ブログ 鳥居1
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鳥居2 鳥居3
日本中の著名人のお墓の写真を収集している奇特な友人に畠山重保墓の写真を撮りに行ってきて欲しいと頼まれて、自転車漕ぎ漕ぎ♪カメラでパシャパシャ♪・・・ふと道路の方に目をやると、目の前には一ノ鳥居

予備知識は国の重文であり、後北条三代目氏康が再建した時は現在のフレッシュネスバーガーの辺りだったって事くらい・・・そ~いえば一ノ鳥居って潜った事なかったなぁ・・・

ど~でもいいんだけどさ・・・ど~でもいいけど、ちょっとだけ潜ってみようかな・・・日の出直後で車もまばらだし・・・
しょうがないなぁもぉ・・・潜ってやるか(笑)

しかし、実際に道路に降りて正面から真近でじっくりと見てみると・・・もっと大きいイメージだったけど・・・こんなもんか・・・
取り敢えず潜ってみる・・・う~ん・・・なんだろう・・・初体験終了・・・特に感動や達成感は無し!
道路の真ん中に建っていて、それを避ける様にカーブしながら上下線が走り再び合流・・・
よく事故が起こらないものだと思ってしまう・・・居眠り運転のトラックが鳥居に衝突!とかありそうだけどなぁ?
そんな危険性を度外視してまでも敢えて残している事に、この鳥居が歴史的に重要な物であるという事実をうかがい知る事ができますね・・・

柱にはいくつか継ぎ目があります・・・関東大震災で下の継ぎ目から上の部分は倒壊したと聞きます・・・
柱には 『寛文八年 御再興・・・』の文字が刻まれれていて、袂には石碑があります・・・
石碑には以下の様な事が書いてありました、

頼朝が造って以来様々な武将が再建してきている。

寛文8年、徳川4代将軍家綱が祖母の崇源院(織田信長の妹(お市)の三女で二代将軍秀忠の奥さんです)の頼みでわざわざ備前犬島産の花崗岩を取り寄せて再建した。その時ついでに二、三ノ鳥居も同じ素材で再建した。

明治三十七年には国宝に指定された。

関東大震災で柱下部を残して大破、すぐに修復するよう文部省に頼むが修復は昭和11年との事・・・ 出来るだけ旧材を再利用する事を前提に、七か所だけ補修材を使って直したとの事・・・補修材も備前犬島産の物を使っている。

少し興味が湧いてきたのでちょっと調べてみる事にしました・・・まずは一番楽チンで情報量も結構多いWikipediaを開く事にします・・・鶴岡八幡宮の重要文化財の項に『大鳥居(一の鳥居)、徳川家慶建立』とあります・・・
12代将軍家慶?・・・4代家綱じゃなくて?

ど~ゆ~事だコリャ?寛文8年(1688)って家慶が生まれる100年以上前だぞ!?
他のサイトをみてもWikipediaの情報をそのまま引用しているものが多く全く要領を得ない・・・う~む・・・
そうだ、鶴岡八幡宮ほどの神社なら公式ホームページがあるだろう・・・って事で開いてみると大鳥居の項に、

八幡宮の表参道、海浜の若宮大路に立つ大鳥居が一ノ鳥居であり、石造りで材質は花崗岩、『明神鳥居』の典型といわれる。高さは8.5メートルあり、柱の太さは92センチある。
浜の大鳥居とも呼ばれ、創建は源頼朝公の時代まで遡る。その後度々の造り替えがなされ、現在のものは寛文8年(1668)に建造された。それまでは木造であったが、この時に石造となった。関東大震災で倒壊したが、昭和初期一部新材を補って復旧された。東側柱の旧材部分には『寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表』と刻まれている。
この鳥居建立に関して興味ある挿話が残っている。徳川二代将軍秀忠の御台(夫人)崇源院が将軍世継(家光)を懐妊したとき、八幡宮に安産の祈願をし、その御加護によって無事出産した。その霊験により崇源院は益々崇敬を篤くし、ある日「備前国犬島に奇石あり、その石を以って鶴岡社前の大鳥居を建立し給ふべし」という八幡大神のお告げを夢中に受けたため、次の社頭修営の時には必ずそのお告げを実行するように家光に頼み、他界された。
それが実現されたのは家光の子家綱の時代であった。
以来300年を越えてそそり立つ大鳥居はそのような深い信仰心によって建立された。
なお、大鳥居の外に社務所前の手水鉢(当時の造営奉行松平備前守隆綱奉納)もこの時代の石造物で、備前犬島から運搬されたものといわれている。

とありました・・・家慶の事には何一つ触れてはいませんでした・・・取り敢えずWikipediaの情報が間違いであると自分なりに納得する事にしました、間違いであるならその内更新される事でしょう・・・
ちなみに家慶の父、11代家斉は本宮を再建しています! 

高さ8.5メートルかぁ・・・登りてぇ~・・・道路の真ん中からその高さで若宮大路を見てみたい!
次に【新編鎌倉志】を見てみます・・・

【大鳥居】
由比濱の方に有を大鳥居と云、両柱の間だ下にて六間半、高さ三丈壹尺五寸、石柱のめぐり壹丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり。一、二の鳥居は両柱の間だ下にて四間、柱のめぐり七尺なり。東西の透門に又鳥居あり。
両柱の間だ壹丈三尺五寸、柱のめぐり四尺五寸。東西同じ。五所に鳥居あり・・・(中略)・・・

今の鳥居は、寛文乙巳の年より戌申秋に至まで、上下の宮諸の末社等に至まで御再興有し時の鳥居なり。
其書付に鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日御再興とあり。三所の鳥居共に如斯あり。鳥居の石は備前の國犬島より取寄らる。其の時の奇瑞等の事『寛文年中修復記』に詳なり。

文中で一ノ鳥居としているのは現在の三ノ鳥居の事です・・・黄門様がココへ来たのは1673年の事ですから、5年前に家綱による再建が終わっていますね・・・再建当時の鳥居の大きさも記されています!素晴らしい!さすが水戸黄門!

せっかくですからメートルに換算して現在のモノと高さを比べてみましょう!
1丈=3.0303メートル、1尺=0.3030メートル、1寸=0.0303メートルで計算すると9.5454メートルでした・・・
鶴岡八幡宮のホームページ記載の8.5メートルより1メートル以上大きいですね!
震災後の修復の際にだいぶ削られてしまったんでしょうか?・・・それとも自分の計算ミス?・・・でもなさそう・・・
尺にも色々あるらしいですがこんなにも差が出るモンなんでしょうか?
メンド臭いんで詳しく調べるのは止めておきます・・・仮に修復前の鳥居が現在のモノより高かったとしても東京スカイツリーの方が高いでしょう・・・それくらいの事としておきます・・・

大震災で倒壊したニノ鳥居と三ノ鳥居はコンクリートで新しく作り直され、残骸はそれぞれ鎌倉国宝館脇の源実朝歌碑と鎌倉山ロータリーの標柱に再利用されてるのはメジャーな話・・・でもマジマジと見るのは初めて・・・
鳥居4 鳥居5
実朝歌碑には『山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』と刻まれています・・・
ロータリーの方には『鎌倉山』と大きく刻まれています、開発に尽力した菅原通済の名も・・・よくよく見比べてみると経年劣化というか、配置場所というか・・・同じ材質の物でもこんなに違いが出てしまうんでしょうか?

一ノ鳥居は白っぽい、源実朝歌碑は赤く酸化した様な色、鎌倉山ロータリーは何か黄色っぽい感じ・・・
しみじみと眺めつつふと思いました・・・この鎌倉山ロータリーの標柱・・・以前どっかで見たような?
この色味といい何となく記憶にある・・・でも思い出せない・・・
市内である事は確かだと思いますが・・・何だコリャ?位で特に気にもしなかった・・・が、やっぱり記憶にはある!

ん~どこだっけ?調べれば分かりそうな感じだけど、調べたら負けの様な気もする・・・
てな訳で散策を兼ねて鎌倉の谷戸という谷戸を巡る事にしました!
自転車漕ぎ漕ぎ・・・玉縄地区とか行くだけで一苦労です・・・捜索を開始してから何の手がかりも得られない日々が過ぎて行きました・・・『べつに見つからなくてもいいや・・・』ぐらいに考え始めます・・・

そして再び鎌倉山ロータリー・・・そういえば鎌倉山神社ってだいぶ前に行ったっきりだなぁ・・・久し振りにお参りしとこうかな・・・て事で鎌倉山の坂を漕ぎ漕ぎ・・・ハンパないっス!・・・すぐに挫折して自転車を押しながら登る事に(笑)
鳥居6 猫
何とか檑亭(らいてい)の前まで来ました・・・少し休憩・・・入り口の門の所で猫がボーっとしていました・・・
今日は暖かいからなぁ・・・全く自分の存在に気付く様子がありません・・・そっとしといてあげましょう・・・

檑亭は蕎麦屋であります・・・建物は景観重要建築物の指定を受けています!
数年前まではすぐ近くに山椒洞という料亭も営んでいましたが、現在は経営上の理由とかで解体されちゃいました・・・
山椒洞も景観重要建築物の指定を受けていたので残念な事です・・・

この檑亭ですが、玄関は手広の青蓮寺、門は西御門の高松寺から持ってきた物だそうです・・・
高松寺は昭和6年に宮城県に移転したので現在はありません・・・創建は寛永19年(1642)8月、開山は高松院!
もっとも高松院は寛永18年に亡くなっているので、その追悼の為に建てられた寺らしいですね・・・尼寺です!
高松寺が建つ以前、そこには大平寺とい鎌倉尼五山第一位の寺がありました・・・里見氏が鎌倉を攻めた時に住持をかっさらって行ったので廃寺になっていましたが、その遺構を修築したのが高松寺という事です!
 
大平寺は頼朝が池禅尼の恩に報いる為にその姪を開山として創建した様です・・・
池禅尼は平清盛の母(継母)であり、頼朝の助命嘆願をした人物として知られています・・・諸説ありますが今日はそういう事にして置きましょう・・・
ちなみに大平寺跡の石碑は西御門の来迎寺の所に建ってますよ~!

さぁ休憩も取った事ですし、歩きますか!
珈琲マウンテンさくらアイスクリーム(¥300)の誘惑に負けそうになりながらも次の交差点を右へ・・・
鳥居8 さくらアイスクリーム・・・何味なんだろう?
疲れで頭が少しおかしくなっている様です・・・

まだまだ登ります・・・ここは七里ヶ浜住宅地への抜け道となっている(七里ヶ浜方面からは入り口付近が一方通行なので進入できません)ので狭い道ですが、抜け道好きな車が結構通ります・・・
車が来るたびに気を遣いながらで疲れを倍増させながらも一方通行手前を左へ・・・
鳥居9 鳥居10
鎌倉山神社に到着であります!・・・例の様にザックリと説明を・・・

鎌倉山の鎮守。近世、一帯を開発した際に笛田の鎮守三嶋神社の分霊を祀ったのが始まりという。
通称『山の神』と呼ばれ、崇められた。当地が住宅地として造成されるに伴い、昭和十年(1935)社殿が改築され、現在名に改称された。社殿には釈迦や摩利支天の像などが安置されている。
以前は他にも多くあったが、三島神社に移された。
祭神:大山津見命(おおやまつみのみこと)、例祭:8月8日、宝物:近衛文麿書の御神号額、神徳:農漁業の守護神

                                                    (参照:鎌倉の神社小辞典)

参道入り口にある立札にも同じ様な事が書いてあります・・・ちょっと気になった事があったので管理者に聞いてみようと思い神奈川県神社庁のホームページで調べてみると、問い合わせ先は御霊神社(権五郎神社)との事・・・
へ~そうなんだ・・・今度権五郎力餅でも食べながら聞いてみよっと・・・

そんなこんなで鎌倉山神社で『柱が見つかります様に!』と祈願・・・
当初は写真の道をそのまま進み、自転車置いて山道を通って西ヶ谷方面へ出て、また戻って来ようと考えていたが予想以上に疲れたので計画変更!・・・七里ヶ浜の住宅地東側から稲村ヶ崎に出て極楽寺坂を行くコースに決定!

来た道をちょっと引き返しT字路を左折、急な下り坂を一気に下ろうと思ったが前の方で工事をしているらしくトラックが何やらモタモタやっている・・・何してんねんって感じで自転車を止めます・・・
まったくもぉ~気持ち良く一気に下まで行きたかったのに・・・と何気なく右側に目をやる・・・ 
鳥居11 ここここれは・・・!
ジョジョ風な効果音を入れると『ゴゴゴゴゴ・・・』
まさにずっと探してたモノではないですかっ!
まさか同じ鎌倉山にあったとは・・・てゆ~か鎌倉山神社でお願いしてから1分と経ってないんじゃないか?
何という御利益!今度から願い事は鎌倉山神社にしよう!

しかしこんな鬱蒼とした木々に埋もれて・・・一瞬電柱かと思ってしまった・・・よく見ると『寛文八年御再興・・・』の文字が刻まれています!
間違いないロータリーの片割れだ、他の2本に比べて扱いが酷いな・・・などと思いながら裏側へまわってみると

『巍巍赫赫 爆弾三勇士表勲碑』と大きく刻まれている・・・
陸軍大臣荒木貞夫、他細かい字で色々と彫られてます・・・肉弾三勇士ってのは聞いた事があるけど爆弾とはなんぞや?
朝陽が強くて超逆光になってしまい写真は真っ黒・・・ 
今度は午後に撮りに来よう・・・
鳥居12
何にせよここで得られる情報は無さそうなので鎌倉山神社に祈願成就の報告とお礼に向かう事にした・・・
『ありがとうございました・・・また何かオモシロイ物が見つかりますように・・・』

目的達成のご褒美に先程諦めたさくらアイスクリーム(¥300)を食べようと、今度はT字路を右に・・・ 
鳥居13 ここここれは・・・!
ジョジョ風な効果音を入れると『ズキュゥゥゥン!』
まさにT字路を曲がってすぐ右側です・・・
先程通った時には気付かなかったが、組石が敷かれて随分と立派なトンネルじゃありませんか!
自分は穴があったら取り敢えず入るをモットーにしているので入るしかありません!
ワクワク・・・トンネルは写真の通りに入り口から左に急カーブしています・・・
奥から陽の光が漏れているので、かなり短い様です・・・いざ進入!カーブを曲がりトンネルを抜けるとそこは
雪国・・・じゃなくて竹藪でした(笑)

出口からすぐ上り坂になっておりますが笹が目の前まで群生していて、何の装備も無しでこれ以上進むのは困難な状況でした・・・経験則からこういう所は一人で行かない方がいい、落ち葉で隠れた古井戸にでも落ちたらシャレになりませんし・・・という訳で探索は断念・・・今回は諦めて引き返します・・・
先程はイイ感じのトンネル発見に舞い上がって気にもしなかったのですが、入り口付近にぶっ倒れて落ち葉に埋もれてる看板らしき物がありました・・・落ち葉を掃ってみると

無断立入を禁ず 高木家

ありゃ、私有地だったんですか?気付かなかったとはいえ無断侵入してしまい申し訳ございませんでした・・・
今度装備を固めて探索に来ようと考えてたんですが・・・私有地じゃダメですね・・・まぁ見れただけでもヨシとしておきましょう・・・トンネルでこのパターン、鎌倉には結構あります・・・
再び鎌倉山神社に祈願成就の報告とお礼に・・・凄いなこの神社・・・

『ありがとうございました・・・今日はもういいので家に帰らせて下さい(笑)』

無事に家へとたどり着き早速爆弾三勇士について噂のWikipediaを開く・・・以下抜粋・・・

爆弾三勇士とは、日本陸軍独立工兵第18大隊(久留米)の、江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵3名のことである。第一次上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、蔡廷?率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破(強行破壊)し、自らも爆死した。

爆弾三勇士とは大阪毎日新聞・東京日日新聞が使用した用語であり、大阪朝日新聞・東京朝日新聞は肉弾三勇士と称した。

3名は戦死後それぞれ二階級特進して、陸軍伍長となる。事件の直後2月24日には『東京朝日新聞』で「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に『西部毎日新聞』で「忠烈まさに粉骨砕身」、『大阪朝日新聞』で「葉隠れ主義の露堂々」など、美談として広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられた。軍国熱も高まり映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる弔慰金が集まった。

しかし、3名の死は技術的失敗によるものという説もあり、それによると「導火線を短く切断し、予め導火線に点火して突入したところ、3人の先頭に立った北川丞が撃たれ、3人とも倒れてしまいタイムロスを生じ、戻ろうとしたところそのまま突っ込めと言われたので、その通り突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が爆発してしまった事故」とみている。同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊も同様の攻撃を行い、戦死者はこの3人の他にも出ている。

当時のマスコミが相当煽ったみたいですが爆弾三勇士も肉弾三勇士も同じだったんですね・・・
しかし技術的失敗って・・・もしそうなら締まらない話ですねぇ・・・美談で終わらせておきましょうよ・・・

石柱については以下の様にありました、
爆弾三勇士を称えた石柱で、昭和8年(1933年)7月に建てられた。「巍巍赫赫 爆弾三勇士表勲碑」という碑文は時の陸軍大臣荒木貞夫の揮毫によるもので、もとは京急バス住吉駅付近にあった交詢閣の敷地内にあった。太平洋戦争終戦後、GHQによって石碑を撤去される事を恐れた実業家、阿部義次が自らの所有する敷地(現在の鎌倉山神社近辺)に移設した。

交詢閣は知っている、鎌倉山ロッジの事でしょう・・・どっかの展示で白黒の写真を拝見しました・・・
当時は鎌倉山のランドマーク的存在だったようです・・・元々はあそこにあったのかぁ・・・
それから隠す様に現在の場所に移されたんですね・・・そういう経緯があったとは・・・

この爆弾三勇士、与謝野鉄幹作詞の歌があるようです・・・10番まであり覚えるのが大変そうです、また何本か映画化もされているようです・・・技術的失敗の所がどの様に描かれているのか気になる所ではありますが・・・
TUTAYAには置いてなさそうですねぇ・・・

ところで巍巍赫赫ってどんな意味なんでしょう?・・・ネットで検索すると赫赫巍巍で沢山ヒットしました・・・

赫赫=1.赤赤と照り輝くさま。「―たる日輪」2.功名・声望などがりっぱで目立つさま。「―たる武勲」
巍巍=1.山などの高く大きいさま。「―たる岩山」2.徳の高く尊いさま。

だそうです・・・

『かまくらやま』という単語は【万葉集】をはじめ多くの古い文献に登場しますが、これは特に現在の鎌倉山を指している訳ではなく鎌倉の地、山そのものを意味する物とされています・・・
江戸前期には鶴岡八幡宮背後から浄妙寺裏までの山並みは鎌倉伝説と共に鎌倉山と通称されていて浄妙寺には鎌倉山の扁額が伝わっているようです・・・

昭和以降鎌倉山住宅株式会社が分譲を始め笛田、手広、津、腰越からなる地を鎌倉山と称しました、この辺の事は鎌倉山正史に詳しいです!
鎌倉山が公式な名称となったのは昭和60年8月5日の住居表示実施からとの事です・・・

『多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟』
薪樵る 鎌倉山の 木垂る木を 松と汝が言はば 恋ひつつやあらむ

【万葉集】の歌です・・・可麻久良夜麻・・・なんか暴走族っぽい・・・華魔苦羅夜魔ならどうだ?
なんか頭悪そうなのでやめましょう・・・つれない女性に恋する男の歌だそうです・・・
薪を伐る鎌と鎌倉山、松と待つが掛詞になってます・・・
あなたが待つと言ってくれたなら、こんなにも恋に悩む事もないのに・・・
ブォンブォーン!パラリラパラリラ♪

とにかく無事目的を達成して一段落です・・・今回の件で自分の祈願所は鎌倉山神社に決定です!
あっ!さくらアイスクリーム(¥300)食べるの忘れてた(笑)

おまけ


鳥居14 鳥居15
鶴岡八幡宮境内のぼたん庭園と幼稚園の間に置いてあるさざれ石・・・その後ろに笠木の残骸があります・・・
この笠木の残骸ですが、かつてのニ、三ノ鳥居の物だといわれています・・・『東京生命賜』の文字が刻まれていますが、当の東京生命もぶっ壊れてしまいましたね・・・現在はT&D傘下だっけか?

それにしてもさざれ石は足ツボマッサージに良さそうですね!

 おしまい
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