ブログ 法性寺タイトル
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前回は化生窟の話から松葉ヶ谷の草庵へと話が広がり、結局場所を特定するには至らず不完全燃焼のまま終わってしまいました・・・今回は焼き討ちにあった草庵から日蓮上人が避難したと伝わる場所に建っている法性寺を紹介したいと思います・・・
法性寺は鎌倉方面からお化けトンネルを越えて最初の交差点を左折し、踏切を超えて左側が入り口となっています!
限りなく鎌倉に近いですが逗子市の久木という地区にある寺であります・・・
久木は明治7年(1874)に久野谷村と柏原村が合併して出来た地名です・・・久野谷のと、柏原の偏から・・・
ベタなネーミングだなぁ・・・

ちなみにお化けトンネルですが、3つのトンネルが連続してあります・・・上下線合わせて6つ・・・どれがお化けトンネルなんでしょうか?・・・全てをひっくるめてお化けトンネルというんでしょうか?・・・自分は逗子市民ですがその辺の事は未だによく分かりません・・・
馬頭観音 踏切を渡った所には馬頭観世音と轢死者供養塔があります・・・いつ頃建てられた物かは知りませんが、有事に備え横須賀の軍港まで急遽造られた線路ですから、当時は踏切など無かったのかも知れません・・・
おまけに鎌倉側へ向けてカーブしているので見通しも悪い場所です・・・多くの人がお亡くなりになったんでしょうか?

自殺する人もいます・・・友人の父が旧国鉄の運転手をしていて現場に遭遇したって話を聞いた事があります・・・
線路の真ん中で合掌して待っていたそうです・・・自殺する人の心境はよく分かりません・・・
自分は人を殺してでも生き残りたいタイプの人間なんで(笑)
殺してでもってのはちょっと大袈裟ですけど、人間死んだら終わりです・・・生きてナンボだと思います!
死なない様に努力するのも人間の義務のひとつなのでは?

それと自殺するにしても電車を使うのはやめて頂きたいです・・・死んでまで無関係の人達に迷惑をかけるのは如何なもんでしょう?・・・自己中心的過ぎます・・・冬山でひっそり死ねばいいのに・・・何をアピールしたいんでしょうか?
色んな要因があるんでしょうけど、ちょっと考え方を変えれば自殺なんてバカな事を考える程に追い込まれる状況は回避できる場合が多いと思います・・・肩の力を抜きましょう!

馬頭観音向かって左側が法性寺の入り口になります・・・大きな石柱が建っています!
法性寺入口
正面・・・日蓮大聖人焼打御避難之霊跡
側面・・・至孝第一日朗聖人御墳墓之霊場
裏面・・・大正十年十月吉日 四十七世 慈詮院日峰

と、刻まれています・・・
大々的に松葉ヶ谷法難の際の避難地である事をアピールしていますね(笑)
日朗上人の墓はずっと上にあります! 
山門 山門扁額
山門では前回も紹介したリアルなホワイトモンキーが額を支えています・・・イイですねぇ・・・
傍らの石柱には『建立総門一宇 中興開山朗慶院日照聖人 第五拾遠忌記念』と刻まれています・・・

門を潜る前に法性寺について軽く説明しときましょうか・・・まずは毎度お馴染みの【新編鎌倉志】から・・・

【御猿畠山】(附山王堂の跡)
御猿畠山、名越の切り通しの北の山、法性寺の峯也。久野谷村の北なり。昔し此の山に山王堂あり。
【東鑑】に建長四年二月八日の焼亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越の邊焼亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て来る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。
賤しみ憎んで一飯をも不送。其の時此の山より猿ども羣り来て畑に集り、食物を営んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其後日蓮、猿どもの我を養ひし事は山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山畠中と號す。
今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華経の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巌窟は、堂の後ろにあり。
窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟相並んで六あり。此れ六老僧の居たる岩窟也。堂の前に日朗の墓あり。
日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。

法性寺については、お猿畠山の項に以上の様に書かれていました・・・これは・・・どーなんでしょう?
日蓮が始めて鎌倉に来た時にココの岩窟に住んだといってますね・・・猿が畑を耕して日蓮を養ったともいってます・・・
この文面からだと初っ端から猿の世話になってますね・・・自分は日蓮伝説について興味もないし詳しくはないんですが、これは松葉ケ谷法難の後の事と記憶しているんですが・・・法性寺の由来も2つあるという事なんでしょうか?
【鎌倉攬勝考】も【新編鎌倉志】の内容を踏襲しています・・・識者の教えを請いたい所であります・・・

しかし世の中には便利な猿がいるもんですねぇ・・・自分も養ってもらいたいもんです(笑)
猿ども群り来てっていってますから相当数の猿が畑を耕したと思われます・・・日蓮モンキーパークの開園ですね!

しかしどーも納得がいきません・・・テキトーな事いってるのかも知れません・・・確認するしかないですね!
山王堂が2回火事にあったといってます・・・その事は【吾妻鏡】にも記載があると断言しています・・・調べましょう!

建長4年2月8日
壬戌 天霽 子の刻焼亡。西は壽福寺前、東は名越山王堂前、南は和賀江、北は若宮大路上その 内残る所無しと。

弘長3年3月13日
癸巳 武藤少卿奉書を小侍所別当に遣わして云く、二所の御精進、来月二十一日より始めらるべきなり。御共並びに参籠の人々、先度の如く御催促有り、注進せらるべし。且つは鳥食、今月二十日の比より憚り有るべし。兼日相触れらるべしと云々。

ん?弘長3年の方は火事の記載がないぞ!?・・・んなバカな・・・火事があったなら記録するだろう・・・
ちょっと読み進めてみると、

弘長3年3月18日
戊戌 天晴 亥の刻名越の辺焼亡す。山王堂その中に在り。失火と。

あった!・・・記載内容も同じです、間違いなくこれでしょう・・・つーか【新編鎌倉志】また間違えてるじゃねぇか!もぅ・・・
このほか建長6年にも山王堂に至るまで火災があったとの記事がありました・・・ 

建長6年1月10日
甲申 天晴 西風烈し。卯の一点浜風早く町の辺焼亡す。名越山王堂に至るまで人家数百宇災す。日の出以後火止む。焼死者数十人と。彼の穢に依って、今日将軍家の御神拝延引すと云々。

現在、法性寺には日蓮が避難した岩窟の上に山王大権現があります・・・ここでいう山王堂とはコレの前身じゃないのかと勝手に決めつけていましたが、果たしてそうなんでしょうか?・・・日蓮の話や吾妻鏡の間違いを発見して自分はかなり疑り深くなっています(笑)
鎌倉の名越地区、大町3丁目には山王谷といわれる谷戸がありその最奥部には電通鎌倉研修所があります・・・
また、研修所改築に伴い【名越・山王堂跡 発掘調査報告書】が提出されています・・・御猿畠山とは違いますし、法性寺からは大分離れています・・・遺構には禅宗様式が見られ山王信仰との矛盾点も認められる様です・・・

【鎌倉廃寺事典】を見てみると、同じ火事の事を挙げて説明していました・・・また、

東勝寺址のある葛西ヶ谷からトンネルをくぐると名越の西ヶ谷で、その東の谷が山王谷。この谷の東奥の山を山王堂と称する。が、山の上に堂の建つ余地はないから、この谷の一番奥の平地、約二畝程のところにあったものと考えられるという。高さ一尺五寸位の石垣が残っている・・・

との事・・・やはり【吾妻鏡】のいう所の名越山王堂は大町の山王堂跡の可能性大ですかね・・・
お猿畠山の山王堂って何なんでしょう?・・・ココの事なんでしょうか?それとももっと東側にあったんでしょうか?

より大きな地図で 名越山王堂跡 を表示
マップで位置関係を確認してみます・・・上から東勝寺跡、トンネル、山王堂跡、お猿畠、山王大権現です・・・
山王堂跡と現在の山王大権現・・・やはりちょっと離れ過ぎですよねぇ?

ちなみにこのトンネル通称『妾(めかけ)トンネル』といいます!
軽自動車がやっと通れるくらいの狭いトンネルですが、その昔金持ちが山向こうに住んでいたお妾さんの所へ通う為の近道として造ったという言い伝えのあるトンネルです・・・
確かに超ショートカットできますけど・・・今も昔も金持ちの考える事はよく分かりませんね(笑)
かなりの急坂なので自転車は注意して下さいね・・・ 
トンネルを出て大町側に下って行く途中を右折すると、またまた変なトンネルがあります・・・
五岳荘トンネル 横のトンネル
『五岳荘』と刻まれた額のある非常に味のあるトンネルですが入り口は完全に埋め戻されています・・・このトンネル、内部の構造が面白いんです!・・・すぐ横には新しいトンネルがあります・・・が、今回行って見ると『私道行き止まり』と書かれた手作りの看板が・・・私道といわれると気軽に入る訳には行きません・・・以前はこんなものは無かったのに・・・
残念・・・埋め戻されたトンネルの裏側は普通に出入り出来て面白かったので今回ついでに紹介しようと思っていたんですけど・・・無念です・・・

このトンネルの状況を誰か紹介していないかネットで調べてみたら・・・いました(笑)
やっぱ変な物好きな人って結構いるんだなぁ・・・仲間意識が湧きます!・・・そう考えると興味本位で見に来る輩が意外と多くて、トンネル奥の住人がウンザリして看板を作ったのかも知れませんね・・・

トンネルの詳細を知りたい方はこちらのHPを参照してみて下さい!・・・怪しいトンネルを巡ってレポしているサイトですが秘境や廃道好きな自分的にはかなり面白かったです!
ちなみに現在トンネルの裏側には家が建っていて入れない様です・・・完全に埋め戻されてしまったんでしょうか?
それとも住人が物置として使っているパターンでしょうか?・・・しかし大町ってホント変な物件多いなぁ・・・
何だか山王堂より五岳荘の方が気になって来てしまいましたが、トンネルの話は終わりにして法性寺に戻りましょう・・・

【新編鎌倉志】の述べる由来にはちょっと考えさせられましたが、【新編相模国風土記稿】も『寺伝と異動あり』と記し【新編鎌倉志】の説に疑問を感じている様でした・・・

【法性寺】
猿畠山と号す、日蓮宗鎌倉妙法寺末、本尊三宝寺伝に文応元年八月廿七日夜祖師鎌倉松葉ヶ谷の厄に逢て此所に遁れ来り、崛中に籠居す時に白猿三匹来て食物を供す、師喜悦し宗法弘通の後此所に一寺を建立すべき由を弟子日朗に命ず、朗其事を果さずして卒す、其弟子朗慶志を継堂宇落成す、故に日朗を開山とし朗慶を開基とす

【新編相模国風土記稿】の説は一般的によく知られた話だと思います・・・
松葉ヶ谷法難で白猿に助けられた日蓮は、その後日朗にココに寺を建てる様に命じましたが、日朗の存命中に寺は建たず、その意志を受け継いだ弟子の朗慶が建立した・・・うんうん・・・自分が聞いていた説もこれと同じです・・・ 
法性寺参道1 法性寺参道2
門を潜ると延々と坂が続いています・・・途中左側には駐車場があり、奥には朗慶院日照聖人の顕彰碑があります!
立教開宗750年記念で建てられた物のようですが、細かく記述されています・・・
大正4年5月7日にお亡くなりになった様で、この寺への勲功を称えられて法性寺第47世となった様です・・・
当たり前ですけどこの寺を建てた朗慶とは別人です・・・

坂道を更に進むと門があります・・・時間外は閉まっていますのでご注意を・・・ハイキングコースから降りてくる場合も時間に気を付けましょう・・・早朝トレッキングでココに降りて来ても門が閉まってたら逆戻りです・・・
まぁ、その気になれば横の壁を駆け上がり突破出来ますけど・・・怪しすぎます(笑)
庫裡 扁額
取り敢えず到着・・・何か田舎の民家って感じの佇まいです・・・入り口には『日朗菩薩墳墓霊場』と書かれた額が掲げられていました・・・500年忌に妙本寺から贈られた物である事が分かる文字も見えます・・・
中では喪服の団体さんが寛いでいました・・・法要の邪魔になると申し訳ないので退散します・・・更に坂を上ります!
木造の祠 石造の祠
お堂の裏側には2段の平場がありそれぞれ木造、石造の祠がありました・・・中々イイ感じの祠ですが謂れはよく分かりません・・・お猿さん関係の物なんでしょうか?ウッキー!
参道3 墓地
ココから先は階段の道もありますがスロープを行く事にします・・・ヘアピンカーブの所に古そうな五輪塔が並んでいる墓域がありました・・・何か特別な空間って感じがしました・・・歴代住職の墓って感じでもなさそうですし、古くからの大檀家の墓なんでしょうか?・・・何か今日は踏み込みたくない気分だったのでスルーです・・・
猿の石像 猿です・・・赤ずきんちゃんバージョン・・・門を潜ってからココまで、自分の頭の中ではゴダイゴモンキーマジックがずっと流れています・・・
西遊記面白かったなぁ・・・よく見ていました・・・
何が面白かったってオープニングの岸部シロー(沙悟浄)の疲れ切った顔・・・子供ながらにこの人苦労してるのかなぁ・・・などと考えながら見ていたのを覚えています・・・
現在も疲れた顔してますけど(笑)
モンキーマージック♪ モンキーマージック♪ 
CD 葉山マリーナに湘南ビーチFMというJAZZに力を入れたコミュニティ放送局がありまして、JAZZ好きな自分にとっては当然お気に入りの放送局です・・・社長は木村太郎(笑)

『真夏の夜のジャズ』と題して、そこが主催するジャズフェスが毎年マリーナのヨット置き場で行われるんですけど、販売ブースでジングル集のCDを売っていたので思わず買ってしまいました・・・何で買っちゃったんだろう?(笑)
もう10年くらい前の事です・・・
Nami's Songと題されカバーデザインは鈴木英人によるものでした・・・何か80年代っぽい感じが逆にイイです!
パカッと開くと鶴岡八幡宮の舞殿が・・・これも鈴木氏による物・・・
そしてディスクには『Produced by Tommy Snyder』とあるではないですか!
トミースナイダー・・・ゴダイゴのドラムです・・・なんと湘南ビーチFMのジングルは彼が手がけた物だった様です・・・
モンキーマジック要素は皆無ですけど(笑)・・・ジングルってのはコーナーが変わる時などに流す短い曲の事です・・・

ココのジャズフェスも2012年の開催が最後になってしまいました・・・近場で一流ミュージシャンのライブが見れるいいフェスだったので残念です・・・なんでも毎年騒音条例違反をしていた様です・・・寄付金などを頂いてる身である町内会としては中々言い難かったらしいですが、うるさくて子供が寝付かない等、地域住民が遂にキレた様です・・・
騒音規制については結構グレーな部分も多い様ですね・・・
さすがに裁判騒ぎになるのは木村太郎的にも宜しくなかったんでしょう・・・防音設備等の出費が嵩んで利益が出ないというのも理由のひとつの様です・・・

2012年は初日にシャカタクが出演予定だったので見に行きたかったんですが急用の為に行けませんでした・・・
夜の高速を走る時は必ず彼らのNIGHT BIRDSを聴いているので是非とも生で聴きたかった・・・
つーかよく考えたらNIGHT BIRDS一曲しか聴いてないなぁ・・・他の曲は微妙なんだよなぁ・・・

2011年は小曽根真が来るってんで見に行きました!・・・ゲストはCrystal Kayと青山テルマでした・・・これはまだいいとしても山中千尋のゲストが稲垣潤一って・・・微妙・・・あの鼻が詰まった様なこもった声嫌いなんですよねぇ・・・
歌も下手だし・・・同じ下手糞同士でユーミンのコンサートにでも出ればいいのに・・・その他多くの一流ミュージシャンが出演する中、よく恥ずかしげもなく出て来れたもんだと逆に感心してしまいました・・・取り敢えず鼻かんでこい!

Tribute to Bill Evansというコンセプトもあり、小曽根さんのWaltz for Debbyは最高でした・・・これ聴いて寝付けないガキなんか放っときゃいいんですよ!・・・こんな素晴らしい演奏が家に居ながら生で聴けるなんて・・・羨ましい・・・
フェス中止にするならあのショボイ花火大会も中止にしろー!・・・ウチから見えないのに音だけやたら聞こえて来てうるさいぞぉ!・・・と、また話が脱線してしまいました・・・戻しましょう!
日朗の墓 墓の扁額
日朗の墓に到着です!・・・掲げられた額は先程の物と全く同じでした・・・日朗は亡くなった時池上本門寺にいましたが、遺言の通り、安国論寺で荼毘にふされ、遺骨はココに納められたそうです・・・お堂の中には白っぽい宝塔の様な物があり、『元應二龍集庚申年 南無日朗菩薩 正月二十一日七十七歳化』と刻まれていました・・・
鎌倉殿中問答で日印が大活躍した4ヶ月後に亡くなったんですね・・・

墓について【改訂逗子町誌】にこうあります、
日朗の墓 祖師堂の前にて上屋有り、是は文政元年(1818)九月朗師年忌菩提の為に建立す、墓石台座は六尺余。明和二年(1765)正月廿一日池上本門寺より再建有り、以前の碑は土中に埋めしと云う。

再建の際、何故以前の碑を土中に埋めたのか知っていますか?・・・ちなみに自分は知りません(笑)
粗大ゴミに出すとお金がかかるからでしょうか?・・・ゴミシールが売り切れてたのかも知れませんね・・・ 
祖師堂 祖師堂の扁額
日朗墓向かって左側にあるのが祖師堂です・・・左側にチラ見えしているのが日蓮が逃げ込んだと伝わる岩窟です・・・

お堂には『両山奥之院』と書かれた扁額が掲げられていますが、予備知識が無いと全く意味が分からないと思います?
よく見ると『長興』『長栄』の文字がありますね・・・これは妙本寺池上本門寺の山号です!
この2つの寺の開山は一応日蓮ですが、実質は第2世である日朗上人です・・・また、この2つの寺は両山一首といって一人の貫首が両方の寺を統べる制度が昭和16年まで続いていました・・・

そんな経緯もあって日朗の墓があるこの地を2つの寺の奥之院としたんではないでしょうか?
扁額には大本山本門寺第八十世大僧正日威の文字も見えます・・・先程の2つの額には妙本寺・・・
山門にあった白猿付きの扁額には池上第七十九世日定の文字も見え、2つの寺との深い関係が感じられます・・・
散らばったパズルのピースが奥之院でひとつにまとまり、何だかスッキリとした気分になりますね・・・

池上本門寺は有名な寺ですので、興味の無い方でも名前くらいは耳にした事があると思います・・・
弘安5年(1282)9月8日、日蓮は晩年身延を離れ常陸へ向けて湯治の旅に出ます、しかし武蔵国池上郷(現東京都大田区池上)の壇越池上宗仲の居館へ到着後、10月13日にそのまま亡くなってしまいます・・・
宗仲は法華経の字数(69,384字)と同じ69,384坪を寺領として寄進し寺の基礎が築かれたと伝わります・・・

この経緯が古くから池上本門寺と呼ばれて来た由縁です・・・正式には長栄山大国院本門寺といいます・・・
池上宗仲はぼたもち寺のページで紹介した印東家とも縁が深く、日朗は従兄弟であるともいわれています!
日蓮上人坐像 池上本門寺所蔵の木造日蓮上人坐像(国重文)です!
写実的で迫力があります・・・まるで生きている様ですね!

頭が蒸れたのでヅラをはずして乾かしている所でしょうかね?(笑)・・・被ってる様に合成してみたんですけど、あまりにも罰当たりなのでアップロードは控えて置きます・・・
『ダリィ~・・・』とか言いそうな感じの仕上がりでした・・・
迫力がありますが、そんな風に見方を変えればシュールな像に早変わりです・・・
どーです?もうヅラにしか見えなくなってきたでしょ? (笑)
本門寺は東国花の寺百ヶ寺の札所でもあります・・・現在103ヶ所ありますが、鎌倉の札所は極楽寺、光明寺、安国論寺、瑞泉寺、報国寺、英勝寺、海蔵寺、雲頂庵、浄智寺、東慶寺、円覚寺の11ヶ寺です!

さて、【新編鎌倉志】に『日蓮ノ巖窟ハ堂ノロニアリ。窟中ニ日蓮ノ石塔アリ。』との説明がありましたね・・・
でも写真に見える様に堂の後ろというより左前という感じです・・・
【新編相模国風土記稿】も、『岩窟 祖師堂の後にあり 方八尺即日蓮籠居の所なり、首題を堀し石碑を立』と記しています・・・何か説明に違和感を感じます・・・ 
祖師堂裏 祖師堂裏の五輪塔
参考までに、堂の裏側はこんな感じでした・・・崖沿いには瓦が散乱し、摩耗した五輪塔が一基あるだけです・・・
先程の扁額に『昭和六十三年一月二十一日建之』と書かれていましたが、これはこの時にお堂を建て直したって事なんでしょうかね? ・・・それならばその時にお堂の向きが変わったんだろうと納得も行きますが・・・まぁ、いいか・・・
日蓮岩窟 岩窟内の五輪塔
これが日蓮岩屋といわれている物です・・・日蓮が松葉ヶ谷法難の際にこの岩窟に避難したと伝わります・・・
中には五輪塔が一基置かれていました・・・思っていたよりちゃんとした物件です・・・入り口の右側には拷問器具の様な柵が設置されています・・・先っぽが超尖がっています・・・刺さったら痛そう・・・崖をよじ登って祖師堂の屋根に飛び移る輩でもいたんでしょうかね?
日蓮は猿達に食物を運ばせココで優雅に過ごしていたのかな?・・・眺めもいいし何とも羨ましい限りです・・・
食物を運んでくる猿はドコで売ってるの?・・・欲しいッス(笑)
山王大権現鳥居 階段
日朗の墓の向かい側に鳥居があり『山王大権現』と書かれた額が掲げられています・・・鳥居の先はいきなり急な階段となっています・・・鳥居の横に『開山越中阿闍梨朗慶上人』と刻まれた碑が建っていますが、朗慶の墓なんでしょうか?

階段がなんか所々微妙にズレてる感じがするんですけど大丈夫かなぁ・・・雰囲気はイイですねぇ!
神仏習合の時代は境内の奥に社を建て、なんたら大権現として奥之院にするパターンが多いですが、建長寺半僧坊大権現に比べれば何て事ない短い階段です・・・てゆーか、ココに来るまでに既に結構な坂道を登って来てますから・・・ 
山王祠 多宝塔
階段を 登り切ると、狭い山頂に祠や多宝塔が建っています・・・気持ちのイイ場所です・・・天を貫く多宝塔・・・
大袈裟かなぁ・・・でもホント風が心地よい場所です・・・塔の台座に何やら案内板らしき物があります、

山王様
山王の字の縦三本横一本、横三本縦一本の構成は一心三観三観即一心の妙法の心を示すものです。
文應元年七月十六日、立正安國論による第一次國諫(光則寺)の反應は八月廿七日の名越御草庵の燒打(安國論寺)となって顕はれました。この時天諸童子以爲給持の佛識は山王様の白猿となって義に従って實の如く實證を示されました。多寶塔は万世を貫ぬき永遠不磨の妙法の實果を具現します。               昭和五十年八月

何だか凄い宗教臭い説明ですね・・・素人なもんで妙法の心なんていわれても当方はチンプンカンプンであります!
坊主丸儲けって事でいいんでしょうか?(笑)

【新編相模国風土記稿】には『山王祠 境内の鎮守なり、西北の山上にあり、日蓮に食物を供せしはこの山王の加護なりと云う。』と紹介されています・・・日吉神社、日枝神社、山王神社などは山王信仰に基づき日吉大社(滋賀県大津市)より勧請された神社です・・・ちなみに山王の神使はです!
眺望 寛ぐおっさん
眺望が素晴らしいです・・・気持ち良過ぎ・・・スペースが狭いのはご愛嬌です・・・
オッサンが崎陽軒のシュウマイ弁当を食べていました・・・いいなぁ、スゲー美味そう・・・この景色も良いスパイスになって更に美味しく感じるんだろうなぁ・・・つーかオッサン邪魔!こんな狭い場所で弁当なんて食うなよぉ!
呑気に茶など飲みよってからに・・・下まで蹴り落として日朗と一緒に葬ってやろうか・・・いかんいかん今日は毒吐き過ぎだなぁ・・・ゆっくり食べて下さいね!そしてそのままゆっくり眠るように逝って下さい・・・
御猿畠山図 【新編鎌倉志】付随の御猿畠図です・・・相変わらず大雑把な絵図です・・・所々違和感を感じる部分もありますが絵図自体が大雑把なんですから細かい事をいってもしょうがないでしょう・・・

でも無い物を記す事はないと思います・・・自分が気になったのは六老僧巌窟なる物件です・・・ちょうど大切岸の所にある様ですね・・・
大切岸ってのは要は崖の事で、尾根に沿って高さ3~10mの崖が800m以上続いている物件の事であります・・・

 お猿畠

山王大権現の所から見た大切岸です・・・
現在のお猿畠はビニールハウス栽培も行っています・・・猿も時代と共に賢くなったもんですね・・・
この大切岸は三浦一族に対する防御施設であるとの見方もありますが、近年の研究では単に石切り場の跡地であろうとの意見が有力の様です・・・

【新編鎌倉志】に、『堂ノ北ニ巖窟ンデアリ。レ六老僧ノ居タル岩窟也。』と説明されていましたね・・・
【鎌倉攬勝考】にも、『又堂の北に、窟相双で六ツあり。六老の窟といふ。』とあります・・・同じですね・・・
六老僧巌窟なんて聞いた事なかったんで物凄い興味をひかれます・・・
大切岸1 大切岸2
またまた大切岸の写真です・・・こんな感じの切岸が800m以上続いています・・・絵図から推測するにあの納屋の辺りに六老僧巌窟があるんでしょうか?穴を利用して納屋を建てているのかも知れませんね・・・
それとも他の場所にあるんでしょうか?・・・そもそも現在もあるんでしょうか?
お猿畠に侵入して詳しく探索したいのは山々ですが、人様の畠に侵入するのはちょっと気が引けるので諦めます・・・

ちなみに【新編相模国風土記稿】には六老僧巌窟についての記述はありませんでした・・・う~ん消化不良・・・
穴は現在もあるのか?・・・それとも既に削り取られてしまったのか?・・・気になる所ではありますが取り敢えずロマンとしてしばらく保留して置く事にします・・・

それにしても、日蓮とその門下生は穴が好きな様ですね・・・ガンダ~ラ♪ ガンダ~ラ♪

おしまい 
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