寺、南禅寺の住職も務めています・・・彼とよく比べられる絶海中津が詠んだ詩はなかったんですかね?
取り敢えず黄門様が訪れた時、東光寺は既に廃寺となっていた様ですね・・・
【理智光寺】
理智光寺は五峯山理智光寺と號す。土の籠の東南なり。【太平記】には、理致光院とあり。本尊は阿彌陀、作者不知。
腹中に名佛を蔵むる故に、俗是を鞘阿彌陀と云ふ。開山は願行。牌に當寺開山勅謚宗燈憲静宗師とあり。
願行の牌なりと云ふ。又大塔宮の牌あり。沒故兵部卿親王尊霊と有。裡に建武二年七月廿三日とあり。
此牌は淨光明寺の慈恩院に有しを、理智光寺にあるべき物也とて慈恩院より當寺へ移し置く也。
【大塔ノ宮ノ石塔】 山ノ上ニアリ。
理智光寺の開山は願行房憲静だったんですね!
願行は安養院の前身のひとつである長楽寺の開山とも伝わります、また大山の不動明王像の作者でもあり、そのプロトタイプは現在覚園寺にある『試みの不動』と呼ばれている物です・・・
【太平記】には理致光院とあるっていってますが、いつから理智光寺と呼ばれる様になったんでしょうか?
【金沢文庫文書】、【北条九代記】、【常楽記】などによると南北朝期には理智光院といわれていた様です・・・浄光明寺の慈恩院にあった護良親王の位牌を理智光寺に戻したとありますが、【鎌倉廃寺事典】によると、利智光寺慈恩院充、天文十六年(1547)とあるので、少なくとも天文以降は理智光寺と呼ばれていたのではないかとしていました・・・
これは衰退した理智光寺を浄光明寺の慈恩院が管理していたという裏付けにもなり、位牌が慈恩院にあった事も頷けるともいってます!
本尊の鞘阿弥陀は廃寺の時に覚園寺の薬師堂に移された様です・・・
鎌倉宮から永福寺跡方面へ道を進み、途中で右側の道に入り坂を登り切ると理智光寺址の石碑があります! |
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此所ハ願行上人ヲ開山トセシ五峰山理智知光寺ノ址ナリ建武二年淵邊伊賀守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ護良親王を弑シ奉リシガ其御死相ニ怖レ御首ヲ傍ラナル薮中ニ捨テ去リシヲ当時ノ住僧拾ヒ取リ山上ニ埋葬シ奉リシトイフ
昭和七年三月建 鎌倉町青年団
護良親王は淵辺義博に殺される際に激しく抵抗し、義博もやっとの思いで親王の首を掻いたと伝わります・・・ |
本来なら直義のもとへ持ち帰るべき首ですが、折れた刀の刃に噛み付き、目を見開いた物凄い形相のそれを見た義博は恐ろしくなり、主にも見せるべき物ではないとして藪の中へ捨てた様です・・・ |
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石碑の向かい側に護良親王墓の入り口があります・・・やっとこさ今回の本題に突入です!
『後醍醐天皇皇子護良親王墓』と刻まれた標柱が建っています・・・裏には宮内庁と刻まれています・・・
そーなんです、この墓は宮内庁が管理しています・・・金使ってますねぇ~凄いキレイに整備されています・・・
古老の話では、廃寺前、この階段の手前に庫裡があり、お婆さんがひとり留守番をしていて手習いの先生だったそうで、近所の子供達はココに通ったそうです・・・お婆さんひとりって・・・衰退ぶりが伺えますね・・・
階段や玉垣も鎌倉宮建設と同時に整備された物との事です・・・ |
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階段を登りましょう!・・・縁石の苔がイイ感じです・・・登り切ると平場になっていますがその先に延々と階段が続いています・・・静かです・・・ちょっとゆっくりしたい感じの場所ではありますが、イモ虫を発見してしまうと帰りたくなるので先に進む事にします・・・絶対いるだろうなぁ・・・でも発見しない限りはいないという自分ルールを適用です・・・
初夏の山歩きはいつもこんな感じ・・・イモ虫を発見するとブルーになって下山パターンが多いです(笑) |
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登ります・・・相変わらずイイ感じの苔です・・・この先2回折り返すと・・・ |
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到着です・・・この先は門が閉ざされていて進む事は出来ません・・・石段まで苔まみれです・・・
青い門扉の先には古い宝篋印塔があるそうですがココからでは全貌は拝めません・・・
木々が生い茂っていて眼下の眺望も臨めません・・・ |
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【鎌倉攬勝考】に記載されていた護良親王墓の絵です!
以前実物を写真で見た事がありますが、正にこんな感じでした・・・
笠がなくて基礎の上に相輪が乗ってて不完全な宝篋印塔だなぁ・・・と記憶しております・・・明治初期に整備された時も補修されず、そのままの形で維持されたんですね・・・
素晴らしい!・・・現状維持は基本です!
何でもかんでもイジればいいって訳ではありません! |
何か絵で見ると焼却炉みたいですね・・・煙突あるし・・・ずっと見てるとロボットの顔にも見えて来ます・・・ |
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そんな訳で作ってみました!
鎌倉市非公認キャラクター、建武中興ロボ もりよし君!
どーですかこれ?(笑)
流行りのゆるキャラとは一線を画す攻撃的なフォルム!
右手のドリルでそこら中に穴を掘りまくります(笑)
年末の道路工事、通称『鎌倉掘り』のマスコットキャラとして大活躍間違いなしです!
目や口を入れれば可愛らしさもアップするでしょう! |
鎌倉宮でもりよし君のお守りとストラップ売り出しましょう!・・・もりよし君グミも!
ちょっと暇だったのでくだらない事をしてしまいました・・・でもこれ、護良親王の宝篋印塔を見た事がない人にとっては全く意味の分からないキャラクターですよね(笑)・・・話を進めます、【鎌倉攬勝考】の理智光寺の項を見てみましょう・・・
【理智光寺】
五峰山と號す。永福寺舊跡より東。古へは此邊も大倉と號しけり。往昔、貞永元年十二月廿七日、後藤大夫判官基綱、故右府『實朝』追薦奉為に、大倉に一寺建立の功をなせり。供養導師は辨僧正定豪『鶴岡大別當』と云云。
夫より後に至り、理智光寺と稱し、願行を開山とし、禅律にて、京都泉涌寺の末也。開山願行の牌に、開山勅諡宗燈憲静宗師と有。佛壇に大塔宮の牌あり。寺傳に云、浄光明寺の慈恩院に有しが、是は常寺に有べきものとて、爰へ移せしといえり。『鞘阿彌陀』本尊阿彌陀(作不知)腹籠りに霊佛を納しゆへに土人是を鞘阿彌陀と唱ふ。此寺今は尼寺と成。山内東慶寺の末となれり。
もともとは後藤基綱が3代将軍実朝の追善供養の為に建てた寺が前身の様ですね・・・
それに【鎌倉攬勝考】が編纂された時代(1829年)には尼寺になっていた様です・・・東慶寺の末寺だと言っています!
東慶寺第5世の用堂尼は護良親王の妹に当たりますから、繋がりとしては申し分ないですね・・・
護良親王の位牌は現在その東慶寺にあります・・・
後藤基綱は4代将軍九条頼経の側近で歌人としても知られています・・・嘉禄元年(1225)、評定衆が設置された際11人の内のひとりとして選ばれています・・・頼経の失脚では京に同行・・・その後引付衆としてカムバックしています! |
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登って来た時には気付きませんでしたが、石段の傍らにこれまたイイ感じの積石が・・・
抹茶味の生チョコみたいですね・・・美味そぉ・・・ 久し振りにチョコが食べたくなって来たぞ(笑)
でも引っくり返したらダンゴ虫イッパイ出てきそうだな・・・
柵に囲われた古井戸らしき物もありましたが屋根で蓋がされていて中は覗けませんでした・・・ |
この辺り一帯は理智光寺ヶ谷と呼ばれる地域で、かつては理智光寺の寺域だったんでしょうが、現在は墓の手前まで宅地開発が進み軒並み家が建っています・・・
この護良親王墓ですが、やはり墓石が見れないのは不完全燃焼です・・・明治新政府にとっては聖域だったんでしょうが天皇も人間宣言している現在、せめてあの青い門扉の所までは登れる様にしてもらいたいですね・・・
特別公開等もしていない様なので残念です・・・今後もりよし君が日の目を見る機会もなさそうです・・・ |
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さて、場所を移して大町の妙法寺です!
安国論寺の横に妙法寺道と彫られた大きな石柱が建っていて、しばらく進むと右側に写真の様な入り口があります!
鎌倉の外れにあって入山料¥300という強気な寺です・・・
しょっちゅう行くには金の掛かる寺ですが自分の大好きな寺であります・・・裏山との融合が素晴らしいです・・・
鎌倉の寺らしくないと言えばそーかも知れませんが・・・ |
自分はリフレッシュしたい時によく訪れる寺です・・・忘れられがちな寺ですが、超お勧めですよぉ~!
『写真撮影目的者、脚類持参者の入山を禁ず』と書かれた看板が入り口に置かれています・・・
確かに撮影スポットになる場所は道が狭いんですよねぇこの寺・・・でも一眼レフや肩から下げたごついツールボックスなど、周りに迷惑になりそうな、いかにもな装備でなければ特に問題ありません・・・境内全面禁煙の寺が多い中、ココは山門を潜った所に灰皿が設置されていて愛煙家にも優しい寺です・・・
何故この寺に来たかというと、ココにも護良親王の墓があるからです!・・・取り敢えず案内板を見てみましょう!
ここは布教の為安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮上人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を非難したため草庵が焼き打ちされた『松葉ヶ谷法難』の場所もこのあたりであるとの伝承があります。
のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮上人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。
護良親王の墓がある山頂からは市街地と海を見渡せます。
てな訳でさっそく山頂目指して登りましょう!・・・適当に花を楽しみつつ進んで行きます・・・ |
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ココは新緑の季節がお勧めです・・・まぁ、全シーズン通してお勧めなんですけどね・・・
階段を登り仁王門に到着・・・更に先には階段が続いています・・・この風景・・・何か鎌倉っぽくないんですよねぇ・・・
奈良にでも来た様です・・・でも凄くイイ!
苔生した階段ってなんでこんなに癒されるんでしょうか?
綺麗に削ぎ落としたら全く違う風景になるんでしょうね・・・
でもそんな事したら住職に殴られますね(笑) |
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中々迫力があります・・・取り敢えずスルーしてイモ虫を発見しない内に先を急ぎましょう・・・ |
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ちなみにこの苔生した階段は登れません・・・横に道が造ってありそちらを進んで行きます・・・
平場に出て日叡上人お手植のソテツを横目に進むと、また苔生した階段になりますが、今度はこれを登ります・・・
滑って怪我しない様に気を付けましょう・・・登り切ると正面に松葉谷御小庵趾があります・・・
杉本寺の苔生した階段も素晴らしいですが、こちらは場所が場所なだけに観光客は少なめなので、落ち着いて感慨に耽る事が出来ます・・・う~ん、リフレッシュ!
御小庵趾から道は左右に分かれます・・・取り敢えず左側の道を行きます! |
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しばらく行くとなにやら竹の柵に囲まれた怪しい石塔群が見えて来ます・・・
これが日叡と南の方の墓と伝わる石塔であります・・・
それぞれ後ろに石碑があり、
楞厳法親王日叡上人御墓
新按察典侍南之方御墓
と、刻まれております・・・木々の繁茂が凄くて眺望は臨めません・・・切っちゃえばいいのに・・・ |
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左が日叡の墓、右が南の方の墓です・・・怪しいなぁコレ・・・五輪塔と宝篋印塔を拾い集めて適当に組み合わせた感じの石塔です・・・ココまでごちゃ混ぜなら南の方の穴にも何か刺してあげればいいのに・・・
何か間抜けです・・・もりよし君がドリルで穴開けちゃったんでしょうか?(笑)
南の方は藤原保藤の娘で雛鶴姫といいました・・・父である後醍醐天皇に加勢する為還俗した護良親王は、北畠親房の娘の立花姫を正妻としました・・・現在と違い家と家の結びつきを重んじる氏社会では好きだからといって簡単に正式な夫婦には成れませんでした・・・
雛鶴姫は側室ではありましたが護良親王が一番愛した女性である事に間違いはありません・・・
【尊卑分脈】によると、持明院保藤という公家の娘に後醍醐院新按察典侍於護良親王家南御方とあります・・・
これはもともと後醍醐天皇に典侍していて護良親王に払い下げられたって事なんでしょうか?
飽きた女を息子に・・・なんてどーでもいいか・・・鎌倉に連行された親王に付き従って同行した女性ですから愛は本物だったんでしょう・・・多分ね(笑)・・・こんな話があります、
護良親王の死後、雛鶴姫と数人の従者たちは護良親王の御首級を抱き鎌倉を離れる事にしました・・・
一行は先ず王子神社に足を運び、ここで護良親王の御首級を洗い清めます・・・
東海道は警戒厳重であろうと、小田原より引き返して甲斐、信濃から京を目指す事にしました・・・
道中体調を崩した雛鶴姫は相模国愛甲郡津久井の青山村の光明寺にて体を癒しました・・・その間、護良親王の三十五日忌の供養を営み、小高い丘に供養塔を建てて護良親王の霊を慰めます・・・
この場所は千部塚といわれ現在も残っています・・・信玄道といって、武田信玄が小田原を攻めた後、三増峠で北条軍と戦い甲州へ引揚げるときに通った古道があるんですが、その道沿いにあります・・・
その塚上に宝篋印塔の残骸があるんですが・・・これが・・・なんと理智光寺址にあった物と同じ様な感じなんですよ!
ココでももりよし君ストラップ売れますね!(笑)
基礎のひとつには応安4年(1371)2月の銘があり、『願主蓮明敬白』と刻まれています・・・
しかし、相模原には淵野辺という所があり、かつて淵辺義博が所領した地です・・・そんな所に供養塔を建てられるなんて護良親王も成仏できないんじゃないかな?
雛鶴姫が回復するとココを離れ、一行は甲斐へ逃れて行きます・・・実はこの時、雛鶴姫はお腹に親王の子を宿しておりました・・・身重での逃避行・・・体調崩すのも頷けます・・・
甲斐国都留郡秋山村まで辿り着いた時、遂に産気づき、そこで子を産み落とします・・・この時の子は死産だったとする説と、小大塔宮綴連皇子と呼ばれ、南朝方として各地を転戦し敗死したとする説、敗れて衰退し、放浪の末に再び秋山村に辿り着き73歳まで生きたとか色々な説があります・・・
一方、雛鶴姫は産後の肥立ちが悪く、とうとうその地で他界してしまいます・・・
雛鶴姫を哀れに思った秋山の村人たちは淵沢に墓を築いて弔い、現在その地には雛鶴姫を祀った雛鶴神社が建っています・・・
津久井商工会のHPでは津久井三姫物語なるシュールな絵の紙芝居が見れます・・・雛鶴姫の物語も見れますので興味のある方は一読されてみるのも宜しいかと・・・
さて、護良親王の首を洗ったと伝わる王子神社ですが、横浜市戸塚区柏尾町にあります、以下神社庁HPより・・・
護良親王が弑せられ給うた時、侍者、その御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、ひそかに現本殿の位置に埋葬したと伝える。 親王の御首を洗い清めた井戸を「首洗(くびあらい)井戸」と称し神社付近にある。井戸の傍の大杉は伐採しても不思議に新芽を生じたが、昭和35年頃焼損した。 御首を一時隠し奉った所を「御墓」といい老松があったが、これも明治末年落雷に焼損した。 四抗とは御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛という。 社殿は当初西北に向いていたが東海道の往来に支障ありとて現在の東南向きに変えたという。
続いて雛鶴神社ですが、コチラは10年程前に立派な社が建てられた様です・・・それ以前は小さな祠があっただけと聞きます・・・雛鶴姫の墓もありますがこれも最近造られた物なんでしょうか?
雛鶴神社から峠を挟んだ所に石船神社がありますが、ココには護良親王の御首級があります!
この神社では毎年1月15日に初祭りが執り行われますが、その際に金庫に安置されている護良親王の御首級が公開されます・・・この御首級は江戸時代に復顔が施されたらしいんですが・・・怖いです・・・グロいです・・・ミイラみたい・・・
もりよし君ストラップ:マミーバージョンはちょっとグロ過ぎて販売は無理かもです・・・
ちなみにこの御首級は都留市の重要文化財に指定されています!・・・ホントに護良親王の首なのかなぁ?
その昔、オッサンがその辺でテキトーに拾った頭蓋骨を、冗談半分で護良親王の首だって言ったら村人が信じちゃって、嘘だって言い出せないまま雛鶴姫の伝説と融合し現在に至っている可能性も否定は出来ないと思いますが・・・
南の方の説明が長くなってしまいました・・・色々と伝説のある方なもんで・・・そもそも南の方は立花姫という説もあるし、雛鶴姫は十津川の戸野兵衛という人物の娘と言う説もある・・・竹原八郎という土豪の姪だという説もある・・・
などなど言い出したらキリがないです・・・
本命の雛鶴姫も伝説と【太平記】を照合してみると、南の方として矛盾した部分も出てきます・・・
例の如く伝説は伝説として置くとしましょうか・・・
妙法寺に戻りましょう・・・来た道を戻り、今度は右側の道を進みます! |
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ちょこっと石段を登りしばらく行くと・・・到着です!・・・後の石碑には『大塔宮護良親王御墓』と刻まれています・・・
しかしまたしても・・・五輪塔と宝篋印塔のごちゃ混ぜです・・・まともな墓塔はないのかよ!
護良親王 後醍醐天皇の皇太子 当山五世日叡上人の父宮
建武の中興の成就に力を尽し征夷大将軍となったが、のち鎌倉二階堂に幽閉され、建武二年(1335)七月二十三日波瀾万丈の生涯を終えられた。御年二十八歳。
南の御方(日叡上人の母君)および日叡上人の墓所は、ここより西北八十メートルの当山の寺域にある。
と、記された案内板が立っています・・・ |
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結構眺めいいです・・・横の木を伐採すればもっと気持ちのいい眺望が臨めそうです・・・
今回2つの護良親王墓を巡って感じた事は・・・
護良親王は苔生した階段と高い所が好き(笑)
それにしても疲れたなぁ・・・年かな?
妙法寺は市内を転々とし現在に至っている様ですが、それについては銚子ノ井のページで書いたと思うのでココでは省略させて頂きます・・・疲れたので・・・ |
そうそう 南の方ですが、鎌倉宮には彼女を祀った南方社という境内社があります・・
吉野城落城の際、親王の身代わりで腹を切った村上義光を祀る村上社もあります・・・詳細はまたの機会に・・・
喉乾いたし腹も減ったなぁ・・・大町かぁ・・・アルモリックでお洒落にガレットでも食べてくか・・・
オイチイチの弁当もヘルシーで美味いんだよなぁ・・・庶民的に日進堂のパンを買い込むってのもありだなぁ・・・
でもやっぱ一番近いのローソンだし・・・おにぎり(ツナマヨ)に決定!(笑)
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おしまい |