この奥にももう一つ平場があります・・・数は少ないですが同じようにやぐらがあります・・・反対側に貫通している物もありました・・・左の写真の2本の木の奥では、大きな緑のシートで地面が覆われていました・・・
五輪塔の残骸でもあるのかな? 隠されると覗きたくなりますが、我慢です・・・
2つの平場と展望台で構成されたスペースになっていましたが、なんでしょう・・・もういいかな・・・
確かに階段状のやぐらは圧巻ですが、やぐら自体は小規模な物で特に珍しい造りの物もないです・・・
おまけに五輪塔は適当に並び替えられた物で当時のそれを伝える物ではありません・・・せめて展望台がもうチョイ眺めが良ければなぁ・・・
名越切通を散歩中に寄るくらいならありですけど、敢えてまんだら堂やぐら群だけを再び見に来ようと思わせる何かは感じさせてくれませんでした・・・
てーか誰もいねぇ~・・・臨時オープンとはいえ土曜日なのに・・・まぁこれから昼にかけてガンガン来るのかな・・・
じゃなきゃ多額の費用を使って整備した意味がないですよね・・・一市民として税金の無駄遣いは認められません!
名越切通は世界遺産登録候補地ですが、この辺トイレがないんですよね・・・
多くの人が訪れる様になったら大変だと思うんですが・・・どうでしょう、やぐらをトイレにするってのは?
まんだら堂トイレ群・・・B級スポットになる事必死ですが需要はありますよ!
それかその手の人には有名な関ヶ原ウォーランドみたいにしてしまうのもありかと・・・
あのサブカルチャー的な雰囲気・・・いいですね・・・和みます・・・あの微妙なコンクリート像で造られた鎌倉武士達を見てみたいです!
せっかく資料を頂いたので少し見てみましょう・・・
『まんだら堂』の名が確認できる最も古い文献は、文禄三年(1594年)の検地帳です。しかし、そこには畠の地名として記されているのみで、『まんだら堂』がどんな建物だったのか、いつまで残っていたのかなど、詳しいことは全くわかっていません。
まんだら堂やぐら群は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見る事のできる遺構は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重です。やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えませんが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものです。葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられていますが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたかも知れません。
発掘調査の事にも触れていました・・・この辺は調査報告書をみた方が詳しいです・・・
鎌倉後期頃から平場の造成とやぐらの掘削が行われ、室町時代の中頃(ほぼ15世紀いっぱい)までは供養などが行われていた様です・・・
また、大切岸についても触れていました・・・で・・・結局まんだら堂って何なんだよ~!?
仏具屋さんみたいな名前しちゃってますけど・・・史料がないんじゃ想像するしかないですね・・・
前回訪れた時は草ボーボーで、鳥居の様な木戸が取り付けられていて中に入れなかった様な記憶がありますが・・・
まぁ雰囲気がやばくて入りたくもなかったですが・・・
以前ココに妙行寺というお寺がありました・・・Googleマップではまだ表示されてますけど、もうないのであしからず・・・
お寺というか掘立小屋のような物だったと記憶してます・・・
戦後、ある人物がココに住み、弟子と共に土地を整備して隠れた紫陽花の名所になっていたと聞きます・・・
また、まんだら堂を見たい人はその人の説法を聞かないと見られなかったって話も聞きます・・・なんでも宇宙の真理について語られるとか・・・
その人物の死後は荒れるにまかせ放置されていましたが、最近になって世界遺産ブームの流れで逗子市が整備し、こんな感じになっています・・・こうなる前のまんだら堂はホントに空気がやばかったです・・・
骨とか普通に転がってたなんて話を聞きます・・・ちょっと大袈裟っぽいですけど・・・
鎌倉内に新たに墓は造れなかったし埋葬も禁じられていた事から、この様な境界の地に処刑場や埋葬地が多いのは至極自然な事ですが、特にまんだら堂が心霊スポット的なイメージが強いのは、やはり下にあるお化けトンネルの存在でしょうかね・・・
夜も普通に通りますけど今まで一度もお化けに遭遇した事ないです・・・そもそも上下線合わせて6つのトンネルが並んでいますが、どれがお化けトンネルなのか良く分かりません・・・地元ってそんなもんですよね・・・
以外と地方の友人とかの方が詳しかったりします(笑)
まんだら堂の発掘調査では火葬跡も発見されています・・・いま現在その下には火葬場があります・・・
現在の鎌倉市役所は律令時代の郡衙跡に建っています・・・何かそうゆう場所っていつの時代も何となく決まってんるんですかね・・・面白いですね・・・
新しく生まれ変わったまんだら堂やぐら群・・・いいと思いますよ、綺麗で・・・
また10年後位に訪れてみようと思います!それまで廃れてない事を願います・・・
まんだら堂を後にして、もと来た階段を降ると、先程の彼が一生懸命に井戸の写真を撮っていました・・・
ど~も想像していた物とは違ったと言ってました・・・だいたいそんなモンですよ・・・
極稀に想像以上のモノとの出会いがあるからやめられないんですよね!
逗子市のホームページに逗子景勝十選てのがありました・・・逗子八景なら知ってましたけどそれが十景になったんでしょうか?・・・問い合わせは経済観光課までとありました・・・
『田越川の桜と柳』 『久木大池公園』 『名越切通、まんだら堂跡』 『大崎公園の展望』 『蘆花記念公園』
『六代御前の墓』 『岩殿寺』 『逗子海岸と浪子不動』 『披露山公園』 『神武寺』
ちゃっかりまんだら堂が入っていますね・・・図書館で見た史料に逗子八景が紹介されていましたので取り敢えず・・・
明治30年刊逗子案内誌にある田越八景
『鳴鶴暮雪』 『江ノ島晴嵐』 『新宿帰帆』 『医王晩鐘』
『小浜夕照』 『小滝夜雨』 『柳作落雁』 『田越秋月』
大正10年選定の逗子八景
『桜山暮雪』 『岩殿晴嵐』 『小坪帰帆』 『神武晩鐘』
『鳴鶴夕照』 『猿畠夜雨』 『不動落雁』 『延命秋月』
昭和25年神奈川新八景之一 逗子八景
『披露山暮雪』 『桜山之晴嵐』 『小坪之帰帆』 『神武寺晩鐘』
『田越之夕照』 『山野根夜雨』 『沼間之落雁』 『浪子不動秋月』
八景って一応選定基準みたいのがあったんですね・・・8つのカテゴリーが・・・知らなかった・・・
う~ん神武寺強いですねぇ・・・全ての時代で選定されていますね・・・医王山来迎院神武寺・・・
晩鐘は知らんけど毎朝6時に撞かれる鐘の音はウチにもちゃんと聞こえてきます・・・
『パン食えば 鐘が鳴るなり 医王山』
神武寺は歴史の古いお寺です・・・神亀元年(724)、霊夢をみた聖武天皇の命を受け、行基が十一面観音、釈迦如来、薬師如来を彫り祀ったのが始まりと言われております・・・出た行基!
沼浜城で述べた法勝寺の縁起にも行基が出て来ましたね・・・十一面観音彫って大蛇を説得しました!
どっちが先だったんでしょうか?別にどっちでもいいんですけど・・・
そもそも行基がココに来たのはいいとして・・・百歩譲って十一面観音を一体だけ彫ったとしましょう・・・
そこから神武寺も法勝寺も勝手に行基伝説が派生して行ったんじゃないかな・・・なんて考えてしまうとロマンが無くなるのでやめて置きましょうね・・・神武寺が由緒ある寺である事は確かです・・・【吾妻鏡】にも記述があります・・・
建久3年(1192)8月9日、実朝を身籠った政子が産気づいた時に、頼朝は27の社寺に神馬を奉納し安産祈祷させています・・・その27の寺の一つに寺努寺というのがありますが、それが神武寺の事です!
そして、
承元3年(1209)5月15日
神嵩並びに岩殿観音堂へ御参す。御還向之間 女房 駿河局の比企谷の家へ渡御す。山水納涼之地也と云々。
実朝自身も神武寺を訪れています・・・神嵩(こうのだけ)が神武寺の事です・・・前年に疱瘡を病んだ実朝は鶴岡八幡宮の祭事を度々欠席しています・・・顔に残ったアザを人前に晒すのが嫌だったからとの話も聞きますが、神武寺に平癒のお願いにでも来たんでしょうか?
ちなみに岩殿寺は吾妻鏡に何度も登場しますよ・・・篤く信仰されています・・・坂東三十三観音の第二番札所です!
東大寺大仏の再建を行った陳和卿(ちんなけい)という宋人が居ました・・・ちなみにこの陳和卿が持ち込んだ彫漆工芸(堆朱)を運慶の息子の康運が、もっと安価に出来ないかと考え生み出されたのが鎌倉彫です・・・
予算使い切る為に市内の道路整備をするのは鎌倉堀(笑)
以下は【吾妻鏡】に見える実朝と陳和卿に関する記述です・・・
建保4年(1216)6月8日
陳和卿参着す。これ造東大寺大仏の宋人なり。彼の寺供養の日、右大将家結縁し給うの次いでに、対面を遂げらるべきの由頻りに以て命ぜらるると雖も、和卿云く貴客は多く人命を断たしめ給うの間、罪業これ重し。値遇を奉ることその憚り有りと。仍って遂に謁し申さず。而るに当将軍に於いては権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為参上を企てるの由これを申す。即ち筑後左衛門の尉朝重が宅を点ぜられ、和卿が旅宿と為す。先ず廣元朝臣をして子細を聞かしめ給う。
大仏の開眼供養(1195)の時、頼朝は陳和卿に会う事を望みましたが
『あなたは人を大勢殺す罪を犯しているので遠慮して置きます』と断られます・・・しかし今度は、
『現在の将軍(実朝)は仏の化身であられるから是非ともご尊顔を拝謁賜りたい!』
と、陳和卿自ら鎌倉に来た様です・・・
同年6月15日
和卿を御所に召し御対面有り。和卿三反拝し奉り頗る涕泣す。将軍家その礼を憚り給うの処、和卿申して云はく、貴客者昔宋朝医王山の長老たり。時に吾その門弟に列すと云々。この事去る建暦元年6月3日丑の刻、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入りこの趣を告げ奉る。而るに御夢想の事、敢えて以て御詞に出されざるの処、6箇年に及び、忽ち以て和卿が申状に符合す。仍って御信仰の外他事無しと云々。
陳和卿が実朝に会います・・・3度礼をし大泣きしている陳和卿の様子に実朝はちょっと引いてます(笑)
『あなたは宋の医王山の長老の生まれ変わりです、自分もその時の門弟でした』
これを聞いた実朝は以前自分の夢枕にひとりの高僧が立ち、同様の事を告げた事を思い出します・・・
この事は一切口外していなかったので、実朝の信心は深まった様です・・・
同年11月24日
将軍家先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従の人六十余輩を定められる。朝光これを奉行す。相州、奥州頻りに以てこれを諫め申さると雖も御許容に能わず。造船の沙汰に及ぶと云々。
さぁ遂に実朝は前世の地である医王山を目指し中国へ渡るために陳和卿に造船を命じます!
北条義時達がやめる様に言い聞かせますが、実朝は聞く耳持ちません!
建保5年(1217)4月17日
宋人和卿唐船を造り畢す。今日数百輩の疋夫を諸御家人に召し彼の船を由比浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆監臨し給う。信濃の守行光今日の行事たり。和卿の訓説に随い、諸人筋力を尽くしてこれを曳く。午の刻より申の斜めに至る。然しながらこの所の躰たらく、唐船出入すべきの海浦に非ざるの間、浮かべ出すこと能わず。仍って還御す。彼の船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。
遂に進水式です!実朝も見ています!
御家人から出させた数百人の人足で懸命に引っ張ります・・・お昼から4時半位まで頑張りました・・・しかし、由比ヶ浜は唐船が出入り可能な浜ではなかったので、浮かべる事が出来ませんでした・・・仕方ないので帰りましたとさ(笑)
この船はそのまま砂浜で朽ち果てていったそうな・・・
由比ヶ浜は遠浅だからねぇ・・・造ってる間に気付きなさいよ!
そんなこんなの実朝の間抜けな渡宋計画でした・・・
実朝が目指した前世の地、医王山・・・実朝が信仰した神武寺の山号も医王山・・・
たまたま同じなだけで、何の繋がりもないですけど・・・何か色々と想像してしまいますね・・・
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