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大町四ツ角の交差点より一本逗子寄りの脇道へ入ると、八雲神社の前を通り妙本寺の総門まで繋がる細い道になっています・・・その道中に常栄寺という日蓮宗の寺が建っています・・・
通称ぼたもち寺・・・今回はこのお寺について少し紹介させて頂きたいと思います・・・
ぼたもち寺山門 本堂
こじんまりとしたお寺です・・・門の柱には『ぼたもち寺』と大きく書かれた赤い額が掲げられています・・・本堂前にも牡丹餅寺の提灯が・・・そもそも何でぼたもち寺と言われているんでしょうか?・・・案内板がありますんで見てみましょう!

文学案内板 塚本柳斉歌碑
これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにし所    塚本柳斉詠 梅香書
この歌の意は、ぼたもち寺と呼ばれるこの常栄寺の故事によるものである。
この寺の山上は、かつて源頼朝が由比ヶ浜に於ける鶴の放鳥を遠望するために、桟敷を設けた所で、後に印東次郎左衛門尉祐信の妻で法名を妙常日栄という人がここに住み、桟敷の尼と称された。
文永八年(1271)の日蓮の竜ノ口法難の折、この尼が日蓮にぼたもちを捧げたという。この故事により、ぼたもち寺と呼ばれている。
歌の作者塚本柳斉は、本名を塚本松之助といい、明治十二年(1879)千葉県に生まれ、東京の哲学館(源・東洋大学)に入ったが、後に二松学舎に転じて卒業した。
明治四十五年頃から豊島師範の国語・漢文の教師となり、約二十五年間教え、この間に多くの人の伝記を漢文で書いた。昭和十四年(1939)に鎌倉由比ヶ浜に移住し、四十一年八月、八十八歳で亡くなり、妙本寺に葬られた。
鎌倉に移住後は、妙本寺島田住職(日雅上人)と親しく交わり、墓も妙本寺の日雅上人の隣に設けられた。
日雅上人の墓前碑には『交りは 此の世のみかは 来ん世にも 墓を駢べん 君と我とは』という歌が、柳斉の墓前碑には『陽炎や 温容我を さしまねく』という俳句が刻まれている。
柳斉には『日雅上人逸事』(漢文)や『闡幽小伝』(百人の人物小伝、漢文)などがある。
詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)にお尋ねください。 
                                     平成四年十一月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館
 
桟敷尼夫妻の墓 桟敷尼、桟敷の嫗、桟敷女房などとも呼ばれるこの人物ですが・・・何かホームレスっぽい名前ですね(笑)
名前だけで人物像を決めつけるのは良くないです・・・
夫の印東次郎左衛門尉祐信は下総の印東祐昭の長男で鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の家臣です!

ど~やら彼女が竜ノ口刑場に向かう日蓮上人にゴマ餅を捧げた事がぼたもち寺と呼ばれる由縁の様ですね・・・
赤飯の握り飯にゴマをまぶした物ともいわれてますが・・・
境内の片隅には桟敷尼夫妻の墓と伝わる五輪塔2基がありました・・・
そうそう常栄寺の寺号は桟敷尼の法号『妙常日栄』から来ています・・・山号は慧雲山・・・
開山は自証院日詔、開基は紀州徳川家の家臣水野淡路守重良の娘慶雲院日祐、創建は異説もありますが慶長11年(1606)であります・・・ちなみに桟敷尼は88歳で没したようです・・・

印東次郎左衛門尉祐信も日蓮から行者と認められるほど法華経に帰依した人物でありました・・・
桟敷の尼桟敷の妙一尼を同一人物と見る説もありますが、妙一尼は印東祐昭の妻という話もありますからゴチャゴチャして来ますね・・・妙一尼は尼御前ですが桟敷尼はあくまでも女房・・・頭も剃らなかったでしょうしやはり別人としておいた方がスッキリしていいですね・・・
共にこの辺に住していたのでしょうが自分は嫁姑の間柄という位置づけがしっくり来てお気に入りです・・・
印東家の系譜も伝承による部分が大きく何れにしても断言はできませんね・・・ 
実相寺 日昭の墓
え~・・・材木座の実相寺であります・・・
日蓮上人の高弟6人の事を六老僧といいますがその内のひとりに日昭がいます・・・彼の父は印東祐昭という説があります・・・この日昭は、日蓮亡きあと門下を統率した長老役だった様で、その墓はココ実相寺にあります・・・
元々は裏山の岩屋にあった物を元禄3年(1690)に現在地へ持ってきたとの事です・・・
『開山 大成辨院日昭大聖人』と刻まれています・・・何かショボイなぁ・・・もともとあったという岩屋は立派だったんでしょうか?・・・見てみたいなぁ・・・

曽我兄弟の仇である工藤祐経はご存知の通り、建久4年(1193)の冨士の巻狩りに於いて殺害されました・・・
その祐経の屋敷跡に建っているのがこの実相寺です・・・門には『日昭尊者濱土法華堂霊跡』と記されていました・・・
もともと日昭がココに法華堂を建て、日蓮の死後に法華寺としたのがこの寺の始まりとされています・・・
境内の屋根付き駐車場にはイイ車が停まっていました・・・基本坊さんってイイ車乗ってますよね・・・
やっぱ儲かるのかな?・・・いいなぁ・・・どーやら坊主丸儲けって言葉は真実の様です(笑)
日朗の墓 こちらは逗子の法性寺奥ノ院にある日朗の墓です・・・
日朗菩薩墳墓霊場と書かれた額が掲げられています・・・

同じ六老僧なのに墓は大違いだなぁ・・・屋根付きだ!
実相寺も駐車場に屋根つける金があるなら日昭の墓ももうちょっと何とかしてあげればいいのに・・・大聖人ですよ!

ココ法性寺の地は松葉ヶ谷法難の際に日蓮が避難した場所といわれています・・・
そんな事もあり日蓮は日朗にココに寺を建てる様に命じた様ですが、日朗の存命中に寺は建たなかったとの事です・・・

徐々に話が脱線してきたので修正できなくなる前に常栄寺に戻りましょう!
桟敷尼は日蓮が久遠寺に入っていた時に帷(絹、麻で縫われた単)を贈ったようで、日蓮はこれに対しお礼の手紙を書いています! 日蓮54才の時の事です・・・

女は水の様だ・・・うつわものにしたがうから。女は矢の様だ・・・弓につがれるから。
女は船の様だ・・・かじのままにまかせるからだ・・・

何だか文章が安っぽい詩人みたいなんですけど・・・日蓮はポエマーになりたかったんすかね?(笑)
その他夫が泥棒なら妻も泥棒になり、夫が王なら妻も后になる・・・死んだ後の未来も夫による・・・
などなど現在の女性が聞いたら鼻で笑われそうな文章を送っています・・・で、結局最後は、あなたの夫は行者であるからあなたも法華経の女人である事を仏様はご存知ですよ・・・と言っています・・・
桟敷尼 頸つなぎ守
本堂には裸馬に乗せられて引き回されている日蓮に、ゴマ餅を捧げる桟敷尼の絵がありました・・・物欲しそうな馬の視線が気になります・・・このゴマ餅を食べた日蓮は、竜ノ口での奇跡により処刑を免れている事から『頸つぎのぼた餅』という逸話が生まれ、御首継ぎに胡麻の餅といわれる由縁にもなっています!
毎年9月12日に行われる御法難会では参拝者にゴマ餅が振る舞われます・・・おみやげ用に販売もしてました・・・

この寺では『頸つなぎ守』なるものを販売していますが・・・リストラ除けって・・・時勢ですかねぇ・・・
さて、このお守りにもある紋ですが・・・井筒に橘といいます・・・俗に日蓮宗橘とも・・・日蓮宗の寺紋です!
日蓮宗橘 ココ常栄寺の門扉にもキンピカの日蓮宗橘が!豪華!
この紋は当たり前ですが日蓮宗の寺でよく見られます・・・
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流であるという伝説から取り入れられたものといわれますが、徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依した事によるこじ付けであろうとされています・・・
徳川十六神将、徳川二十八神将とかいますけど、やはり数が多くなると『お前誰だよ?』ってのが何人か出てきますよね・・・
AKB48と同じかも知れません・・・両者ともヲタクのみぞ知る世界ですね(笑)
寺務所 修学旅行の女子高生が数人境内を徘徊しておりましたが、どーやら御朱印を頂きたかったようです・・・
何て渋い女子高生なんでしょうか!・・・自分が高校生の時なんか御朱印の存在すら知りませんでしたよ・・・

女子高生のセリフが、
『休みとか意味わかんないんだけど・・・超使えねぇこの寺』
思わず吹いてしまいました・・・渋い女子高生の口から出る言葉とは予想していなっかたもので(笑)
でも、確かに遠くから来てる人にとってこれは痛い・・・
デカイ観光寺とかならいざ知らず、小さな寺は休日は法事とかで寺の人が留守にする事も多いでしょう・・・
でも今日は平日・・・運が悪かったと諦めるしかありませんね・・・

しかし、御朱印って何なんでしょうね?・・・どこぞの観光寺の様に、ちょっと字の上手いアルバイトに書いて貰った物に本当に功徳があるんでしょうか?・・・寺の印さえあれば効果はあるのか?・・・だったら印刷したものでも効果は同じ・・・
何で手書きにこだわるんでしょうか?・・・修行を積んだ僧がしたためてくれた物なら納得ですが、バイトのおばちゃんじゃ何か重みが感じられないっす・・・そもそもスタンプラリーに近いのかも知れません・・・結局は記念ですかね?

女子高生は門を出た後も『マジで超使えねぇ~』って吐いてました・・・この寺の御朱印そんなに欲しかったのか(笑) 
法源寺標柱 法源寺標柱2
さてさて場所を移動しまして、江ノ島の程近く、龍口寺の東隣にある法源寺であります!
何でこの寺かといいますと、ココもぼたもち寺と言われているからであります・・・寺の縁起が刻まれています、

法源寺略縁起
鎌倉市に源氏山という丘があり、その源氏山から和歌江浦(只今の鎌倉材木座海岸沖合にある日本最初の築港で史蹟になっております)の出船、入船を見物する人々を相手に茶店を出していた日蓮大聖人の帰依者であった老婆がありました、たまたま当小動岬の近くにある自宅に帰宅していた文永八年九月十二日、御法難にあい、竜ノ口の刑場におもむく大聖人が自宅の前を通り遊ばされたので、急ぎ差し出すにぎり飯が、つまづきころんで砂にまみれ、ごまをまぶした如くになりましたが、日蓮大聖人は老婆の心からの御供養を喜び遊ばされ、警護の武士の許しをえてこの世の最後の供養にと喜んで召し上がられました
後世に至り、当山の金子家の墓所に葬られている老婆の供養にと、毎年九月十二日に日蓮大聖人が御難を除かれ命ながらえ給いしにちなんで、『延命のぼたもち』又は『御難よけのぼたもち』とよばれて、いつしかにぎり飯がぼたもちとして皆様に差し上げる様になりました

つまづき転んでって・・・桟敷尼は結構ドジッ娘だったんですね(笑)中々好感が持てます!
源氏山って現在の源氏山の事を言っているんでしょうか?・・・茶店出してたのか・・・噓臭いなぁ・・・
にぎり飯がぼた餅に変わって振る舞われる様になったといってますが・・・自分的にはおにぎり振る舞われた方が嬉しいなぁ・・・ツナマヨと明太子がいいっス・・・今年から握り飯に戻らないかなぁ・・・常栄寺なら谷口屋近いしコラボしてくんねぇかなぁ・・・ホントお願いします!

まぁ、取り敢えずぼたもち寺って言っても鎌倉には2箇所あるって事です!・・・ちなみに御法難会は龍口寺でもやりますからね、というか龍口寺がメインです!・・・もの凄い人の数です・・・ 
何が凄いって夕方と深夜0時の2回ぼたもち撒きってのをやるんですけど、ホントにぼたもちを撒きます!
直で投げる訳ではなく、袋に団子状の小さなゴマ餅が数個入った物を投げるので安心して下さい・・・

しかし・・・阿鼻叫喚・・・人間の業の全てがココにあります・・・何てあさましい・・・醜い・・・狂気・・・必死・・・
後ろのおばさんの手が頭に何度も当たり、ムカついたのでブッ飛ばしちゃいました!・・・あ、嘘です(笑)
自分の頭にボコスカと当たってたのは事実ですけど・・・
近くの洋菓子店では便乗して牡丹餅クッキーなる物まで売り出す始末!既にぼたもちじゃねぇじゃんかよぉ!

龍口寺のぼたもちですが、販売もしていますのでぼたもち撒きに参加できない人も安心です・・・
最近は行ってないので分かりませんが、以前自分が購入した時は寒川の扇屋が作っている物でした・・・
龍口寺の斜向かいに江ノ電もなかひものサブレー、店舗に埋め込まれた江ノ電の車両などで有名な老舗和菓子屋の扇屋がありますが、寒川の店はココの息子さんが独立して始めたんだそうです・・・

ぼたもち撒きで撒かれているゴマ餅は、檀家集や実行委員会がやっつけ仕事で作っているんでしょうか?
ハッキリ行って美味くないです・・・まぁタダだし、数量もハンパじゃないだろうし・・・しょうがないとは思いますが・・・
同じタダなら常栄寺のゴマ餅の方が断然にお勧めです!・・・白い部分が見えないくらいたっぷりとゴマがまぶしてあります・・・サービス精神旺盛ですね・・・

せっかくなんで法源寺まで行って見ましょう!
法源寺の坂 法源寺
郵便局員がポケットに手を突っ込んでボーっとしてらっしゃいました・・・毎日同じ場所廻ってて疲れちゃったんでしょうかねぇ・・・生産性の無い職種の方々が陥りやすい状況です・・・鬱にならないでね(笑)

坂を登って行くと到着であります・・・常栄寺より広いですね・・・
法源寺2 法源寺墓地
寺域が広いわけでもないですが、所狭しと草花が植えられている訳でもなく、落ち着いた雰囲気に包まれた寺です・・・
いい寺ですね!・・・空間の使い方は大事です・・・やはり何事にも分相応ってのがありますよね・・・
花ギッシリの寺はどうも・・・ドンキっぽくって歩くのにも気を使うので自分は大キライです・・・

坂をそのまま登ると墓地に出ます・・・桟敷尼が葬られているのは金子家の墓との事でしたが、疲れてとても探す気にはなりませんでした・・・今回は諦めます・・・

ココ法源寺は桟敷尼の実家の菩提寺であったとの説があります・・・そして桟敷尼は比企能員の後妻の妹であったという説もあります・・・法源寺の開山は九老僧(日朗の高弟9人衆)の日行・・・彼は前年に腰越の本龍寺も開いています!
その本龍寺は比企高家の屋敷跡に建っています・・・高家は日行であるとの説もあります・・・
また高家は妙本寺を建立した比企大学三郎能本であるとの説もあります・・・ふぅ~・・・

またゴチャゴチャしてきましたね・・・でも繋がりは感じさせます・・・でも確たる証拠がない上での繋がりは後世のこじ付けや捏造の可能性を示唆する物でもあります・・・
本龍寺の創建が乾元元年(1302)・・・高家と能本が同一とするなら、この時100歳以上・・・そもそも高家の墓は本龍寺にあり文永二年(1265年)没と刻まれていますし、高家=日行説も怪しくなってきます・・・何を信じたらいいんでしょうか?
桟敷尼が転んだというのも、日蓮が砂まみれの握り飯を食べたってのも嘘臭く思えてなりません(笑)
ラップかアルミホイルに包んどけよぉ~!
本龍寺 本龍寺2
最後に本龍寺です・・・園芸好きな住職がいる寺です・・・小さい寺ですが何時行っても鉢植えの花がズラッと並んでいます・・・今回もサクラソウが綺麗に咲いていました・・・早速住職発見!・・・何かカッコイイジョウロで花に水をやっていました・・・ホントに園芸好きなんですね・・・

腰越六寺というものがありまして、本龍寺、本成寺、勧行寺、妙典寺、東漸寺、法源寺がそれです!
当時龍口寺には住職を置いていなかったので、この6寺が順番(輪番制)でそれにあたっていました・・・
後に藤沢片瀬の本蓮寺、常立寺を加えて龍口寺輪番八ヶ寺といわれる様になりました・・・
この制度は明治19年(1886)に龍口寺に住職が置かれるまで、550年もの間続きました・・・
八ヶ寺の山号は全て龍口山です・・・ちなみにココ本龍寺は輪番制になる前は与蓮山という山号でした・・・

ところで、ぼたもちおはぎの違いって何なんでしょう?
彼岸に備える物で春、秋で名称が変わる・・・何となくそんな感じで今まで過ごしてきましたが、明確な違いといわれると良く分かりません・・・だもんで少し調べてみましたが、どれも要領をえません・・・粒あんとこしあんの違い、餅の状態の違い、大きさの違い・・・情報が錯綜しています・・・が、ひとつだけ意見が一致している物がありました!

牡丹餅、御萩・・・それぞれ牡丹と萩の季節に対して呼ばれている名称で、つまり、春の彼岸はぼたもち、秋の彼岸はおはぎ・・・これが第一原則の様です!細かい設定はローカルルールと考えて差し支えない感じですね・・・

でもそれだと何でぼたもち寺と呼ばれているのかよく分からないですね・・・法難会は9月12日、秋の彼岸も9月ですからおはぎ寺とした方がいい様な気もしますが・・・やはり細かい違いに乗っ取ってぼたもちとしているんでしょうかね・・・
まぁどーでもいいんですけどね・・・スーパーやコンビニで売ってる物は通年通して大体おはぎってのが多いですよね?
ちなみに萩寺といわれる宝戒寺おはぎは振る舞われませんのであしからず(笑)

新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある『腹きりやぐら』で、最後の執権・北条高時をはじめ北条一族八百七十余名が自害したと伝えられています。
滅亡した北条氏の霊を弔うため、また修行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされるこの地に寺を建立させました。
境内には四季を通じて花が咲き、九月には白いハギで埋めつくされる『萩の寺』として有名です。

宝戒寺の案内板にこうありました・・・最後の執権・北条高時といわれてしまうと洲崎で憤死した第16代執権赤橋守時の立場がなくなっちゃいますね(笑)・・・ここは最後の得宗とかにしといた方がよろしいかと・・・
まぁ、実権は長崎高資が握っていたんでしょうけど・・・

とまぁ、今回は軽めのぼたもち寺ツアーでしたが・・・考えてみたら自分は法源寺のゴマ餅って食べた事ない事に気が付きました・・・どんなのが振る舞われるんでしょうか?今年は行って見ようかなぁ・・・
おしまい 
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