ブログ 捨聖タイトル
File.083 
宗派 開祖 中心的寺院
浄土宗 法然 知恩院
浄土真宗 親鸞 東・西本願寺
時宗 一遍 清浄光寺
日蓮宗 日蓮 久遠寺
臨済宗  栄西 建仁寺・建長寺
曹洞宗  道元 永平寺
平安時代末期から鎌倉時代にかけて新たに興った宗派を総じて鎌倉新仏教と呼ぶ・・・というのは日本史の授業でやったと思います!・・・懐かしいですね・・・

この6宗派は新たに台頭して来た武士階級や農民などにも広く浸透して行きました・・・

臨済宗なんかはちょっと敷居が高い感じもしますが、金が無いと厳しいそれまでの貴族仏教や厳しい修行を必要とするそれとは違い、貴賤問わず、基本誰でも救いを求める事が可能であった事が特に一般庶民に受け入れられた理由であると思います・・・
ひとくちに鎌倉新仏教といっても、その性格は様々で、それぞれに特徴があります!
浄土宗、浄土真宗、時宗『南無阿弥陀仏』と唱えれば極楽往生できるという完全他力本願系・・・

日蓮宗
は法華経至上主義の天台系過激派集団(笑)、題目(南無妙法蓮華経)を唱える事で救われるとしています!

そして臨済宗、曹洞宗は極楽往生とかそーゆーんじゃなくて、ひたすら座禅して自分と向かい合い、悟りの境地に達する事を教義とする禅宗・・・
このひたすら座禅する事を『只管打坐(しかんたざ)』というらしいですが、鎌倉にある道元禅師顕彰碑にもその文字が刻まれています!・・・座禅はキツいなぁ・・・

鎌倉新仏教の中でも今回は、一番ホームレスっぽい一遍上人に焦点を当ててみようかと(笑)
他の宗祖はオーラ出まくりの肖像画やカッコいい銅像などが多いんですが、この一遍はなんというか・・・
だらしなく汚い様相で表現されている物が多いです・・・
【踊り念仏】、【一遍上人絵伝】など、これまた日本史の授業で誰もがマストで耳にする物ですが、一遍の人物像についてはどーでしょう?・・・汚いオッサン?・・・そーですね(笑)・・・では今回はそーゆー事で終わりにしましょう・・・

結論・・・一遍は多分臭かった!・・・以上!
おわり

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いやいやいや!・・・いくら汚らしいからって、それではあまりにも可哀想過ぎます・・・一遍泣きますよ(笑)
【一遍上人絵伝】にちょうど彼が鎌倉を訪れた時の事が描かれていますので、ちょこっとだけ見てあげましょうよ!

その前にどんな人物だったのか軽く知って置いた方が分かり易いと思います・・・
2012年5月12日に公開されたこの映画を見ましょう!
【一遍上人】・・・って、まんまの題名ですね(笑)
この映画を観れば彼の全てが分かる・・・かどーかは知りません・・・自分は観てないんで(笑)

主演:ウド鈴木って・・・何で?
何か笑っちゃうんですけど・・・シリアスならシリアスなだけ笑ってしまいそうなのは自分だけでしょうか?
どーせならもっと汚い芸人を起用すれば良かったのでは?
何かイメージ違うんだよなぁ・・・まぁ、観ないんでどーでもいいんですけどね・・・
汚い汚い言ってますが、一応彼は伊予(愛媛県)松山の豪族、河野水軍の河野家の出身であります・・・
『一遍』というのは坊号で俗名は河野時氏、通秀、通尚などありますが定かではありません!

治承4年(1180)、源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、一遍の祖父河野通信はこれに呼応して蜂起しました!
屋島の戦いでは義経に軍船を献上し源氏方として壇ノ浦へも参戦しました・・・
戦後は鎌倉の御家人となりましたが、承久の乱後鳥羽上皇側に付いた事で江刺郡に流されました・・・
一遍が生まれた頃にはその勢力はかなり衰退していた様です・・・
承久の乱については【今宮】のページで簡単に経緯を述べたと思いますので、そちらを参照して頂ければと思います!
ちなみに通信の奥さんは北条政子の妹だったかな?・・・多分・・・調べるのメンド臭いのでテキトーに流します(笑)
気になる方はお手数ですが、ご自分でお調べになってちょんまげ・・・

通信の墓(聖塚)は【一遍上人絵伝】にも描かれており、それは現在も岩手県に残っています・・・
まさに一遍が通信の墓を訪れた時のシーンそのまんまに・・・

一遍は10歳の時に母の死に無常を感じ、父別府(河野)通広の勧めで出家します・・・
13歳の時に大宰府に移って法然の孫弟子の聖達の下で浄土宗を学びました・・・
そして25歳の時、父が亡くなったので家督を継ぐ為に還俗し伊予で豪族武士として過ごしました・・・

しかし、32歳で再び出家・・・善光寺へ行きます・・・
そして帰郷後は窪寺に庵を結び修行して【十一不二の偈】を得ます・・・これは、要は、
『常に臨終の時と思って念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続ければ極楽往生出来る』・・・って意味らしいです!

十一不二の偈を感得した一遍は、妻、娘、弟子の3人を連れて伊予を離れ、四天王寺高野山を訪れます・・・
空海(弘法大師)のマネ事がしたかったんでしょうか?
とにかく、ココでも阿弥陀仏の霊夢により一遍は【神勅の偈】なる物も得たんだそーです(笑)
神勅の偈とは字名号一遍法、界依正一遍体、行離念一遍証、中上々妙好華』の4句からなる物だそうで、それぞれの頭文字をとると『六十万人』となります・・・
一遍はこの六字名号を記した念仏札を配りまくったそうです!

そして熊野本宮に向かう道中、ある出来事が起こります・・・結構重要なシーンです!

一遍は2人の女性と3人の従者を従えた僧に出会いました・・・そしていつも通りに念仏札を手渡そうとしました・・・

『一念の信を起こし、南無阿弥陀仏と唱えてこの札をお受けなさい』・・・と、一遍が言うと、
『一念の信心が起こりません・・・今、その札を受け取れば嘘になってしまいます』・・・と、僧が返しました!

『何故お受けにならないのですか?・・・仏を信じる心が無いのですか?』・・・と、一遍が問うと、
『教えを疑っている訳ではありませんが、信心がどうにも起こらないのです』と、僧が答えます・・・

周りにはこのやり取りを見ている多くの人がいました・・・ココで僧が念仏札を受け取らなかったら、それを見ていた他の人達も受け取らなくなってしまうと思った一遍は、
『たとえ信心が起こらなくても受けなされ』・・・と不本意ながら無理やり僧に札を渡しました・・・

この出来事は一遍を大いに悩ませたそうです・・・それまで断られた事なんて無かったそうですから・・・
今後、また同じ様な事態に遭遇したらどー対処すればいいのやら・・・

熊野本宮に到着した一遍は、自分の今までの布教の在り方は間違っていたのか?・・・などと悩みます・・・
そんな時、御殿で多くの山伏を従えた白髪の山伏に遭遇します・・・
『あれは山伏姿であらわれた熊野権現に違いない!』・・・と、思った一遍が一心に拝んでいると、その山伏が近付いて来て一遍に言いました、
『一切衆生の往生は阿弥陀仏により既に決定されているのだ・・・よって信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るべし!』

一遍が目を開けると、子供が100人くらい来て一遍の札を手に取り、
『南無阿弥陀仏』と唱え、どこへなりと行ってしまいました!

【一念の信を起こし】ってのは必要ないって事ですね・・・全ての衆生は阿弥陀仏によって極楽往生が既に決まっているのだから、お前は無理強いしないでただ札を配ればいい・・・浅い様で意外と深いですねぇ(笑)

この出来事を【一遍成道】の時とし、時宗開宗の年(文永11年:1274)であるとされています!
それと、この時に名を一遍と改めました!・・・今まで一遍一遍といってきましたが、ココでようやく一遍の誕生です!
10歳で出家した時は随縁・・・聖達の下で学んでいた時は智真といいました・・・

何はともあれ、一遍は熊野を発ち、信不信を選ばず、貴賤男女を問わず、念仏札を配りながら諸国行脚しました!
そして弘安2年(1279)、信濃の佐久で【踊り念仏】が誕生します!
なんでも念仏を唱える喜びに人々が踊り出してしまったんだそうです!
これは一種のトランス状態になり、阿弥陀との距離を縮める効果もあるんだとか・・・
ともかく、晴れて念仏ダンサーズ結成です!(笑)

寺などは建てず、踊り念仏賦算(札配り)による布教を行いながら全国を巡りました・・・
行脚中に一遍は『南無阿弥陀仏 決定往生六十万人』と書かれた念仏札を251.000余枚配ったそうです・・・
16年間行脚していますから251.000枚÷5.840日(365日×16年)とすると、一日当たり約43枚・・・
ティッシュ配りのバイトの方が大変そうですね(笑)

そして、正応2年(1289年)、摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没しました・・・享年51歳・・・ナ~ム~・・・

とまぁこんな感じですが、死因は歩き過ぎって説があります(笑)・・・過労と栄養失調だってさ・・・
何だか切ないのぉ~・・・
内山峡1 内山峡2
上の写真は踊り念仏が生まれたとされる佐久にある内山峡です!
数年前に友人といった時に撮った物です・・・行ったといっても車を停めて写真撮っただけですけど(笑)

内山峡は滑津川沿いに3kmに渡って、屏風岩、ローソク岩、ナポレオン岩などの変な名前の付いた岩山が並ぶ奇岩群ですが、どれがどれなのか良く分かりませんでした・・・どーでもいいんですけどね・・・

それより写真の矢印部分をズームしてみると、なんと崖っぷちに塔が建っているではないですか!
これは怖いなぁ・・・建てた人凄いなぁ!・・・物好きな人もいたモンですね・・・
見てるだけでキ〇タマがキュンキュンして来ますよ(笑)

と、そろそろ【一遍上人絵伝】の話を始めましょうか!
【一遍聖絵】(いっぺんひじりえ)ともいわれますが、一遍の死から10年後(1299)に作られた絵巻物です!
一遍の弟子の聖戒(弟とも甥ともいわれています)が詞書を起草し、絵は画僧の円伊が担当しました・・・
全12巻で、一遍の諸国行脚の様子が描かれています・・・
当時の様子を知る上での貴重な史料であり、国宝でもあります!

一遍が鎌倉を訪れた時の事は第5巻に描かれています!・・・早速見てみましょう!
逗子市の図書館に【一遍上人絵伝】という大型本がありました・・・さすがに借りて持って帰る気にはならないデカさでしたが、絵も詞書も全て収められているのでお勧めです・・・何よりデカくて絵が見易い!

親切に原文と現代語で説明してくれてます!(注:下の2枚の絵は繋がっています、時系列は右から左へ・・・)
一遍上人絵伝1
【鎌倉に入り執権北条時宗に会う】
弘安5年(1282)の春、一遍は鎌倉入りを決意した。ここは、幕府のある町、町に入るにも特定の作法があった。
が、一遍はそんな事には無頓着であった。いよいよ3月1日、一遍は小袋坂を通って鎌倉入りをした。
これは鎌倉の鶴岡八幡宮近くの若宮大路の路上あたりであろうか。
執権北条時宗の出御とあって、道は掃き清められている。

道の両側には民家が軒を連ねている。いずれも板屋根ばかりである。上蔀(あげじとみ)や網代の腰壁、さすが、鎌倉の町並みを思わせるものがある。
騎馬の武者が執権の一行に遅れじと、蹄を蹴立てて追いすがる。

【一遍と北条時宗の出会い】
道の両側には、さまざまの形の民家がみえる。が、いずれも戸を固く閉ざして人影がみえない。
わずかに、画面左上の木戸に沿う店に女の顔がのぞいている。
路傍では白い被衣姿の女、後ろから大きな包みをささげながら従う小女。
市女笠の2人がいずれも路上の出会いをながめている。

馬上、白の狩衣に折烏帽子をかぶる小太りの男が北条時宗である。
傍らに一騎の騎乗武士。口取りや従者を引き具している。
一遍の一行を見とがめた時宗は、扇で一遍のほうを制止している。

一方、一遍を先頭に人々はぞろぞろと大路の上を渡って行く。はるか後ろの木戸の外、道を制する小舎人が非人乞食を鞭で追い払っている。
ところで、時宗と一遍。初対面ながら、念仏の勧進にかける執念に燃える一遍は、丁々発止と会話を交わしている。
馬上を見上げる一遍の真剣な眼差しに、時宗は一瞬ひるんだ。
こいつ、なかなか手ごわい坊主だな、と。
一遍上人絵伝2
画面の右手は、小舎人に追われる旅人が、一目散に逃げ出すところ。
中央に山を描き、立ち木や霞の海で画面を二分し、時間の経過を示している。

詞書によれば、
『よりてそのよは、山のそば、みちのほとりにて念仏したまひけるに、かまくら中の道俗雲集して、ひろく供養をのべたてまつりけり』という。これはそのありさまを描くもの。
山中に野宿を決めた一遍の一行を訪ねて、鎌倉じゅうの僧俗の人々が食物を運んできた。
大きな荷唐櫃にさまざまな料理を盛っている。飯や汁の分配がすでに始まっている。
大松明を立てて明かりとしているが、つぎつぎに行器(はかい)をかつぎ込む男、頭に食物の入った檜桶や箱を運ぶ女たちが詰めかけている。
時ならぬ振る舞いに、一遍も従僧たちも大喜び、すっかり疲労を回復して、人々の顔にほおえみが浮かぶ。

【詞書 原文】
弘安五年の春、鎌倉にいりたまふとて、ながさごといふところに、三日とどまりたまふ。
聖のたまはく、鎌倉入りの作法にて化■の有無をさだむべし。利益たゆべきならば、是を最後と思べきよし時衆にしめして、三月一日、こぶくろざかよりいりたまふに、今日は太守山内へいで給事あり、このみちよりはあしかるべきよし、人申ければ、聖思ふやうありとて、なをいりたまふ。
武士むかひて制止をくはふといへども、しゐてとをりたまふに、小舎人をもて時衆を打擲して、

『聖はいづくにあるぞ』とたづねければ、『聖、ここにあり』とて、いでむかひ給に、武士云、

『御前にて、かくのごときの狼藉をいたすべき様やある。汝徒衆をひきぐする事、ひとへに名聞のためなり、制止にかかへられず乱入する事、こころえがたし』と云。聖こたへたまわく、

『法師にすべて要なし、只人に念仏をすすむるばかりなり、汝等いつまでかながらへて、かくのごとく仏法を毀謗すべき。罪業にひかれて冥途におもむかん時は、この念仏にこそたすけられたてまつるべきに』とのたまふ。

返答なくして二杖うちたてまつる。聖は不捨怨増由大悲なれば、さらにいためる色なし。
有識合霊皆普化なれば、ひとへに結縁をよろこびてのたまひけるは、

『念仏勧進をわがいのちとす。しかるをかくのごとくいましめられば、いづれのところへかゆくべき。ここにて臨終すべし』とのたまふに、武士、『鎌倉の外は御制にあらず』とこたふ。

よりてそのよは、山のそば、みちのほとりにて念仏したまひけるに、かまくら中の道俗雲集して、ひろく供養をのべたてまつりけり。
昔達磨の梁をいで、孔子の魯ををはれしも、人の愚にあらず。国のつたなきにあらず。ただ、時のいたるといたらざるとなり。
しかあれば、今このひじりも人つゐに帰して、貴賤ここにあつまり、法いよいよひろまりて、感応みちまじはりけり。

と、こんな感じです・・・
何か初っ端から『え?』って感じの説明が(笑)
『これは鎌倉の鶴岡八幡宮近くの若宮大路の路上あたりであろうか』ってありますね・・・

んなわけねーべよ!・・・一遍北条時宗は小袋坂の木戸の所で遭遇したんでしょ!?
つーか若宮大路ってもう鎌倉入ってるじゃんか!・・・鎌倉のド真ん中やで!(笑)

現在の北鎌倉駅前の交番の所からバス停までの間に石垣があるのは御存知かと思います・・・
特に気に留めない人もいれば、これは何の石垣なんじゃ?・・・と思った人もいらっしゃると思います!
この石垣は当時の円覚寺境内の南端って事らしいです!・・・現在は道路が造られ車がひっきりなしに通り過ぎる道となっていますが、以前は交番の所とバス停の所に木戸があり、庶民や牛馬は石垣の南側の道を通って鎌倉へ入ったそうです・・・ちなみにその道は『牛馬の道』といわれていました!

関東大震災で倒壊するまでは木戸はあり、倒壊後もその柱は交番の前に記念として残されて案内板も立っていたそうですが、現在はありません!・・・要は木戸は関所でもあった訳です!
つー訳で、一遍はこの辺りで杖で2回叩かれて追い出されたんでしょう・・・
北条時宗が通るって事で好ましからざる者として叩きだされたって事です・・・見た目は乞食ですからね(笑)
ダンボールが超似合いそうだなぁ・・・
一遍上人絵伝3 一遍上人絵伝4
ズーーーム!、更に倍率ドン!・・・こんな訳の分からない連中追い出すに決まってんでしょ(笑)

『馬上を見上げる一遍の真剣な眼差しに、時宗は一瞬ひるんだ。こいつ、なかなか手ごわい坊主だな、と。』
ってありますけど・・・北条時宗はこんな奴にひるんだのか?
主観入れ過ぎで脚色した説明はやめて欲しいなぁ・・・無理に盛り上げなくても普通に現代語にして頂くだけで十分です!
つーか馬の前にいる奴シャクレてんなぁ・・・
一遍はシャクレてるってゆーか、汚いってゆーか・・・もう、ぬらりひょんレベルじゃないかコレ?
人の顔じゃないですよ!・・・【一遍上人絵伝】じゃなくて【妖怪道中記】じゃないのか?(笑)

左手に握りしめてるのは配ってる様で、それほど配ってなかった噂の念仏札でしょうか?
つーか北条時宗が持ってたの扇だったのね・・・アリアハンの王様から貰ったひのきのぼうかと思ってたよ・・・
妙に短いなぁとは思ったけどさぁ・・・小舎人の鞭は間違いなくひのきのぼうだな!(笑)

そんなこんなで鎌倉に入れなかった一遍は野宿する事になりました・・・
絵にも皆で飯食ってる場面が描かれていますね・・・でもダンボールで寝床を造ったシーンが無いですねぇ・・・
で、この野宿した場所なんですが・・・現在光照寺が建っている辺りだったとの事です!
光照寺は時宗の寺ですが、一遍が野宿をした場所である事を示す物は何もありません・・・

より大きな地図で 一遍の鎌倉入り を表示
翌3月2日に一遍は片瀬へ向かっています!・・・江ノ島が描かれていますので気になる方は図書館へ行きましょう(笑)
一応現代語の説明と詞書だけ載せて置きますね!

【片瀬の御堂で奇瑞を現す】
弘安5年(1282)3月2日、鎌倉の先、片瀬の館の御堂で、一遍は断食の行に入っていた。
願行上人の門弟で上総の生阿弥陀仏という人が訪ねてきて、6日の朝、往生院に迎えて、1日1夜ここに宿った。
ついで、翌7日の日中に、片瀬の浜の地蔵堂に移って、ここに数日止住した。
貴賤道俗雨や雲のごとく集まって、一遍の念仏法門を聴聞した。

3月の末になると、この道場のあたり一帯に紫雲が立ちこめ、虚空から散華が降りそそいだ。
この奇瑞に驚いた人々は口々に一遍に問いただした。一遍はただひと言、

『花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え』とやんわりとかわした。

詞書には、このあとにもさまざまな奇瑞譚を述べている。

だそーです・・・
『花のことは・・・』のフレーズは有名です・・・さっき貼った映画の予告にも出て来ましたね!
願行上人は今まで自分が記して来たFileの中でも度々登場しています!
大楽寺(廃寺)に於いて、大山の不動明王像を造った僧です!・・・その試作品として造った物が、現在の覚園寺に安置されている『試みの不動』といわれている像です!・・・また、理智光寺(廃寺)の開山とも伝わっています!

【詞書 原文】
弘安五年三月二日、かたせの館の御堂といふところにて、断食して別時し給に、願行上人の門弟、上総の生阿弥陀仏来臨して、十念うけたてまつりて、六日の明日、往生院へ招請したてまつり、一日一夜侍りけるに、又、御使あるによりて、七日の日中に、かたせの浜の地蔵堂にうつりゐて、数日ををくり給けるに、貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集す。
同道場にて、三月のすゑに紫雲たちて、花ふりはじめけり。そののちは、時にしたがひて連々この奇瑞ありき。
人うたがひをなして問たてまつりければ、

『花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ。一遍しらず』とぞ仰られける。聖哥云、

さけばさき ちればをのれと ちるはなの ことはりにこそ みはなりにけれ

はながいろ 月がひかりと ながむれば こころはものを おもはざりけり

柳あまねく先規をとぶらへば、道綽禅師念仏せしかば、空中に化仏あらはれ、天花ふりくだる。その色鮮白にして、あまねくそらにみつる名号、金色に変ずる事、予洲にこれあり。

そして同年の7月16日、一遍は京を目指して片瀬を出発!・・・取り敢えず三島神社に寄ったみたいでした!
三嶋大社1 三嶋大社2
上の写真は数年前に三嶋大社を訪れた時に撮った物です・・・1月6日だというのに境内は人で溢れ返り、かなりの賑わいを見せていました・・・駐車場は幅が狭くてドア開けらんなかったし(隣りの車がデカかったので)、一気に自分が行きたくない神社ランキングの上位に食い込みました!

ホントに人多過ぎ・・・正月だけ来よってからにぃ・・・分かってはいたけどココも平日以外はダメな神社だな・・・
車から降りれねぇってどーゆーこっちゃ!(笑)・・・もうちょい駐車スペース取って欲しいッス・・・
三嶋大社3 三嶋大社4
三嶋大社名物の福太郎です!・・・正月は露店も出る様ですね・・・友人が吸い込まれる様に行ったと思ったら買わされてました(笑)・・・自分は露店のステーキ串を堪能・・・不味かったけど美味かった・・・
やっぱ雰囲気なのかな?・・・リンゴ飴効果か?・・・不味いって分かってても何故か買ってしまうみたいな・・・
そして自分に無理やり美味いと思い込ませる・・・みたいな・・・ね?・・・

【一遍上人絵伝】は聖戒が自分が一遍の正当な後継者であるという事をアピールする為に作ったともいわれています!
一遍は『遊行上人』『捨聖(すてひじり)』などとも呼ばれました・・・

藤沢市には遊行寺というお寺があります!・・・藤沢の地名の由来となる寺です!
正式には藤沢山無量光院清浄光寺といいます!・・・時宗の総本山で、【一遍上人絵伝】もココが所蔵しています・・・
清浄光寺といっても分からない地元民も多いと思います・・・遊行寺の通称が完全に浸透してしまっているので・・・
交差点名も『遊行寺』ですしね(笑)・・・宝物館には一遍の汚い服なども展示されていますよ!

この寺のホームページに『遊行上人』についての説明がありました!

遊行上人と遊行寺
遊行寺は時宗の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。 一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。その志をつぎ遊行を代々相続する方を遊行上人とお呼びします。その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。
遊行四代呑海上人は正中2年(1325)に、もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが遊行寺のはじまりです。遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、遊行をやめて「藤沢山・遊行寺に独住された上人を藤沢上人といいます。そして現在では一人の上人が "遊行上人"と"藤沢上人"の両方を兼ねておられます。

遊行上人一遍という使い方だけじゃないんですね・・・ふ~ん・・・
今までは単に一遍の通称なのかと思っていました・・・遊行上人は相続されるのか・・・
現在は1人が遊行上人と藤沢上人を兼任しているって言ってるけど、遊行をやめて遊行寺に入った人を藤沢上人って呼ぶってシステムから考えるとそれは不可能な話ですよね?(笑)

ちなみに【時宗】ですが、そー呼ばれる様になったのは江戸時代以降で、それ以前は『時衆』と呼ばれていたそーです!
一遍も新たに宗派を立ち上げるという気は無かった様ですし、ウォーキングが楽しくてしょーがなかったんでしょうね!

時衆ってのは一遍の教えに賛同して従った者達を指す様ですが、宗教そのものも指していたんですね・・・
また遊行寺のホームページになりますが面白い事が書かれていました・・・

時宗とは
時宗は、七百年の昔、一遍上人がお開きになった念仏宗であります。中国の唐の時代に善導大師が念仏の教えをさかんにされました。 平安末期になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて、浄土宗を開かれたのです。
一遍上人は、浄土宗の一流、西山派祖證空上人の孫弟子に当ります。
一遍上人のはじめられた宗派を、なぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。

善導大師は弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も證空上人も一遍上人もそれにしたがいました。
一日を六時(四時間づつ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。
これを時間毎に交代します。
また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を修行しました。これも時間ごとに交代します。
その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。
この言葉は他の宗派では、次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、「時衆」がこの教団の呼び名になりました。徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。

時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。この名号を、つねに口に称えて仏と一体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びに満ちた毎日を送り、やがては清らかな仏の国(西方極楽世界)へ生れること(往生)を確信する教えであります。

時宗の教えは、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に拠っています。これを浄土三部経と申します。
歴代の上人が、これらの経典に説かれている、念仏の教えをひろめるために、広く全国を巡るのを遊行(旅をしながら教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。
遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです

『時の衆』から『時衆』・・・面白い説ですね・・・
とにかく『時宗』という文字が文献に初めて登場したのは寛永10年(1633)の【時宗藤沢遊行末寺帳】だそーです!

一遍の死後に自然消滅した時衆を再結成した他阿(二祖上人)を実質的な開祖とする見方もあるよーです・・・
他阿なんて名前初めて耳にしました(笑)・・・へぇ~・・・

熊野本宮で一遍が諭されたのを始め、熊野信仰と時衆は深い関係にあります!
実際熊野信仰は時衆の手により広く庶民までその信仰の幅を広げて行った事実もあります!
熊野本宮の主祭神である家津美御子大神(けつみこのおおかみ)の本地は阿弥陀如来ですしね!

パワースポットとしても有名な熊野本宮旧社地である大斎原(おおゆのはら)は、現在の熊野本宮とは道路を挟んだ向かい側にあります!
数年前にダム巡りのついでに熊野本宮に行ったって話は【称名寺】のページでさせて頂いたと思います!
行ったというかお参りはしてないんですけどね・・・大斎原だけを軽く散策して次のダムへ向かいました!(笑)
大斎原には【一遍上人神勅名号】なる物があって、デカい石碑に『南無阿弥陀仏』と刻まれているんだそーです!
いわれてみると、30m以上あるバカデカい鳥居を潜って進んだ先の広場にそんなのがあった様な気もします・・・
次のダムの事ばかり考えていたのであまり記憶にはありませんけど(笑)

今回【一遍上人絵伝】の鎌倉のシーンを紹介させて頂きましたが、いかがだったでしょうか?
自分もじっくりと見るのは初めてだったんですが、一遍の足取りを前もって知って置くと面白さは倍増すると思います!
ホントに貴重な史料だと思います!

鎌倉市には自分が知る限り一遍の銅像は1体しかありません・・・藤沢市の遊行寺にもありますね!
どちらも裸足です!・・・だもんで自分は常に裸足で行脚していたのかと勝手に思い込んでいました・・・
そして、今回、絵伝を見てみると・・・なんと一遍が2枚歯の下駄を履いているではないですか!(笑)

裸足で全国行脚なんて凄ぇなぁ・・・と、感心していた自分は何だったんでしょう・・・
裸足姿の銅像は何のシーンなの?・・・遊行している姿なんじゃないの?・・・風呂場にでも向かってるシーンなの?
もし全国を遊行しているシーンだとしたら下駄履かせないとあかんやろ!
裸足の方がさすらってる感じがして絵面はいいかも知れないけど・・・嘘はあかん!

ホントのおしまい
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