こじんまりとした本堂には『光觸寺』と書かれた扁額が掲げられています・・・
なんでも後醍醐天皇の筆による物だとか・・・ホントなんですかねぇ?
取り敢えずこれで境内はひと通り拝見したんで、【新編鎌倉志】を見てみましょう!・・・説明が結構長いです・・・
【光觸寺】
光觸寺は藤觸山と號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の清浄光寺の末寺也。
堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。【頰燒阿彌陀】本尊阿彌陀(運慶作。)。観音(安阿彌作。)・勢至(湛慶作。)此本尊を頰燒阿彌陀と云也。
縁起の略に云、順徳帝、建保三年、京都に大佛師有り。雲慶法印と號す。将軍右大臣家の招請に因て下向の刻鎌倉佳人すくりの氏女町の局、時に年卅五。雲慶に對面して、此佛を作らしむ。四十八日を限り、成就せん事を願ふ。雲慶其の言に隨て成就す。來迎の三尊、長は法の三尺なり。氏女信心歓喜して持佛堂に安置し、香花を捧げ、持念怠らず。家に萬歳法師と云下法師あり。常に専修念佛して信心有と云へども、佞にして妄語、偸盗人を煩はしむ。人これを惡む。時に家々に物の失する事あり。人互にこれを恥づ。起請誓文に及ぶ。獨り罪を萬歳に歸す。氏女怒つて、命じて是を禁ず。我が身は急用あつて、澁谷と云所へ行く。命を受る者、萬歳をからめて、轡の水つきを燒いて、左の頰に火印をさす。退て見れば火痕なし。氏女還り怒らん事を恐て、再び火印をさすと云へども、又痕もなし。氏女夢らく、本尊の枕上に立て悲て曰、我が頰を見よと。氏女夢覚て本尊を見るに、火印の痕あり。涕泣懺悔して、萬歳が罪を赦し、龜谷より佛師を招て、火痕を修せしむる事、二十一重に及ぶ。終に復せず。末代人に見せしめんが為に、修する事なかれと云て、其の後氏女出家して、法阿彌陀佛と號す。
【かなやき堂】 此奇異に驚いて、田代の阿闍梨に寺地を請て、比企谷に岩藏寺と號し、一宇を建立し、本尊を安置す。
世にこれをかなやき堂と云ふ。建長三年九月廿六日、氏女卒七十三にして、此本尊に向ひ、端坐合掌し、念佛して往生しぬ。萬歳は後に大磯に菴を結び、彌々専修念佛し、名號を書きあきなふて、大往生を遂畢んぬと云云。
縁起二巻あり。筆者は亞相藤の為相、繪は土佐の将監光興なり。跋に文和第四の暦、暮秋下旬、大僧都靖嚴とあり。
彌陀の厨子は、源の持氏の寄進也。
又【沙石集】に云。鎌倉に町のつぼねとやらん聞へし徳人有ける。近く仕ふ女童、念佛を信じて人目には忍びつゝ、密に數返しけり。此の主は嚴しくはしたなく、物を忌祝ふ事けしからぬ程なり。
正月一日にかよひしけるが、申付たる事にて心ならず、南無阿彌陀佛と申しけるを、此の 主斜ならず怒り、腹立て、いまいましく人の死したる様に、今日しも念佛申す事、返々不思議也とて、頓てとらへて、銭を赤くやきて片頰にあてゝげり。
念佛の故には、何なる科にも當れと思て、それに付ても佛をぞ念じける。思はずに痛み無かりけり。
さて主、年始の勤なんどせんとて持佛堂に詣でゝ、本尊の阿彌陀佛金色の立像を拝しければ、御頰に銭の形黒く付て見へけり。怪みて能々見るに、金燒しつる銭の形、此めらふが顏ほどにあたりて見へけり。
あさましなんど云ふばかりなくて、めらふを呼んで見るに、聊も疵なし。
主、大に驚き、慙愧懺悔して、佛師を呼んで金箔を押するに箔は幾重ともなく重ぬれども、疵は都てかくれず。
當時も彼の佛御坐す。金焼佛と申あひたり。親り拝みて侍りし。當時は三角に見へ侍りとあり。此の阿彌陀の事なるべし。前の説とは異なり。孰か是なる事を不知。又堂に尊氏・氏滿・満兼・持氏の位牌有。
【熊野の權現の小祠】 堂の前にあり。鎭守なり。
頬焼阿弥陀の縁起について詳しく述べています・・・『万歳法師』と『女童(めらふ)』と、2通りの話があったんですね!
一般的に知られているのは万歳法師の方の話だと思います!・・・自分もそれしか知りませんでした・・・
内容はどちらも同じ様な感じですね・・・阿弥陀如来が身代わりとなり頬を焼かれたってストーリーです・・・
どーやら頬焼阿弥陀は町局(35歳)が運慶に48日以内に造る様に依頼した物だった様ですね!
それより町局は渋谷に何しに行ったんでしょうかね?・・・やっぱりショッピングかな?(笑)
将軍と鎌倉公方の位牌もあった様ですね・・・現在もあるのかな?
阿弥陀三尊を安置する厨子は、4代鎌倉公方足利持氏が寄進した物という話です、修復はしてますが現役です!
分かり易い解説の【かまくら子ども風土記】も見てみましょう!・・・平仮名率高いなぁ(笑)
光触寺 こうそくじ
十二所の旧道を進むと、左へ大きく回る道の右に、作阿上人を開山とする岩蔵山光触寺があります。
ここの本尊は、運慶作と伝えられる阿弥陀如来像で俗に頬焼き阿弥陀といわれています。
それにはおもしろい話があります。
およそ十二世紀中ごろ京都から有名な仏師運慶が鎌倉に招かれ、町局という人から、48日を限って阿弥陀さまを作るように言いつけられました。運慶は苦心の末、48日間でりっぱな阿弥陀さまを作りました。
町局は大変喜んで信心し、香をたき花をささげて念仏を怠りませんでした。
町局の家には信心深い万才法師という坊さんが仕えておりました。ある日、家の物がなくなり、人々は万才法師のせいにしました。町局は前にもこんなことがあり、怒って法師を牢屋へ入れてしまいました。
町局は急用ができて渋谷という所へ出かけました。その留守に、家人が言いつけられたとおり、万才法師を縛ってくつわの水つぎを焼いて、左の頬に焼き印を押しました。ところがいっこうに焼けあとがつきません。家人は町局が帰ってきたらいいつけどおりになっていないのを見ておこるだろうと、もう一度押してみました。
やはりあとがつきません。
その翌日の夜中に町局は夢をみました。夢の中に例の阿弥陀さまが現われて泣き悲しみながら、
『なぜわたしの顔に焼き印をおすのか。』とおっしゃいました。
町局は驚いて翌朝本尊を見ますと、顔に焼けあとがあるではありませんか。
『ああ、阿弥陀さまが身代わりになられたのだ。』と泣き悲しみ、後悔して、万才法師の罪を許してやりました。
それから亀ガ谷から仏師を招いて、頬の焼け跡を修理させましたが、何回やっても直りません。
とうとうあきらめて、後の世の人々にみせるのだといって修理をせずに置きました。
後に町局は出家して比企ガ谷に岩蔵寺を建てて、この本尊をおまいりしました。
この本尊をかなやき仏ともいったそうです。
町局は、77歳でこの本尊に手を合わせ、念仏しながらなくなったということです。
この物語は、頬焼阿弥陀縁起絵巻という絵巻物に書いてあります。
この絵巻物は国宝館に、本尊は光触寺に、国の重要文化財として保存されています。
数年前に鎌倉国宝館で『鎌倉の至宝 国宝・重要文化財』と題した展示を行っていましたが、そこには修復が終わったばかりの頬焼阿弥陀と頬焼阿弥陀縁起絵巻(二巻)も並んでいました・・・どちらも国重文です!
頬焼阿弥陀は現在は光触寺にあります・・・が、開帳日以外は見れません・・・
でも10人以上の予約で拝観出来ると聞いた事があります!・・・1人¥300の拝観料は掛かりますけどね・・・
団体しか受け付けないこのシステムはやる気が失せるなぁ・・・ゾロゾロと鎌倉の道を歩きたくないッス(笑)
自分は頬焼阿弥陀よりも、もと大慈寺(源実朝建立)丈六堂の阿弥陀如来仏頭の方が気になります!
定朝作の聖観世音菩薩立像(鎌倉三十三観音のひとつ)も頬焼阿弥陀より古い物です!
あと、頬焼阿弥陀三尊画像(市文)もありますよ!
それにしても、比企ヶ谷に岩蔵寺(かなやき堂)なんて寺があったとは初耳でした・・・
比企ヶ谷のどの辺にあったんでしょう?・・・ホントにあったのかな?
愛読書(?)の【鎌倉廃寺事典】を見てみましたが、記載はありませんでした・・・
でも光触寺の前身って事の様ですし、山号としてその名が残っているのは確かですからあったんでしょうねぇ・・・
頬焼阿弥陀はコレくらいにして、そろそろ塩嘗地蔵について調べてみましょう!・・・取り敢えず【新編鎌倉志】から・・・
【鹽甞地藏】
鹽甞地藏は道の端、辻堂の内にあり。石像なり。光觸寺の持分なり。
六浦の鹽賣、鎌倉へ出るごとに商ひの最花とて、鹽を此の石地藏に供する故に名く。
或は云、昔此石像光を放ちしを鹽賣、像を打朴して鹽を甞させける。それより光を不放。故に名くと云ふ。
異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠の簿に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々傳へ云ふ、其の 首光を放つと。
男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさき政をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。
明道始て到る時、其僧を詰つて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事有りや否や。僧の云く、これあり。
明道戒めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事あたはず。まさに其首を取て、就て是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。此鹽賣も如何なる人にや。
鶴が岡の一鳥居より、此所まで、廿町ばかりあり。
六浦の塩売りが初穂として塩をお供えした・・・
地蔵が光ったので、塩売りが地蔵を倒して塩を舐めさせたら、それ以降光を放つ事は無くなった・・・
地蔵が光ったって方の由緒はあまり聞いた事が無いって方も多いんではないでしょうか?
先程の案内板にあった、塩売りが初穂に塩をお供えしたら、帰りにはその塩が無くなっていたって話が有名ですよね!
『塩売りが供えた塩が帰りに無くなっていた・・・地蔵様が舐めたんだろう・・・』・・・ってのが一般的な話です!
でも、【新編鎌倉志】には、帰り道に塩が無くなっていたって記述は見当たらないですね?
その代わりに程顥(ていこう)の話が出て来てしまいました(笑)・・・明道先生といわれた中国の儒学者です・・・
光を放つ石仏関連で紹介したんでしょう・・・
それはいいとして、塩売りは何を思って地蔵菩薩に塩を舐めさせたんですかね?・・・塩舐めさせれば光らなくなるって思ったからそーしたんでしょーけど・・・
自分だったら地蔵が光ったら怖くて触れないですよ!・・・その辺のオッサンをデコイにして速攻で逃げます!
あ!・・・もしかして塩に清めの効果があると思ったのかな?・・・でも菩薩に塩って(笑)
まぁ、とにかく、お供えした塩をお地蔵様が舐めたんだろうっていう一番重要な下りの記述が無い・・・
塩をお供えしたから塩嘗地蔵・・・これじゃぁちょっとニュアンスが違いますよね!?・・・やっぱ舐めて貰わないと!
光った方の説は『塩嘗めさせられ地蔵』ですよね(笑)
2つの説をイイ感じに組み合わせると、現在一般的に知られている塩嘗地蔵の由緒の出来上がりですね・・・
あとは目玉に豆電球でも仕込んでテキトーに光らせて置きましょう!・・・LEDの方がエコかな(笑)
一応、【かまくら子ども風土記】も見てみましょう!
塩嘗地蔵 しおなめじぞう
鎌倉時代から室町時代にかけては、地蔵信仰が盛んな時代でした。そのため、鎌倉にはいろいろな名前のついた地蔵がたくさんあります。光触寺のお堂の前にある塩嘗地蔵もその一つです。
昔、六浦の塩売りが鎌倉に出入りするたびに、商いの初穂として朝比奈峠を越えるとき、塩をこのお地蔵さまに供えたのですが、帰りには塩がなくなっているのでお地蔵様がなめたのだろうということで、この名が起こったというのです。
たぶん、近くの人がいただいてしまったのでしょうか。このことで昔金沢方面から鎌倉に塩がはいってきたことがわかります。
やっぱ塩嘗地蔵っていったらコレですよねぇ・・・かなり血圧高そーな地蔵菩薩です!
現在は光触寺境内にありますが、昔は滑川の対岸に地蔵堂があって、そこに祀られていたそーです・・・
【新編鎌倉志】の辻堂ってのがそれなんじゃないでしょうか?・・・藤沢の辻堂じゃないですからね(笑)
【鎌倉古寺探訪】って本を見ていたら以下の様な記述がありました!
【塩嘗地蔵伝来記】は『六浦の浜辺に夜な夜な不思議な光を発するものがあり、潮汲みの人たちが掘り上げたところ、波に洗われた地蔵だった。さっそく、手厚く供養し、十二所に移して地蔵堂を建てて祀った。それ以来、六浦の塩売りは初穂の塩を供えた。』と記している。
【塩嘗地蔵伝来記】なんて物があったんですね・・・それよりもこの伝来記によると、塩嘗地蔵は六浦の浜辺で掘り出された物の様ですね・・・へぇ~知らなんだぁ・・・まぁ、取り敢えず六浦でも光ってたみたいですね(笑)
金沢の浜は遠浅で干満の差も大きく、製塩業に向いていたと聞きます・・・
六浦から鎌倉へ通ずる道(現在の金沢街道)は、かつては『塩の道』と呼ばれ多くの塩売りが行き来する重要な道だったそうです・・・
いやぁ~塩嘗地蔵が六浦生まれだって話は自分にとっては新事実でホントにビックリしました!
恐らく近くに塩田もあった事でしょう・・・当初から塩売り達の道中安全を願って十二所に置かれたんでしょうねぇ・・・
だとしたら、塩に関する伝説が生まれたのも至極当然の事なのかも知れませんね! |