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かながわの景勝50選という物があります・・・昭和54年(1979)に県内の優れた景勝地をテキトーに50箇所選定した物らしいですが、鎌倉市内にも指定を受けた場所が3箇所存在します・・・
『光明寺裏山の展望』、『鎌倉十王岩の展望』、『稲村ヶ崎』・・・どれも有名ドコですが、取り敢えず3回に分けて紹介させて頂きたいと思います!
さて、今回は光明寺裏山の展望で行かせていただきます!・・・では噂の天照山蓮華院光明寺へGO!
山門 扁額
場所は材木座海岸近く・・・六角ノ井から海岸沿いに西へ和賀江嶋をチラ見しつつ、しばらく進んで行くと右側に入り口があります・・・総門を潜ると山門(三門)が・・・デカイ!・・・鎌倉最大です!
ちょっと写真が古いですが宗祖法然上人八百年大御忌奉修の幕が掛かっています・・・全国の浄土宗の寺で一斉補修してましたねぇ・・・
扁額の『天照山』後花園天皇勅筆と伝わります・・・天照山は光明寺の裏山で今回の目的地、大島に流された源為朝がココ目掛けて矢を放ったという伝説もあります・・・ちょっと距離が足りなくて六角ノ井に落ちた様ですけど・・・
昔の弓ってどんだけ飛ぶんですかねぇ・・・凄ぇなぁ・・・矢一本でバシバシ船沈めたりしてるのも納得ですね(笑)

寺の説明は後にして先を急ぎましょう・・・
善導大師像 記主庭園
開山堂を横目に過ぎると善導大師像があります・・・彼は唐代に活躍した浄土教の高僧で、浄土宗を開宗した法然に多大な影響を与えた人物といわれています・・・
像の後ろは記主庭園・・・作庭師小堀遠州の弟子の作といわれています・・・弟子かよぉ・・・

記主禅師はこの寺の開山である然阿良忠(ねんなりょうちゅう)の事です・・・忍性らと共謀して日蓮の草庵を焼き討ちにして殺そうとした人物ですね・・・日蓮は白猿の導きで難を逃れます(松葉谷法難)
日蓮を殺し損ねた良忠らは、次に行敏という僧を立て幕府に訴状を提出し法論対決をする事に・・・結果は惨敗・・・完膚なきまでに論破されます・・・
でもめげません、今度は竜ノ口法難を画策します・・・処刑寸前、日蓮は奇跡によりまたも難を逃れます・・・
結局殺せませんでしたが、日蓮を佐渡配流へと追い込む事に成功しました・・・めでたしめでたし・・・

ちなみに忍性ですが、日本史の教科書にも出てきますから知名度は高いと思います・・・その印象は・・・
歴史の授業で得た知識から、極楽寺、ボランティア精神、衆生救済に尽くした人物・・・
というのが大半の意見ですよね!
でもある宗派からは北条の帰依をいい事にやりたい放題、慈善事業にかこつけての金銭の徴取で逆に民を苦しめ、まともな宗教書のひとつも残さず、終始日蓮(あ、言っちゃった)の命をつけ狙う極悪非道の邪法僧、矯域(きょうぞく)の聖人、国賊という立ち位置で現在に至っているようです(笑)・・・極悪非道の邪法僧って凄いですね!

でも和賀江嶋に着港する船から関税を徴取していたのが極楽寺というのは極楽寺文書からも事実・・・当時材木座地区を管轄していた極楽寺・・・民に負担を強いていたんでしょうか?

律宗は浄地といって金融業も営んでいました・・・50近くの塔頭を擁しその勢力を持って政治に介入・・・
極悪非道は言い過ぎかと思いますが、世渡り上手だったのは確かかも知れませんね・・・
大殿 大殿内部
山門の正面には大殿があります・・・まだ朝7時過ぎなので誰もいませんでした・・・いいなぁココ、昼寝してぇなぁ~・・・
寺の人が来たのでうろ覚えの般若心経を唱え熱心さをアピール・・・と思ったら近所のおばさんだったようです・・・
如意輪観音 ココの如意輪観音は鎌倉三十三観音、関東七観音のそれであります・・・如意輪観音はリラックスした像容が多いので見ていて癒されます・・・
他には本尊阿弥陀三尊、宗祖法然上人像、和賀江嶋弁財天像、善導大師像などが安置されています・・・
善導大師像・・・怖いです・・・真っ黒で目だけが浮かび上がって・・・
他にも色々見所がありますがキリがないので外へ出て目的地へ向かって進みましょう!
三尊五祖の庭 大殿の右側は石庭(三尊五祖の庭)になっています!
三尊・・・阿弥陀、観音、勢至
五祖・・・念仏を広めた五人の高僧
との事です・・・五人の高僧の内訳は、
釈迦、善導大師、法然、鎮西、良忠との事・・・
庭の石がそれぞれを表しているそうです!
へぇ~・・・何でしょう・・・よく分かりません・・・
釈迦も三尊形式にしてあげなよ!
それか全部モアイ像に置き換えよう!
猫 猫2
鐘楼の所で一休みしていたら猫がスゲー寄ってきました・・・エサでも貰えると思ったんでしょうか?
あいにく貧乏人なもんで食材は持ち合わせておりません・・・あっても自分が食べます・・・
何も持ってないと見抜いたんでしょうか?しばらくすると猫達はどっかへ行ってしまいました・・・
『ニャーニャー』言ってましたが、『ケッ!こいつ何も持ってねェよ・・・使えねェ~・・・』とか言っていたんでしょうか?
スマンのぉ~・・・こっちが貰いたいくらいだよ・・・
内藤家墓地 鐘楼の海側は墓地になっていてその一角に日向延岡藩主内藤家墓地があります・・・
イッパイ建ってます・・・とにかく建ってます・・・

ココ光明寺には【当麻曼荼羅縁起絵巻】という国宝があります・・・奈良当麻寺の当麻曼荼羅図の由来を描いた鎌倉期の作品といわれるこの二巻は、延宝3年(1675)に内藤義概が寄進したものです!
内容は曼荼羅織って極楽行くって話です(笑)
ちょっとはしょり過ぎましたかね・・・蓮糸で曼荼羅織ったのは藤原豊成(仲麻呂の兄です)の娘中将姫との事・・・以上!

三尊五祖の庭に沿うように裏山へと続く道があります・・・しばらく行くと、
石碑 光明寺裏山の展望
本日の目的地へ到着であります!・・・どーですかこの眺め?・・・微妙でしょう?・・・おまけに石碑が建っている所は木が邪魔でろくに景色も拝めません・・・何故ココが選ばれたのか良く分かりません・・・
訪れた友人全てが『微妙ぉ』、『残念』と言っています・・・中には怒りを覚えたという人も・・・
木がなぁ・・・邪魔なんだよなぁ・・・この先の秋葉大権現をぶっ壊して展望台を造るっていうのが一番いいと思うんですけど、ダメなのかなぁ?・・・良忠の墓でもいいけどね・・・取り敢えず良忠の墓も行って置きますか・・・
良忠墓参道 ショボイ景色を堪能し、後ろを振り向くと良忠の墓への入り口になっています『良忠大御廟参道』と刻まれた大きな石柱が建っています・・・
左側の表札には『天照山鍛錬場』の文字が・・・
戦時中は軍刀かなんかを作っていた鍛錬場跡です・・・
当時ココで鍛えられた軍刀は現在高値で取引されている様です!
ココの一風変わった鬼瓦は一見の価値ありです!
が・・・すいません写真がどっか行ってしまいました・・・
今度撮ってきます(笑)・・・後日コチラに貼る予定ですので、興味のある方はクリックしてみて下さい!
良忠墓 良忠墓アップ
坂と階段を登り切ると、光明寺歴代住職の墓へ到着です!・・・真ん中にあるひと際大きな無縫塔が良忠の墓です!
竿には『開山記主禅師』と刻まれていました・・・結構なスペースです・・・展望台を建てるには十分でしょう!
ココに決定ですね!さっさとぶっ壊して建てちゃいましょう!展望台!・・・眺めいいっすよぉ・・・
光明寺裏山の展望改め良忠墓跡の展望の誕生ですね!

ボロクソに言ってますが・・・ホントにヒドイんですよ・・・自分は家近いから別にいいですけど、遠くから見に来た人は可哀想です・・・数字が付いてるスポットって必ず何箇所かは残念な所がありますよね・・・必ずです!
でも巡り始めると全部巡らなきゃって感じで・・・つまらないって事前に分かっている所も結局行くんですよねぇ(笑)
何なんですかね・・・『巡ろう!』がいつの間にか『巡らなきゃ!』に変わってる時が多々あります・・・

てな感じで今回は『かながわの景勝50選 光明寺裏山の展望を紹介させて頂きましたが・・・
どーですか?行きたくなりましたか?(笑)
裏山の景勝はともかく、光明寺は鎌倉を代表する大寺院ですから訪れる価値は十分あります!
折角なので光明寺の説明もさせて頂きますね・・・

天照山蓮華院光明寺・・・寛元元年(1243)、第四代執権北条経時が然阿良忠を迎えて開いた浄土宗の大本山!
江戸時代、徳川家康が関東の主要寺院十八寺を十八壇林に定め、その筆頭寺院となった・・・
明応4年(1495)に後土御門天皇から関東総本山の称号を受け勅願寺に定められ、同時にお十夜法要も勅許・・・
昭和21年(1946)鎌倉アカデミア開校、自由大学として多くの逸材を輩出したが昭和25年(1950)に閉校・・・

ガイドブックに載るのは大体これ位でどれも似たような内容の物です・・・
調べると結構謎が多いんですよねぇ・・・この寺・・・

【鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝】なる物がありまして、それによると仁治元年(1240)2月、然阿良忠が鎌倉に入り住吉谷悟慎寺に住して浄土宗を広めていた・・・
時の執権北条経時は良忠を気に入り佐介谷に蓮華寺を建立し、その開山として招いた・・・
寺号を光明寺に改め、蓮華の字を残す為に方丈を蓮華院とした・・・
寛元元年(1243)5月3日、良忠を導師として落慶供養を行った・・・
【新編相模国風土記稿】ではこの時に材木座に移転したとしている様ですね・・・

【開山御伝】は後世に手を加えられた可能性が高く信頼度は低いと聞きます・・・

佐助のバス停法務局前の所に蓮華寺阯の史跡碑が建っています・・・今は潰れてしまいましたが、近くに『あんと』という甘味処があって、昔はハニー白玉をよく食べていました(笑)
蓮華寺阯 史跡碑の内容は以下の通り!
蓮華寺ハ仁治元年(紀元1900)北条常時ノ創立ニカカリ僧良忠ヲ開山トセシガ寛元元年(紀元1903)之ヲ材木座ニ遷シ寺號ヲ光明寺ト改メシ由傳ヘラル又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為建長三年(紀元1911)北条時頼之ヲ建立シ後弘安二年(紀元1939)ノ頃武州ヘ遷セリトモイフ此谷ヲ佐介ヶ谷ト唱フ
            昭和九年三月 鎌倉町青年團建
この石碑はもともと松ヶ谷にあったらしいですが道路開通工事で現在地に移動してきた様です・・・どーせなら一緒に材木座まで行っちゃえよ!(笑)

石碑の説明も2つの説を記していますね・・・後者は【鎌倉大日記】の説を採っていますが、そーなると光明寺はどーなってしまうんだ?・・・まぁ、蓮華寺跡に再び蓮華寺を建てたと言ってしまえば無理矢理ツジツマは合いますけど(笑)
頭こんがらがって来ますよね・・・

問題なのはこの蓮華寺なんですよねぇ・・・光明寺が出て来た後も様々な文書に登場するんですよぉ・・・
他に蓮華寺があって光明寺となった蓮華寺とは全く別物の事なのか?
そもそも寛元元年(1243)に寺号を光明寺に改めた・・・てのが既に怪しいんですよねぇ・・・

これは多くの学者も言ってますが経時の法名です・・・『蓮華寺殿安楽大禅定門』・・・違和感ありますよね?
蓮華寺?・・・何でわざわざ前の寺号を持ってくる?
この事から光明寺と改号されたのは後世になってからではないのか?・・・という見方があります・・・
でも後世光明寺の文字が出て来てからも蓮華寺は出てきますから抜本的な解決とは言い難いですよね・・・ 
経時墓 光明寺にある経時の墓です・・・
『蓮華寺殿安楽大居士』の文字が刻まれていました!
経時は若くして亡くなりました・・・
執権就任当時、鎌倉では将軍九条頼経をとりまく反北条勢力が血気盛んに色々やっていました・・・
経時は頼経の将軍職を剥奪しその息子頼嗣を新たな将軍とすることに成功しましたが、そのストレスの為か病を患い、寛元4年(1246)3月23日に弟の時頼に執権職を譲り、翌月1日に亡くなっています・・・ 
亡くなった時の事を【吾妻鏡】はどう記しているんでしょう?

寛元4年(1246)閏4月1日 己丑 天晴
今日入道正五位下行武蔵の守平朝臣経時卒す(法名安楽、年三十三)。禅室卒去の事即ち飛脚を差し京都に申せ被る。行程三箇日たる可と云々。

う~ん・・・取り敢えず年三十三は二十三の間違いですねぇ・・・いきなり不安だなぁ・・・大丈夫か【吾妻鏡】?(笑)

同年閏4月2日 庚寅  禅室佐々目山麓に葬り奉ると云々。

ん?笹目?・・・材木座じゃないの?・・・寛元元年(1243)に材木座に蓮華寺を移動させた説を考えるとちょっとおかしいですね・・・笹目ったら佐助と長谷の間ですよ・・・墓地は蓮華寺時代の場所を使ったんでしょうか?
せっかく材木座に移したのに?・・・そんな馬鹿な・・・経時ですよ!寺の開基だしあちらに建てるのが普通でしょう!
その後の回忌法要はどーなってんでしょう?

宝治2年(1248)3月29日 丁丑
左親衛佐々目谷堂に於いて故武州禅門(経時)第三年の仏事を修被る。導師は般若房律師と。また千僧供有りと。

左親衛は時頼の事ですね・・・経時の三回忌は笹目で盛大に行われちゃってますね(笑)
これは常識的に考えると寺はまだ材木座に移動してないんじゃないかな?・・・執権の年齢を間違えるぐらいですから鵜呑みには出来ませんけど・・・

【開山御伝】に住吉谷悟慎寺とありましたが、これは逗子マリーナの所の山腹にある正覚寺の事です・・・
ここに悟慎寺があり良忠が住んで布教活動していたといいますが、これは【良暁述聞制文】や他の文献と矛盾します!
やはり悟慎寺は佐介谷にあり・・・と従って置く方が無難な気がします・・・
ただ『葬送住吉瓶子山麓』という記述は本当の様で正覚寺でも良忠を荼毘に付したという記録があり現在も無縫塔が建っています・・・正覚寺は正式には住吉山悟慎院正覚寺といいます・・・悟慎の文字が繋がりを感じさせます・・・  
住吉神社 扁額
正覚寺の墓所にある階段を登り切った所にあるのが住吉神社です・・・鬱蒼とした木々に囲まれ、いつ訪れてもジメジメとしてむせ返るような空間です・・・ボロボロの扁額がさらに不安感を煽ります・・・
息が詰まるような場所ですが、かつては住吉城という山城があり三浦同寸、同香兄弟が籠って北条早雲と戦った所と伝わります・・・結局同寸は新井城へ逃れ自害、息子の義意の首が小田原まで飛んだ話は【名越切通】のページで書かせて頂きました(笑)、同香も逗子の延命寺で自害しています・・・
洞窟 このただでさえ気持ち悪い住吉城址・・・なんと社の右側の岩肌にポッカリと穴が開いているではありませんか!
洞穴です・・・地形的に考えて反対側までそう長い距離ではないので、貫通しているとすれば光が見えてもおかしくないと思われますが・・・真っ暗です!
まさに冥府の入り口と言わんばかりです・・・
怖いけど中がどうなっているのか気になってしょーがありません・・・やはり行くしかありませんよね!
でも一人で行くのは嫌だ・・・死ぬなら道連れが欲しい!
地元の友人達に穴の話をすると意外と乗り気!・・・徒党を組んで懐中電灯持参で穴調査に向かう事に!
しかしこの探索は30秒位であっけない幕切れを迎えるのでした・・・

穴に入って懐中電灯を付けます・・・壁と天井を無数の黒い影がサササッと移動して行きます・・・
ウッ・・・と思いながらもココまで来たらと覚悟を決め進みます・・・集団心理って凄いですね、一人だったら絶対帰って寝てますよ・・・影の正体はゲジゲジでした・・・取り敢えず刺されたり噛まれたりする虫ではないので安心しましたが数がハンパない!気付いているのは先頭を行く自分だけ・・・報告すると『気持ち悪いからやめよう』と誰かが言い出しかねませんので、計画を遂行する為に黙っていました・・・幸いゲジゲジはドンドン前へと逃げて行きます・・・

ちょっと進むと道は左に曲がり、というか左斜め上へ登る感じですが、そこを越えると出口が見えました・・・
入り口から反対側の光が見えなかったのはこの為だったんですね・・・やってくれるぜ・・・
ココに異次元への扉はありませんでした・・・そのまま下へ降りて探索終了です・・・
ちなみに20年位前の話です(笑)

何であんな掘り方したんでしょうか?・・・固い岩盤にぶち当たった?そんな事もなさそうです・・・
単に両側から掘り進めて途中でズレてる事に気付いて無理矢理修正したと考えるべきでしょうか・・・
今ほど土木技術が発達していなかった時代に掘られたからなんでしょうか?・・・それとも単に地元の素人が掘ったからなのか?・・・まぁ、取り敢えずココは六方井みたいに、
『いつ誰が掘った穴なのかハッキリしませんが弘法大師が掘ったとされています』・・・として置きましょう!
反対側から掘ってたのは多分行基でしょう(笑)

またちょっと話が脱線してしまったので元に戻しますね・・・

先出の【良暁述聞制文】に『佐介谷本悟慎寺今号蓮華寺』とあります・・・佐介ヶ谷のもと悟慎寺は今は蓮華寺と号してますよ・・・と言ってますね・・・正中2年(1325)年の事です・・・
【然阿上人伝】や【授手印決答巻上受決鈔】によると良忠は千葉一族の荒見弥四郎、椎名八郎の帰依を受け下総にいたが、争いが起こると鎌倉へ逃げて来たらしいです・・・浄光を訪ねると一宇の坊を建てて住まわしてくれた様です・・・
この浄光という人物は鎌倉大仏勧進の為に奔走した事で有名な僧ですね・・・鎌倉大仏は勅命でなく民の浄財で建立された事に意義があります・・・木造でしたけど(笑)
で、つらつらしているうちに北条一族の大仏武蔵前司朝直が良忠の事を気に入り、帰依して佐介谷に悟慎寺を建立し良忠を住持とした・・・とあります・・・

悟慎寺に関してはこれに沿えば他の文献に見える武州刺史は大仏朝直という事になり、古文書の内容ともよく符号している様だし・・・開基に関しては朝直でいいとしても蓮華寺と改号したかどうかは微妙・・・
蓮華寺が何個あったのかハッキリ分かれば憶測の域は出ないまでも考えようがありますが・・・これは歴史スパイラルですね・・・新たな文献が発見されるか、タイムマシンの完成を待つかしかない様です・・・ふぅ~・・・
どーですか?頭の中グチャグチャになったでしょ?(笑)

【新編鎌倉志】の光明寺の条には何故か経時の墓についての記述はありませんでした・・・佐介谷の御所の入の条に記述が見られます・・・
【御所入】
此の谷の内にあり。古老の云、平の経時の住せし所也と。按ずるに【光明寺記主ノ傳】に平の経時、佐介が谷に隠居し專修念佛して卒すとあり。経時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より不遠。

えぇ~!経時の墓、まだ笹目にあったの?もう江戸時代ですよ(笑)
ちょっとおかしいでしょ!?・・・それとも【良忠伝】に書いてある事を単に引用しているだけなんでしょうか?
漢文の難しい所でありますね・・・御所の入から近いって言ってますけど正確な場所はドコだったんでしょうか?

【鎌倉攬勝考】を見てみます・・・
【北條武蔵守平経時墳墓】
経時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辞し、執権を弟時頼に譲り落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を営み、長楽寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。

長楽寺の所にあったのかぁ・・・長楽寺は現在の鎌倉文学館の辺りにあった様です!
文学館の門手前には長楽寺の史跡碑もあります!・・・読んで見ましょう!
長楽寺石碑
嘉禄元年三月 二位ノ禅尼政子 頼朝追福ノ為笹目ガ谷辺ニ於テ方八町ノ地ヲ卜シ 七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト号ス 元弘三年五月 北条執権滅亡ノ際 兵火ニ罹リテ焼失セリト 此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ヘリ。  昭和六年三月建立  鎌倉町青年團
長楽寺は嘉禄元年(1225)、北条政子が夫頼朝の追福の為に建てたが元弘三年(1333)に兵火で焼け落ちたと言っていますね・・・
確かにその通りなんですけど、【鎌倉攬勝考】の説だと経時の墓の所にお堂を建てて長楽寺としたとありますね・・・
おかしいですね寛元4年(1246)に経時が亡くなる20年以上前に既に長楽寺はありますから・・・テキトーだなぁ・・・
おまけに『今は其墳墓しれず』って・・・ほんとテキトーだなぁ(笑)

でも【新編鎌倉志】の記述を当時笹目に経時の墓があったと読み解くとすると、それから【鎌倉攬勝考】が編纂されるまでの間に墓が移動したとも考えられますよね・・・つまり1673~1829の間に移動したと・・・いくらなんでもそれはないか?
ココまで歯車が噛みあわないと、もうどーでもよくなってきますね・・・諦めます!

祇園山長楽寺ですが・・・大町に安養院って寺があり、もともとそこには良弁尊観の開いた善導寺という浄土宗の寺がありました・・・しかし元弘3年鎌倉幕府滅亡の際に焼け落ちてしまいます・・・長楽寺も同じく焼け落ちてしまいましたので大町に移り善導寺と統合します・・・しかし延宝8年(1680)再び寺は焼失・・・そこで頼朝の家臣田代信綱が比企ヶ谷に建立した田代寺の観音堂を移築して寺を再建しました・・・これが祇園山安養院田代寺と呼ばれる由縁です! 
良弁尊観の墓 安養院開山、浄土宗名越派開祖の良弁尊観は良忠の弟子でもありました・・・その墓と伝わる宝篋印塔が安養院にあります・・・
徳治三年(1308)の銘が刻まれ、鎌倉に現存する最古の石塔とされています・・・ちなみに左側の小さな宝篋印塔は北条政子の墓と伝わっているそうです・・・

普段は静かな寺ですがツツジの季節は多くの観光客が訪れるので注意です・・・
現在、光明寺山門の右側には蓮乗院、左側には千手院があります・・・どちらも光明寺の僧坊だったと伝わります・・・

蓮乗院は元々は蓮乗寺という真言宗の寺でしたが光明寺が移って来た際に蓮乗院となった様です・・・
光明寺落慶までの間良忠が居住したので、光明寺に入る新住職はいったん蓮乗院に入ってから光明寺に向かうという慣習が現在も続いている様です・・・
本尊の阿弥陀如来像は千葉常胤の守り本尊といわれており、千葉氏との関わりを匂わせます・・・
寺紋も千葉家の家紋と同じ『月星』です・・・事務所の入り口のお洒落な引き戸の真ん中にお洒落な月星・・・イイネ!

千手院は関東大震災で寺伝等が全て無くなってしまったので、創建など詳しい事は分かっていない様です・・・
当初は千手観音を祀り観音堂と呼ばれていたそうです・・・後に専修院・・・千手観音ブームに乗り千手院となったそうです・・・境内には寺子屋の記念碑があります・・・

そろそろ頭がやばいと警鐘を鳴らしているのでこれ位にして置きますね・・・
結論としては『光明寺は猫が多い!』・・・です!

最後に一応【新編鎌倉志】の記事を、
【光明寺】
光明寺は補陀落寺の南鄰なり。天馬山と號す。本は佐介谷に在しを後に此の地に移す。當寺開山の傳に、寛元元年五月三日、前の武州の太守平の經時、佐介谷に於て浄刹を建立し蓮華寺と號し、良忠を導師として供養をのべらる。後經時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。經時を蓮華寺殿安楽大禅定門と號す。當寺に牌あり。
【東鑑】に、經時を佐佐目の山麓に葬るとあり。開山は記主禅師、諱は良忠、然阿と號す。石州三隅の荘の人なり。
父は宰相藤原の頼定、母は伴氏、正治元年七月二十七日に生る。弘安十年七月六日に示寂す。年八十九、﨟七十四。聖光上人の弟子なり。聖光は法然上人の弟子なり。良忠の弟子六人有て、今に六派相ひ分る。所謂六派は、京都の三箇は、一條ノ禮阿・三條ノ道光・小幡ノ慈心なり。關東の三箇は、白旗ノ寂慧(光明寺第二世。)・名越尊観(大澤流義の祖。)・藤田ノ持阿(藤田流義の祖。)是を六派と云ふ。當寺は六派の本寺なり。六派の内白旗・大澤のみ今尚を盛んなり。四派は断絶す。十七箇寺の檀林は白旗なり。昔し經時、武州安達郡の内、箕田郷を寄附して寺領とすと云ふ。今寺領、三浦の柏原村にて百石を賜ふ。當寺に鐘あり。銘を見れば、竹園山法泉寺の鐘なり。何れの時に爰に移し置ける事を不知。鐘の銘は、法泉寺が谷の條下に載す。

鐘は法泉寺から持ってきた物だといってますね・・・法泉寺ヶ谷の条に銘が記してあるらしいです!
一応見ときますか・・・
【法泉寺谷】
法泉寺谷は御前谷の東向の谷なり。此他に皆田畠なり。昔し此地に竹園山法泉寺と云寺あり。関東十刹の内なり。
開山本覚禅師、諱は素安、號了堂。建長寺寶珠菴の鼻祖なり。今寺はなけれども、【五山西堂の公帖】に、法泉寺住持職之事とのするあり。此寺の鐘、今光明寺にあり。清拙の銘なり。其の文如左。

竹園山法泉寺鐘銘
鐘器之宏、音韻高遠、發上々機者也、建長首座爲當寺住持、了堂素安禪師、捐己貲以鑄之、與寺相爲永久、金山淸拙正澄遂爲之銘、曰、山竹園、寺法泉、系西來、葉は再傳、禮樂興、鐘惟先、命工※、掌範埏、液金銅、聲注川、大器成、簨簴懸、杵洪撞、音遐宣、司夜旦、令人天、息輪苦、開定禪、心聞洞、十虚圓、咬七條唱機縁、鏗月霜、到客船、梵刹隆、檀壽延、國永安、君萬年、大歳庚午、元德二年三月二日、大工山域權守物部法名道光

どーやら銘文は清拙正澄の手による物らしいですね・・・禅居院の摩利支天像が見たいッス!

おしまい
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