ブログ 石楠花寺タイトル
File.084 
JR北鎌倉駅の駅舎側の改札口を出て、県道21号線を大船方面に進み、和な感じの外装の小坂郵便局を過ぎた所の交差点を左に曲がると、台山へと続く坂道があります!
【地図に載らない物件】のページで通った坂道ですが、今回の目的地はこの坂道をちょっと上った所にあります!
一遍上人絵伝
上の画像は前回紹介した【一遍上人絵伝】の一部ですが、画像の左側には鎌倉入り出来なかった一遍の一行が野宿している場面が描かれています!
この野宿場所に建てられたと伝わるのが今回紹介する光照寺であります!
小さな寺ですんで、あまり紹介する物もないんですけど、ちょっと掘り下げて何とか話を拡げてみようかと(笑)
では、早速行ってみましょう!
光照寺1 光照寺2
坂道を上って行くとすぐ右側に光照寺が見えて来ます!・・・オッサンが寺の案内板をガン見しています(笑)
取り敢えずオッサンの横に並んで一緒に見てみましょう!

光照寺(こうしょうじ)
宗派:時宗遊行寺派
山号、寺号:西台山英月院光照寺(せいだいさんえいげついんこうしょうじ)
開山:一向俊聖上人(いっこうしゅんしょうしょうにん)

時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれるお寺です。
山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する『クルス紋』が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。
本堂の周辺には、たくさんのシャクナゲが植えられ、別名『しゃくなげ寺』と呼ばれています。
ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。

毎度の事ながらザックリとした説明ですね(笑)
案内板の通り、この光照寺はクルス紋を掲げる隠れキリシタンの寺として知られています!
こっちで隠れキリシタンの寺って珍しいですよね?
手持ちの資料にも目を通して置きます!

【光照寺】
鎌倉街道から台山に折れる道の途中にある、時宗遊行寺派の寺。通称『しゃくなげ寺』で知られる。
本山は藤沢の清浄光寺(遊行寺)。弘安五年(1282)、鎌倉入りした一遍上人の法難霊場でもある。
石段上にある山門は、中川藩江戸屋敷の菩提寺東渓院のものであるが、同院が廃止されて現在の場所に移築され、篤志家により新築された。欄間にはクルス紋(キリスト教の十字の紋)が掲げてある珍しい山門だ。

山門脇には江戸時代から信仰されて来た子育て地蔵、その向かいには、毎月お参りすると子供の咳が止まるというご利益のある咳の神様『おしゃぶき』という石の祠がある。
寺宝の板碑は正中二年(1325)の銘のある卒塔婆で、市指定文化財。安山岩でできている。
境内には、シャクナゲ、ハギ、レンギョウ、ユキヤナギなどの花が咲き、隠れた花の名所でもある。

寺宝:本尊阿弥陀三尊(市文)、もとは東渓院所有の木造釈迦如来坐像のほか、木造薬師如来坐像、木造地蔵菩薩立像、木造一向上人立像、安山岩製の板碑など。

小百科:安政六年(1859)に建立された本堂内部には、隠れキリシタンの燭台が二基ある。

                                                      (参照:鎌倉の寺小辞典)

あまり内容は変わりませんね・・・まぁ、資料といってもガイドブック的な物なのでこんなモンでしょう!
取り敢えず階段を上って噂のクルス紋を見てみましょう!
くるす門 クルス紋
どーやら山門の名前も『くるす門』というらしいですね・・・ややこしいなぁ(笑)
そして噂の『クルス紋』は・・・おおっ・・・これは・・・
完全に岡藩主中川氏の家紋のひとつ!中川クルス紋と呼ばれている物ですね・・・
もっと抽象的な感じで表現された物だろうと勝手に思い込んでいましたが、単に中川氏の家紋じゃないか・・・
ちょっと残念・・・

岡藩は現在の大分県にありましたが、初代藩主中川秀成が文禄3年(1594)に播磨国三木城から岡城へ移った事により始まり、その後の廃藩置県まで存続し続けた藩であります・・・中川藩、竹田藩などとも呼ばれたりします!

初代藩主秀成の父は中川清秀という名の武将でした・・・織田信長に従ったり、敵対したりを繰り返した面白い人物ですが、この清秀は熱心なキリシタンとしても知られています!
賤ヶ岳の戦い 信長の死後は羽柴秀吉の下で山崎の戦いなどにも参戦し戦功を立てています・・・
しかし、賤ヶ岳の戦いの時に大岩山砦で柴田勝家軍の武将である佐久間盛政により討ち取られてしまいました!
享年42歳・・・
墓は大岩山砦跡と大阪府茨木市の梅林寺にあります!

左の画像は木之本町観光協会が作成した同地の案内板です・・・
余呉湖の東側、矢印の部分に『中川清秀奮戦地』と書かれています・・・ココでお亡くなりになられたわけです・・・
ちなみに柴田勝家(北軍)は余呉湖の北側に本陣を置き、羽柴秀吉(南軍)は余呉湖の東側に本陣を置きました!
中川清秀
太平記英雄傳 中川瀬兵衛清秀
中川清秀は池田城主である池田知政配下の荒木村重を筆頭とする池田21人衆のひとりであり、その中でも武勇随一と称賛を受ける猛将として知られていました・・・

本能寺の変信長明智光秀に討たれた事を、当時備中高松城攻めを行っていた秀吉に手紙を送り知らせたのも彼です・・・
秀吉は清秀が光秀側に付く事を恐れて、
『信長は無事である!』・・・と、返信したらしいです(笑)

墓がある梅林寺ですが、平安中期に源頼義が祈願所として建てた安養寺という寺が、大永元年(1521)の水害で移された物だそーです・・・
移した場所に梅がいっぱいあったので、その時に梅林寺と寺号を改めたそーな・・・

源頼義は源氏と鎌倉の地との結び付きを創った人物で、鶴岡八幡宮も彼が勧請した物です・・・
現在の鎌倉も彼がいなかったらまた違った風景になっていたでしょうね・・・と、また話が脱線して来ました(笑)

えーと梅林寺と清秀の関係性でしたね・・・
元亀2年(1571)、和田惟政を討った戦功が認められ清秀には茨木城(大阪府茨木市)が与えられました・・・
そして茨木城主の清秀は梅林寺に帰依したよーです!
ガッツリと金を廻したんでしょうね(笑)・・・寺もウハウハだった事でしょう・・・
梅林寺第4世是頓上人は、清秀戦死の報を受けると大岩山砦に赴き、現地にて亡骸を埋葬し、遺髪を持ち帰って梅林寺境内に供養塔を建てて弔ったそーです・・・この時に院号を清秀院としたよーですね・・・
正式には安養山清秀院梅林寺といいます!

慶安3年の茨木川の氾濫で梅林寺は流失しましたが、承応3年(1654)に茨木城址である現在地に移されて再興!
文化元年(1804)に再建され現在に至っています・・・

清秀を討った佐久間盛政も勇猛な武将として知られています・・・
彼は鬼玄蕃の通称でも知られていますが 、特に賤ヶ岳の戦いに於いて秀吉本陣に乗り込むシーンは、騎乗して金棒を振り回す『秀吉本陣佐久間の乱入』として祭りの山車などの彫刻に好んで用いられる名場面です!

佐久間氏は三浦大介義明の孫の家村が始まりとされますんで、彼は三浦党の流れという事になりますね・・・
柴田勝家の与力であり、金沢城主として勇猛を馳せた盛政・・・
賤ヶ岳の戦いで清秀を討ったものの戦自体は敗れ、盛政は落ち延びるも捕まってしまいます・・・
その際、豊臣五奉行のひとり浅野長政『何故自害しなかったのか?』と問われると、祖先の武功である【朽木隠れ】の話を持ち出し、再起を図った事を語ったという逸話も残されています・・・
結局、盛政は市中引き回しの上処刑されました・・・

その後、盛政の娘の虎姫が清秀の息子の秀成に嫁いでいます・・・
仇の家から嫁を貰うなんて複雑な感じですけど、秀成の4男内記が佐久間家を復興させます・・・これにより佐久間家は岡藩の客分として存続する事になりましたとさ・・・

【朽木隠れ】とは、石橋山合戦で敗走する頼朝が隠れた朽木の大洞の事ですね・・・
梶原景時は隠れた頼朝を発見しましたが見逃したってアレです・・・

さて、そろそろ光照寺を見て行きましょうか・・・そんなに見る所無いんですけどね(笑)
光照寺3 光照寺4
山門を潜ると説明にあった子育て地蔵おしゃぶきがあります・・・
おしゃぶきはなんか新しそうですね・・・もっと趣のある石祠みたいな物を想像していたんですけど・・・
光照寺5 光照寺6
境内には『お墓参り十ヶ条』と書かれた立札が立っていました・・・色々と書いてあります・・・
一、まず本堂のご本尊様にお参りしましょう
二、正月、春彼岸、盆、秋彼岸にお参りしましょう
三、祥月、命日にはお参りしましょう
四、誕生日にもお参りしましょう
五、祝いごとがあればお参りしましょう
六、夢をみたらお参りしましょう
七、迷いがおきればお参りしましょう
八、歎きがあればお参りしましょう
九、感謝と報恩のためにお参りしましょう
十、近くに来たらお参りしましょう
光照寺のHPに理由が書いてありました・・・
何でも『お墓参りの仕方を教えて下さい』って質問が多いらしく、それじゃぁと作製したんだそーです・・・
無理やり十ヶ条にしなくても良かったのでは?(笑)
要はいつ参ってもいいって事を言いたかったらしいですが、最後のがテキトー過ぎて自分は好きですね!

でも墓参りの仕方が分からないなんて人もいるんですね?
ちょっとビックリです・・・
そーゆーのって親がするのを見て自然に覚えてくモンじゃないんですかねぇ・・・
光照寺のHPは副住職が作った物らしいんですが、拝観料についての記述もありました・・・

拝観料
お寺によりましては入り口で拝観料を徴集される所もあります。しかし、当寺院のように徴集しない寺院もあります。
徴集しない=無料と考えるのは実は正しくありません。
拝観料を徴集する事の意味は最初に頂く事で、お参りする際にお賽銭箱の前などで不用心に財布を開けなくても良いようにすると言う目的もあります。
また、皆様から広く平等に頂く事で、無料だと喜んで羽目を外される方が出ないようにと言う目的もあります。
いずれにせよ、徴集されないから無料だと喜ばれたり為さらず、お賽銭箱の前で考えて頂く事が求められます。
しかし、気を付けなければならないのは、もともとは拝観料では無く“寺参銭”とか“寺詣料” と言う形でお寺に来たら自発的にお布施等とは別に出す習慣があったのです。
いまでは、昔当たり前だった事を今は誰も知らないのが当たり前ですのでお寺によっては拝観料と言う形で料金所を設け、強制的に徴集するようになっています。
ちなみに、“寺参銭”とか“寺詣料” はだいたい1人300円程度でした。そのせいか、現在の拝観料も300円前後である事が多いようですね。
余談ですが近所の商店の若旦那とこの話をしていましたら若旦那の菩提寺は檀家さん達の取り決めで寺参銭を○○○円以上と定めていると聞きました。そういう所もあるのですね。

光照寺は拝観料は取ってないけど賽銭は弾んでくれよって事でしょうか?
寺を訪れたら寺詣料として¥300くらい出すのが本来の形だったんだよっていってますね・・・
拝観料を徴取する目的として『無料だと喜んで羽目を外される方が出ないようにと言う目的もあります。』・・・っていってますけどそんな奴いんのか?(笑)
羽目外す奴は有料でも無料でも羽目外すと思うんだが・・・ココ光照寺は無料ですが、どの辺りで羽目を外したらいいのか自分には全く分かりません(笑)・・・もし拝観料を徴取していたら訪れる事もしないと思います・・・

この副住職オモシロイな・・・と思って調べていたら副住職が綴る光照寺のブログを見つけました!
結構皮肉たっぷりな感じで綴られた記事もあり、自分はこの副住職結構好きですね!
【北鎌倉の景観を後世に伝える基金】の光照寺に対する姿勢についてブチ切れてる記事は笑いました!
キレた僧って面白いな・・・浄智寺東慶寺と同じ様に感謝される様に、もっと頑張って頂きたいモンです!
北鎌倉への貢献度は光照寺よりも彼らの方が格段に上ですから・・・

鎌倉の駐車場の【年末年始特別料金】については自分も同じ様に感じています・・・
12/31~1/31で年末年始って表現はおかしいでしょ!?・・・【大晦日と1月一杯特別料金】って表記すべきですよね?
ホントにガメツいよなぁ・・・それでも車で行く輩が多いからなぁ・・・
アホな観光客からはブンどれるだけブンどっとけって話か・・・まぁ、もし事業主だったら自分も同じ事しますけどね(笑)
光照寺7 光照寺8
玄関手前には観音菩薩の銅像があります・・・そして狭い境内には草木が生い茂ります・・・
本堂手前にはカンヒザクラが咲いていました・・・
光照寺9 光照寺10
本堂には英月院の額が掲げられ、阿弥陀三尊らしき物が安置されていました・・・
光照寺11 光照寺12
墓の入口に何やら札が立っていて『花めぐり順路』と書かれています・・・
順路の通りに本堂と墓の間の道を進みます・・・サボテンが(笑)
光照寺13 光照寺14
細い道の両側と頭上にも鬱蒼と・・・自分はこーゆーの苦手です・・・暖かい季節にはイモ虫いっぱいいそー!
両側に気を付けていると、いきなり頭上からブラ下がっていたりするトラップ道です!
まぁ、順路といっても境内狭いんであっとゆー間に終わりなんですけどね・・・

とまぁ、こんな感じです・・・北鎌倉は大寺院が多く、内容も派手な寺が多いのでショボさが目立ってしまう寺ではありますけど、北鎌倉で無料で入れる寺はココだけです!・・・まぁ、この内容で拝観料取られたらキレますけど(笑)

そーいえば正中2年(1325)銘の板碑(市文)の写真を撮り忘れていました(笑)
正中2年といえば、総本山の遊行寺の創建年と同じですが、何か関連があるんでしょうか?
板碑は阿弥陀三尊の種子が刻まれた物ですが、行く機会があれば是非探してみましょう!
自分はもう当分訪れる事は無いと思います(笑)

【かまくら子ども風土記】を見てみましょう!
光照寺
十王堂橋より山ノ内通りを300mほど行き、小坂郵便局を通り越して、すぐ左に台山の方へ折れる道があります。
この道を150mほど上って行くと、右側に時宗で山号を西台山という光照寺があります。
石段を上ると、山門の右側に『子育て地蔵』と呼ばれるお地蔵さまが立っています。子供に関するいろいろなことをこのお地蔵さまにお願いすると、かなえてくださると信仰されています。
山門は明治のはじめころ廃寺となった東渓院から移したもので、『くるす門』ともいわれ、キリスト教の十字紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われ、本堂内にはキリシタンの使用した燭台が二基あります。

門の左右にある古い墓石に混じって『おしゃぶき』と呼ばれる小さな石造のほこらが、山門の左、つげの木の下にたっています。
土地の人の話では、これに毎日お参りすると年寄りや子供の悪い咳はすっかり治ってしまうということです。
本堂は、山門奥正面に見え、本尊の阿弥陀如来像や両脇に観音と勢至の菩薩像を安置してあります。阿弥陀仏の胎内に修理銘で『正長二年(1429年)』と書かれてあるので、それ以前に造られたものと思われます。
観音と勢至の像も貴重な室町時代の彫刻です。脇に東渓院から移された『天文二十五年(1556年)』の銘がある釈迦如来があります。ほかに室町時代の作で日限地蔵とよばれる像や薬師如来像・一向上人立像などもあります。
庫裏は本堂の右に並んでたっています。

本堂の前に鎌倉時代の『正中二年(1325年)』の銘がある60cmほどの安山岩製の板碑があります。上のほうには阿弥陀三尊のしるしである梵字が彫ってあります。子が親を供養するためにつくられ、室町時代の墓所と考えられる裏の竹やぶのところから移されました。安山岩製のこのような古い板碑は、県下では大変珍しい貴重な資料です。

この寺は、1279~1280年(弘安1~2年)頃に一向上人が開いたと伝えています。一向は、時宗を開いた一遍の弟子で、日本中に仏教の教えの一つである他力本願の教えを説かれた人でした。他力本願とは極楽に行くのには自分の力では難しく阿弥陀仏の力にすがるほかにないということです。
一説には一遍が、1282年(弘安5年)に鎌倉入りを果たそうとしてとめられ、一夜を明かしたところにこの寺がつくられたといわれています。

何か一番内容の濃い説明ですね・・・【かまくら子ども風土記】もバカに出来ない(笑)
どーやら板碑は遊行寺とは何の関係も無さそうですね・・・

一部では一遍上人一向俊聖って説もあるようですが、光照寺の創建は弘安1~2年(1279~1280)との事ですから、ちょっとおかしな事になってしまいますね・・・一遍が鎌倉に来る前に寺があった事になります・・・
自分の寺があるのに何で野宿してんだって話になってしまいます(笑)

一向俊聖って一遍の弟子だったの?・・・マジ?・・・それは初耳です!・・・へぇ~・・・ホント?
一向については後で説明するとして、先程から東渓院という寺が出て来ていますが、この寺はかつて鎌倉市台にあった寺の事です・・・お馴染みの【鎌倉廃寺事典】を見てみましょう!

東渓院 とうけいいん 禅宗。台
山号徳蔵。箱根湯本早雲寺末。阿弥陀如来を本尊とする(『』風土記稿)。
東渓院は延宝八年(1680)、豊後国大野郡原城主中川久清が娘の供養のために建てた位牌堂であったが、明治五年に廃絶した。山ノ内光照寺の山門は東渓院の山門を移して建てたものといわれ、また、かつて東渓院の本尊であったという釈迦如来坐像も光照寺に存する。

詳しい記述はありませんでした・・・まぁ、とにかく光照寺のくるす門は東渓院から持ってきた物だって事です・・・
中川家の菩提寺にあった訳ですから中川クルス紋が付いててもおかしくないですね・・・
現在光照寺のくるす門に付いているクルス紋はレプリカで、オリジナルは本堂かどっかに保存されている・・・って話を聞いた事がありますが、発見できませんでした・・・良く見てもないですけど(笑)

多くのキリシタン遺跡を残す岡藩・・・隠れキリシタンを受け入れていた光照寺・・・
東渓院から光照寺にくるす門が移されたのは、ごく自然な流れだったのかも知れませんね・・・

江戸時代にはキリシタンと不受不施派の締め出しを狙って、寺請制度(てらうけせいど)という物がありました!
民に対し、いずれかの仏教寺院の檀家となる事を強制した制度です・・・日本史でやりましたね!
寺は宗門人別改帳を作成し、民に対しては寺請証文というのが発行されるんですけど、現在の住民票や戸籍謄本に近い意味も持った証文で、これがないと結婚や引っ越し、旅行、まともな就職をする事さえ困難だったと聞きます・・・
寺が発行する一種の身分証みたいなモンですね・・・

そんな感じで寺請制度は、寺院の檀家数と収入の安定と共に、民衆管理という意味合いも持っていました・・・
問題は事実上寺が幕府の出先機関の様な状態になってしまったって事です・・・
力は得ましたが、役所といえば汚職はつきもの・・・そして本来の宗教活動にも支障が出てきたりします・・・
まぁ、それが明治の廃仏毀釈に火を注いだ原因のひとつともいわれていますけどね・・・

寺請制度が敷かれる中、キリスト教信者に対しても寺請証文を発行してくれる寺院は、隠れキリシタンにしてみれば一筋の光明の様な存在だった事でしょう!
取り敢えず鎌倉にも隠れキリシタンがいたって事ですね・・・どっから流れて来たのかな?浅草辺りかな?(笑)
東慶寺の寺宝にも『IHS(イエズス会の紋章)』が刻まれた葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱が伝わっています!

そんな歴史と関係あるのか無いのか知りませんけど、鎌倉って教会多いですよね?
ホント多いですよ!・・・マップ作製しようと思ったけどメンド臭くなってやめたくらいですから(笑)
気になって調べてみたら、鎌倉市の教会密度は1.4k㎡あたり1教会・・・なんと全国1位との事!
人口あたりの教会数もあの長崎市に次いで第2位らしいです!
社寺仏閣が多いとは思っていたけど、まさかキリスト教までそんな状態になっていたなんて・・・
隠れる必要がなくなって羽目外し過ぎちゃったんでしょうか!?(笑)

さて、光照寺の開山である一向俊聖(1239?~1287?)について少し触れて置きましょうか!
一向は浄土宗の大檀家であった筑後国西好田の鎮西御家人草野家に生まれ、その影響から鎌倉の然名良忠の門弟となり、その後、踊り念仏と天童念仏を持って各国を遊行したと伝わる人物です・・・
まさに一遍と同世代であり、同じ様な事をしていたみたいですね・・・
でも、生涯2人が出会う事は無かったともいわれています!
最期は、近江国の蓮華寺(現在の米原市)にて立ち往生したといわれており、墓も同寺にあります・・・

この蓮華寺はもともとは聖徳太子が建てた法隆寺という寺だったそーですが、弘安7年(1284)に土肥元頼なる人物がが、一向を開山として招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺とした様です・・・
鎌倉にも蓮華寺(現在の光明寺)という良忠の寺がありましたが、どーやらそこから名前をとった様ですね・・・
鎌倉の蓮華寺については【警鐘50選①】のページに書いたと思いますので、気になる方は参照してみて下さい!

一向の教団は一向宗と呼ばれました・・・
現在一向宗というと一般的には浄土真宗の事を指す場合が多いと思いますが、それとは別です!
しかしその後、一向俊聖の一向宗は、同じ時代に各国を遊行した一遍の時宗や浄土真宗とも混同された様です・・・
宗教のクロスオーバーですね(笑)
そして本末制度の徹底を図る江戸幕府により、系譜の異なる様々な勧進念仏聖は遊行寺を総本山とした時宗の管轄下に置かれる事になります・・・一向宗は再三に渡り時宗からの独立を訴えましたが、それが成り浄土宗に帰属する事になったのは昭和18年(1943)の事だそーです・・・

一向俊聖の伝記としては【一向上人伝】という絵巻物があるらしいですが、近世に書かれたと思われ信頼性に乏しい様です・・・自分は見た事ないですけど少し興味をひかれますね・・・【一遍上人絵伝】と見比べてみたい!

浄土真宗が一向宗と呼ばれたのは、浄土真宗の最重要経典である。【仏説無量寿経】に『一向専念無量寿仏』と記されている事によるとされています・・・『一向』とは『ひたすら』って意味だそーです・・・
浄土宗は親鸞教団が浄土真宗の名を自称する事を嫌って一向宗と呼びました・・・
ましてや徳川将軍家は浄土宗に帰依していましたから『真』なんて文字を使われたら頭に来ますよね!
そんな訳で幕府の浄土真宗に対する公式名称は一貫して一向宗でした・・・

とにかく浄土真宗を名乗っていいのは浄土宗寺院だけとされ、親鸞の開いた浄土真宗は強制的に一向宗とされました!
安永3年(1774)8月、一向宗と呼ばれる事に納得のいかない彼等は公式名称を『浄土真宗』とする様にと寺社奉行に訴えました・・・いわゆる宗名論争ってやつですね!
同年11月、幕府は寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)に対し諮問した所、寛永寺は他宗なのでテキトーにOK!
しかし、増上寺は翌年1月に【浄土真宗々名故障書】提出して反対の意思を示しました・・・

安永4年11月、寺社奉行は幕府公称をこれまで通り『一向宗』とする事にし、それを受けた増上寺は諸国寺院にその旨を伝えるべく触れを出します・・・
同年12月、これに対し東本願寺は【浄土真宗故障書】に対する弾劾文を提出し、浄土真宗各派に呼びかけました!

安永6年(1777 年)1月、寺社奉行は、吟味中としつつも幕府公称をこれまで通り『一向宗』とする旨を通達しました!
その後も論争は続きました・・・
そして寛政元年(1789)、寺社奉行は東・西本願寺と増上寺に公務繁忙を理由に可否を先延ばしにする旨を伝えます!
同年、天台宗の輪王寺宮が仲裁に入り、この件に関しては寛永寺の『1万日(3万日とも)の預かりとする』という事で15年間に渡る論争も一応の終着を迎える事となりました・・・

時代は明治へと変わります・・・江戸幕府も倒れ、寛永寺の預かり期間も過ぎている事から、再び『浄土真宗』の呼称を認める様にとの運動が起りました・・・
明治5年(1872)3月、これに対し大蔵省は、浄土真宗は認められないが『真宗』という呼称は承認するという返事を出しました・・・以降、『真宗〇〇派』という呼称が使われましたとさ・・・

ココまで約一世紀(笑)・・・宗名なんて何だっていいじゃんって思うんですけど、当事者にしてみればふざけんなって話なんでしょうね・・・のめり込んじゃうと危険ですよ!、テキトーに行きましょう!
宗名なんかパナウェ~ブ研究所でいいんじゃない?(笑)・・・そんな事より何をやっているのかが重要でしょ!

ちなみに西本願寺が浄土真宗本願寺派という正式名称を使う様になったのは、第二次世界大戦後、国の宗教統制が解かれてからの事です・・・『真宗十派』という様に、浄土真宗には10の代表的派閥がありますが、西本願寺以外の9つは現在も全て、『真宗〇〇派』という呼び方をします・・・

現在鎌倉に浄土真宗の寺は2つあります!
そのひとつ、成福寺は鎌倉幕府3代執権北条泰時の息子の泰次(成仏)を開山としています、幕府が倒れた時の住職は北条高時の実弟(成円)だった為に追放され、以後70余年の間無住の寺だったそーです・・・
9代目宗全の時には小田原北条氏の迫害を受け伊豆韮山へ逃避・・・同地に同名の成福寺を建立・・・
慶長17年(1612)に鎌倉に戻るまで宗全はそこで暮らしたそーです!
結構波瀾の寺ですねぇ・・・ちなみに伊豆の成福寺は現在も健在です!

そしてもうひとつは玉縄にある金剛寺です・・・寺とゆーか・・・普通の民家ですけど(笑)
一応、浄土真宗本願寺派の寺の様です・・・普通の民家ですけど(2回言っちゃった)・・・いつ頃からあるんでしょうか?
存在すら知らない人がほとんどだと思います・・・鎌倉に浄土真宗寺院はひとつとゆーのが浸透していますからね・・・
何だか可哀想な感じです・・・

成福寺も小袋谷ですから鎌倉市中とは言い難いですよねぇ・・・旧鎌倉の境界を小袋坂の木戸とすると、完全に鎌倉のの外れですね・・・鎌倉入りを拒否された一遍上人が野宿した場所に建つ今回の光照寺よりも更に西ですから!
鎌倉市中で浄土真宗の遺構を捜すのは困難です・・・てゆーか無い・・・
自分の知る限り常盤のタチンダイの向かい側に一向堂という地名が残っています・・・
浄土真宗のお堂か何かがあったであろう事を連想させる地名ですよね?
つー訳で【鎌倉地名由来辞典を】見てみましょう!

一向堂 いっこうどう
常盤の小字。桔梗山の南方、常盤917番地辺の谷間とみられる。一向宗は親鸞(1262年寂)開祖の浄土真宗であるから、一向堂は鎌倉における同宗の存在を示す遺称といえる。
明和8年(1771)先啓の自序を持つ『大谷遺跡録』(風土記稿所蔵)によると、延慶2年(1309)2月、常葉に草庵を構えていた僧唯善坊が、ひそかに如信上人の御彫刻・御真影・御骨を持って鎌倉に下り念仏を弘通した。
故に「常葉の真影」と称したという。
しかし「真影」は戦国時代に散逸し、鎌倉郡長沼(現横浜市栄区)の正安寺に移安したのち本山に遷したと伝える。

これが事実とすれば、おそらく小田原北条氏の政策で鎌倉から追放されたのであろう。
正安寺は臨済宗円覚寺派の古刹で、本尊は阿弥陀三尊立像。『風土記稿』は、「親鸞の作、像に善信と刻し、華押を題す」といい、親鸞が鶴岡八幡宮で一切経を交合したとき、当寺に止宿、住僧の月応が浄土真宗に帰依した。
その後廃蕪の状況にあったのを南山士雲(1335年寂)が再興して禅刹となし、現在の寺号に改めた、というのである。
親鸞の鎌倉入りは覚如の虚構にそった伝説であるが、常盤と浄土真宗(正安寺)との関係を物語る地名として貴重である。
なお、前浜(由比ヶ浜)の一向堂は元弘3年(1333)6月14日付「市村王石丸代後藤信明軍忠状」(市川文書)に、この年5月18日の鎌倉合戦のさい、「前浜一向堂の前」で散々に攻め戦ったとある。現在は廃絶。

やっぱり浄土真宗関連の物件だった様ですね・・・前々からそーではないかと思いつつも、中々調べる機会が無かったので、凄ぇスッキリしました!
鎌倉に下った唯善の話は聞いた事がありますが、何とココだったとは!・・・そーではないかとは思っていましたが!
今度久し振りに一向堂公園に行ってみようかな?・・・やっぱ何も無いからやめとこう(笑)
前浜の一向堂も詳しい場所の特定は困難な様ですね・・・
由比ヶ浜海岸~坂ノ下海岸の何処かにあったのは確かな様ですけど・・・

意外と使える【かまくら子ども風土記】も一応見てみましょう!(笑)

一向堂跡
「たちん台」の東側一帯を一向堂と呼んでいますが、これは唯善という浄土真宗の僧が、一向堂と呼ぶ庵をこの地に造ったからです。
唯善は、浄土真宗を開いた親鸞聖人の末娘・覚信尼の息子で、1309年(延慶2年)大谷本廟にあった親鸞の遺骨を持ち出して、この常盤に住みつきました。親鸞の像は、人々から「常盤の真影」と呼ばれ、浄土真宗はしだいに広まっていきました。しかし、その一向堂も戦国時代に焼けて、現在は残っていません。従って、一向堂がどこに造られたのか、正確な場所はわかっていません。

唯善が大谷本廟から持ち出した遺骨に関して【鎌倉の地名由来辞典】と食い違いがありますね?
浄土真宗本願寺派開山親鸞と第2世如信・・・どっちの遺骨を持ち出したんでしょう?
ちなみに如信は親鸞の息子の善鸞の息子ですから唯善とは従兄弟の関係にある人物です・・・
唯善は甥に当たる覚如(本願寺派第3世)との大谷本廟相続争いに敗れて鎌倉に下ったと聞きます・・・

う~ん・・・【鎌倉廃寺事典】には何て書いてあるんだろう?
気になりますが、メンド臭いんでこれくらいにして置きます・・・

光照寺
から大分話がズレてしまいました(笑)
寺号 塔頭 宗派
建長寺 回春院 華蔵院 正統院 西来庵 天源院 同契院 宝珠院 妙高院
龍峰院
臨済宗建長寺派
円応寺 建長寺塔頭 臨済宗建長寺派
禅居院 建長寺塔頭 臨済宗建長寺派
長寿寺 建長寺塔頭 臨済宗建長寺派
円覚寺 雲頂菴 黄梅院 臥龍庵 帰源院 桂昌庵 済蔭庵 寿徳庵 正続院
正伝庵 松嶺院 蔵六庵 続燈庵 伝宗庵 如意庵 白雲庵 仏日庵
富陽庵 龍隠庵
臨済宗円覚寺派
浄智寺 臨済宗円覚寺派
東慶寺   臨済宗円覚寺派
明月院   臨済宗建長寺派
光照寺   時宗
現在JR北鎌倉駅周辺には、上図の様に塔頭を含めると36の寺院がありますが、光照寺以外は全て臨済宗です!
駅から巨福呂坂洞門までにある寺院は全て禅宗であるという事です・・・
凛とした禅宗寺院と比べて光照寺が見劣りしてしまうのは仕方のない事なのかも知れません・・・

まぁ、一度くらいは見て置きましょう!・・・そして忘れた頃に再訪しましょう・・・それくらいが丁度いいです・・・

おしまい
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