マイナースポットの多い大町名越地区ですが、今回訪れる六方井も100%観光ガイドブックに載る事はないであろう物件だと思います・・・奥まった場所にあり、道標も何もないので地元の人以外は殆んどその存在を知らないのではないでしょうか?
知ったからって別にどうこうなる物でもありませんが、それこそがマイナースポットの定義かと(笑)
マイナーな武将も網羅し自己満に浸る歴史マニアと通ずる物があるかも知れません・・・
どうでもいい・・・誰も気にしない物を敢えて見に行く事に意味があるんですよ・・・多分・・・ |
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県道311号から釈迦堂口切通方面へ行く道へ入りしばらく歩きます、左に大宝寺へ行く道がありますが、ココではなくもう100mちょっと行った所を左に入ります・・・
右にカーブしながら歩いていると左に道があるので曲がりましょう・・・
しばらくすると左の写真の様な場所になりますが・・・
なんとも鎌倉らしい道ですね・・・こういう谷戸を歩いていると心が和みます・・・ |
目的地はすぐそこです!・・・このシケインを抜ければ目視できます!
何か説明している自分もゴチャゴチャしてきたのでGoogleマップ埋め込んどきます(笑) |
より大きな地図で 六方黄金に化生硯 を表示 |
説明下手でど~もすいません! |
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ジャジャーン!憧れの六方井に到着であります!・・・道の突き当りにロープで囲まれた場所があり、井戸というか池の様な感じです・・・
奥は竹林になっていて祠の様な物がありますが、竹で通行止めが作ってある所をみると立入禁止の様ですね・・・
竹林が気持ちよさそうだったので非常に残念です・・・案内板がある事に驚かされました・・・しかも結構立派ですよ・・・
六方井と題してちゃんと長々と由緒等が説明されています・・・
下に新しめの板がぶら下げてあり『六法井』と書かれています・・・『方』、『法』どっちも使う様ですね・・・
六法の方が仏教との逸話を感じさせる雰囲気があっていいですね・・・
案内板の内容をコピーした物が横にぶら下げてありましたが、地元の方でしょうか?熱心で好感が持てますね・・・
こうゆうスポットって大抵ほったらかしが多いですから・・・
六法井の由来~かまくら風土記より~
この井戸は、たて三.六メートル、横四.五メートル、深さ十五メートルの長方形の井戸で古い石にかこまれています。
いつ誰が掘ったかはっきりしませんが、弘法大師の作ったものだといわれています。
昔から鎌倉は水の少ない所で、水を売りに来る人の姿をよく見かけたと年よりの人はいいます。ひでりのたびに鎌倉の人は水ききんに頭をいためたものでした。
所がこの六法の井は不思議なことに決して水のかれたことがないというのです。明治十七年と二十七年のひでり続きに、近在の人々はこの井戸に水を汲みに来たということです。
井戸をのぞくと側面にちょっと出張っている所があります。竜頭といいますが水がこの竜頭までへると、きっと雨が降りだすと付近の人はいっています。
尚またこの井戸は妙本寺の蛇形の井戸と通じ、家宝を守っている主の蛇はこの二つの井戸を往復しているとも伝えられています(吾妻鏡)
説明が・・・『いつ誰が掘ったかはっきりしませんが、弘法大師の作ったものだといわれています』
この一文がマイナースポットである事を物語っていますね・・・はっきりしてないのに弘法大師を出してくるあたりが(笑)
伝説の多い人物に乗っかって、煙に巻く作戦ですね・・・観光客には有効な手法ですね・・・
でもココには来ないでしょ(笑)
弘法大師が作ったと昔からの言い伝えであるのなら、【新編鎌倉志】で紹介されててもいいと思いますし、実際はそんな古い物ではなく近世に作られた物なんではないでしょうか?
【吾妻鏡】を参照したとありますが、どの辺の事を言っているんでしょうか?
比企氏滅亡から約60年後に北条政村の娘が蛇の悪霊(若狭局)に取り憑かれた話はありますが、六方井についての記述は無いですし、若狭の局が身を投げた井戸の話とかは同書には記されてないと思うんですが・・・
確か一幡と焼け死んだはず・・・まぁ検証は後にして井戸を見てみましょう・・・ |
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やっぱり井戸というより池って感じです・・・アオコが大量発生して水面を覆い尽くしています・・
・これじゃぁ飲む気にもなりませんね・・・青汁の井に改名した方がよさそうです!
『う~ん、不味い!』・・・あのCMは結構インパクトありましたね・・・自社製品の不味さをアピールするなんて・・・
良薬は口に苦し・・・最近は飲みやすさをアピールした物が多いですね・・・竜頭は確認出来ませんでしたが、アオコの下に隠れているのでしょうか?
なんだかじっと見ているとアボカドディップにも見えてきました・・・野菜スティック欲しいです・・・ジェノバソースにも・・・ |
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六方井の右側には大き目のやぐらがあります・・・ご多分にもれず物置となっておりますが・・・
こちらにも井戸がある様で汲み上げポンプが設置されています・・・飲みはしないと思いますが多分現役で使用されてるんではないでしょうか?
しかし、この六方井・・・思ってた以上にちゃんとしたスポットでした・・・胡散臭さは別として井戸に関する説明もちゃんとあるし・・・いかんせん場所が分かりにくいのは否めませんが、黄金やぐらに道標を作るならこちらに作った方がいいのではないかと? |
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さてさて先程の説明にあった蛇形の井(じゃぎょうのい)でありますが、山ひとつ向こうの妙本寺蛇苦止堂の境内にあります・・・蛇形井から六方井まで直線距離で300m弱です・・・この間を主の蛇が行き来していたんですね!?
こちら側には説明等はなく『蛇形井』と刻まれた石柱が建っているだけです・・・井戸の横に湿地の様な池がありますが、こちらから蛇が出てきた方が雰囲気あるんだけどなぁ・・・
ここ妙本寺が建つ谷戸は比企ヶ谷と呼ばれています・・・
その名の通り、比企一族が住んでいた場所であります・・・比企尼は頼朝の乳母であり、その息子(猶子)の能員が家督を継ぎ、能員の妻が頼家の乳母になり、その娘の若狭局が頼家の妻となり嫡子の一幡を産んでいます・・・
この様に比企氏は将軍家と強い関わりを持っていました・・・
同じく千幡(実朝)を擁す北条氏・・・起こるべくして起こります・・・権力争いが・・・
建仁3年(1203)8月27日、頼家の病状が悪化する中で総守護職と関東28ヶ国の地頭職を一幡に、関西38ヶ国の地頭職を千幡に譲るという措置がとられました・・・頼家は長子である一幡に全てを譲る意向を示していましたが、それに因る比企氏の勢力拡大を阻止しようと北条時政がとった措置でした・・・
同年9月2日、この内容に納得のいかない比企能員は病床の頼家を訪れ、事の次第を話し後々の争いを避ける為に北条時政を討つべきだ・・・と訴え、頼家もこれを許可します・・・
でもでも・・・この話を障子の向こうで盗み聞きしていた人物がいました・・・
尼御台所こと北条政子です・・・政子ホント怖ぇ・・・
早速政子は父である時政に使いを出します・・・事の次第を知った時政は大江広元に相談しますが、武力闘争に関しては口出ししないので勝手にやってくれ的な事を言われます・・・
名越に戻った時政はもう一度広元を呼び出し、長時間に渡り相談した様です・・・呼び出された広元は死も覚悟していた様ですが、一体何を話し合っていたんでしょうか・・・気になりますね・・・
時政は名越の自邸へ能員を呼び出して殺害する事にしました・・・頼家の病気平癒の為に彫らせた薬師如来の開眼供養を名目に・・・
当然能員も時政に疑いを持っていましたが、武装した多くの家来を共に連れて行くべしと唱える親者を抑え、それではかえって疑いを抱かせるし鎌倉中を混乱させてしまうとし、供2人と雑用5人だけを連れて向かう事にしました・・・
時政邸に着いた能員は門脇から飛び出した天野民部入道蓮景と新田四郎忠常に竹藪の中に引きずり込まれ殺されてしまいました・・・
知らせを聞いた比企一族は小御所(一幡の館)に籠って防戦の体制を整えますが、北条政子の命で押し寄せる大軍を前にして、終に屋敷に火を放ち一幡の前で自決します・・・一幡もこの戦禍を免れる事は出来ませんでした・・・
享年6才・・・大人達の権力争いに巻き込まれた悲しい生涯です・・・
比企氏の嫡男与一兵衛尉は女装して逃げようとしましたが斬り殺されました・・・かっこ悪ぅ・・・最期が女装姿って・・・
この戦乱は14:30に始まり16:00に終結した様です・・・また夜になり能員の舅の渋川刑部丞が処刑されています・・・
以上が【吾妻鏡】にみえる比企の乱当日のあらすじです・・・比企氏を滅ぼした軍勢には畠山重忠、和田義盛、三浦義村もいました・・・この時彼等一族も後々北条氏によって滅ぼされるとは思いもしなかったでしょうね・・・
翌日、比企氏に縁のある者を探しだし流刑や死罪にしていますが、妻や妾、そして2才の男児(能員の末子)は和田義盛に預けられて安房に流されました・・・この男児が大学三郎能本(受験生には厳しい名前です)となり日蓮に帰依して妙本寺を建立するわけです・・・長興山妙本寺といいますが長興は父能員の法号、妙本は母の法号からとっています!
【吾妻鏡】では一幡は比企の乱で死んだとしていますが、【愚管抄】、【北条九代記】では11月3日に捕まえて処刑されたとあります・・・どっちが真実なんでしょうか・・・う~む・・・
さてさて、危篤様態から復帰し何故か元気になってしまった将軍頼家、起きたらビックリですよね・・・
息子(一幡)も嫁さん(若狭局)も嫁さんの一族も死んでんですから・・・当然怒ります!
9月5日、北条なにしとんねんって感じで和田義盛と新田四郎忠常に時政を討つ様に命令します・・・
しかし義盛はこの事を時政に報告し、頼家の使いは殺されてしまいます・・・
9月6日、新田四郎忠常は時政に呼び出されました・・・でもこれは比企能員を討った事に対して褒賞を与えるためで、頼家から時政を討つよう命令された忠常を殺す目的ではありませんでした・・・
陽が落ち暗くなっても時政邸から出て来ない忠常・・・もしや!?と思った供の者がこの事を忠常の弟の五郎、六郎に報告します・・・将軍の密命が時政にバレて兄は殺されたに違いない!と思った弟達は復讐とばかりに北条義時を襲います・・・五郎は討ち死に、六郎は御所に火を放って自害しました・・・この煙を見て何事か?と、御家人たちがワラワラと集まって来ます・・・
そんな中やっとこさ時政邸から出て来た忠常・・・帰り道に事の次第を聞き及び・・・
『これはもう自分も命を捨てるしかないな・・・』と考え御所に向かう途中、加藤次景廉に討たれました・・・
9月7日、頼家は病気もあり源氏の長としては荷が重いだろう・・・という理由から政子の計らいで不本意ながら出家する事になります・・・
9月15日、京から征夷代将軍任命書が届き、千幡(実朝)が将軍になりました・・・
9月29日、頼家が鎌倉を追い出されて伊豆修禅寺に行く事になります・・・北条時政、大江広元の考えです・・・
11月6日、修禅寺の頼家から手紙が届きます・・・内容は暇過ぎるから以前側に仕えていた者をこちらに寄越せ、それと安達盛長を勘発するからこっちに渡せ・・・という物でした・・・
どちらも却下です(笑)・・・おまけに頼家は以後鎌倉へ手紙を出すのも禁止されてしまいます・・・ひでぇ~・・・
その後は皆さんの知る通り翌年の7月18日に殺されてしまいます・・・
【愚管抄】では、
『頸ニ緒ヲツケ フグリヲ取リナドシテ コロシテケリト聞ヘキ』
と、頼家殺害の様子が書かれていますが、『フグリを取り』って・・・タマタマを握ったって意味なんでしょうか?
それとも切り取ったのか?・・・蹴鞠ばっかやってた頼家ですが、まさか最期の最期に自分のタマタマを取られるとは思いもしなかったでしょうね・・・いやむしろ本望なのか・・・
入浴中に首に縄まかれてタマ握られて・・・真剣に絵を想像すればする程に笑ってしまうのは自分だけなのでしょうか?
当事者は必死なんでしょうけど・・・頼家強かったって書いてあるし・・・というか途中から頼家の扱い本当にヒド過ぎますよね(笑)・・・一応将軍なのに・・・
で、この比企の乱から時代は過ぎて・・・ココからが本題です・・・
文應元年(1260)10月15日
相州(政村)の息女邪気を煩い今夕殊に悩乱す。比企判官の女讃岐の局の霊祟りを為すの由 自託に及ぶと。件の局大蛇と為り 頂に大角有り。火炎の如き、常に苦を受け当時比企谷の土中に在るの由発言す。これを聞く人身の毛を堅くすと云々。
政村の娘が讃岐局(比企能員の娘)の霊に取り憑かれた様です!どうやら讃岐局は大蛇となり比企ヶ谷の土中にて常に苦しんでいる模様・・・讃岐局と若狭局は同一人物とみる説が多いです・・・一応そうして置きましょう・・・
同年11月27日
今日 相州(政村)一日経を頓写せらる。これ息女邪気に悩む。比企判官能員の女子の霊託に依り彼の苦患を資けんが為なり。夜に入り供養の儀有。若宮の別当僧正を請じ唱導と為す。説法の最中
件の姫君悩乱し 舌を出し唇を舐り 身を動かし足を延ばす。偏に蛇身の出現せしむに似たり。聴聞の為霊気来臨するが由と。僧正加持せしむの後 惘然として言を止む。眠るが如くして復本すと。
何とか政村の娘は正気を取り戻した様ですね・・・良かった良かった!・・・とまぁこんな感じです・・・
その後、政村により蛇苦止堂が建てられたと言われています・・・大学三郎能本が建てたという説もありますが・・・
もし六方井について【吾妻鏡】がちょっとでも触れるとしたらココらへんしかないと思うんですが・・・
何も書かれていませんね・・・案内板の鎌倉子ども風土記はいいとして、【吾妻鏡】は結局何だったんだろうう?
まぁ細かい事はいいか!
なんたって、いつ誰が掘ったかはっきりしませんが、弘法大師の作ったものだといわれている井戸ですから(笑)
この際、弘法大師じゃなくて行基でもええんでないかい?・・・ついでに主の蛇を退治した事にしとこうよ! |
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ちなみに妙本寺境内二天門を潜って右側には
一幡君袖塚があります、その後方階段を登った所に市指定天然記念物のイチョウの大木があり、その根元に
讃岐局蛇苦止霊之墓という物があります・・・
死してなお、我が子を後ろから優しく見守る母親・・・
親子の絆を感じさせ、何かホッコリした気持ちになる風景であります・・・
まぁ、若狭局=讃岐局と断言は出来ませんけど・・・ |
階段を降りて右側には比企一族の墓もあります・・・ナ~ム~・・・
ちなみに写真のデッカイ五輪塔は前田利家の正室まつ、または側室千代の供養塔であると伝わっています・・・
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おしまい |