ブログ 半僧坊大権現タイトル
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前回は雪景色の建長寺を紹介させて頂きましたが、今回はその最奥部に位置する半僧坊を紹介!
総門からはかなり距離がありますが、眺望は良いので体力と時間に余裕のある方は是非訪れる事をお勧めします!

更に体力のあり余っている方はそのまま天園ハイキングコースへと繋がっていますので、お気の済むまでどーぞ!
半僧坊1 半僧坊の達磨大師像
前回の五叉路から半僧坊への道を進みます・・・右側のスペースには嵩山少林寺初祖達磨円覚大師像があります!
半僧坊ではありません・・・紛らわしいですね(笑)・・・少林寺から送られた像です、『アチョー、ハイ、ハイ、ハイ!』
イーアルカンフーやりたくなって来ましたが、取り敢えず雪ダルマを作成して持たせてみました!
ダルマ大師と雪ダルマのコラボです!・・・ちなみに達磨大師像は胸毛ボーボーでした!

菩提達磨は実在の人物で禅宗の開祖といわれています!・・・まぁ、ダルマさんは日本でもお馴染みですよね・・・
半僧坊の狛犬1 半僧坊の狛犬2
狛犬のお出迎え・・・雪が吹きつけて完全な雪像となるのも時間の問題かな?・・・寒そうだなぁ・・・
半僧坊参道には5対、計10体の狛犬がいます!
半僧坊2 半僧坊3
参道の左側には竹林がありました・・・雪と竹のコラボも風情がありますね・・・
竹といえば報国寺ですが、雪の日はどんな感じなんでしょうか?・・・開門してるのかな?

思うんですけど、鎌倉といえば誰もが観光地として認識している街ですよね?
ですからそこにある寺などは、しっかりとしたwebサイトを作成して観光客に対して情報を発信して頂きたい!
建長寺の公式サイトもマニアックな内容を取り上げてたりしていいんすけど、拝観時間、拝観料、専用駐車場料金などの記述が見当たりません・・・観光客にしてみれば、結構重要なファクターだと思うんですが?
そんな訳で、どちらかというと関係者向けなサイトという印象を受けてしまいます・・・

鎌倉五山で公式サイトがあるのは建長寺円覚寺だけの様です・・・円覚寺の公式サイトは分かり易かったです!
でも鎌倉の寺の公式サイトで自分が一番イイと感じたのは東慶寺のサイトです!
欲しい情報が一目で分かりますし、生の情報も濃いです!
全ての寺がこのクオリティのwebサイトを持っていれば、観光客はかなり動き易くなるハズです!

各寺はもっと観光客に優しいサイト作りを心掛けて欲しいですね・・・100%観光地なんですから!(笑)
観光協会が統一規格で各寺のサイトを作ってしまうというのもアリだと思います!
半僧坊4 半僧坊5
参道右側の岩肌にはポッカリと穴が開いていて、回春院方面へと繋がっていました・・・
この辺りは不自然なくらいスペースが取ってあるんですが、恐らくかつては塔頭がいくつか建っていたんでしょうね?
最盛期は49の塔頭があったといいますから、さすが鎌倉五山第一位といった所でしょうか!
半僧坊6 半僧坊のガマ
ガマの置物が可愛らしいですね・・・それにしても、先はまだまだ長いです・・・
寒山拾得1 寒山拾得2
階段手前左側のスペースには一風変わった石碑があります・・・そのひとつには何やら絵が描かれています!
石碑上部には『寒山拾得』の文字が・・・『寒山拾得図』かぁ・・・どっちが寒山でどっちが拾得なのか知らんけど(笑)
中国唐代の詩人といわれていますが、それよりもこの不気味な笑顔で知られていますよね?(笑)
実際奇行の多い人物だったと伝わるそうです・・・

どーやら、コレと右隣にある同じ造りの石碑は、2009年に中国は蘇州にある寒山寺から送られた物の様です・・・
半僧坊の狛犬3 半僧坊の狛犬4
2対目の狛犬です・・・何か白目部分の塗装が剥げて、目が血走っている様に見えて怖いです(笑)
半僧坊7 半僧坊8
本日積雪の為、半僧坊御祈祷は本堂で致します。お申込みの方は0467-22-0981まで御連下さい。

と書かれた紙が階段手前の祈祷案内の看板に貼り付けられていました・・・『御連下さい』(笑)
何か知らんけど、寺社にある貼紙とかってやたら誤字脱字が多い様な気がします・・・主旨が分かればいいけどね・・・

この様子だと売店も閉まってそうですね・・・つ~か社の扉も閉められてるでしょうね・・・まぁ、いいけどさ・・・
半僧坊9 半僧坊10
まだまだ上りまっせぇ~・・・この先の階段は補修中の様です・・・鉄パイプが組まれています!
半僧坊11 半僧坊12
道幅が狭くなっています・・・対向者が来たらメンド臭そうだな・・・って自分しか居ないですけどね(笑)
半僧坊の狛犬5 半僧坊の狛犬6
次の平場では3対目の狛犬がお出迎え・・・この平場は中々イイ雰囲気を醸し出していました!
半僧坊13 半僧坊14
木に降り積もる雪の感じが何ともいえません・・・いいなぁ・・・
ココに炬燵をセッティングして酒飲みながら鍋でも突いたら最高やろなぁ・・・贅沢だなぁ・・・
半僧坊15 半僧坊16
一人が行って帰って来たと思われる足跡が残っているんですけど寺関係者の物でしょうか?
ご苦労なこってす・・・明らかに滑って転んだと思われる痕跡がありましたが、ツッコミは無しにしときましょう(笑)
半僧坊の狛犬7 半僧坊の狛犬8
4対目の狛犬です・・・吽形の下顎が破損していました・・・何か情けない面になってるなぁ・・・
半僧坊17 手水舎があり、その裏側の斜面には烏天狗の像がいっぱい立っています・・・
ココまで来ると半僧坊へ来たなぁ・・・と、実感できます!
しかし雪景色が様になってますなぁ・・・
普段は可愛らしく見える烏天狗達も、ドコとなく勇ましく見えて来ます・・・
ココから右側を回り込む様に上る道を乙女坂というらしいですが、そちらは帰りに通るとして、本道である左側の階段を上って行きましょう!
半僧坊18
絵になるなぁ・・・天狗は自分が数えた限りでは、全部で12体(大天狗2体)いるようです!
せっかくなので天狗達を紹介したいと思います!・・・銅コレのページからコピペ(笑)
半僧坊天狗隊シリーズ 雪山Version 
半僧坊の天狗像1

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員1号
特技:ハイキング


半僧坊の天狗像2

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員2号
特技:ウォーキング


半僧坊の天狗像3

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員3号
特技:ジョギング


半僧坊の天狗像4

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員4号
特技:ダンシング


半僧坊の天狗像5

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員5号
特技:バイキング


半僧坊の天狗像6

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員6号
特技:ショッピング


半僧坊の天狗像7

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員7号
特技:ザッピング


半僧坊の天狗像8

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員8号
特技:スイミング


半僧坊の天狗像9

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員9号
特技:クライミング


半僧坊の天狗像10

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員10号
特技:ドライビング


半僧坊の天狗像11

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員11号
特技:クッキング


半僧坊の天狗像12

所属:半僧坊(建長寺)
種族:天狗隊員12号
特技:トラベリング


中々躍動感のある天狗達です・・・躍動感は無いか(笑)・・・どれも天狗らしいポージングですね・・・
1体くらいジョジョ立ちの天狗がいてもいいと思いますが・・・駄目か?(笑)
半僧坊19 半僧坊20
階段を上って御対面です・・・やっぱ閉まってると寂しい感じがしますね・・・
何だか以前訪れた時とはイメージが違うなぁ・・・デッカい額が掛かっていたと思うんですが、何か知らんけど取り外されちゃってますねぇ・・・絵馬も社の正面に掛かっていて、何てゆーかもっとゴテゴテしたイメージだったんですけど・・・
スッキリしてますねぇ・・・
半僧坊の狛犬9 半僧坊の狛犬10
5対目の狛犬です・・・最後の狛犬は凄いとぼけ顔でした・・・またまた雪ダルマを作成して設置!(笑)
あ、いや・・・雪ダルマじゃなくて宝珠です!・・・雪ダルマを頭上になんて、そんな罰当たりな事はしませんよ!
古い狛犬にはこんな感じで頭上に宝珠が乗っている物もあります!・・・2個はありませんけどね・・・
いやぁ~、雪ダルマ作って手がちべたかったなぁ・・・あ、雪ダルマじゃないや、宝珠です(笑)

講中が建てたであろう石碑はアホみたいに乱立していますが、半僧坊の案内板とかは無い様ですね・・・
ここいらで半僧坊の由緒について軽く説明して置きましょうか!

まず、この建長寺半僧坊は静岡県浜松市の方広寺から勧請された物です!
ですから取り敢えず方広寺奥山半僧坊の説明をさせて頂きますね・・・
由緒については諸説ありますが、方広寺のサイトにあった物を採用させて頂きます!・・・本家という事で(笑)

方広寺(ほうこうじ)の歴史と由来
1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。
無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14年(1881)の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物を擁しています。
・・・以下省略・・・

奥山半僧坊大権現(おくやまはんそうぼうだいごんげん)
方広寺の鎮守さま。伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、
「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。
以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。毎年10月に御大祭がおこなわれております。

半僧半俗 ・・・僧でありながら半ば俗人の様な風体をしている者・・・
タイトルバーの右側に半僧坊の御姿を貼って置きました・・・絵馬にも同じ御姿が描かれていました!
ちなみに無文元選は後醍醐天皇の皇子です!

さて、建長寺に勧請された経緯についても説明を加えて置きます!・・・つーか今回はこっちがメインですよね(笑)

明治23年(1890)、建長寺住職の霄貫道(おおぞらかんどう)禅師が、ある夜、僧の様な、俗人の様な白髪の老人と山中で出会う夢をみます・・・その老人は、
『私を関東のいずれか清浄な処に招いて下さるなら、その場所は栄え、良い事が絶える事はないでしょう!』
と、告げると姿を消してしまったそうです・・・

『夢の老人はまさに半僧坊で、建長寺の鎮守に相応しい!』・・・と、自ら奥山の方広寺に出向いて分身を願い、建長寺内で最も景色の勝れた勝上献に安置し、堂宇を建てて現在の半僧坊本殿の礎を築きました!
時は日清戦争後の好景気・・・寄付金もすぐに集まり、信者は5万人余りともいわれる程だったそうです・・・

火伏のみならず、とにかくあらゆる功徳があり、その御利益は絶大として現在も篤く信仰されています!

建長寺の半僧坊は古くからある訳ではありません・・・
当然江戸時代などの古絵図にもその名は出て来ません・・・『勝上献』とあるだけです・・・
この『献』の字なんですが本当は『山』が冠として付いています・・・でも変換できないんですよねぇ(笑)

まぁ、半僧坊の由来についてはそんな感じです・・・
建長寺図1 半僧坊21
上の画像は【新編鎌倉志】の建長寺図の上部分です・・・矢印の部分、勝上献の下にやぐらの様な物が2つあり、
それぞれ
『開山坐禅窟』 『一遍上人坐禅窟』

と書かれています・・・
ちょうど現在の社か売店の裏側辺りになると思うんですが、入れない様になっているので良く分かりませんでした・・・
この穴には2人のやりとりについての伝説があります!

大覚禅師がこの穴の中で座禅修行をしている所へ一遍上人(時宗開祖)が尋ねて来て、

『躍りはねて 伏してだにもかなわぬを いねむりしては いかがあるべき』
と問いかけました・・・すると大覚禅師は、

『躍りはね 庭に穂ひろう 小雀は 鷲のすみかを いかが知るべき』
と、やり返したんだそうです・・・1本取られた一遍上人は禅師に敬服したとの事です!
雀扱いされては何もいい返せませんね・・・それより一遍はいつ鎌倉に侵入したんでしょうか?(笑)

この2人のやり取りは【新編鎌倉志】にも記されています!
【勝上巘】
方丈北の高山を勝上巘と云。開山の坐禪窟あり。昔し開山、此窟中にて坐禪したまひしとなり。今窟中に石地蔵あり。
又傳へ云ふ、禪師此の窟中にて坐禪す。一遍上人来視て詠歌云、
『躍リハネテ フシテダニモ カナハヌヲ イネムリシテハ イカゞアルベキ』
禪師聞之、倭歌作て荅へて云く、
『躍リハネ 庭ニ穗ヒロフ 小雀ハ 鷲ノスミカヲ イカゞ知ヘキ』
此時上人、禪師に参して、阿誰の話を受て大悟すと云ふ。窟の右の側らに上人坐禪せし窟有。是故にや禪師三百年忌の辰、遊行上人の衆徒三百餘員、宿忌半齋に出仕して昭堂の前にて躍り念佛執行せしとなり。一遍上人、號は知真坊、正應二年八月二十三日に寂すとなり。其時の宿坊妙高菴なり。又禪師、甲州東光寺に在る日、信州諏訪の明神現して師に謁す。師鎌倉に歸る日、神送り来る。藤澤に至て、師止らん事を許して遊行の鎮守たらしむと云傳ふ。
七月廿七日、藤澤に諏訪の祭りある是なり。窟へ行く左の方に地蔵堂あり。地蔵は運慶が作なり崇境寺と名く。

一遍上人は播磨印南野(兵庫県加古川市)にある教信寺へ向かう途中、摂津兵庫津(神戸市)の観音堂(真光寺)で没しました・・・享年51歳・・・墓は真光寺にあります!

2012年5月12日に公開された映画覚えていますか?・・・【一遍上人】です!・・・主演:ウド鈴木(笑)
なんでウドちゃん起用したんだ?・・・良く分からん・・・もちろん見てませんけど・・・
何より5月12日って・・・自分の誕生日なんすよねぇ(笑)・・・そんな日に一遍上人はちょっと遠慮したいなぁ・・・
半僧坊22 半僧坊23
社に向かって左側には展望台が設置されていて、晴れの日にはこんな感じで富士山が見える様です!
半僧坊24 半僧坊25
今日は富士山は拝めませんが、雪景色の谷を見下ろすのも一興です!・・・ホントにず~っと眺めていても全く飽きません・・・ぼんやり眺めていると、自分も雪となって谷間に降り注いでいる錯覚に陥ります!
何より圧倒的な静けさ・・・雪の降る音しか聞こえません!・・・ちょっと怖いくらいです・・・ホントに建長寺かココは?
半僧坊26 半僧坊の冷水器
売店前の展望スペースは屋根付きです・・・普段ならヒンシュクを買いそうですが、ちょっとベンチに横になって雪景色を楽しんでみました・・・これが最高!やばかったッス!マジで・・・もう少しで悟りを開けそうな感じでした(笑)
感覚が鋭くなって、遙か遠くに居るであろう人の話し声が聞こえた様な気がしました・・・ありえませんよね?
もしかしたら自分のすぐ近くに、人ならざる者が居たのかも知れませんね(笑)

給水器からはキンキンに冷えた水が出て来そ-ですね・・・夏場だったら最高なんだけどなぁ!
半僧坊27 半僧坊28
塀にも寄進者の名が刻まれていて、雰囲気出てますね・・・ホントに多くの人に信仰されているのが分かります!
半僧坊29 半僧坊30
このページのタイトルにも使わせて貰いましたが、『相模湾大島見晴台』という看板が立っていました!
でも『大島』の部分だけを紙で隠している様な跡がありました・・・恐らく雨か雪で剥がれてしまったんでしょう・・・
何でそんな事したんでしょうか?・・・看板を造った後で、実は大島が見えない事に気付いたとか?(笑)
そんな馬鹿な・・・だったらペンキで塗り潰せばいいって話だし、何で紙を貼っていたのかが謎です?
半僧坊31 半僧坊32
売店を通り過ぎ、階段を上った先にはお堂があります・・・柱には、

鎌倉二十四地蔵霊場 第十一番札所

と書かれた看板が取り付けられています・・・ココには勝上献地蔵尊が安置されています!
今日はこの雪で誰もいませんから、御朱印は総門の所で頂くパターンですね・・・
勝上献1 勝上献2
ココまで来たら折角ですから勝上嶽展望台へ行って見ましょう!・・・この道標は『献』じゃなくて『嶽』の文字を使っていますね・・・でもこの字は『けん』って読むのかなぁ?
勝上献3 勝上献4
展望台までは石段を上って行けばすぐに到着です!・・・段差が大きい箇所があるので注意しましょう!
自分が最後に建長寺を訪れたのは多分この展望台が設置された時だと思います・・・
いつ設置されたのかは忘れましたが、かなり前の話になりますね(笑)
勝上献5 勝上献6
やっぱり降っている最中はこんなモンですよねぇ・・・遠くの景色はあまり良く見えません・・・
ズームして無理やり補正してもこんなモンです・・・これが自分のカメラの限界です・・・すみません(笑)

この勝上献は標高147m・・・鎌倉には高い山が無いのでこんなモンですが、実際に眺めてみると三方を山に、一方を海に囲まれた鎌倉の地形が良く分かると思います!
勝上献7 展望台の後ろ、山頂部分には石祠があります!
手前にある手水鉢には『千手堂前』と刻まれています!
ココに千手堂というモノが建っていたんでしょうか?
それとも祠だけ移動して来たのか?
はたまた手水鉢と祠は何の関係も無くテキトーに建てられたのか?、またはどっかから持ってきたのか?

く分かりません・・・
ちょっと気になるので暇な時にでも調べてみます(笑)
展望台から数メートルの所で天園ハイキングコースの尾根道に合流となります・・・
横浜方面を見渡すと横浜ランドマークタワーが薄っすらと見える様な見えない様な(笑)・・・この雪じゃ厳しいな!

さすがに今日はハイキングコースを歩く気にはなりません・・・それに建長寺も他にまだ巡る所がありますし!
半僧坊33 下山しましょう・・・勝上献展望台の眺めは微妙でしたが、半僧坊へは訪れて大正解でした!
この雰囲気は中々味わえるモンじゃないですよ!
今後、自分の人生の中で再び今回の様な大雪が降る事はあるんでしょうか?
もしかしたらこの景色は今回で見納めって事になるかも知れません・・・しっかりと目に焼き付けて置こう!
雪は北へ行けばいくらでも見れますけど、湘南で大雪は中々ないですからね・・・スキー場は全くの別物ですし・・・
そーいえばスキー競技の種目にもハーフパイプが追加されましたね・・・
自分の中ではスキー=ストイックスノボ=チャラチャラという方程式があったんですけど、スキーもエンターテイメント性を追求した結果なのか、どんどんチャラくなってくなぁ(笑)
半僧坊34 半僧坊35
帰りは予告通りに乙女坂を通って行きましょう!・・・傾斜が緩やかになってます・・・
こんな坂・・・前からあったかな?・・・まぁ、いいや・・・
男坂女坂はよく聞きますけど乙女坂の対義語は何になるんでしょうか?・・・少年坂?(笑)

ちょっと調べてみたら『乙女』の対義語は『男』でいいみたいです・・・てゆーか昔はそーだったらしいです・・・
そして『女』の対義語は『翁』だったとの事・・・現代の感覚ではちょっと違和感がありますね・・・
半僧坊36 半僧坊37
坂の途中で分かれ道があります・・・ちょっと左へそれて寄り道・・・でもすぐに通行止めとなっていました・・・
ちょっと進んでみましたが無縫塔が2基あるだけで、その先は再び通行止め!
尾根道らしき物が続いている感じでしたが、ちょっと危なそうだったのでやめて置きました・・・
方向からして回春院の奥の方に通じているんでしょうか?・・・気になる道ではあります!
半僧坊38 半僧坊39
こんな雪の積もり方をした木は久し振りにみましたね・・・ホントにどーしちゃったんでしょう?
半僧坊40
ココの空間が凄く好きです・・・いいなぁ・・・美しい・・・写真ではイマイチ伝わらないのが残念!
半僧坊41
枝先にまで繊細に降り積もった雪は、まさに芸術そのものといった感じでした!
半僧坊42 半僧坊43
天狗といったらやはり団扇ですよね・・・羽団扇は大天狗など強い通力を持つ天狗しか持てないんだそうです・・・
いわれてみると、ココのも小さな烏天狗達は団扇を持ってませんでしたね・・・

さぁ、取り敢えず五叉路の所まで戻りましょうか!
半僧坊44 半僧坊45
半僧坊46
最初に見た竹林がイイ感じの空間を演出していたので、ちょっとお邪魔してみました・・・
燈籠って絵になりますねぇ・・・渋い!

半僧坊はホントに良かったです!・・・とゆーか、山中で雪が降る様を眺めているとヤバイという事に気付きました!
降る雪の一粒一粒それぞれを目で追っている内に、自分は遂に悟りの境地へと達してしまった様です(笑)

と、アホな感想は置いといて、次の目的地に向かいましょう!
河村瑞賢の墓1 河村瑞賢の墓2
招寿軒の所の五叉路には大きな石標が建っています・・・そこには、

河村瑞賢遺跡登り口

と書かれています・・・河村瑞賢は江戸時代の土木建築家ですね・・・幕府の公共事業を引き受けて莫大な財を築き上げた人物です・・・
幕命で新たな航路の開拓も行っています・・・『東廻り航路』とか日本史の授業でやりませんでしたっけ?

要はこの階段の先に彼の墓があるんです・・・是非とも墓参りして、その商才にあやかりたいモンですね!
河村瑞賢の墓3 河村瑞賢の墓4
階段を上り切ると平場があり、墓らしき物が2基見えます!・・・屋根付きです!贅沢ですねぇ・・・
手前のが河村通顕(瑞賢の嫡子)の墓、左奥にあるのが河村瑞賢の墓です!
河村瑞賢の墓5
河村通顕墓
河村瑞賢の墓6
河村瑞賢墓
それぞれ『河村通顕墓碑銘』『川村瑞賢顕彰之碑』という物が傍らに建っています!
両方とも小さな文字がビッシリと彫り込まれていますが、瑞賢の方を見てみましょうか・・・

運業界の祖治河事業の先駆者河村瑞賢の墓石は元禄十二年獅子通顕により建立され、更に通顕の墓石は享保六年義篤によって建立されたものであり二百有余年の長い間風霜に晒されて建長寺境内塔頭金剛院跡に眠り続けていました。自然の磨損の甚だしい所偶関東大震災によつて墓石は倒れ墳墓は破損されてしまいました。その惨状を見、傷心の情深き菅原時保管長猊下を中心に官財界の有志相い集い『河村瑞賢墳墓保存会』を設立し、昭和九年九月墓石等の保存工事、追憶碑を建立して河村瑞賢の優れた業績を永く後世に伝えるべくご努力なされましたが、時は流れ国家社会の現状は変遷し更めて海運・治河事業の重要性が叫ばれて参りました。私達関係者は過去の偉大なる河村瑞賢の業績に憶いをはせ平成五年十月『河村瑞賢墳墓平成保存会』を設立し、平成六年六月十六日毎歳瑞賢忌を期して吉田正道管長猊下を大導師に拝請し、鍬入れ式等を挙行いたし境内整備等につとめて参りました。茲にその意志を確認し、永く保存に関する諸行事等をいたし祟敬顕揚の念を深くするものである。
                                     平成七年六月十六日 河村瑞賢墳墓平成保存会

河村瑞賢の荒れていた墓を整備して、彼の功績を後世に伝えて行きますって事ですね・・・
河村瑞賢の墓7 『河村瑞賢追悼碑』なる物もあります!

封建時代ニ於テ姓名ヲ歴史ニ留ムルモノハ、衣冠束帯ノ縉伸力功城野戰ノ勇士ノミ、尋常平人ニ至リテハ、其事業ニヨリテ惠澤ヲ後世ニ施ス者アルモ其姓名埋沒シテ記サレザルモノ多シ、然ルニ此間ニ於テ河村瑞賢ノ姓名ノミ喧傳セラルルヲ見テハ、其事業人物ノ如何ニ一時ニ傑出シタルカヲ想見スルヲ得ベシ。瑞賢ハ元和四年二月十五日伊勢度會郡鵜倉村東宮ニ生ル、
幼名ハ七兵衛、後十右衛門ト改ム、十三歳ニシテ江戸ニ出デ車力日雇頭ヨリ材木商トナリ機略縦横才思湧クガ如ク為ス所人ノ意表ニ出デ企テテ成ラザルナク四十歳頃ハ其財力巴ニ海内無双ト稱セラル。幕府其才ヲ重ンジテ委任スル所多シ、其中最モ大ナルハ寛文十一年奥羽諸國ト江戸トノ航路ヲ改メ、船舶ヲ強大ナラシメ、海難救助ノ法ヲ定メ、船頭水夫ノ待遇ヲ改善シ海運ノ方法ヲ根本ヨリ変革シタルニアリ。従来奥羽ヨリ江戸ニ米ヲ送ルニ一ヶ年ヲ要セシガ、之ヨリ後東廻リ路ハ三ヶ月、北廻り路ハ五ヶ月ニシテ足リ、而シテ仙臺ニ於ケル米價ハ金一兩ニ七石ナリシモノ此後二石四斗ニ上リテ農民ノ得ル所舊ニ倍シ、江戸ノ民マタ物資ノ缺乏ヲ免レ地方經濟ヨリ國民經濟ニ移ルノ大勢ヲ促進ス。天和貞享ノ間マタ幕命ヲ奉ジテ淀川ヲ修理シ溝渠ヲ通ジ排水ノ法ヲ講ジテ數百年来ノ患害ヲ除ク。
元禄十年将軍綱吉之ヲ召見シ次デ百五十俵ノ禄米ヲ給シテ若年寄ニ属セシム、之ヨリ名ヲ改メテ平太夫ト稱ス、
瑞賢ハ其号ナリ。元禄十二年攝津河内ノ治水工事成リ、三月江戸ニ歸リシガ病ヲ得、六月十六日八十二歳ニシテ死ス。彼身ヲ勞働者ヨリ起シタルニ似ズ、學問ヲ重ンジ萬巻ノ書ヲ家ニ藏シテ學者ノ觀ルニ任セ、マタ私カニ學者ニ給與スルコト少カラズ。新井白石ノ如キモ其一人ニシテ後機内治河記、奥羽海運記ヲ著シテ彼ノ功績ヲ傳フ。
別ニ瑞賢ノ著ハシタルモノ疏瀹提要本朝河攻略記アリ。瑞賢マタ開境展土ノ志アリ、浪人小笠原長啓ニ資ヲ供シ太平洋ノ無人嶋ヲ開カシメントセシガ病ヲ以テ果サズ、是レ後ノ小笠原嶋ナリ彼ノ一生ヲ見ルニ喬木ノ種子ガ風ニ弄セラン雨ニ打タン不毛ノ地ニ落チテ芽ヲ發シ遂ニ岩石ヲ劈キテ參天ノ大樹トナリシガ如ク、一人ノ力ガ如何ニ社會ノ因襲ト積威ヲ凌イデ為シ得ルカヲ示ス記念塔ト云フヲ得ベシ。中島真雄君彼ノ墓ガ蔓草ニ掩ハン其文字風霜ニ磨損セランテ讀ムベカラザルヲ見、傷心ノ情禁ズベカラズ。建長寺ノ菅原管長、近藤總理、松井七夫、栗田傳兵衛四君ト謀ツテ為メニ墳墓保存會ヲ起シ衆人ト力ヲ合セテ碑ヲ建ツ。余曽テ日本經濟史ニ於テ瑞賢ノ功ヲ傳ヘタル縁アルヲ以テ茲ニ文ヲ撰シテ以テ其事ヲ記ス。
                                 昭和九年九月  竹越與三郎撰  松本英一書

墓を整備した時に建てられた物の様です・・・瑞賢の略歴が書かれています!・・・つーか長ぇ~よっ!
奥羽から江戸に米を運ぶのに1年もかかっていたんですね(笑)・・・味落ちちゃうよ!米は生鮮食品アルヨ!
それが東廻り航路が開通してからは3ヶ月で運べる様になったと・・・確かに賞賛に値しますね!
河村瑞賢の墓8 河村瑞賢の墓9
墓入口の右側に井戸を発見・・・場所的に鎌倉五名水の不老水と同じ水脈かも知れませんね!
まだ水は湧いているんでしょうか?・・・飲みてぇ~・・・不老不死になって年金生活してぇ~なぁ(笑)

以上、河村瑞賢の墓でした!・・・石碑に書かれた小さい文字がストレスを誘発するスポットです(笑)

さて、数年前から建長寺では『華厳塔再建計画』なる物が始動しています!
かつて、高さ20m強の五重の塔(三重とも)が建長寺には建っていました、それを再建して新たに信仰の柱としたいというのが建長寺の考えらしいのですが、どーも古都保存法が枷のひとつになっている様です・・・
高さのある建造物は新たに建てられないんですよね・・・
ビルを建てるわけじゃないんだから・・・とも思いますけど、法律とかってホント融通きかないですね・・・

で、その華厳塔なんですが、どーもこの河村瑞賢の墓の平場に建っていたらしいんです!
石碑にもあった通り、昭和9年(1934)に瑞賢の墓は整備されています・・・
草叢の中にあった瑞賢の墓を現在地に移動し、その参道の工事中に塔心の穴に掘り当たり、直径75㎝、深さ1mの穴の中から経石(経典の文字が書かれた石)が100個程見つかったそうです・・・

この塔心の穴は、コンクリートで埋め戻されてしまったそうです・・・
埋め戻すのはいいけどコンクリートはやめろよぉ(笑)・・・今も参道の下の何処かに眠ってるんでしょうね・・・

【新編鎌倉志】にも記述があります!
【華嚴塔の跡】
勝上巘へ上る路の左にあり。華嚴塔供養の跡有り。其の畧に云、鎌倉縣、山内居住、菩薩戒弟子尼圓成、為故夫主最勝園寺(平貞時なり)一十三周忌建之、元亨三年、孟冬、於玆日慶懺、圓覺壽福兩山和尚、安座點眼佛事、三寶弟子菩薩戒尼圓成䟽云云。

華厳塔は元亨3年(1323)、第9代執権北条貞時の十三回忌に覚海圓成(貞時夫人)が建てたとありますね!
でも正和4年(1315)の大火事による飛び火で焼失したという記事もありましたので、再建という事になりますね!
そして、黄門様が訪れた時には既に無かった様です・・・
建長寺図2 半僧坊旧参道1
先程と同じ建長寺図ですが、赤枠で囲った部分には『華厳塔跡』と書かれています!
まさに現在、河村瑞賢の墓がある辺りですね!その右横に山道の様な物が描かれていますが、これはかつての参道であり、現在も残っています!・・・瑞賢墓の階段を上って行くと右側にそれらしい道がありました!
まさしく古道といった趣です・・・
半僧坊旧参道2 半僧坊旧参道3
道が磨り減っていてかなり滑りやすくなっています!・・・でも結構楽しいかも(笑)
半僧坊旧参道4 半僧坊旧参道5
この辺りには庚申塔が結構あります・・・古道である事の証明ですね・・・
半僧坊旧参道6 半僧坊旧参道7
何かの跡の様な石組がありました・・・何でしょう?・・・BBQするのにちょうど良さそうだな(笑)
右の崖下には先程往復した参道が見えます!
半僧坊旧参道8 夏ミカンかぁ・・・まだちょっと収穫には早いかな・・・

以前住んでいた家の裏山は一面ミカン畑で、父方の祖父が管理し販売もしていたのでミカンは食べ放題でした!
そのせいでミカンはちょっと嫌いになりましたけど(笑)

雪合戦みたいに、もいでは投げて遊んだなぁ・・・
夏ミカンはデカくて当たると痛いから禁止とかいうルールも作ったっけ・・・そして大人に見つかって怒られる(笑)
デッカいビワの木もあり、実を取って食べたっけ・・・美味かったなぁ・・・
尾根は栗林になってて栗拾いも出来たし、タケノコやシイタケも採れた・・・普通に野菜も作ってたし、今考えると凄い恵まれた環境だったなぁ・・・あの頃はイモ虫もそれ程気にならなかったし・・・

人の入らない山道は20年で姿を消すといいますけど、祖父が亡くなって山に入る人が居なくなった現在、いつの間にか山への入口さえ分からない状況になってしまいました・・・自然って凄いなぁ・・・
半僧坊旧参道9 夏ミカンの木を過ぎると、半僧坊の展望台の所へと道は繋がっていました・・・
現在の参道が出来るまでは皆この道を通っていたんですね・・・

来た道を引き返して気付いたんですが、何とこの道は通行止めの様でした・・・またしても全然気付かなかった・・・
確かに登り始めは滑り易くて危なかったです!
つーか実際滑りました(笑)
聖地である西来庵にも侵入しちゃったし、今回はこんなのばっかだな(笑)
今年は大覚禅師(蘭渓道隆)生誕800年との事ですが、その記念事業として何をするんでしょうか?
自分的には招寿軒の復活が嬉しいんですけどね・・・何か食べさせておくれよぉ~!

勝上献ロープウェイを造っちゃうってのも面白そうですね・・・総門から片道¥100くらいで!
天園へのアプローチも楽になりますね・・・いやぁ~楽しみだなぁ(笑)

おしまい
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