ブログ 北条首やぐらタイトル
File.064 
 
元弘3年(1333)、新田義貞の軍勢により鎌倉幕府は滅びました・・・
最終局面で北条方は一族の菩提寺である東勝寺に立て籠もりますが、何が出来る訳でもなく結局自ら寺に火を放ち、北条高時以下870余人が集団自決という凄絶な最期を遂げます・・・
腹切やぐら 東勝寺で自害した得宗北条高時の首は、現在の祇園山ハイキングコースの起点に建つ東勝寺舊蹟の石碑の奥へ進んだ所にある腹切やぐらに葬られたと伝えられています・・・
しかし、学者さん達の研究結果によると、実際のトコロ、
釈迦堂ヶ谷奥やぐら郡に葬られたとする説が有力の様です・・・ 左の写真は腹切やぐらです!
ココはいつ来ても空気が重いです・・・
870人以上が無念の死を遂げている場所ですからね・・・
当然といえば当然かも知れません・・・写真を撮るのもどーかと思いますがパチリ!
石碑の所に
『腹切やぐら 霊処浄域につき参拝以外の立入を禁 宝戒寺』

と書かれた立札が立っていましたが、やはりあまり冷やかしでは来ない方がいいかも知れません・・・
やぐら内にはその辺からパーツを掻き集めたであろう石塔が建っていて、その後ろには無数の卒塔婆があります!
『高倉健』の文字が目立ちますが卒塔婆を見るに、どーやらココで自害した北条篤時と何か関係がある感じです・・・
御先祖様なんでしょうか?・・・そもそも俳優の高倉健なのかどーか知りませんけどね・・・
同姓同名のオッサンである可能性も否めませんね(笑)・・・でも、彼であるという話も小耳にはさんだ事があります!

『日輪寺』の文字も目立ちます・・・これは北条高時の法号です・・・
日輪寺の宗旨所在は未詳です・・・高時は嘉暦元年(1326)に出家していますのでこの時に建てたのか、または【将軍執権次第】には正和5年(1316)に高時が執権となり、翌年には『相模国号日輪寺殿』の記述が見えるので、この年に建てたのか?・・・う~む、別にどっちでもいいか(笑)
とにかく高時の戒名を『月輪寺殿崇鑑』としているWikipediaの情報は誤りだという事です・・・
やぐら内の卒塔婆にも『日輪寺殿崇鑑大禪定門真霊』・・・と記されています・・・
ネット情報に踊らされない様に注意しなければなりませんね・・・どーでもいい情報ではありますけど(笑)
瑞泉寺境内図 さて、腹切やぐら以外にも高時の首が埋められたと伝わる場所が存在します!
今回訪れる北条首やぐらといわれる物件は、瑞泉寺の案内板にも北条高時公一門廟所と記されていました!
実際は天園ハイキングコースから脇道に入り少し行った所にあります!
山道を歩かないとたどり着けない場所です・・・
といってもそんなに歩く訳では御座いませんのでご安心下さい・・・走ればあっというまに着きますよ!(笑)
瑞泉寺の総門を過ぎ右折すると天園ハイキングコースの入口がありますので、そこから山を登って行きます!
ちなみに天園の名付け親は東郷平八郎らしいですよ!
天園ハイキングコース入口 天園ハイキングコース分岐1
最初の分岐は左へ進みましょう!・・・杉本城址を自分なりに探索してみたいという方は右に行ってもいいと思います!
探索に夢中になって滑落したりしないで下さいね(笑)
天園ハイキングコース分岐2 富士山
次の分岐点ですが、おっ、ちょっと整備されていますね・・・感心感心!
ココも左へと曲がりましょう・・・真っ直ぐ行くと明王院方面です、途中には伝大江広元墓弁天社があります!
道標にも書いてありますが、この分岐から明王院方面へ20mほど進むと富士見スポットがあります!
ちょっと寄り道!・・・微かに見えます・・・今日はガスってますからこんなモンでしょう・・・
空気の澄んだ時にくれば良く見えると思います!

天園方面へ進むとすぐに分岐があります・・・本道の案内だけでその道に関しての案内はありませんが、降りて行くと番場ヶ谷へと出ます・・・十二所神社へ行く時はココを使うのもアリですね!
奥津城やぐら 偏界一覧亭
奥津城やぐらを過ぎると道の左側に徧界一覧亭が見えます・・・例の史跡碑も見えますね(笑)
この辺りに来たら少し注意して周りを見ましょう!
天園ハイキングコース分岐3 北條御一門御廟所道
この道標を見落とさない様に!・・・ココが分岐点です!・・・

『瑞泉寺山内 従是右 北條家御一門御・・・』

これ以上は埋まっていて読めません(笑)・・・何が書かれているかは大体想像出来ますけど・・・
瑞泉寺の鉄条網 北条首やぐらへはココを道標通り右に入って行きます!
初めての方達は徧界一覧亭に目が行ってしまって、この分岐を通り過ぎてしまう場合があります!

左の写真は道標から道を振り返って撮った物です!
一覧亭進入禁止柵(鉄条網)が見えたら分岐が近いので、左側ばかりでなく、右側にも注意しましょう!

でもホントにガッツリとガードされていますね・・・
ただの柵ならいいんですけど、トゲトゲが付いてますし・・・痛そう・・・何だか拒絶されている気がして少し寂しいです!
でも、こーでもしないと心無い輩に荒らされてしまうんでしょうね・・・
最近はホントにマナーの悪いハイカー軍団も多いですからね・・・

そんなに細かい事は言いたくないですけど、やぐらの前に野グソがあった時は『ホントかよ!?』と、自分の目を疑いました!・・・驚愕です!・・・やぐらって墓ですよ墓!・・・マズイでしょ!我慢しなさいよっ!
するならするでもう少し場所選びなさいよ貴方っ!(笑)
ご丁寧にケツを拭いたであろうタオルまで置いていきやがってからに!・・・ホントとんでもない輩がいたモンです!
まぁ、本人は必死だったんでしょうねぇ(笑)・・・
リアルタイムにその現場を目撃したら自分も何もいえないかも知れません・・・哀れ過ぎる・・・

分岐を真っ直ぐ天園方面へ進むと貝吹地蔵という地蔵菩薩がいらっしゃいます!
この地蔵菩薩には伝説がありまして、新田勢が攻めてくるのをホラ貝を吹いて知らせたとか、高時の首を敵に渡すまいと逃げる北条方の兵をホラ貝を吹きならして導き、兵は高時の首を無事に埋める事が出来たとか・・・

とにかく幕府軍贔屓な地蔵菩薩です・・・この伝説で首を埋めたと考えられるのが、これから行く北条首やぐらです!
貝吹地蔵から、十二所方面への分岐へ入り進んで行くとお塔窪やぐらという3基からなるやぐら群がありますが、その中央のやぐら内部には五輪塔が置いてあり、ココも高時の首が埋められた場所と伝わります!
なお、この十二所へ抜ける道はプチ秘境な感じで結構険しいですが野趣あふれる楽しい道でもあります!

今回は貝吹地蔵まで行きませんのでどんな地蔵菩薩なのか写真が見たい方はコチラを参照して下さい!
北条首やぐら1 北条首やぐら2
さぁ、目的地はすぐそこです!・・・分岐を右に入り進みましょう!
あ、そうそう北条首やぐらでは写真を撮るとかなりの確率でオーブが写り込みます(笑)
北条首やぐら3 北条首やぐら4
到着ぅ~!・・・横に数穴が連なって密集しているやぐら群です・・・内部には五輪塔の残骸などが置かれています・・・
北条首やぐら5 北条首やぐら6
おおっ、沢山写りましたねぇ・・・成仏できない北条方の魂でしょうか?・・・なんちゃって(笑)
北条首やぐら7 北条首やぐら8
やぐらは内部で繋がっている物もあります・・・繋げたのか繋がってしまったのかは定かではありませんけど・・・
北条首やぐら9 北条首やぐら10
何時訪れても花が供えられています・・・何故かって?・・・造花だからです(笑)
北条首やぐら11 北条首やぐら12
五輪塔、石仏、位牌などが壁面に浮彫りにされているやぐらもあります・・・
北条首やぐら13 北条首やぐら14
北条首やぐら15 北条首やぐら16
ほとんど埋もれているやぐらもあります・・・中々興味深い物件だと思います・・・
ココに北条高時の首が埋まっている・・・かもしれないと思うと、もう少しちゃんと供養してあげたくなります(笑)
北条首やぐら17 北条首やぐらから先の道はかなりヤバイ感じでした・・・
確認しようにも今回の装備ではちょっと厳しそうです!
そもそも道はあるんでしょうか?
もう少し冬が深まってから探索に訪れた方が良さそうな気がします・・・

今後の楽しみのひとつとして取って置きましょう!
何処かへ繋がっているといいんですけど・・・
天園ハイキングコースは本道を少し外れるとやぐらがゴロゴロとありますのでホント飽きません・・・
藪を掻き分けやぐら探索!・・・楽し過ぎます!

ひと通り北条首やぐらは拝見したので先程の分岐まで戻ってちょっと気になる場所をチェックです!
北条首やぐら上部1 北条首やぐら上部2
ちょうど北条首やぐらの上辺り・・・なだらかにこんもりとした山頂部分を目指してみます!
昔は尾根道が基本ですから、あーいった場所にはよく古道の痕跡が残ってたりします・・・
落葉がたまってフッカフカです・・・でもそれだけ歩きづらいともいえます・・・まぁ、人が通らない場所ってのは大抵こんなモンです・・・落葉には細心の注意を払いましょう!深く積もっているだけで、そこが地面ではないかも知れません!
思わぬ怪我をしたり、最悪の場合滑落して死ぬ可能性だって否定は出来ません!
北条首やぐら上部3 北条首やぐら上部4
おっ、何か明らかに人工的に加工された石材を発見!・・・やはり古道が通っていた可能性大ですね!
北条首やぐら上部5 北条首やぐら上部6
頂上付近をウロウロ・・・おっ、何か石柱を発見!・・・怪しいなぁ・・・怪しいじゃねぇかぁ!
北条首やぐら上部7 道標じゃないか?・・・やっぱりそうか!

『瑞泉寺山内 従是左 北條家御一門御廟所道』

さっきの分岐にあったのと同じ物ですね・・・
埋まってて読めなかった部分に何が書いてあったのか分かってスッキリしました!
予想通りの文字が刻まれていただけですけど(笑)
どーやら現在の道が出来る前はココが本道だった様ですね・・・空しい確認行為にならずに済んで良かった!
怪しい場所があったらとにかく行って見る・・・これは鉄則ですね・・・野グソを発見しちゃう時もありますけどね(笑)

側面には文政12年(1829)銘と願主の黒川惣助という人物の名前が刻まれていました・・・
下の分岐の道標と同年に造られた物の様です・・・この道標、鎌倉宮を脇から出た所の辻にも建っていた様な?
う~ん、違ったかな?・・・まぁ、帰り道だし後で確認してみよう!
北条首やぐら上部8 北条首やぐら上部9
何かの礎石の様な物、岩を削って階段にしたかの様な物・・・結構楽しめます!
北条首やぐら上部10 北条首やぐら上部11
ココも自分の昼寝スポットに加えたいですねぇ・・・ハンモック持って来れば一日のんびり過ごせそうです・・・
でもココも歴史的風土瑞泉寺特別保存地区に入ってると思いますしあまりテキトーな事してると怒られるかも知れませんね!・・・わざわざ登って来る人はまずいないでしょうけど(笑)

しばしの間寛いでいましたら、何か下の方から大勢の話声が聞こえて来ます・・・
ちょっと上から覗いてみましょう!
ハイカー集団1 ハイカー集団2
出ましたっ!・・・暴走族よりマナーの悪い老人ハイカー集団・・・30人以上いる感じですね・・・
2列3列当たり前、道を占拠しヒドイ時は譲ろうともしません・・・暴走族は迷惑かけてるって自覚があるのでまだカワイイですが、老人ハイカー集団の中にはホントにマナーの悪い輩が多いです!

全ての老人ハイカーのマナーが悪い訳ではありません・・・あくまで自分がそーゆー輩によく遭遇するという話です!
しかし何でこーも群れるんでしょうか?・・・全員元ヤンか?(笑)
鎌倉の山歩きなんてせいぜい友達2、3人とでいいじゃないか・・・こんなゾロゾロとまぁ・・・

リーダー格のオッサンらしき人が北条首やぐらの前で得意げに説明をしていましたが、お前がそこで腹を切れ!(笑)
腹切といえば腹切やぐらの高時さんですが・・・折角なのでその腹切シーンをお届けします!

【太平記第十巻 高時並一門以下於東勝寺自害事

去程に高重走廻て、早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、思指申ぞ。
是を肴にし給へ。とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、
相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。
庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。
血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。
元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

高時が腹を切るまでの流れがカッコイイですね・・・話は身内人の長崎高重新田義貞の首を取れずながらも大暴れして東勝寺に戻って来た所から始まります・・・ちょっと分かり難いって方の為に高時の腹切シーンまでを現代語風にしましょう!
さてさて、長崎高重は東勝寺を走り回りいいます、『皆さん、覚悟を決めてさっさと自害しましょう!この高重が最初に手本をお見せしましょうぞ!』というと、胴の部分だけ残った鎧を脱ぎ捨て、北条高時の前に置かれた盃を手にし、舎弟の長崎新右衛門に酌をさせ三度杯を傾けた後に、盃を摂津刑部太夫入道道準の前に置き、
『これを肴にどうぞ!』というと左の小脇に刀を突き立て、右の脇腹まで長く掻き切り、手を突っ込み自らハラワタを引きずり出して道準の前に倒れ込んだのでした・・・

道準は盃を手にし、『何とも素晴らしい肴ではないか、これではいかなる下戸でもこの酒を飲まぬ輩はいないだろう』というと、その盃の酒を半分ばかり飲み残して諏訪入道直性の前に置くと、同じく腹を切って死んだのでした・・・

諏訪入道直性は落ち着いてその盃を三度傾けると、高時の前に置き、『若者達が随分と芸達者なことをするではないか、年寄は何をしようかの、今より後は皆、これを葬送の興とするがよろしいでしょう』というと、腹を十文字に掻き切り、その刀を抜くと高時の前に置きました・・・

長崎入道円喜は高時の事が気にかかり、未だに腹を切らずにいましたが、今年15才になった孫の長崎新右衛門が、祖父の前にかしこまり、『先祖の名前を世に知らしめてこそ子孫は孝行に値すると言います・・・神も仏も必ずや許して下さるに違いありません』と、未だ自害せずにいる年老いた祖父円喜の肱の根元あたりを2度刺し、その刀で自分の腹も掻き切り、祖父の体を引き寄せてその上に倒れ込みました・・・

この若者の行為に自分がすべき事を教えられたのか、高時も腹を切り、城入道が続いて腹を切りました・・・

この様子を見ていた、北条一門や他家の人々が雪のように白い肌を次々と露わにし、腹を切る人や自ら首を切り落とす人など、それぞれが自分の最期を遂げる様は、誠に立派に見えましたとさ・・・

皆さんあっぱれな最期ですね・・・カッコ良過ぎます!
長崎新右衛門なんか現代だったら中坊じゃないすか!・・・何という潔さでしょう・・・見習いたいものです・・・
取り敢えずあの老人ハイカー集団にも杯を渡してこよう!(笑)

帰り道に先に述べた鎌倉宮付近の道標らしき石柱を調べようと思っていたんですが、すぐ手前に露店が出ていたので物色していたら、干芋があるじゃぁないですか!・・・たまに無性に食べたくなるんですよねぇコレ!
軽く炙ると素朴ながらも甘味が増して美味いんです・・・もちろん購入しました!
よっしゃぁー!家帰って炙って食うぞぉーー!

ええ、そーなんです・・・干芋を買った時点で喜びのあまり、道標の事はスッカリ忘れてしまった様です・・・
おまけに帰り道に寄った友人宅に干芋を忘れて来るというあり様・・・これも年のせいなんでしょうか?
せめて干芋は食いたかったなぁ・・・結構凹む一日でありました・・・ハァ~・・・
北条首やぐらの道標 北条首やぐらの道標2
しかし、これくらいではめげません!・・・今までに撮り溜めていた膨大な量の写真をテキトーに漁ってみると・・・
ありましたっ!・・・コレですね・・・何故か墓石カテゴリーに分類されていました(笑)
疲れたぁ~・・・でも見つかってスッキリしたぁ!・・・2009年撮影ですんで今から4年前の物になります・・・

やはり同じ道標ですね・・・側面には文政十二年の文字も見て取れます!
干芋は食べれなかったけど、道標の確認を忘れたという失態はこれで無かった事にしてしまおう(笑)

北条首やぐらの道標は一応3本確認しましたが、これで全部なんでしょうか?・・・他にも廃道となった山道に人知れずひっそりと立っている物が無いともいい切れませんね・・・

おまけ


太平記絵巻
太平記絵巻
【太平記】には北条高時が妖怪(烏天狗)と田楽を踊る有名なシーンがあります・・・女性が覗いてますねぇ(笑)
御存じの方も多いと思いますが、どんな感じだったのか内容を見てみましょう!

【太平記第五巻 相摸入道弄田楽並闘犬事】

当時、都では田楽を楽しむことが大流行しており、身分に関係なく皆夢中になっていました・・・
相模入道北条高時はこの話を聞くと、都の新座、本座の田楽団を鎌倉に呼びつけては昼夜問わずのめり込み、他の事は放ったらかしです・・・あまりに夢中になってしまい、幕府の重鎮たる大名達に田楽法師を1人ずつ預けて装束を凝らせたりしました・・・
この法師は誰々の田楽法師だとか、こちらは某殿の田楽だとか噂されるので、田楽法師らが身に着ける衣装を金銀、珠玉で派手に飾ったり豪華な織物や刺繍で飾り立てました・・・宴席においては一曲終わると、高時を始め一族大名達が我も我もと着ている直垂や大口袴を脱いで投げ与えました・・・実にその量たるや積み集めれば山の様で、一体幾千万になるかも分かりません・・・

またある夜、いつものように宴を催していましたが、高時は酔いに任せて立ち上がり舞を舞い始めます・・・
しかしその腕前は皆の興味をそそるでもなく、また狂言師が言葉巧みに舞い踊る物でもありません・・・
四十幾歳かのオッサンが酔いに任せて踊る舞なので、風情も何もありません・・・
しかし新座、本座の田楽役者ら十余人が突然どこからか座席に現れ舞い歌いだしました!
その盛り上がりは尋常ではありません!・・・しばらくして曲が変わりその歌を聞いてみると、
『天王寺のよろぼしを見ようよ』と、歌っている様です・・・1人の女官がこの歌声があまりにも面白いので、障子の隙間から中を覗いて見ると新座、本座の田楽役者のような者は1人も居ません!・・・ある者は嘴が鉤のように曲がって鳶のようであり、また体に羽が生えて山伏の様な格好の者も居ます・・・どーやら人ならざる化物か妖怪どもが人間の姿に身を変えている様です!

驚いた女官は何事か訳が分からず、安達時顕城入道に人を遣わしました・・・
知らせを聞き驚いた城入道は太刀を身に着けると、大慌てで宴席に急ぎました・・・中門付近を荒々しく走って来る足音を聞くと化物どもは一斉に姿を消し、その場には酔い潰れた高時だけになりました・・・
灯りを近付けて周囲を調べてみると、確かに天狗が集まっていたかの様に畳には鳥や獣の物と思われる足跡が沢山残っていました・・・城入道はしばらく虚空を仰いでいましたが、特に目に止まる物は何もありませんでした・・・
相模守北条高時
相模守北条高時(画:月岡芳年)
しばらくすると高時が驚いた様に起きましたが、ただ呆然として何も記憶が無い様でした・・・
後に藤原南家の儒者刑部少輔仲範がこの話を伝え聞き、
『天下がまさに乱世に向かわんとしている時に、妖霊星なる怪しげな悪星が天より降って災害を起こすという・・・
しかも天王寺は我が国最初の仏教霊地であり、聖徳太子が日本国の将来について予言書を書かれた所です!
ですからその怪しげな化け物達が天王寺の妖霊星と歌っていた事は怪しい事です・・・
これはもしかすると天王寺あたりから天下の騒乱が起こり、国家が滅亡するという暗示とも考えられます・・・朝廷は品格ある行いに努め、また幕府は仁政を行い妖怪や化け物の陰謀を退けることが肝心である』


と、話されていたのですが、案の定恐れていた乱世になってしまいました・・・
仲範は、災難を未然に予告出来るほどの広い知恵、知識を持っていました!

しかし、高時はこのような不可解な出来事に遭遇しても、特別に驚く様な事も無く、相変わらずのやりたい放題でしたとさ・・・
妖霊星とは箒星(彗星)であるともいわれています・・・昔は不吉の前兆とされていました・・・
自分が子供の頃は76年周期で地球に接近するという、ハレー彗星がやって来て巷を賑わせていました!
ちょうど同時期に近くのお寺(良心寺)の息子さんから天体望遠鏡を譲り受けた自分は夢中になって夜空を眺めました!
初めて土星の輪っかを見た時の感動は今でも覚えています・・・冬空を見ると望遠鏡が欲しくなります(笑)

ちなみに東勝寺で孫に刺された長崎円喜と女官の知らせで駆け付けた安達時顕は、第9代執権北条貞時が死の間際にまだ幼かった息子高時の後見人として指名した2人です!

暗愚といわれた北条高時ですが、実際はどーだったんでしょうか?
犬といえば江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が頭に浮かんでしまいますが、高時の闘犬好きも異常だった様です!
鎌倉が犬で溢れ返ったという話や、高時の犬が通る時に民衆は地に膝をついたなんて話もあったと思います・・・
基本どの著書も暗君として描かれています・・・

でもそれは足利尊氏を正当化する為にそう描かれた可能性もあると思います・・・
そんなクソみたいな人物と最期を共にしたいですかね?・・・しかも870人もですよ!
自分的にはどーもしっくりと来ません・・・

上の錦絵を見ているとアホなオッサンにしか見えないのも事実ですけどね(笑)

おしまい
ダム 上へ     HOME