鎌倉幕府3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に公暁によって殺害された事件は、歴史の授業でもやるので良く知られている事かと思います・・・
今回はその実朝の首塚が秦野市にある田原ふるさと公園の一角にあるとの事ですので、友人とドライブがてらに行ってみる事にしました・・・どんな代物なんでしょうか?
首塚を見る前に実朝殺害当日の様子はどうだったのか・・・取り敢えず【吾妻鏡】さんでおさらいして置きましょう・・・
建保7年(1219)1月27日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。・・・中略・・・
宮寺の楼門に入ら令め御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。
|
美談武者八景 鶴岡の暮雪(画:月岡芳年) |
その後随兵等宮中『武田の五郎信光先登に進む』に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。
或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍梨公暁父の敵を討つの由名謁らると。
これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾新六定景と子息太郎景茂・同次郎胤景等先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。遂に悪僧敗北す。
阿闍梨この所に坐し給わず。軍兵空しく退散す。諸人惘然の外他に無し。爰に阿闍梨彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉『阿闍梨の乳母子』を義村に遣わさる。今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わさる。
これ義村の息男駒若丸門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。
義村この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、先ず蓬屋に光臨有るべし。
且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆に告ぐ。
京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべきの由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。
阿闍梨は太だ武勇に足り、直なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇敢の器を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景『雪の下の合戦を遂げるの後、義村の宅に向かう』辞退すること能わず。座を起ち黒皮威の甲を着し、雑賀次郎『西国の住人、強力の者なり』以下郎従五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴くの刻、阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らんと擬す。
仍って定景と途中に相逢う。雑賀次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍う処、定景太刀を取り、阿闍梨『素絹の衣・腹巻を着す。年二十と』の首を梟す。これ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)、公胤僧正の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆の御亭に持参す。
亭主出居しその首を見らる。安東の次郎忠家指燭を取る。李部仰せられて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。
猶疑貽有りと。抑も今日の勝事、兼ねて変異を示す事一に非ず。所謂御出立の期に及び、前の大膳大夫入道参進し申して云く、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。
仲章朝臣申して云く、大臣大将に昇るの人、未だその式有らずと。仍ってこれを止めらる。
また公氏御鬢に候すの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称しこれを賜う。次いで庭の梅を覧て、禁忌の和歌を詠み給う。
出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
次いで南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀る。車より下り給うの刻、雄劔を突き折らると。また今夜の中、阿闍梨の伴党を糺弾すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃の国住人中野の太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭に具し参る。これ彼の受法の師たるなり。
ふぅ~長いなぁ・・・右京兆とは北条義時の事です・・・右京権頭の中国風な言い方かと思われます・・・
白い犬を見て急に気持ち悪くなり、剣持ち役を源仲章に代わってもらい難を逃れたという有名なエピソードですね・・・
その仲章は実朝とともに殺されてしまいます・・・
ちなみに白い犬の正体は覚園寺薬師堂の十二神将の内の戌神将との事です・・・
公暁は石段の脇から機を伺い実朝を斬り殺した様です・・・ |
|
|
あっさりとした表現ですね・・・もっと細かく殺害の様子が記されていると思っていました・・・
石段のどちら側から切りかかったんでしょうか?・・・有名な隠れイチョウがあるのは西側ですが、これは【新編鎌倉志】以降の創作ですからあてになりませんね・・・まぁどっちでもいいか・・・
そんな鶴岡八幡宮のシンボルでもある大イチョウですが、平成22年3月10日未明、強風に煽られポッキリと折れてしまいました・・・写真は倒れた部分を移植した物です・・・根っこは右側、階段脇に残っています・・・芽が出て小さな葉を付けていました・・・生命力の強さに感心させられます!
横には『がんばれ大イチョウ』と書かれた立札が・・・微笑ましいですね・・・何か大丈夫そうな気がします・・・
公暁は実朝の首を持って備中阿闍梨のもとへ行き、食事の際も首を手放さなかった様です・・・
そして自分を次期将軍にする様手配せよ、と三浦義村のもとへ使いを出します・・・
義村はこれを聞き、実朝の恩義を忘れていなかったので涙を流した様です・・・
しばらくして義村は、『私の屋敷に来て下さい。それと迎えの軍隊を向かわせます。』と公暁に伝えるよう使者にいいました・・・使者が立ち去った後、義村は義時へ使いを出しました・・・義時から躊躇せず公暁を殺すよう命令されたので、義村は一族を集めて会議をしました・・・公暁はとても武勇に長けた人物であり、容易くはいかず、さぞかし大変な事だろうと皆が議論していた所、義村は長尾定景を討手に選びました・・・
定景は辞退することが出来ず、座を立ち黒皮威しの鎧を着て、雑賀次郎と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけます・・・公暁は、三浦義村の使者が来ないので待ちきれず、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ向かいます・・・そして、途中で長尾定景と鉢合わせます、雑賀次郎は即座に公暁に組み付いて行きました・・・
そして二人が互いに争っている所、長尾定景がズバッと公暁の首を刎ねました(公暁は白い絹の着物に腹巻を着けてた様です。享年二十歳。)
腹巻といってもお腹を冷やさない様にするあれではなくて、ちょっとした鎧の様な防具だと思いますが・・・当夜は雪が二尺(60cm)も積もった様ですから普通の腹巻も欲しいですね・・・
この事件が起こる前から不吉な事が色々あった様です・・・大江広元の涙が止まらなかったり、南門を出る時に鳩が鳴きまくっていたり、車から降りる時に剣が引っ掛かって折れてしまったり・・・
又、宮内公氏が実朝の髪を梳かしていた所、実朝自ら髪の毛を一本引き抜いて、『記念だ。』といって渡しました・・・
そして庭の梅を見て縁起の悪い和歌を詠みます・・・
『出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな』
出て行ってしまったら主のいない宿になってしまうけれども、軒端の梅よ、春になったら忘れずに咲けよ・・・
実朝辞世の歌ですね・・・自分がもう戻らないという事を予兆させるかの様な歌です・・・
2日前にもこんな記述が見られます・・・
1月25日 丙戌
右馬権の頭頼茂朝臣鶴岡宮に参籠す。去る夜拝殿に跪き法施を奉るの際、一瞬眠る中一羽典厩の前に居す。
小童一人その傍らに在り。小時童杖を取り彼の鳩を打ち殺す。次いで典厩の狩衣の袖を打つ。奇異の思いを成し曙るの処、今朝廟庭に死鳩有り。見る人これを怪しむ。頼茂朝臣事の由を申すに依って御占い有り。泰貞、宣賢等不快之趣を申すと云々。
不吉ですねぇ・・・鳩が実朝、小童が公暁・・・みたいな・・・違うか・・・
とにかく、殺害の翌日、実朝は鎌倉の勝長寿院に葬られています・・・首は見つからなかったので胴体と公氏に与えた髪を埋葬したと【吾妻鏡】には記されています・・・
ちなみに実朝が勝長寿院の梅を見て詠んだ歌もありますよ!
『古寺の くち木の梅も 春雨に そぼちて花も ほころびにけり』
|
|
|
勝長寿院は頼朝が父である義朝の菩提を弔う為に建てた寺で、義朝の遺骨とその郎党である鎌田政清(政家)の首が埋葬されたと伝わります・・・現在その跡地には義朝と政清の墓と称して五輪塔が建てられています・・・
義朝は平治の乱で敗れ、落ち延びる最中に政清の舅である尾張国野間内海荘領主長田忠致の館に辿り着き身を寄せる事にします・・・
しかし忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害されてしまいます・・・政清も酒を飲まされ殺されました・・・
義朝はこの時『我れに木太刀の一本なりともあれば!』・・・と無念の言葉を残した様です・・・
これにちなんで墓前に刀が奉じられているんだと思います・・・義朝の最後はどんなだったんでしょうか?
風呂桶投げたり、お湯をバシャバシャとかけたりして抵抗したんでしょうかね?
文治元年(1185)8月30日、後白河法皇から義朝と政清のしゃれこうべが届き、頼朝はそれを受け取りに片瀬川のほとりまで赴いています・・・また後年、政清の娘が追善供養を行った事も【吾妻鏡】に記されているので、二人の遺骨がココに埋葬されたというのは事実と見ていいと思えます・・・」
現在の愛知県知多郡美浜町にある鶴林山無量寿院大御堂寺、通称『野間大坊』にも義朝の墓があり、その宝篋印塔の周りには夥しい数の木刀が奉じられています・・・ちなみに鎌田政清夫妻の墓もあります・・・
鎌倉の物よりもずっと立派です・・・
開基は役小角、中興は行基・・・どちらも胡散臭い人物ですね(笑)
野間大坊では『源義朝公御最期の絵解き』と題して、寺に伝わる狩野探幽作の絵図を見ながら坊さんが詳しく説明してくれる様です・・・詳しくはコチラを参照!・・・扇風機の前のオバサンが暑さにやられたのか凄くだらしがないです(笑)
お堂の中は空調設備がないんでしょうか?・・・猛暑の時なんか坊さんの説明を聞くどころじゃないですなぁ・・・
さて実朝の墓ですが、鎌倉の扇ガ谷にある寿福寺にもそれと伝わる五輪塔があります・・・勝長寿院から移されたんでしょうか?・・・その辺の事は詳しく調べてみないと分かりませんが母北条政子の墓と伝わる五輪塔の横にあります・・・ |
|
|
左が政子、右が実朝の墓・・・だったと思います(笑)・・・似てるしちょっと記憶が曖昧です・・・
寿福寺にはやぐらが結構あり中々興味をそそられます・・・一番そそられる一角は崩落の危険があるため立入禁止となっています・・・凄いイイ雰囲気を醸し出してるんですけど・・・残念・・・
また、政子は夫の頼朝の菩提を弔う為に高野山に禅定院を築き、後に退耕行勇を住持として金剛三昧院と改称していますがココにも実朝の墓があります・・・わざわざ首の無い遺体を高野山まで運んだとは考え難いですが、実母である政子が絡んでる以上、分骨なりなんなりがあったのではないかとは考えられます・・・
実朝室(坊門信子)は夫の死後戒師行勇のもと出家し本覚尼となり、京に遍照心院(後の大通寺)を建立し実朝の菩提を弔う為の生涯を送ります・・・当然実朝関連グッズは持参して行ったと思われますが・・・どーなんでしょう? |
|
|
さて、そろそろ御首塚のある田原ふるさと公園へ向かいましょうかね・・・田園風景の広がる長閑な地区です・・・
にも関わらず、駐車場はご覧の通り満車状態・・・いつもこんな賑わっているんでしょうか?何気に地域住民の憩いの場的な立ち位置なんですかね?・・・休日でしたし普段の様子を知らないので何ともいえませんけど・・・
それともみんな実朝ファン?・・・な訳ないですよね(笑)
この公園の西側は東田原中丸遺蹟といって今は埋め戻されていますが、発掘調査により中世の波多野氏の居館跡ではないかと言われています・・・また下層には古墳時代前期の住居跡も発見されているそうです・・・ |
|
|
ちょっとした道の駅風な佇まいです・・・建物(ふるさと伝承館)では地元の生産者による直売が行われていました・・・
ブルーベリー1パック¥300也・・・その他野菜や果物など多数販売しておりました・・・
建物内部に『東雲』という蕎麦屋がある事を事前情報で知っていたので、昼飯はソコで食べようと思っていたんですが、まさかの満席状態・・・待ちも何人かいました・・・さすがにそこまでして食べる気力もないので諦める事に・・・
取り敢えず見る物を見てから、友人お勧めの別の蕎麦屋へ向かう事にしました・・・ |
|
公園にあった水車・・・観光地にありがちなポンプ汲み上げ式のなんちゃって水車ではなく、ちゃんと水路を引いて来ている代物でした・・・
しかも中を覗いてみると実稼働させている様で、粉まみれでした・・・恐らく先程満席状態で入店を諦めた蕎麦屋で使う粉をココで挽いているんではないでしょうか?
なかなかこだわってますね・・・美味いのかな? |
でも並んでまでして食べて、感動する味と出会った事は自分の今までの人生の中では一度もありません・・・
やはりやめて置きましょう・・・
実は皆ココの蕎麦を食べに来ているんでしょうか?・・・それともコスモスが綺麗に咲いていましたが、それを見に来ているんでしょうか?・・・こんな辺鄙な場所で駐車場が満車なんて意味が分かりません・・・誰か説明して! |
|
|
駐車場から道を挟んだ北側に実朝公御首塚があります・・・と、その前に首塚の横にあるトイレをチェック!
汚い!臭い!ムカツク!・・・ひと月ほど前に訪れた人穴富士講遺蹟のトイレが素晴らしかったのでそのギャップもありますが、まさにザ・公衆便所って感じです・・・臭ぇ~!
実朝は首だけですから用を足す事もないでしょうけど、鼻はありますからねぇ・・・可哀想です・・・
恒例のトイレチェックも無事済んだので首塚を拝見させて頂きましょうか! |
|
どれが首塚なんだよぉ~・・・まぁ多分真ん中の大き目な五輪塔がそうなんだとは思うけど・・・説明がねぇ・・・
左の燈籠には文政五壬午歳(1822年)の文字が・・・
右の多層塔は何なんでしょうか?わかんねェ・・・
多層塔基礎裏側には、
『第7回実朝まつり実行委員会役員一同』と刻まれた表札が埋め込まれていました・・・平成6年11月吉日・・・
こんなしちゃって、あまり重要な物件ではないのかな? |
前部にも何か書いてありましたが、イモ虫を発見したのですぐに退散しました(笑)
ココの実朝まつりは毎年11月23日に行われるそうです・・・鎌倉は8月9日、ぼんぼり祭りの最終日に行われます・・・
翌8月10日の深夜0時からは覚園寺の黒地蔵縁日、そのまま四万六千日で杉本寺、長谷寺、安養院を巡るのが自分の恒例行事になっていますので結構大変です・・・杉本寺は0時から開門していますが、長谷寺は4時から、安養院は5時からです・・・何気に長谷寺が開くまでの時間潰しが一番辛いです(笑)
四万六千日とは坂東の札所が行っている法要で、この日にお参りすると46.000日お参りしたのと同等の御利益を得られるという出血大サービスな行事です!鎌倉の寺では8月10日に行われます!
通常の拝観時間までは入山料も無料です!・・・一日くらい終日無料にすればいいのになぁ・・・
何か微妙にやる事せこいんだよなぁ・・・
でも通常は時間制で坊さんの案内付きじゃないと歩けない覚園寺の境内が、この日ばかりは完全開放です!
自由に自分のペースで巡れます!ヒャッハァー!・・・何より暗闇に響き渡る読経の声が普段感じる事のできない異空間を作り出しています・・・愛染堂前には出店もあり、特にパラダイスアレイの黒地蔵パンはアートな感じで見ているだけでも楽しくなって来ます!・・・熱帯夜に当たるとキツイですが是非深夜に訪れてみて下さい!
一味違った鎌倉の顔が見れると思いますよ! |
|
|
首塚碑の横には俳句ポストが・・・実朝の歌碑もありました・・・うおっココにもイモ虫が!危険地帯だ!
首塚碑には何故ココに首塚があるのか、その経緯について記されていました・・・歌碑の方は達筆過ぎて判読不能(笑) |
|
|
案内板が2つもあります・・・どれもありきたりな内容で少々残念・・・わざわざ実朝の首塚を見に来る様な輩はこれ位の情報は既に把握しています・・・2つも作るなら1つはもう少し突っ込んだ内容にしても良かったのでは?
木製の方は単なる首塚碑の現代語訳だし・・・
でも実朝歌碑に何と刻まれているのかが分かったのでスッキリしました!
『ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ』
う~む・・・物言わぬ、どこにでもいる獣でさえも、親が子を思う様は愛しいものよ・・・実子のいない実朝は母である政子に何を思っていたんでしょうか?・・・また養子の公暁に対してはどうだったんでしょう?
すら、だに、最低限を表す副助詞を重ねて強調しているあたりに実朝の強い思いが感じられます・・・
【金槐和歌集】に載せられた一首との事です・・・金は鎌倉、槐は大臣を表しているそうで、鎌倉右大臣・・・
つまり実朝の事ですね・・・実朝和歌集でいいじゃないか・・・カッコつけちゃってまぁ・・・ |
|
石碑の歌は佐佐木信綱の筆による物である様ですが、除幕式に献歌している事からも分かる様に、信綱は歌人であり、また国文学者でもあります・・・
彼の歌碑が鎌倉山にあります・・・左の写真がそれです!
日ぐらしに 見れどもあかず ここにして
富士は望むべし 春の日秋の日 信綱
鎌倉山に『日ぐらし富士』の歌碑をとの事で昭和14年11月に小原嘉三郎氏の手により建立されたそうです・・・ |
現在は見ての通り富士の眺望は臨めません・・・以上!
さて、案内板にはこの地で偶然首を発見した・・・とありましたが、そんな馬鹿な(笑)
義村の家人武常晴は何故実朝の首をわざわざ波多野氏を頼ってココまで持ってきたんでしょうか?
波多野義通は源義朝に仕え、その妹は義朝との間に二男朝長を産み、保元・平治の乱でも義朝軍として従軍していますが、その後頼朝が生まれ朝長の嫡子としての権限が失われると不和となり京を離れています・・・
頼朝が挙兵する際に協力を求める使者を送っていますが・・・
治承4年(1180)7月10日 庚申
籐九郎盛長申して云く、厳命に従うの趣、先ず相模の国内進奉の輩これ多し。而るに 波多野右馬の允義常、山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え條々の過言を吐くと云々。
波多野義常と山内首藤経俊には断られた挙句、数々の暴言を吐かれた様ですね(笑)
経俊は大庭景親の軍勢に加わり頼朝と敵対します・・・大庭軍3000騎、頼朝軍300騎・・・敗走した頼朝は力を蓄え鎌倉入りし形勢逆転・・・経俊は捕まり土肥実平に預けられ斬首が決まりますが、母である山内尼が代々源氏に仕えてきた家系であることを旨として息子の助命を嘆願します・・・
ちなみに山内尼は頼朝の乳母でもあります・・・嘆願する山内尼に頼朝は石橋山で経俊が放った矢が刺さった自分の鎧を見せます・・・これを見て山内尼は言葉を失くしその場から退出したそうです・・・
何だかんだで結局経俊は斬首を免れ頼朝に仕える事になります・・・無断任官で頼朝の怒りを買い無能者と罵倒され、数々の失態にも関わらず伊勢、伊賀の守護職は保全されていた様です・・・乳母兄弟だったからでしょうか・・・
また経俊は平治の乱で戦死した父の菩提を弔う為に永暦元年(1160)に明月庵を建立しています・・・
これが後に、現在アジサイ寺として有名な明月院となります・・・鎌倉豆知識でした(笑)
さて、波多野氏ですが、その祖は源頼義に従い前九年の役に従軍した佐伯経範とされています・・・頼義の相模守任官に伴って父経資が目代として相模国に下向し波多野に定住したのが始まりで、経範は妻の出自から藤原秀郷流波多野氏を名乗った様です・・・経範-経秀-秀遠-遠義と続き、五代目の義通は上述の通りです・・・
鎌倉入りした頼朝は富士川に兵を進める途中で波多野荘と松田郷を制圧します・・・頼朝軍到着前に自害した義常(義通の嫡子)の弟の忠綱(叔父の義景説もあり)が波多野荘の相続を許され、義常の嫡子有常は8年後に赦免され松田郷を相続しました・・・
武常晴が頼った波多野忠綱の嫡子義重は北條重時の娘を妻とし、南波多野荘は重時の所有になります・・・
この頃の波多野氏の主流は丹波、越前、伊勢、長門などに移る事になります・・・
軍功により越前志比庄の地頭職を与えられた義重は、後に曹洞宗の開祖道元を招いて永平寺を創建します・・・
この越前へ移った波多野氏はその後代々、出雲守、評定衆を継承して行きます・・・ |
|
鎌倉の鶴岡文庫の向かい側に建っている石碑・・・
曹洞宗高祖 道元禅師顕彰碑です!
ココの石碑には義重に鎌倉下向を懇願された道元が、
1247年に実朝の供養の為に鎌倉を訪れた事などが細かく記されています・・・中々興味深い記事です・・・
権門を嫌い気が進まぬまま鎌倉へ来た道元でしたが、何だかんだで半年間鎌倉を満喫した様です(笑) |
石碑には『只管打坐』と彫られています・・・懐かしい!歴史の授業でやりましたね!
まぁとにかく波多野氏は河内源氏とは深い関係にあった様ですが、それも平治の乱の敗走中に朝長が死亡した事により完全に切れた様です・・・松田郷で育ち松田冠者といわれた朝長ですが、【平治物語】での印象は気弱な少年という感じです・・・まぁ長兄の悪源太義平がカッコよく描かれ過ぎというのもありますが・・・
【金毘羅本平治物語】では落ち延びていた一行が美濃国青墓宿で休息をとった際、義朝は義平を飛騨ヘ、朝長は信濃へ援軍を募りに行く様に命じています・・・朝長は心細そうに信濃へはどう行けばよいのか義平に尋ねますが、義平は憮然として『あっちだ・・・』というと飛騨へ向かい馬を走らせます・・・オロオロする朝長・・・左足に受けた傷も痛み、結局青墓宿に戻ってきます・・・傷が癒えるまでココにいろという義朝に対し朝長は、『ココに居て敵に捕らえられるより、憂いを断つ為にその手で殺してください!』と嘆願します・・・
義朝は涙を流しながら我が子の胸を3度刺しその首を刎ねたとの事です・・・
単純に情けないと見るべきか・・・16才にしては良くやったと見るべきか・・・でもやっぱ義平と比べてしまいます・・・ |
|
さて永平寺が出たので恒例のダムカード紹介を(笑)
永平寺ダムです・・・永平寺から少し奥に行った所にあるダムです・・・駐車場は2箇所ありますんで、永平寺の有料駐車場に停めなくても大丈夫です・・・
永平寺参道の杉並木をイメージしてデザイン設計したそうですが・・・自分にはどの辺が杉並木なのか全く分かりませんでした・・・教えて欲しいです・・・
Wikipediaの永平寺ダム諸元を見てみると堤高57mとあります・・・ |
でも実際自分が現地で見た諸元には堤高55mと記されていました!
たかが2mの違いじゃないか?・・・いやぁ結構デカイですよ・・・我が神奈川県の宮ヶ瀬ダムは堤高156mで全国6位ですが、あと2m高ければ奥只見ダムを抜き奈良俣ダムと同率4位になり、重力式コンクリートダムではやはり奥只見ダムを抜き全国1位になってしまいます!・・・1位と2位では響きが違います!
え?・・・どーでもいい?・・・そーですね失礼しました(笑)
永平寺もいいお寺なのでダム巡りのついでに寄る価値はありますよ!・・・逆か?
ちなみに永平寺のダムカードは龍ヶ鼻ダムにある統合管理所で貰えます・・・胡麻豆腐を買って北へ向かいましょう!
途中鳴鹿大堰にある九頭竜川資料館で堰を眺めながら食べましょう・・・ついでにカードもゲットです! |
|
そして龍ヶ鼻ダムへ・・・このダムは何度か訪れた事があるんですが、早朝、街中でも霧が発生していた時に行った時の事です・・・凄い事になってました!
クレスト(一番上にあるゲート)から水ではなく霧が!
モクモクと放流されていました!凄ぇ!
堤体は濃霧で天端しか見えず、下流の谷も霧が溜まりその様相を知る事はできず・・・ |
まさに今にも龍が出て来そうな幻想的で神々しい雰囲気に包まれていました・・・
何て事ない普通のダムですが、この光景に出逢ってから、 自分の中では特に印象深いダムとなっています・・・実は各ページの左下に貼ってある写真がその時の物であります!
全然鎌倉と関係ありませんけど・・・感動したのでつい・・・まぁテキトーですから(笑) |
|
ついでに同じく福井県にある九頭竜ダムのレアカードも紹介しちゃいます・・・キラキラカードです!
これは平成20年7月26、27日に開催された、
森と湖に親しむつどい2008
九頭竜湖・麻那姫湖サマーフェスタ
で配布されたレアカードです・・・裏には大野市にある他の7つのダムの写真が載っています!
そのかわりダムのスペックなどの情報は皆無です・・・ |
通常の九頭竜ダムのカードにはちゃんと掲載されていますのでご安心を・・・え?・・・いらない?・・・失礼しました・・・
真名川ダムのキラキラカードも持っていましたが、数少ないダム仲間の友人がどーしても欲しいというので譲ってあげました・・・何て太っ腹なんでしょう自分(笑)
ちょっと脱線しましたがそもそも実朝は何で暗殺されたんでしょうか?
単なる公暁の敵討ちなのか?・・・裏で義時や義村が手引きしたのか?・・・公暁的には単なる敵討ちだったかも知れません・・・義時はどうでしょう?・・・傀儡として成立している以上今更暗殺しても特にメリットは無いと思われますが・・・
【鳥居を捜せ!】のページで紹介した鎌倉国宝館脇にある鳥居の残骸に刻まれた実朝の歌、
『山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』
これは後鳥羽上皇への恭順を示した歌と伝わります・・・義時からしたら実朝と後鳥羽上皇が結びつく事はNGです・・・
殺害の動機が伺えますが、これはちょっと考え過ぎでしょうか・・・むしろ後鳥羽上皇の方が実朝を殺したがっていた様に思います・・・
義村は和田合戦で従兄弟の和田義盛を裏切り義時についています・・・その結果御家人達の間では、
『三浦の犬は友を喰らうぞ!』とまで言われています・・・信用を失い軽蔑され、もはや義時と一蓮托生で行くしか道は無かったといっても過言ではないと思われます・・・
実朝と共に殺された源仲章・・・本来ならば彼ではなく北条義時が殺されるはずでした・・・
実朝と共に義時が倒れ公暁が4代将軍になれば、その乳母父である義村にとっては三浦家の権威を取り戻す良い機会になるかも知れない・・・ありえますねぇ・・・
でもその実朝殺害の台本は義時が描いた物かも知れません・・・北条にそっぽを向かれたらやって行けない義村・・・
断れるはずもありません・・・言われるままに公暁をそそのかしたのでは?
義時は自分も殺されていたかも知れないという事実を作って置いて御家人達の目を欺き・・・結局、疑われない様にとか何だかんだ理由を付けて実朝を暗殺した公暁も義村に始末させ・・・う~んナンセンスかな(笑)
完全に公暁の単独犯という可能性もあります・・・実朝の首をとったはいいが、その後どーしていいか分からずに乳母父の義村を頼った・・・この場合義村はビックリしたでしょうね・・・公暁をかくまったら自分まで共犯になってしまう・・・
三浦氏は武門に生きる者にとってこの上ない恥辱である逆賊として北条に討たれるのは目に見えてます・・・
公暁を殺すしかありませんね・・・かといって公暁は前将軍の息子・・・義村の一存で勝手に殺してしまっては後で何言われるか分かりません・・・取り敢えず北条に一言断りを入れてから殺害・・・みたいな・・・
テキトーな推論はこれくらいにして置いて・・・何故三浦氏家臣の武常晴はわざわざ波多野氏を頼ったんでしょうか?
波多野氏は前述の経緯などから、三浦氏とは仲が悪かったと聞きます・・・武常晴は首塚の地に移り住んでいます・・・
何らかの理由で三浦氏から離れたんでしょうか?
当時の人々は今より怨念とかそうゆう物に対し敏感でした・・・仮に北条や三浦が暗殺の首謀者だとしたら、首なんて祟りが怖くて鎌倉に置いておくのは避けると思います・・・そんなこんなで実朝の首を持て余した義村が家臣の武常晴に命じてどこぞへ首を埋めて来いと命じたのかも知れません・・・ただ何故秦野なのかが良く分かりません・・・
鎌倉以外なら武の領地でもいいし、義村は平塚の田村にも屋敷がありましたし・・・
埋める場所はいくらでもあったと思います・・・武常晴がバカで平塚を通り越して秦野まで行っちゃったんでしょうか?
で、何となくメンド臭くなって流れでそこに首を埋めちゃった・・・考えてみるとあまりにもアホな話なので帰るに帰れずそこに住み着いちゃたみたいな(笑)
ちなみに現在も首塚近辺の地には武姓が多い様です・・・
首を埋葬した武常晴と波多野忠綱は木製の五輪塔を建て供養をしたそうです・・・
そして実朝の三十三回忌に金剛寺を整備して五輪塔を石造りにしたとの事です・・・
木製の五輪塔は金剛寺の阿弥陀堂を経て、現在は鎌倉国宝館に寄託されています!
金剛寺は首塚の北側へちょっと行った所にあります・・・そろそろイモ虫だらけの首塚を脱出しましょう! |
|
|
歩いて3分くらいでしょうか・・・大聖山金剛寺に到着です、臨済宗建長寺派、寺紋は源氏ゆかりの笹竜胆の様です!
駐車場が無いと困るという理由で歩いて来ましたが、広い駐車場には1台の車も停まっていませんでした・・・
中々雰囲気のある山門です・・・お堂が新しいのがイマイチですが木造である以上修繕しなくてはならないのは必然ですし許容範囲としましょう・・・しかし境内のいたる所に配されたお掃除小坊主の石像は雰囲気を害していると言わざるを得ません・・・ |
|
極め付けは本堂前に配された巨大なユルカワ系の石像!
小坊主が木魚にもたれ掛り居眠りしています・・・
ネズミの姿も・・・
これはちょっとやめて頂きたい・・・実朝公を偲んで厳かな気持ちで訪れた者にとっては興ざめです!
何を狙ってこんな物を置いたんでしょうか?
意味が分かりません・・・撤去撤去! |
苔が生えてますがこの手の石像は常にツルツルピカピカでないと駄目だと思います・・・苔生しても趣は出ません!
この寺は実朝の首を持って来てから開かれたという説と、もともとあった寺を拡張したという説がある様です・・・
こんな石像がある時点でどーでもいいですが、もともとあった宗教施設に実朝の三十三回忌法要の際、波多野忠綱が堂宇を増築し退耕行勇を招き、実朝の法号『金剛寺殿』にちなみ金剛寺と改めたという説が有力な様ですね・・・
実朝の墓がある金剛三昧院も退耕行勇、実朝室(坊門信子)が落飾した際の戒師も退耕行勇・・・
政子は金剛三昧院と坊門信子が実朝の菩提寺として建てた遍照心院に経済的支援をしています・・・
ココ金剛寺も退耕行勇が絡んでいる所を考えると北条政子が何らかの手配をしたのではないかとも想像できます・・・
まぁ実朝の三十三回忌には政子はとっくに死んでますけど(笑)
首塚と金剛寺を十分満喫し、お腹も空いて来たのでそろそろ昼にしようと友人お勧めの蕎麦屋石庄庵へ・・・
細くて分かり難い道を進み何とか到着・・・しかしココでもまさかの満車状態・・・人気店の昼時・・・しょうがないか・・・
待つのは性に合わないので先にもう一つの目的地大日堂へ向かい昼ピークが終わった頃に再訪する事に・・・
県道70号秦野清川線をヤビツ峠方面へ向かい登って行きます・・・道路の真ん中に建っている鳥居を過ぎ、しばらく進んで行くと右側に仁王門が見えます・・・ |
|
ココに大日堂があります・・・宝蓮寺(茶湯寺)という寺の境内なんですが、県道にぶった切られてます・・・
取り敢えず駐車場に車を停めて仁王門をパチリ!
クソ!何だよアイツ・・・ノロノロと真ん中歩きやがって!
せっかくイイ雰囲気の写真が撮れそうなシチュエーションなのに・・・さっさと歩いてフレームアウトしろっての!
ったくもぉ~・・・喧嘩売ってんのか?
あ、ちなみに友人です(笑) |
|
|
朱塗りの単層仁王門はそれを記す縁起等は無い様ですが、様式から19世紀前半の建築と推定されている様です・・・
ちょっとユルめなお顔の仁王様・・・平安時代の作だそうです・・・ホントにそんなに古いのかな?
2体とも秦野市の重文指定を受けています・・・屋外でこんなに保存状態がいいなんて・・・当然修復はしていると思いますが吽形なんて顔面お肌スベスベです・・・素晴らしい・・・
でも自分はやっぱり仁王様というと慶派の様な劇画タッチで力強い容貌をした物の方が好きです・・・
ココのは微妙に弱そう・・・痺れ団子とちょっとした武器があれば倒せそうです!
ちょっと下手に出て油断させ、痺れ団子を食べさせて痺れてる間に簀巻きにしてタコ殴りです(笑)
何てバチ当たりなヤツなんでしょう! |
|
|
仁王門を潜り真っ直ぐ進むと大日堂があります・・・『金剛王殿』と書かれた扁額が掲げられていました・・・
縁起は古く天平14年(742)聖武天皇の勅願所として造営されたのが始まりとの事です・・・
堂内には木造五智如来坐像と木造聖観音菩薩坐像が安置されています・・・
五智如来像は平安後期の作で5体揃っている物は全国的にも珍しいそうです・・・
大日如来が県重文で、それ以外は全て市重文指定を受けています・・・
数名のグループが鍵を開けて堂内に入って行きました・・・懐中電灯で内部を照らしながら仏像の説明を熱心に聞いていました・・・寺務所で頼めば色々と便宜を図ってくれるんでしょうか?・・・普段は扉の穴から覗くシステムだと思います・・・
ちょうど大日如来を拝む事が出来ました・・・中心に座す大日如来は他の如来よりも一回り大きく199.5cmあるそうです! |
|
大日堂の右奥には階段が2つあり、左は御嶽神社、右は不動堂へと続いています・・・
中々雰囲気いいですねぇ・・・どちらに行こうか迷います・・・
大き目な不動明王がチラ見えしていたので右側へ進みたい気持ちを抑え、敢えて左側の階段を登る事にします!
楽しみは後で・・・というか単に天野邪鬼なだけです・・・
どんな神社なんでしょうか? |
趣のある佇まいを見せてくれる事を期待して階段を一歩ずつ登ります・・・というかもう見えてんですけどね・・・
見えてない部分に期待を膨らませます・・・ |
|
|
おおっ・・・微妙・・・これは違うなぁ・・・大きいだけの神社より、村の鎮守様的な趣のある神社の方が自分は好きなんですけど・・・これは違います・・・それに社に電線が敷かれているのも微妙・・・狛犬もありきたり・・・
取り敢えずお参りはするけど君には失望したよ(笑)
神社の横から茶湯殿へ続く道がありましたが、裏から不動堂へ参る事になるので階段を降ります・・・ |
|
期待していたお不動様・・・垂れ幕が邪魔で御尊顔拝謁賜る事は叶いませんでした・・・
オーソドックスなタイプの不動王明ですが迦楼羅炎に特徴があり中々迫力が感じられます・・・顔が見れないのが残念でなりません、明王部は憤怒相が命です!
7世紀頃朝鮮半島から来た秦氏が不動明王を祀ったのがこの不動堂の始まりの様です・・・
その後五大明王が祀られましたが、現在は江戸期の作と推定されるこの不動明王1体だけが安置されています・・・ |
明王好きの自分はちょっと不完全燃焼・・・大威徳明王見たかったなぁ・・・ |
|
|
不動堂の後ろにある茶湯殿です・・・内部はライトアップされていました・・・地蔵菩薩が・・・何か怖い・・・
案内板があります、
秦野市指定重要文化財 木造十王像 宝蓮寺茶湯殿 平成十五年二月十二日指定
茶湯殿には、本尊の地蔵菩薩と等身大の十王像・奪衣婆・倶生神・鬼卒及び人頭杖・鏡台など冥界の一具が一堂に安置されています。地蔵菩薩には正徳五年(1715年)、十王像には享保六年(1721年)の墨書銘が残っており、十王像には江戸神田の大仏師左近の銘も記されています。神奈川県内でも十王像は数多く残されていますが、等身以上の作例は希少です。作風はやや荒い彫技が独特の迫力を生んでいます。近世期における十王信仰の記念的遺作として高い価値が認められます。 平成二十四年九月 秦野市教育委員会
古い物ではない様ですね・・・でも十王像に囲まれると何か自分が悪い事をした様な気持ちになってきます・・・
鎌倉の円応寺でもそんな気持ちにさせられました・・・全て見透かされている様な不思議な感覚に陥ります・・・
それに何よりココの場合・・・地蔵菩薩が怖いっす!・・・先程の金剛寺にあったデッカイ像を置けば少しは和むかも知れません・・・いや、あれもライトアップしたら意外と怖いかも(笑)
茶湯殿は縁起によると正長元年(1248)に一輪和尚により建立されたとの事です・・・
茶湯殿の横には木食光西上人の墓があります・・・宝蓮寺地蔵堂庵主だった光西上人は享保の飢饉で民が苦しんでいるのを仏教の力で救おうとしたそうです・・・浄財を集め、荒れていた大日堂や仏像を修繕したり、新たに堂宇を建てたりしたそうです・・・そして享保二十年(1735)に事業の総仕上げとして地下に造った1.5mの石室に入り、座って経を唱えながら入寂します・・・
『200年後に掘って見よ!』との遺言通り昭和十年(1935)に発掘が行われ、石室の中から頭蓋骨、脛骨、鉦の脚3点、袈裟の輪1点、古銭6枚及び青銅の観音様一軀が発見されたそうです・・・遺骨は埋め戻されたとの事・・・
即身仏ってヤツですね・・・もっと早く掘り出してミイラにしようとは思わなかったんでしょうか?
木食ってのはスーパーベジタリアンの事です・・・米、麦などの穀物類も一切食べません・・・
米食べないなんて日本男児としてどーなんでしょう?・・・田んぼに力と書いて男ですよ!男なら米食わにゃぁ・・・
でも即身仏を目指す人は脂肪は大敵・・・ミイラ化する前に全部腐っちゃいますから・・・
防腐効果も兼ねて漆の茶を飲んだりするなんて話も聞いた事があります・・・大変ですね・・・ |
|
|
県道70号を挟んで反対側には本堂と庫裏があります・・・中々イイ感じの参道です・・・
本堂まで一直線に伸びる敷石の置かれた参道・・・結構好きです・・・ |
|
左の写真は鎌倉の寿福寺の参道です・・・
自分が大好きな参道です・・・やはり敷石の周りは土の方がイイですね・・・苔生した石垣も趣があります・・・
そして門を潜るとパッと開ける・・・
あくまでささやかに・・・ドーンって感じだと品が無くなってしまいます・・・そーゆーのが好きだって方も多いですが・・・
並べてみると寿福寺に比べ宝蓮寺の方は、何というか、少し無機質過ぎる様な気がします・・・ |
寿福寺に比べると温もりが感じられません・・・土って大事ですね・・・鎌倉では極楽寺の参道も好きです!
宝蓮寺のお堂に縁起が書かれていました・・・
宝蓮寺縁起 臨済宗 通称茶湯寺
宝蓮寺は正應元年後嵯峨天皇の皇子である佛国々師の御開山也
京都東福寺、聖一国師の法を受け関東御下向あらせ給い霊境春嶽山に隠り座禅し給う。俗に髯僧の大師と称し奉り当山に住し宝蓮寺を建立し給う。菊の御紋章今日に傳う以何なり。当山は別当職にして北條時宗公此の大徳を聞き朱印二十石及び二丁の乗籠附し後年当山より国師を鎌倉へ迎へらる。弘安の末国師の徳を親い門前市をなし参詣往来日々盛んにして秦野発展の起因を創き給う。文明十八年、両上杉の乱及天明の天災に度々堂宇焼失し古記録不詳なるも寛政元年、本堂及庫裏再建し学問所として住持は勅参登城し別当の職であったと傳へらる。
古記録に依る 春嶽山に座禅の跡現存す 当時境内六万餘坪を所領す
などなど書かれていました・・・座禅の跡ってどんなんでしょう?見てみたいなぁ・・・
それより開山は仏国国師(高峰顕日)だったんですね・・・彼は兀庵普寧、無学祖元に師事し、門下には夢窓疎石がいます・・・顕日は鎌倉では万寿寺、浄妙寺、浄智寺、建長寺の住職を歴任している高僧です!
どれも禅宗の大寺院です・・・浄妙寺、浄智寺、建長寺は鎌倉五山・・・万寿寺は現在廃寺ですが関東十刹のひとつに数えられ、【鹿山略志】によると長谷郷にあった様です・・・弘安9年(1286)、北条貞時が父時宗の菩提を弔う為に建立した模様・・・開山は無学祖元・・・東明恵日、高峰顕日、中巌円月、太古世源などが住したそうです・・・
嘉元元年(1303)に夢窓疎石は万寿寺で顕日に参じています・・・廃寺の時期は分かっていません・・・
顕日と共に天下の二甘露門と称された南浦紹明(大応国師)は建長寺の蘭渓道隆に師事、宋へ渡り帰国後はいくつかの寺の住持を務め、後宇多上皇の招きで京都の方の万寿寺に入っています・・・徳治2年(1307)、鎌倉へ戻り建長寺の住職を務めますが2年後に入寂、墓は鎌倉の常楽寺にあります・・・ナ~ム~・・・ |
|
本堂の手前に電話ボックスがありました・・・
観音開きのボックスとは珍しいですね・・・
あまり、とゆーか一度も見た事ありません・・・
どんな電話が置いてあるのかな?
いやいや、実はこれ福々地蔵なる物らしいです・・・
なるほど、中を覗くと優しいお顔の地蔵菩薩像が安置されていました・・・
ちなみに電話はかけていませんでした(笑) |
ちょっとお洒落な電話ボックスにしか見えないすよこれ!
石標の裏には檀家らしき人物の名が彫られていて、先祖供養の為に造ったみたいな事が書かれていました・・・
何だかんだで結構楽しめた寺でした・・・そろそろいい時間なので再び蕎麦屋へ向かいます! |
|
|
予想通り空いていました・・・ホントに辺鄙な場所にあります・・・もともとは国道246号線沿いにあった様ですが・・・
奇抜な外観に反し店内は至って普通で綺麗でした・・・
テラス、テーブル、座敷とありますが、奥の座敷に通してもらいました・・・
自分は冷やしぶっかけ¥1500、友人は冷やしたぬき¥1050を注文・・・
何気に天麩羅のレベルが高いです・・・次回訪れる時は単品で注文してみよう!
全国4万軒の蕎麦屋の中で常にベスト100に選ばれている店舗との事ですが・・・普通に美味いです!
何より立地が隠れ家っぽくていいですね!
神社談義をしつつあっという間に美味しくいただきました・・・石庄庵のHPはコチラです!
秦野を満喫し帰路につくことに・・・帰り道せっかくなので、前述の公暁を討ち取った人物、長尾定景の墓がある久成寺に寄って行こうという事になりました・・・ |
|
|
到着~・・・山門には『光圓峰』と書かれた額が掲げられています・・・光円山久成寺・・・いい寺です・・・
何がいいって使いやすくて広い駐車場があるのがいい、それに尽きます・・・石垣もいい感じですね・・・
鎌倉で無料の使いやすい駐車場のある寺は貴重です!
もっともココは植木・・・鎌倉というより藤沢って感じですけどね・・・一応鎌倉市です・・・
鎌倉観光でわざわざこの寺に訪れる人は皆無だと思います・・・来るのは一部の戦国マニアくらいでしょうか(笑)
手持ちの史料によると、この寺は後北条氏の家臣の松田尾張守秀長が永正十七年(1520)に屋敷の土地を寄進して建立したのが始まりらしい・・・開山は日瞬・・・
小田原攻めの際に徳川家康が立ち寄り戦勝祈願を頼み、その恩賞として寺領三石を寄進・・・その後、家康はこの寺を気に入り鷹狩の折に寺を訪れ葵の紋入りの割子(弁当箱)を授け、それは現在も残っているらしい・・・
長尾定景の板碑は現在鎌倉国宝館に寄託中・・・ |
|
|
門を潜ると右側に寺務所があり手前には・・・獅子に乗っています・・・文殊菩薩の童子形でしょうか?珍しい!
左側にはお決まりの説法姿の日蓮の銅像があります・・・鎌倉の他の日蓮銅像に比べるとシュッとしていてイマイチ迫力がありませんがその分親しみ易いとも言えます・・・
銅像の基礎部分にこの寺の縁起が書かれていました・・・『北條義澄公臣秀長公邸址・・・』
北条義澄って誰でしょう?・・・小田原北条氏なんだろうけど自分は聞いた事ないですね・・・
家臣の松田秀長ってのも史料によっては梅田秀長になってるし・・・竹田秀長はねぇのかよ!?
山門は大阪の鴻池夫人が龍口寺に寄進した物を、明治の初めに移築した物だそうです昭和46年に銅葺に改修された様です・・・まぁ色々と書いてありました・・・ |
|
階段を登り本堂へ・・・これといった特徴もなく普通のお堂です・・・まぁ大抵こんなもんですよね・・・
この寺は所々に三葉葵紋が見られますがその理由は前述の通り徳川家と関わりがある事の証明ですね・・・
沼浜城で紹介した、自分が通っていた幼稚園がある法勝寺もモロに三葉葵紋なんですけど・・・あちらはどんな縁があるんでしょうか?・・・気になる所であります・・・ |
今度法事の時にでも三田村住職に聞いてみよう・・・一族皆元気なんで当分機会は無さそうですけどね(笑) |
|
|
本堂の左側は墓域になっておりその一画に・・・ありました・・・
上杉謙信(長尾景虎)公祖 長尾定景一族之群塔
どーでもいいけど・・・定景の墓塔はどれなんだ~?ちょっと群れ過ぎだよぉ・・・
長尾定景は治承4年(1180)に頼朝が挙兵した時は兄為宗、従兄弟の大庭景親とその弟俣野景久らと共に平家方に組しており、石橋山では頼朝に先陣を命じられた源氏の三与一のひとり佐奈田与一義忠を斬り殺しています・・・
ちなみに義忠の死に様は結構ダサイです・・・興味のある方は【平家物語】や【源平盛衰記】を読んでみて下さい・・・
その後、頼朝に降伏し義忠の父である岡崎義実(三浦大介義明の弟)に預けられます・・・
熱心に法華経を唱える定景を見て義実は殺すのをやめ、以後は三浦党のもと被官化した様です・・・
実朝暗殺の際犯人を追って御坊へ攻め込み悪僧達を蹴散らしますが発見できず帰って来ます・・・そして三浦義村に公暁を討つ様に命じられます・・・断り切れませんでした・・・石橋山の件で三浦氏に対し負い目もあったんでしょうか?
結局先に述べた通り、老骨に鞭打ち公暁を斬ったのでした・・・
この長尾一族の群塔は昭和32年4月に長尾城址から移されて来たとの事です・・・
定景の息子景茂は宝治合戦(1247)では当然三浦方に組します・・・
そして最後は三浦一族と共に法華堂で自決しています・・・
長尾城も北条に攻め滅ぼされました・・・しかし、景茂と葛西時清の娘との間に生まれた景忠は生き残ります・・・
この流れが、白井長尾氏、総社長尾氏、足利長尾氏、越後長尾氏などを産み出していった様です・・・
足利長尾氏には同姓同名の長尾定景がいます・・・紛らわしいなぁ(笑)
ちなみに長尾城址がある台地は現在市民農園になっています・・・和むなぁ・・・
何だか話が脱線してボリューミーになってしまいましたが、結局実朝の首はホントにココに葬られたんでしょうか?
自分的には金剛寺と北条政子の関係がカギかと・・・実朝供養に関して他同様に、母である政子がこの地に対して何らかのアクションを起こしていれば実朝公御首塚の信頼度もグッと上がるのでは?
まぁ、ぶっちゃけどーでもいいんですけどね(笑)
|
おしまい |